ノーフォールト - 岡井崇

ドラマ『ギネ 産婦人科の女たち』の原作本。

    第1章 グレードA力イザー



 平成十五年十月十四日 午前二時二十分 当直室
「ピー、ピー、ピーー、ピーーー、ピーーーー」
 目を開けた奈智はふうーっと一つ長い吐息をついて、視線を電子音のするモニターに向けた。暗めに設定された液晶画面には胎児の心拍数と陣痛の波が映し出され、左から右へ緩やかに移動している。しばらく波の動きに視線を留めると、毛布を引きあげ、安心したように枕に頬を沈めた。
 当直の夜、産婦人科医師は胎児の心拍音(電子音)を聞きながら眠る。心拍のリズムが遅くなると目がさめるのは、いちはやく胎児の異常を察知するために脳が覚えた特殊な機能によるのだと言う。動物の脳は眠っていてもある特別な感覚にのみ反応する不思議な能力を有しているが、人も、訓練で似た能力を養成することができるそうだ。
 睡眠の医学上の定義の一つに"外来刺激に対する闘値が上昇し、感覚入力が遮断された状態"との記述がある。この定義に従えば、胎児の心拍音が聞こえている眠りは真の"睡眠"とは言えないかもしれないのだが、眠っていることも確かで、身体が休んで脳が働いているレム睡眠の浅い相か、ノンレム睡眠の段階一に当たる最も浅い睡眠なのだろう。いずれにしても、睡眠中でも、胎児の心拍動が遅くなり心拍数が低下した時は脳が賦活化され目をさます。この特殊な能力を、奈智は四年余りの当直経験から既に修得していた。
 城南大学病院産婦人科の女性医師当直室は、入院棟五階の周産期フロアの西南の角にある。以前は物置だった八畳ほどのいびつな形の小部屋があてがわれていて、部屋には二段べッドが二台、四人分のロッカー、勉強机、モニターを乗せた小さな冷蔵庫と流しが置かれ、横の壁に顔が見えるだけの鏡がかかっている。
 奈智は入口側のべッドの下段に寝ていた。


 三十分ほどたっただろうか。
「ピー、ピーー、ピーーー、ピーーーーー、ピーーーーーー」
 心拍音の間延びに再び眠りを破られ、重い瞼を開いた。今度は違う。さっき見られた胎児心拍数の波形は軽度の変動一過性徐脈だったが、今モニターに表示されている一過性徐脈は深くて大きい。高度の変動一過性徐脈の出現は、時に、胎児に危険が迫る徴候のことがある。
 行かなければ。
 奈智は毛布から抜け出し、病棟シューズを履いて立ちあがった。べッドの柱にかけてあった白衣を当直着の上から羽織り、流しの横の鏡を覗くと、目の下に隈ができている。少しやっれたその顔に溜息をつき、手櫛で髪だけを整えて当直室を出た。患者と家族が集う談話スペースを隔てた向こう側に、LDRと呼ばれる個室の陣痛室兼分娩室が六室並んでいる。

「ドキーーー、ドキーーー、ドキーーー」
胎児心拍のドプラ音が聞こえるLDR三号室。研修医の矢口恵子と二人の助産師が産婦のケアーをしていた。
「柊先生、ちょうど今、コールを入れたところです。一過性徐脈がだんだん高度になってきています」
「ヒッ、ヒッ、フー、ヒッ、ヒッ、フー」と呼吸のリズムを取りながら、左を下にして横を向いた産婦がLDべッドの上で痛みに耐えていた。ベッド脇の監視装置の表示を見ると、陣痛の山は過ぎ去ろうとしている。奈智は、陣痛が収まるのを待って産婦のそばに寄った。
「こんばんは、当直の"ひらぎ"といいます。痛みがかなり強そうですが……頑張ってくださいね」
 奈智に気づき、産婦は頷いた。
「さっきから、お腹の赤ちゃんの心拍が少し遅くなっていますので、赤ちゃんの様子、みさせてくれますか?」
「赤ちゃん、具合悪いのですか?」
「大丈夫ですよ。危険な状態ではありませんから、安心してください」
 話している間に次の陣痛が起こった。産婦が「ヒッ、ヒッ、フー」と、母親学級で習った呼吸法を再開する。助産師の一人が産婦の手を握り、付きあうように首を振って同じリズムを取る。
「今どれくらい進んでいるの?」
 奈智は矢口に尋ねた。
「二十分ほど前に診察しましたが、子宮口は六センチ開大していました」
「経産婦さんでしょう?」
「はい。患者さんは徳本美和子さん、二十八歳で、前のお産は二年前、大田区立病院で3200gの女児を出産しています。分娩時間は十五時間、正常分娩でした。今回も区立病院で妊婦健診を受けていたのですが、夫立ち合い分娩を希望されて、妊娠三十六週から当科に通院していました。前期破水後の入院で、GBS(B群溶血連鎖球菌)が陽性のためビクシリンを点滴しています。それ以外は口ーリスク(リスクが低い)の患者さんです」
「ご主人は?」
「先ほどまでいらしたのですが……どこかに行かれたのかな?」
 会話中に、胎児の心拍数は60拍/分まで低下した。胎児心拍数の正常範囲は110〜160拍/分で、60拍/分は高度の徐脈である。奈智と矢口は話しながらドプラ音を聞いていたが、陣痛が終わっても徐脈は回復しない。記録用紙から読み取ると、今度の徐脈は四分前に始まっている。心拍数の低下した状態が長く続いているのだ。二分以上続く一過性徐脈は遷延一過性徐脈と呼ばれ、胎児ジストレスの一徴候である。
「ドキーーー、ドキーー、ドキー、ドキ」
 心拍数が回復したのは徐脈が始まってから五分後で、その時には次の陣痛が来ていた。
「徳本さん、もう一度診察させてください」
 奈智は、矢口の診察のあと、分娩が速やかに進んでいることを願った。経産婦では、子宮口が五センチ程度開大の状態から急速に分娩が進行し、数十分くらいの間に出産に至る場合も少なくない。"うまく進んでいれば、もう全開大(十センチ)になっているかもしれない"と思った。
 助産師が素早く準備をしてくれ、子宮口の状態を診察したが、まだ全開大ではなかった。子宮口の開大は八センチくらいで、児頭の位置も高い。奈智は迷った。
 今、帝王切開を決断すべきか? このまま経膣分娩を続け、子宮口の開大と児頭の下がりを待って鉗子分娩にするのが良いのか?
 どちらが早く胎児を娩出させられるかだ。矢口と助産師は不安気な表情で奈智の顔を見つめている。
 分娩の途中、特に、出産までもう少しの時に胎児の状態が悪化した場合、帝王切開と経腔分娩のどちらを選択するかの判断は非常に重要である。一刻を争う状況で、決断に躊躇していては間にあわないが、その決断を下すことは難しく、まさに、産科医師の経験と能力が問われる時といえる。
 子宮口が二センチ開大するのに二十分以上かかっている。鉗子分娩ができる状態まで進むにはまだ時間がかかりそうだ……
 その時ドプラ音の間隔が長くなった。
「ドキー、ドキーー、ドキーーー、ドキーーーー、ドキーーーーー」
 また心拍数が下がったのだ。100拍/分、80拍/分、60拍/分。奈智が叫んだ。
「カイザー! グレードAです! 君島先生を呼んでください」
「はい、すぐ準備します」
 矢口が俊敏にLDRを飛び出していき、助産師の一人があとを追った。手術部と、麻酔と新生児の担当医師に連絡するためだ。医長の君島がいる救急外来にも電話を入れた。残った助産師が美和子を移送する準備を始める。時刻は三時十二分。
 "カイザー"とは帝王切開の略語で、城南大学では、最も緊急度が高く、一分でも早く胎児を娩出させたい時の帝王切開を"グレードAカイザー"と呼んでいる。
「徳本さん、よく聞いてくださいね。お腹の赤ちゃんね、少し苦しそうなんですよ。普通に出産するまでにはまだ時間がかかりそうで、その間に赤ちゃんの状態が悪くなってしまったら困りますので、早く出してあげるために緊急の帝王切開をしたいと思うのですが、いいですか?」
 奈智は無用な不安を与えないように気持ちを抑えて話したつもりだったが、声は緊張していた。
「このままでは赤ちゃんが危ないのですか?」
「でも早く出してあげれば大丈夫ですよ」
「それでは、赤ちゃんのために一番いい方法にしてください」
「ここまで頑張ったのに残念ですけど……すぐ準備しますから、徳本さんは心配しないでゆっくり落ち着いて呼吸をしてしてくださいね」
 心拍数はいっこうに回復の兆しを見せず、60拍/分になってから三分近く経過した。助産師がストレッチャーを運んできた。
「先生、手伝ってください、徳本さんを移しますから。監視装置、外していいですか?」
「外しましょう」
 奈智はここまでの心拍数記録を読み直した。基線150拍/分、軽度の変動一過性徐脈が二時二十分頃より出現、二時五十分頃からそれが高度となり、次に、約五分も続いた遷延一過性徐脈が見られ、今回の徐脈も、三分以上たってもまだ回復していない。
 このまま回復しなかったら、大変なことになる。急がなくては、でも、まだ細変動はある。今のうちだ……
 輸液のパックを先に吊るし換え、奈智が頭のほうから両肩を持ちあげ、二人の助産師が左右から腰のあたりを抱えて「一、二の三」と声をかけあい、美和子をストレッチャーに移した。奈智は助産師に目で"急げ"の合図を送り、ストレッチャーを押して、LDRを出た。三時十五分。
 美和子は陣痛の痛みに、「ヒッ、ヒッ、フー」の呼吸を繰り返す。部屋を出ると奈智が先頭になり、左手でストレッチャーの前を引っ張り、二人の助産師が後方からそれを押した。
 廊下を突っ切れば五階から下りるエレベーターがある。矢口が気を利かせ、ゲージを止めて待っていた。五人が乗りこんだ。ドアが閉まる。二階のボタンは押されていた。奈智は心配で、助産師がストレッチャーに積んで運んできたドプラ心音計で胎児の心拍音を聞いた。
「ドキーーーーー、ドキーーーーー、ドキーーーーー」
 60拍/分が続いている。自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じながらも、笑顔を作って美和子に「心配ないですよ」と声をかけた。二十秒で二階に着いた。
 ドアが開くや否や、次のエレベーターに向かって矢口が先に駆け出してゆく。残る三人もゲージからストレッチャーを引き出すと、移送の足を早め、走り始めた。奈智は胸の中で繰り返す。
 大急ぎで出してあげれば大丈夫だ、まだ大丈夫、まだ大丈夫……
 手術部に行くには、入院棟のエレベーターを降りてから、二つの建物の二階をつなぐ渡り廊下を通って中央棟に移り、そこでまた別のエレベーターに乗って五階まで上がらなくてはならない。いつもより長く感じる廊下を、奈智はストレッチャーを引っ張って走った。
 手術室までの移動にこんなに時間を取られては、胎児は助からないかもしれない……
 胸の鼓動が一段と早くなる。
 中央棟のエレベーターの前で矢口がドアを開けて待っていた。急いでストレッチャーを中に押し入れ、ドアを閉めた。奈智は肩で息しながら隣の助産師の腕時計を見た。三時十九分。LDRを出てから四分、回復しない徐脈が始まってから七分たっている。
 五階でエレベーターのドアが開くと、手術部の看護師が待っていた。


ノーフォールト(上)(ハヤカワ文庫JA)

ノーフォールト(上)(ハヤカワ文庫JA)

ノーフォールト(下)(ハヤカワ文庫JA)

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