原発安全宣言 - 渡部昇一、中村仁信

●「放射線=怖い」を疑い出したきっかけ
渡部 中村先生は「放射線が怖くない」なんて発言すると、抗議とかがきて大変じゃないですか。
中村 そうですね。ネットではかなり叩かれていましたね。私は関西ローカルのテレビで発言したので、直接の被害はありませんでしたが、関東のほうだったら、もっと大変だったと思います。
渡部 私の秘書から聞いたんですけど、首相官邸原発反対のデモのところに行って、秘書の友人が「放射線は危なくない」というビラを配ったんだそうです。そうしたら、デモの人から「敵がきた」と言われて(笑)。
中村 原発イコール放射線なんですね(笑)。
渡部 その秘書の友人が、「福島で放射線が原因で亡くなった人はいませんよ」と言ったら、「何万人も死んでいる」と言われたの。「それは津波が原因ですよ」という言い合いになったのです。ばかばかしい話です。
中村 渡部先生も震災後から放射線原発に関していろんな媒体でよく書かれていますね。渡部先生と放射線の関係みたいなものを教えていただけないですか。
渡部 全くないです。ただ「放射線が危険だ」って言ういまの世間の流れに対しておかしいなって思ったことが発端ですね。
 大学生時代、寮で同室だった男が広島に落ちた原爆の被ばく者なんですよ。片耳がつぶれるほどの爆風のところにいたようです。その男とは学部のときに1年半ぐらい2人で同室、大学院のときも同室。それから偶然、ドイツへ留学したら隣の部屋にいて、かれこれ10年ぐらい一緒にいました。それで、耳以外で彼が体を悪くして病院に行ったなんて見たこともなかったです。それなのに、放射線が体に悪いっていうのはおかしいなと思いました。
 他にもあります。私は生まれが山形県鶴岡市だから、戦時中東京近辺から疎開した方が多かったんです。ところが終戦後、疎開の生徒が東京に帰りだしたころに疎開して、私のクラスに編入された男がいました。疎開した同級生は、終戦後すぐに続々と東京へ戻ったのに何でいまごろと思ったら、「いや、彼は広島からきたんだよ」とこっそりと友人が教えてくれました。
 後から聞いたら、その広島の男は、爆心地から家は4キロぐらいのところに住んでいて、自分は6キロぐらいのところで学徒動員で働いていたそうです。だから相当な最の放射線を浴びたに違いないんだけれど、卒業後は地方の銀行におりまして、定年まで勤めあげました。退職後も得意の絵をずっと描いていまして、今年も上野で展覧会をしています。
 去年も田舎に帰り、久しぶりに中学校の同窓会がありました。20人ぐらい集まったのですが、そのうち断然元気な人が3人いましてね。2人は禅宗の坊さんなんですが、あと1人はその男。強いて加えればあと私で、4人ぐらいですよ、元気なのは(笑)。
中村 被ばくされた方で、今も元気な方はたくさんおられます。
渡部 だから、おかしいなとは思っていたんです。ただ、それでも終戦直後、『この子を残して』(大日本雄弁会講談社)、『亡びぬものを』(長崎日日新聞社)なんかも読みました。長崎医大の物理療法科(レントゲン、つまり放射線科)の現役教授であった永井隆博士が、研究室にいるときに長崎の原爆で負傷した体験を書き記した書籍です。それらを読んで「原爆は恐ろしい、放射線が怖い」というのはよく分かっていたので、被ばくした友人が元気なのを見て不思議に感じることがあったのです。
 それで今回の福島のときも、当初はえらいことになったんじゃないかなと思って、いろいろ勉強しました。中村先生はずっと放射線科医ですよね。
中村 大阪大学医学部を卒業しまして、1年間だけ内科をしたんですが、昭和47年から放射線科医になりまして、ちょうど40年。昔の放射線科の仕事と言いますと、暗室透視とか、先生はご存じですか。
渡部 透視診断ね。
中村 バリウムを飲んでもらって胃の検査をするのですが、暗い部屋で患者さんのすぐ横でX線(放射線)を出しながら、蛍光板が光るのを見るのです。線源との距離は近いし、時には直接X線を浴びてしまいます。そういう時代も経験していますし、血管造影、IVR(血管内治療など)が専門でしたので、患者さんの横で散乱X線を浴びながら、透視を見つつ、カテーテル操作をやってきました。40年間、本当にかなり被ばくをしております。
 放射線科医は放射線生物学的なことは必ずしも理解していませんが、仕事だからというので割り切っていますし、先輩なんかを見ていても、怖がっている人はいませんでした(笑)。
渡部 そうでしょうね(笑)。
中村 被ばく管理としては、個人線量計(バッジ)を着けないといけないのですが、実際着けていない人も多いんです。多くの医師が記録された線量よりずっと多く被ばくしているでしょうね。
渡部 先生は今何歳でいらっしゃるのですか。
中村 66歳です。
渡部 66歳……。そうすると、年間どのぐらい放射線を浴びられるんでしょうか。
中村 多いときですと、年問20ミリシーベルトや30ミリシーベルトは超えておりました。例えば血管内治療で肝ガンの肝動脈塞栓術をやりますと、1時間ぐらいで1回に平均0.04ミリシーベルトぐらい浴びます。それを週に何回もやりますし、年間ずっとやりますから、かなり浴びました。
渡部 そうですね。それでも非常にお元気そうですね、若々しく(笑)。
中村 周りを見ていましても、同じような仕事仲問や私の先輩、当時入局したときに教えていただいた先輩方もお元気ですし、放射線が怖いということは、全くありませんでした。
放射線の「迷走」の始まり
渡部 どうしてこんなに放射線が怖がられるようになったのかというと、迷信の出発点は、1927年(昭和2年)に研究していた、アメリカの遺伝学者ハーマン・ジョーゼフ・マラーの実験(解説1)なんですね。
 ショウジョウバエと呼ばれるハエを使って、動物の変異を研究していたマラーはショウジョウバエのオスの生殖細胞精子)にX線を当てることによって変異、つまり奇形が生ずること、そしてその変異には遺伝性があることの確認に成功したという論文を発表したんです。
中村 ええ、非常に有名な実験ですね。
渡部 私は大学でも生物学史の授業をとっていて、進化論史を習ったんですよ。そのときやはりマラーの実験も習いました。あのころは生物の進化に関して二派ありました。

原発安全宣言

原発安全宣言

渡部昇一 (わたなべ しょういち)
上智大学名誉教授。
1930年、山形県生まれ。1955年、上智大学大学院修士課程修了。
ドイツのミュンスター大学、イギリスのオックスフォード大学に留学。
ミュンスター大学哲学博士(1958年)、同大学名誉哲学博士(1994年)。
深い学識に裏打ちされた鋭い評論で知られる。
第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。
専門書のほかに、『知的生活の方法』(講談社)、『自分の壁を破る人 破れない人』
(三笠書房)をはじめ多数の著作があり、ベストセラー、ロングセラーを続けている。


中村仁信 (なかむら ひろのぶ)
1971年大阪大学医学部卒業後、1995年から大阪大学医学部放射線科教授。
2009年退職後、大阪大学名誉教授。
この間、1977年から4年間、国際放射線防護委員会(ICRP) 第3委員会委員。
現在は医療法人友紘会彩都友紘会病院長としてがん診療に従事。
『肝癌の低侵襲治療』(医学書院)、『IVRの臨床と被曝防護』(医療科学社)など著書多数。


目次
はじめに  中村仁信
1章 原発を止めた放射線恐怖
放射線=怖い」を疑い出したきっかけ
放射線の「迷走」の始まり
放射線被害に対する誤謬の元凶「マラーの実験」
医師さえ騙される風評被害の怖さ
放射線恐怖をあおるマスメディア
原発派の扇動と医学生物学を知らない専門家
放射線アレルギーの歴史
2章 広島・長崎のデータを使わない反原発論
放射線発ガンになるリスクは野菜不足と同じ!?
医療は全て量である
チェルノブイリと福島の原発事故による放射線被ばくの比較
「低線量が体に良くない」という反原発者の根拠
子どもは放射線に弱いのか
医療被ばくは危険なのか
でたらめな食品の放射線の規制値
「外部被ばくより内部被ばくが怖い」は正しいのか
3章 国連はいっこくも早く「除染をやめよ」と警告している
放射線は体に良いのか
どうして低線量は良い効果を生むのか
医療でも活躍する低線量放射線
放射線ホルミシスの第一人者ラッキー博士
海外からの警告「除染はいらない」
強制避難は放射線以上にリスクがある
4章 これからの原発代替エネルギー
除染は時間や費用の無駄遣い
おさまらない放射線アレルギー 科学に基づき行動せよ
原発を止めることで「日本は弱い国になってしまう」
国際競争に敗れていく日本の原子力産業
いまこそ日本国民の民度が試されるとき
エネルギーこそ国の運命を分かつ
廃炉をどうすれば良いか
真理は勝つ
おわりに  渡部昇一