Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 日出城隅櫓の修復保存工事

 嵐のような昨日とはうって変わった穏やかな今日、新聞で見た日出城隅櫓の修復工事見学会に参加した。
日出町は今、日出城下の町並みの保存や再現に力を入れ、ハード面やソフト面で町おこし事業が進み観光客誘致も進んでいる。今日の現場見学会も、そのような城下町再認識の一環として行われたようだ。
          
日出藩は、初代藩主木下延俊から16代にわたって日出3万石を領した外様大名である。延俊の父、姫路城主の杉原家定の妹おね(ねね=後の高台院、北の政所)が豊臣秀吉に嫁したことから木下姓を名乗ることを許された。
日出城は木下延俊が関ヶ原の合戦(石垣原の合戦と同年)の1年後の慶長6年(1601)から約1年の歳月をかけて築いたが、3代藩主の俊長が中国の古書より引き、暘谷城と名付けた。 以後明治4年(1871)の廃藩置県によって日出藩が廃止されるまで続いた。
現在は旧本丸が暘谷城址として町史跡に、隅櫓(鬼門櫓)が町有形文化財、旧日出藩校致道館が県史跡の文化財指定を受けている。
隅櫓(鬼門櫓)
隅櫓は本丸の隅に築かれた2層2階の櫓である。当時、北東の方向は禍いを招く鬼門だといって忌み嫌われた。北東の隅に建っていた櫓なので鬼門櫓とも呼ばれたのである。
修理工事中の隅櫓の北東の部分を見ると、確かに禍いを除けるために直角の部分を欠いた隅欠きが施されていた。
          
日出藩廃止後は、城の天守や櫓は次々に取り壊されてしまったが、隅櫓だけは残った。
          
          明治時代の隅櫓(日出町資料)
その後競売に付されて何人かの手に渡り、大正10年(1921)にN氏が買い取って東仁王に移築。その100年後の平成20年、日出町がN氏より譲り受けたものの、年を経るごとに見る影もなく老朽化が進んでしまっていた。
          
          解体前の隅櫓(平成21年)
平成21年7月10日に日出町有形文化財に指定されて、昨年から日出町立萬里図書館前に、当初の古材を使ってできるだけ忠実に建立当時の隅櫓を保存修理する工事が始まったわけである。
約30分の古式に則った上棟式につづき、施工者のY・O設計1級建築士事務所の設計者Y氏より、次のような工事の概略説明を聞いた。
まず、現地の地盤がきわめて弱く、14、5メートルの地下まで鋼管の基礎を打ち込むのに時間がかかった。木材はすべて椎材であり、7,8割は建設当時の古材を使用し、2,3割を新しい椎材とした。新しい椎の木は伐り出したものを数ヶ月水に浸け、引き上げて乾燥にまた時間をとった。棟の最上段に、鶴と亀の弓矢の飾りを配した。
          
          
古材にはシロアリが入ったようなあとも見られたが、新材とうまく組み合わせている。
[」これはなんと呼ぶのであろうか。屋根裏に残しておく棟梁や工事関係者の氏名を書いた木の板の表と裏を見せて貰ったが、解体した屋根裏に残っているのは歴史価値の高いものとして過去に見たことがあるが、これは、この文化的建造物の歴史を今から作る人たちの記念すべき貴重な名前である。

日出藩と府内藩の城下町に挟まれている我が別府の住人としては両隣の町がいささかうらやましくもある。別府は天領だったとはいえ、ネームバリューに於いては天領日田には遠く及ばない。江戸時代の文化遺産や歴史的建造物もないので、町に求心力がない気がする。確かに豊かな温泉があって、市長選挙や市議会議員選挙では各候補は「温泉文化都市」を声高に訴えるが、毎回「湯ーばっかり」の気がして聞いてる方は湯冷めしてしまう。 
隅櫓の竣工は3年後というが、完成の暁には新しい県指定文化財に追加されるに違いない。       
春浅し江戸より生くる椎柱  古希漢