心眼

2010-08-09

「インセプション」感想(ネタバレあり)

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本記事はネタバレを含みます。

まだ映画を観ていない方はご注意を。


私はメメントやダークナイトを観ていないので、その辺との関係性とかは解りません。

あくまでインセプションだけを観たときの感想・疑問です。








どこまでが

自分の記憶に基づいてストーリーの流れを図にしてみたら大体こんな感じになった。

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 ラストシーン、コブが再開する子供たちが年をとっていないこと、コブのトーテムであるコマが倒れるシーンを写さずに作品が終わってしまうこと(チャートの12の直前で)などから、鑑賞者はこのハッピーエンドが現実ではないのではないか、と疑問を感じるつくりになっている。そしてこの疑問は「ではどこからが夢だったのか」という問いとセットになると思う。この問いに対しての答えは「全て現実だった」「全て夢だった」「どこかで現実から夢にシフトしてしまった(とするとどこで?)」


 「どこかで現実から夢にシフトしてしまったのだ」という立場で考えよう。それを考えるためのひとつのヒントがトーテムだ。トーテムポールとかのトーテムを表しているのだろう。Wikipediaを観ると、トーテムは「信仰の対象」なのだという。作中トーテムは、今体感しているそれが現実なのか夢なのかを確かめるためのサインとして用いられる。このトーテムが正しく機能しているかを基に判断すれば、チャートの03,05ではトーテムが正しく機能していたのだから夢ではないということになる。これ以降、サイトーと合流するまでトーテムで夢現の判断をする機会はない。


 この間のどこかですり替わってしまっていたのだとすれば、一番可能性がありそうなのは(ストーリーとして意味が見出せそうなのは)11-12の境界であろうと思う。11-12の境界で、アリアドネーはキックにより夢から醒めるが、コブはサイトーを救うために夢の世界に残る。しかし救出が上手くいかず、コブが夢の世界に取り残されてしまった、と考えると、ストーリーに齟齬はなくなる。


 作中、夢から醒める方法として夢の中で死ぬ、キックにより目覚める、自然に覚醒する、の3つが提示されている。このうち、死ぬ方法をとり、かつ薬の効果によって目覚めることが出来なかった場合、心がリンボ(虚無…適訳ではないと思うが)に落ちると説明されている。リンボに落ちるとどうなるか。感情がない人間になる、と説明されている。


 しかし、それはあくまで外部から見た状態なのであって、本人の感情は生きていて、自分の中に閉じこもって見たい夢を見ているのかもしれない。そう考えれば特に矛盾はないように思う。この場合、夢の中で死んでも現実で起きられないような場合、リンボに落ちて感情がない人間になってしまうのだ、という彼らの世界の常識そのものがインセプションなのだ、と言えなくもない。


 この場合、夢の中でコブは幸せな余生を送るが、現実では廃人になっていることになる。おそらくサイトーも同様に廃人になっているだろうから、コブはアメリカに着いた途端身柄を拘束されることになるだろう。


 もうひとつ、現実には死んでいるはずのモルが登場するシーンも夢であると考えられるが、私は現実を描いているはずのシーンでモルが登場している箇所を見つけることが出来なかったので、ここでは検討しない。


 「全て現実なのだ」というスタンスを取ると話は簡単で、ラストシーン、ブラックアウトの後でコマが倒れたのだ、ということになる。この表現は実に巧みだと思う。コブのトーテムはコマなのだが、コマが倒れること=物理法則に即していること=現実であること、という判断をするためには、コマが倒れるのを待たなければならない。現時点でコマが立っているとしても、あと数秒後にはコマが倒れてしまうかもしれない。


 「コマが(現時点で)倒れていない」ということは「現実ではない(可能性がある)」ということを示唆しているに過ぎず、だからこそ観るものに、それが夢なのか現実なのかを疑問視させる余地を残す。

 このスタンスをとる場合、アリアドネーの行いが彼を再起させるキッカケとなったわけだから、まさに彼女は神話のアリアドネーと同じ役割を作中で果たしていることになるだろう。


 「全て夢なのだ」というスタンスを取ると、トーテムのコマが倒れたからと言って現実ではない、ということになる。つまり、「コマが倒れれば現実」という仮定そのものがインセプションであるといえるだろう。作中、トーテムの概念はモルが考え出した、と語られる。コブがモルにインセプションしたように、モルもコブにインセプションしていたのだ、と考えるとこれは面白い。本作品では明晰夢を利用して、アリアドネーが物理法則を無視した街を作るシーンがあるが、物理法則を無視できるなら、物理法則を無視しない夢を作ることも可能なはずだ。そのような夢の中では、トーテムは夢を見る者の深層心理を反映して正しく倒れることだろう。


 全て夢だったとすれば、もしかするとモルは死んでさえいないのかもしれない。たとえば、コブは何らかのキッカケで夢の中の住人になってしまった。コブ自身が説明するように、モルが自身の行いで死んでしまって、その自責の念=インセプションから現実の世界に帰ってこられない。だからモルや、そのほかの仲間たちが、ロバートにインセプションを植えつけるという夢を設計して、コブに見せているのだ、という説明も出来なくはないだろう。


 ところで、全て夢だったとして、さてこれは誰の夢だったのだろうか。コブの夢だろうか?エンディングのスタッフロールは、最後、作中たびたび覚醒に用いられる音楽が流れる。これによって私たちは映画と言う虚構、夢から目覚め、映画館を出て行くわけだから、この映画は私たちの夢だった、と言うことも出来るかもしれない。明晰夢と言う言葉がある。自分で夢であると自覚しながら見ている夢だ。訓練すれば自分が思い描いたことを夢の中で実行できるようになることから、エンターテイメントへの利用が構想されているらしい。私たちは、それを映画、虚構、夢であると理解しながら主人公たちの体験を俯瞰、追体験しているわけだから、ノーラン監督は一足早く明晰夢を使ったエンターテイメントを実践してみせたとも言えるだろう。


 もうひとつ、気になったポイントがある。音楽だ。作中、主人公たちが覚醒に使う音楽は、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフの「水に流して」なのだが、この曲の歌詞は映画の内容を想起させるものになっており、仏語がわかる人にとってはなるほど、と思える仕掛けになっている。


♪いいえ、ぜんぜん

 いいえ、私は何も後悔してない

 私に人がしたよいことも悪いことも

 何もかも、私にとってはどうでもいい

 いいえ、ぜんぜん

 いいえ、私は何も後悔していない

 私は代償を払った、清算した、忘れた

 過去なんてどうでもいい

 エディット・ピアフ 水に流して < http://nandemokou.exblog.jp/6622765/ >


 エディット・ピアフ自身も事故で最愛の恋人を失い、生きる目的を失って薬物中毒になった過去があるようだ。再起は難しいだろうと言われていた彼女の前にシャルル・デュモンが「水に流して」を携えて訪れ、衰弱しきったピアフの前でピアノ演奏する…というのは、エディット・ピアフを題材にした映画、「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」のワンシーンである。そういう前置きを知っている人にとっては、この夢はさらに深みを増したものに見えるだろう。


 作中、コブはアリアドネーに、「迷路を作れ」と言った。夢を見せている対象から真実を隠しやすいように、と。また、アーサーはペンローズの階段を持ち出して、目に見えるものも解釈の仕方によって別の形に見える、と表現した。この作品のエンディングも複数の解釈が出来る。そしてそのいずれもが正解なのだと思う。そうした夢を見せるスタッフはスゴ腕の設計士であり、偽装士であり、調合士なのだと言えるだろう。

2010-07-05

芸術は可能か

| 09:55 | 芸術は可能かを含むブックマーク

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 今日が最終日だったので、六本木クロッシング2010展を見てきた。広く日本のアートシーンから、最も注目すべきクリエイターを2〜3年ごとに紹介する展覧会というコンセプトで催されたこのイベントは、今回で三回目を迎える。今回の副題は「芸術は可能か?(Can There be Art?)」。イベントを通して、自分なりに芸術について考えてみた。


芸術とは何か

 芸術には、アートには、異常性・非日常性が必要だと思っている。驚き、既成概念が覆される感覚。鈴木光司氏が哲学者、竹内薫氏との対談*1の中で語っている、「自分が答案用紙の表に書いた文章が、問いが変わった途端に崩れていく、というような小さな崩壊感覚」、あるいは「知的ショック」のようなものが。日常に滑り込む異質、新しい「何か」を見せてくれるトリガー。

 異常性をギャップと言い換えることも出来るかもしれない。ギャップ。ズレ。AとBのズレ。ズレが生まれるためには常に二つの以上ものが必要だ。街中に突如現れる巨大な箱。プラダの袋の中に佇む樹木のモニュメント。家具を積み重ねて作った自動演奏機械。これらはすべてギャップを生み出すための仕掛けとして働いている。

 ギャップを作り出して私たちを驚かせ、知的ショックを与えてくれるモノたち。芸術とは、アートとは、そのようなものであるとおもう。


アートの最大の敵

 「社会とアートは、お互いを映しあう鏡のように存在し続けるでしょう。」*2現代美術家、やなぎみわさんの言葉だ。アートが新しい「何か」のトリガーであるとして、では、私たちにとってどのようなものが「新しい」のか?かつて新しかったものも、時間経過とともに人々の日常の中に埋没し、異常性を失ってしまう。だから、社会が変われば同様に「芸術」の定義も変化するだろう。お互いを映しあう鏡のように。

 芸術の定義は常に社会に影響を受ける。では社会とは何か。社会とは個の集合体である。個人が集団の最小構成単位となった現代において、人々の趣味は多様化し、自分の世界に没頭できるようになった。すると、何が芸術であるのか、ということの定義についても個々人の間で差が生まれてくるだろう。これはアートなのか、アートではないのか、人々の間で評価が別れることもあるだろう。ギャップは私たちにショックを与え、様々な反応を呼び起こす。時にはそれがマイナスの感情に繋がってしまうこともあるかもしれない。

 芸術を可能にするには、社会を観察し、裏をかき、好奇心を呼び起こさねばならない。価値観が多様化する現代において、そして強烈な刺激が日常の中にも氾濫している現代において、人々を驚かせ続けることは難しくなっているのかもしれない。マジックショウを見る人々でさえ、世の中に魔術があるとは信じていないだろう。任天堂は、自社の最大の敵は「飽き」だと言った。*3芸術が可能かどうか、という問いを、「より激しい刺激を求め続ける現代人を、それ以上に驚かせ続けることができるのだろうか」と問い直せば、この構造はより清冽に浮かびあがってくるだろう。


アーティストの最大の敵 

 ところでアーティストとは、アートを行う人たちのことだろう。ではプロのアーティストとはどのような人々か。私は、アートの対価として金銭を得られる人々のことだ、と思う。ルノワールは「絵画の価値を図る指標はただ一つ、競売場だ*4」と言った。では金銭に値するアートとはどのようなものだろう。

 街は私たちを驚かせ、出費を強い、消費させる、高度な仕組みで溢れている。人々は奇を衒い、工夫を凝らして私たちに知的ショックを与え続ける。人々はそのような知的ショックを与えられ続け、麻痺し、多少の驚きでは金銭を払うに値しないと感じるようになってしまってはいないだろうか。

 加えてウェブの存在がある。ウェブは驚きを与えるだけでなく、人々を驚かせるためにも機能している。youtubeは、ニコニコ動画は、drawrは、pixivは、人々が驚きに出会うための敷居を強力に押し下げ、人々は無料でほとんど刺激を消費できるようになった。では、人々にとって、お金を払って出費する意味はどこにあるのだろう。

 しかしアーティストも人間だ。食事をし、住まいを確保しなければならない。それだけでなく、アートを表現するには少なからず金銭も必要になるだろう。日常に氾濫している驚きがインフレを起こして、私たちの心を麻痺させ、驚きに対する支出を控えさせ、驚きの対価を限りなく無料に近づけているのだとしたら、これからのアーティストはどのように暮らしていけばよいのだろうか?アーティストがアートで暮らしを立て続けてゆくことは可能か?「芸術は可能か」という問いの中にはこのような問題提起も潜んでいるように思われる。


 好奇心には際限がない。舌が肥え続け、新しい驚きを求め続ける観客を魅了し続けることができるのか。その対価をいかにして求め続けるのか。アーティストとして生きつづける為にはいかにすればいいのか。

 飽きない作品を作り続け、商いができるプロでありつづけるためにはどうすればよいのか。「芸術は(どうすれば|本当に)可能か?」ただ一つ解るのは、日常の象徴としての社会があり続ける以上、非日常の象徴としての芸術もまた存在し続ける、ということなのだと思う。芸術を覗き込む時、芸術もまた、あなたを覗きこんでいる。

*1Amazon.co.jp: 知的思考力の本質 (ソフトバンク新書): 鈴木 光司, 竹内 薫: 本 : http://www.amazon.co.jp/dp/4797352531/

*2:Society and art will continue to be like mirrors that reflect each other.

*3:Amazon.co.jp: 任天堂 “驚き”を生む方程式: 井上 理: 本 < http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532314631/ >

*4:There is only one barometer to measure the value of painting which is an acution.

2010-06-20

ネットがいじめられっ子で溢れかえる理由

| 01:23 | ネットがいじめられっ子で溢れかえる理由を含むブックマーク

ネットっていじめられっ子率高すぎ。リアルでは考えられないぐらい、いじめられっ子視点でのコメントばかりで埋まる。

< http://twitter.com/fromdusktildawn/status/16370630502 >

 僕はいじめが発生する仕組みについて、次のように考えている。


 まずいじめっ子は、DQNぶりやガタイのよさ、持ち前の明るさなどで集団の空気を掌握することから「いじめ」という状況を開始する。ここでいう集団の空気とは、少数のいじめっ子が多数の日和見を取り込むことによって作られる。そして、日和見の中で、より叩きやすい形質を持ったものがいじめられっ子としていじめの標的になる。


 これを受けて、インターネットでいじめっ子が存在しにくい理由をいくつか挙げられるように思う。


 1つ、インターネットでは現実に比べて集団の空気をコントロールしにくいということ。

 HOTな話題には外から外から新しい参加者がアクセスしてくるので、集団の構成員が常に不定だ。だから短期的には炎上という形で状況をまとめあげることができるかもしれないが、継続的にコントロールすることは難しいと思われる。

 だから多数派を作り出しにくい。


 2つ、現実世界でいじめっ子が使う武器はインターネットの世界に持ち込めない。

 いじめっ子は日和見を取り込むことによって多数派になるが、どのように日和見を取り込むかというと、見た目や暴力性、声の大きさやその場の勢いなどを使う。が、インターネットにはそのようなものは持ち込めない。

 だから多数派を作り出しにくい。


 3つ、「叩きやすい形質」とは、「解りやすい異質さ」のことだ。

 叩きやすそうな特徴がある。いじめっ子がそれに目をつけて叩く。いじめっ子が叩いたことによって日和見は、それを叩いても良いのだという理由を作り出す。いじめはこうしてできあがる。

 そして、インターネット上では、こうした「叩きやすい素材」を見つけてくる人間の顔ぶれが毎回違う。現実ではいじめっ子が果たしている役割を果たすのは不特定多数のネットウォッチャーだ。

 だから、『特定の』いじめっ子はいない。


 4つ、いじめっ子であり続けることが出来ない。

 なぜならいじめっ子であることそのものが、「目立つ」ということだからだ。目立つ、というのは「解りやすく異質」だ。

 彼/彼女が少しでも解りやすい叩きやすさを垣間見せれば、今度はアンチいじめっ子が彼らを叩く。多数の日和見は所詮「誰かが叩いたから叩いても良い」の論理で人を叩いているわけだから、簡単に攻守が交代してしまう。

 だから、いじめっ子になることは危険だ。*1


 そういった意味で、ネットにはいじめっ子はいない。

 局地的に生まれても長続きはしない。

 いるのは無数の日和見と、その中で折に触れて運悪く目立ってしまうババをつかまされたいじめられっ子、それだけだ。

*1:「無敵の人」は別だ。

2010-05-23

よいことをしよう

| 11:44 | よいことをしようを含むブックマーク

最近生活していく上で良いな、と思ったことまとめ。


本を売る

BOOK OFF やamazonで本を売るということ。

メリット
  1. 現金が手に入る
  2. 蔵書スペースを圧縮できる

何度も読み返したり、リファレンス的に使う本はもちろん対象外。

数ページだけ「いいな」と思うような本はコピーしておいて、後でまとめてScanSnapにかければよい。

一手間かけることになるわけだけど、そんなアルファブロガーみたいに大量に読むわけではないので、これで十分なように思われる。

複合機とかなら安いですしね。


積み本を崩す

そもそもやるな、という話なのだけど、積み本を意識的に崩すこと。

メリット
  1. 本を売るための商材が手に入る
  2. 新しい情報が手に入る
  3. 未読本が少ないほど意識をそっちにとられない

まあ、すごく私的で当然なことばかりなのですけど。

うっかり本を積んでしまうので、メリットを再確認してみました。

未読が少なければ、あるいはどの程度未読があるのか把握できていれば精神衛生上良いというのは、GTDに通じるところがあると思います。


プログラミングを趣味にする

名前のとおり。言語不問。

メリット
  1. 仕事に役立つ(自分はSEなので)
  2. お金がほとんどかからない趣味
  3. 時間がいい感じに潰れる

お金がかからず実益につながりやすい趣味ということで、趣味プログラミングはかなり良いと思います。


料理を趣味にする

名前のとおり。

メリット
  1. 生活の質があがる
  2. お金がほとんどかからない趣味
  3. 時間がいい感じに潰れる

ジョギング・筋トレ

名前のとおり。

メリット
  1. 兼ダイエット
  2. お金がほとんどかからない趣味
  3. 時間がいい感じに潰れる


こんなところなんですけど、どうも自分は自分にとって複数のメリットが見出せるようなことじゃないと、本気になれないみたいです。

省力思考ですね…。

2010-04-23

七つの大罪

| 20:24 | 七つの大罪を含むブックマーク

七つの大罪(ななつのたいざい)とは、キリスト教の用語。七つの罪源とも呼ぶ。

「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があると(伝統的にキリスト教徒により)みなされてきた欲望や感情のことを指す。(ref 七つの大罪 - Wikipedia)

 具体的には、傲慢(greed)、嫉妬(envy)、憤怒(wrath)、怠惰(sloth)、強欲、暴食、色欲、の七要素が、七つの大罪として挙げられる。ここに列挙した順番で罪が重いとされる。傲慢が最も罪が重く、色欲が最も軽い。とはいえ、このチョイスや序列づけは6世紀後半にグレゴリウス1世が定めたもので、それ以前は八つの枢要罪と呼ばれていたようだ。以前は「嫉妬」がなく、「虚飾」と「憂鬱」があった。


 ところで、なぜこの七つが選ばれたのだろう?大罪に含まれる要素は実際に入れ替わったり、数すら変わったりしている。新約聖書のヨハネの黙示録で七つの門が登場したり、最も有力な大天使を七大天使として規定していたりするから「7」という数字に拘りたかったのかもしれないが、それにしてもなぜこの七つなのか?


 この疑問に対して、我流の解釈ではあるけれども、最近自分なりの答えが思いついたので、メモしておこう、というのが本エントリ。


(How|What) do you love?

 『神曲』という叙事詩がある。ダンテ・アリギエーリというイタリアの詩人によって作られたこの詩は、地獄編・煉獄編・天国編の三部から成り、暗い森の中に迷い込んだダンテがそこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴して回る、というあらすじになっている。ダンテは道中で地獄や煉獄や天国がどのような構造になっているのか生きながらにして目撃することになる。


 さて、『神曲』煉獄編によれば、煉獄山は下から昇るごとに幾つかの階層に分かれている。各階層で生前の罪を清めながら登って行くのだが、この階層が7つの大罪に対応している。そしてこの階層は七つの大罪の罪の重さにも対応している。最下層から、傲慢、嫉妬、憤怒、と続き、最上層が色欲である。


 第三階層から第四階層に至る道中、ダンテがウェルギリウスに「愛」について教えられる一幕がある(煉獄編十七歌)。この辺でも読めるが、自分なりに簡単にまとめると次のようになる。


 山川草木を含めた被造物のすべては、至上善である創造主に対して惹かれると言う意味で自然の愛を、自由意思によって何かを愛するという恣意の愛を持っている。このうち恣意の愛は、愛を向ける対象や、その度合いによって罪深い行為として解釈されてしまうことがある。恣意の愛が神などの至上善に向けられたものだったり、あるいはその愛が財宝や娯楽に向けられたものであっても節度が守られていたりするならば、これは罪にはならない。逆に、恣意の愛が邪悪なものに向けられていたり、あるいは正しいものに向けた愛であっても熱意が足らなかったり、あるいは過度であったりすれば罪深いことであると解釈される。愛は徳の種にも、罪の種にもなるということだ。


 特に、思惟の愛を傾けてはならないのが災いである。災いと言っても、人は自分自身や神に対して災いが起きることを望みはしないので、この場合の災いとはもっぱら他人の不幸と言うことになる。思惟の愛が他人の災いに向けられた時、その反応の仕方は三つのパターンがある。これが、傲慢、嫉妬、憤怒である。他人を蹴落としたい、貶めたいと望むのが傲慢、他人が自分より上に上り詰めるのを恐れるのが嫉妬*1、他人によって損害を受けたとき相手にも損害をと考えるのが憤怒、とそれぞれ定義づけられる。


 このうち、傲慢と嫉妬は他人がいなければ発生しない。自分と他人との比較の中で生まれてくる感情だからだ。勝っている他人には傲慢を感じ、劣っている他人には嫉妬を感じる。尊敬語と謙譲後の構図に似ていると思う。憤怒は他人がいなくても起きるかもしれない。たとえば旱魃や飢饉で農作物がやられた農民は怒りを感じるかもしれない。しかし、そのような自然災害は神が齎す試練と解釈され、これに対して怒るということは神に怒りを向けることになるので、それは許されない。


 端的に言いかえれば、傲慢・嫉妬・憤怒の三つの要素は「どのように」愛するかを示しているように思われる。人間は何かを好きになったり、執着したりしてしまうものだ。しかし、その執着の仕方が過度であれば他人の災いを望むようになってしまう。


 では残りの四つはなんだろう?僕は残りの怠惰・強欲・大食・色欲は「何を」愛するかを示しているのだと思う。このうち怠惰、大食、色欲は人間の三大欲求に対応しているように見える。睡眠欲、食欲、性欲だ。残った強欲は、経済力や地位を過度に求めることだから、三大欲求に続く諸々の欲求に対応している。


 何を愛するのか、どのように愛するのかの組み合わせ。そのような観点でのチョイスだと考えると、大罪とされる七つの要素はそれぞれ腑に落ちるように思う。「どのように」愛するのかは人びとの心がけで注意できるものであるのに対して、三大欲求を含む「何を」愛するのかはほとんど本能的なもので避けられないから、序列として「どのように」が「何を」より重い罪として取り扱われるのも腑に落ちる。


 「何を」カテゴリ内、「どのように」カテゴリ内の序列がどうしてこうなっているのかは、あまりうまく説明できない。「どのように」カテゴリで嫉妬よりも傲慢が重い罪とされているのは、より高い地位を獲得している者に対する戒めであると同時に、立場が低いものが「高い地位に上り詰めたものは罪が重いのだ」としてガス抜きさせるギミックなのかもしれない。士農工商のような意味で。


 怠惰が「何を」カテゴリで一番重いのはちょっと理由が分からない。三大欲求への見た手であるとすれば、強欲より罪深いとされる理由が判然としない。もしかすると怠惰だけは「どのように」を兼ねているからなのかもしれない。傲慢も嫉妬も他人と自分とを過剰に比較したときに起きる感情だ。しかし、この他者と比較しようという気持ちが弱すぎると努力しようという気持ちもわいてこない。そういう意味で怠惰は罪である、ということなのかもしれない。こう解釈した場合、もしかすると三大欲求の睡眠欲だけは、「何を」から落ちているのかもしれない。女人禁制で断食をする僧でさえ、睡眠欲だけは耐えられないらしい。だから罪の対象にしない、というのは、それはそれで納得できる。そう考えるとするなら、「どのように」カテゴリが強欲、嫉妬、憤怒、怠惰、「何を」カテゴリが強欲、大食、色欲、ということになるだろう。

*1:尊敬と謙譲の関係に似ている

通りすがりの人通りすがりの人 2011/12/27 12:18 悪いけど、凄ぇ電波っぽい