試作型思索と詩作 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-12-05

「俺を檻に戻せ」という悲劇

「女性」に閉じ込められて苦しんだ事のある人が、男性を「男性」に閉じ込めようとするのはどうなの、と思ってしまうことがあるのだが…


現実にある男女の非対称な状況にカウンターしようとすれば、その言葉はセクシズムに受け取られるようなものになるのも仕方ないと思う。

もっとも、それをセクシズムと勝手に受け取り混乱し、傷つく人は「健常な男性」というマッチョイズムに閉じ込められる事に傷ついた男性だけれど。

マッチポンプはやめろ、というカウンターを冷静にそう読めないのは「たましい」の問題で、「あたまがわるい」からだろうか。

いや、たぶん、そのとおりだろう。

「健常な男性であれ」という社会の要請に応える事は「たましい」を傷つけ、「あたまをわるく」することだからだ。


現実にある抑圧の非対称性を考えたとき、「男性であれ」という檻に入れられて傷ついた者は、ある程度、自分でどうにかしないといけなくなってくる。

「俺を檻に戻せ」という、女性側に脅迫と受け取られても仕方ないような発言は、檻から出されたら、どうすれば良いかわからないほどに飼い慣らされてしまったがゆえの悲劇だ。

檻なんか無くても自分でいられる方法は無いのか、と常々思う。

しかし、現実的にはそれは青臭すぎて使い物にならないらしい。

本当にそうなんだろうか。自分にはまだ分からない。


カウンターで、勝手に自分の身を焦がしてしまう人々に必要なのは、自分がなぜ傷つくのか、混乱するのか、考えるための手段だ。

カウンターを出さねばならないほどに追い詰められている側を、さらに追い詰める事ではない。

それに多くの人が気付けるまでには、男性が自身のジェンダーについて考えることは浸透してないのが現状なのだろう。

 

非対称なこの状態では共闘出来るはずもなく、共に手を取り合う、などと強制することも傲慢になる。

だが、多少、距離を取って、在ることを互いに認めるくらいの事はできるはずだ。

表現についても、規制よりゾーニングの方が良い、と自分が思うのは、後戻りできない断絶より距離を取ることの方が現状は最適と思うからだ。

全ての人にとっての最善では無いだろう。

だが、次善を探してでも足掻かなければならない。


さて、図書館でも書店でも良いが、男性学の本を探してこようかな。

追記のボヤキ

読み直したら、健常という言葉への憎悪が見える文章だな、これw

何も健常な奴こそ悪だ、とか言いたい訳でもないんだが。

どんな形にしろ、在っても構わないだろ、と思うし。

ただ、それが絶対的である、という押し付けは歪みを生むな、と思う。

それで歪んだ人間としてはね。

2009-11-30

逃げ場が無いように思わせ、指差すこと

頭の中を整理する為に、昨日のエントリ、周辺話題に関連して考えた事を書いてみる。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20091127/1259298490

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20091129/1259470692

周辺話題としては幾つかあったが、今回、特に参考にしたのは上記のエントリ。


ネットにある全ての言葉は表現であるけれど、それはその人自身の存在、この世に在ることでは無い、と思う。

それを一致させる覚悟のある強い精神を持つ事が「表現者」に必要だというのは、確かに正論。

けれど、現在はネットが生活に入り込み、覚悟が無くても、「表現者」ではなくとも、言葉が自分の一部になる状況が出来上がってしまってる。

そんな状況の中でなら、自身の表現を否定されて傷ついてしまう事があっても仕方ないだろう。

そこで葛藤しながらも、適当に休んだり、やめたり、というのは当然の事だ。

というのが、自分の考え方。


ここからは自分なりに派生して考えた事。

 

ちなみに表現から、その人自身を探し当てる行為が、いわゆる心理分析の類であると思う。

そして、自分がネットに氾濫する心理分析もどきに嫌悪感を感じるのは、それが他人の逃げ場を潰した上で指差してキモイと言う行為と同じだからだ。

勝手にその人の居場所を決め、探し当てたかのように振る舞い、逃げたくても逃げられないように追い詰めていく。

勝手な分析に忠実に従う必要など全く無いし、逃げようと思えば逃げられるのだけれど、それに気付ける人ばかりではない。

フェアなやり方じゃない、と思う。

その人自身の感情も心も、その人のものなのに。

もちろん、心理分析もどきをやってる人達にそんなつもりは無いんだろう。

好奇心の上での考察だし、勝手な分析を真に受けて傷つく奴などいるはずも無い、とでも思ってるのかもしれない。

ただ、もう一度言うが、その行為は「他人を指差してキモイ」という行為と根は同じだ。

それも時に相手の逃げ場を奪うやり方だ。

それくらいは分かっていて欲しい。


一応、補足しておくが、心理、精神、を分析するという行為の有用性は自分も認めている。

だが、それは本人の同意と了解があって機能するものだろう。

分析は他者をモノ化する行為でもあるのだから、同意が無い状態で勝手にやったらマズイんじゃないのか?

形がある体を切ることには同意が必要。形の無い心を切って覗くには同意が必要ない。

そんな単純な話でいいのか。

今の所、精神医学において、ただの分析的なものは同意が必要な行為とは言えないのだろう。

あるいは形の無いものを扱う点で定めようが無い所もあるのだろう。

けれど、だからといって好き勝手にやって良い事とは自分には思えない。

これは専門家だろうが、素人だろうが、一切関係なく、そのように思う。


顔の見えないネットにおいて、心理分析的なことは安心のために手を出す手法でもあり、誰にでも身に覚えがある事なのかもしれない。

人は分析される事を嫌悪しつつ、自分も分析して安心しようとする。

実際、自分もやってしまった事がある。そして、その後、やられる側になって気付くのだ。

自分がフェアじゃない事をやっていると。反省し、現在もそれは気をつけている。

2009-11-28

投影が「キモイ」と言われる場合の話

ハイクでばかり長文書くのもアレなんで、たまにはこちらに移行させてみる。


http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20091127/1259268295

なんだかな…たぶん、このエントリの投影と美化は隠れオタクトラウマ的なものが多分にあって想起されたもの。

と勝手に邪推するんだけど…

いや、自分も隠れオタクとして、コソコソしてた時期があったから、そう思うのだ。


ただ、その投影と美化が誰かしらに嫌な思いを想起させることもあるわけで。

実際、自分も電車男が流行った時期に微妙な気分になった。

電車さんは良いけど…ここの人達は…みたいな言葉を放つ一般人が、某掲示板のオタク板に来るようになってしまって、

アホか、勝手なイメージだろ、それ、と思ってたし。

そうそう、当時、室井佑月が雑誌のコラムかなんかで、

電車男が流行ってるけど、明らかにイケてないオタク男は勘違いして色気づくなよ。」

といった内容の事をストレートに書いてたなw

このくらいハッキリしてくれた方が分かりやすい、と逆に好感持ったわ。


美化というのも無関心が為せる行為という場合もあるし、そういう投影がぞっとするんです、という言葉を言い換えて「キモイ」と言われたら、自分はやはり自重するし、申し訳ないと思うだろう。

まあ、キモイと言われたら傷つくよ。傷つくけど、それを一概に悪意と切り捨てることで傷つく人も居るよ。

連鎖してるならどこかで止めないと、という思いもある。

自分が一人、納得して、それが僅かでも止まるなら、とか、でも、それを利用するような連中も居て…とか、

ちょっと、これは簡単に答えが出せる話では無いし、自分の中でもグルグルしてて複雑。

(もちろん、基本はゾーニング、と思っている)


ちなみに「妄想少女オタク系」という作品自体は、女性作家さんが描いてたし、男性目線の投影は少ないと思うよ。

作品自体は読んでないけど、作家さんは以前、成人誌でエロ描いてた人だから名前だけ知ってたり。

基本、自分はエロの人なので。


でも、電車男の時に自分が感じたような微妙な思いを生産してるんだろう、

というイメージから腐女子ネタの作品は一切読まないな、自分。

事情が違う部分も多いから、似たような思いがあるだろう、と予想するだけだが。

あとは、オタクと一緒にすんな、変に肩入れすんな、こっちに来るな、という人達が居るのも知ってるし。

勝手に肩入れするのも傲慢でウザイ、というのは分からなくも無い。

「同じオタクなんだから仲良く」という仲裁のつもりであろう言葉にウザイと思った経験は自分にもある。


池袋同人ショップで、女性向け、男性向け、完全に入り口の所から分離してレジも別になってる、腐とオタが、一切、顔を合わせないような仕組みの所があったけど、あれくらいの距離感が良いのかもね。

追記

「キモイ」がある種の投影を拒否する表明でもあるとすると、たまごさんの元エントリもその対象なんだよね。

実際にブコメの反応にそういうものがあったし、全く同じ構造が出来てる。

このエントリで暗に言いたかったのは、そういうことです。

だから、オタクの勝手な腐女子論も表現論SNSとか身内だけでやれば良い。

そして、あらゆる評論が身内だけで消費される世界に近づいていく…。


みんな、互いの間合いをどう取るか試行錯誤してる。ゾーニングもその結果にあるものだ。

今後、どうなっていくかは分からないけれど。

2009-10-28

理屈のフレームの向こう側へ

http://d.hatena.ne.jp/godfrey/20091026/p1

前回のボヤキが少し感情的だったので、今回は、それに関連して考えた事を冷静に。

で、冷静に書いたら、いろいろ書いてしまって長文になったのでお暇な方だけ、どうぞ。


フレーム問題と呼ばれるものがあります。

自分は専門家というわけではないのですが、自分なりに簡単に説明すると、

コンピュータが自分が計算すべき領域を決められずに、ただ、ひたすら可能性のある事を計算し続けてしまい、行動の命令を出せなくなる、という問題です。

例えば、計算すべき領域が設定されてない超高性能なコンピュータを搭載したロボットがあったとして、買い物に行け、と命令したとしても、具体的にどこに何を買いに行き、その道中で起こる可能性のある事故とその回避方法は…と、些細な事でも起こりうる事象を延々と計算し続けて動けなくなってしまうのです。

この計算すべき領域、フレームを設定する能力ですが、現在のコンピュータには備わっていません。

当然の話ですが、だから「問題」なわけです。

現在、使われているコンピュータと呼ばれるものは、人間が計算すべき領域、フレームを設定してやる事で動いています。

そして、その人間が行動不能に陥らないのは、脳が自然にこのフレーム問題を処理しているからだと言われているのですが…


さて、素人の拙い説明でしたが、ここまでが前置きでした。

実はこのフレーム問題、コンピュータ以外にも起こるという考え方があって、それは一般化フレーム問題と呼ばれています。

つまり、人間の頭の中でも起こるし、社会現象の類にも当て嵌められるのではないか、という考え方です。

社会現象までいくと複雑になるので、実感しにくい話になりますが、自分はこのフレーム問題を経験した事があると思っています。

それは自分が精神を病み、ひきこもり状態に陥っていた時期の事です。

憂鬱で、考えるほど自己嫌悪に陥り、昼間に外出できず、吐いて、夜中に目が覚めては、なんか泣けてくるし、最悪でした。

明日が見えないし、生きててつまんないし、消えてしまいたい、と毎日思ってました。

この状態ですが、今思うと、頭の中だけでグルグル考えて動けなくなってたんだろうな、と振り返ってみて思うのです。

つまり、フレーム問題に陥っていた、と。


だから、自分は頭の中だけの理屈って奴をどこかで信用してないのです。

自分もここまで、理屈っぽく話を続けておいてなんですがw

特に人間に関する心理がどうとか、社会学的観点がとか、そういう理屈ですが、一つの視点としては認めますし、対象自身の了解によって目安程度にも機能するでしょう。

しかし、そういった理屈が人間を決定するものであるとは思いません。

自分の行動と嗜好は合理的だ、などという理屈は後付けの説明で、言い訳のような物にしか思えないし、その理屈を長期的展望が、リスク管理が、とグダグダ批評してみせるのも、なんとも眠たい話でバカバカしい。

自分にとって、理は情を支えるものであって、情を制するものでは無いです。

リスク管理や長期的展望、なんていうのは何かを好きになってから考えるものです。

前もって、理を並べ立て、リスクを考えた結果、普通が一番。

それが好きなことであるなら、それもいいでしょう。

ですが、普通にならなければならない、と苦しんで自ら死を選んだ奴を何人か自分は知ってますし、自分もそれで苦しんだ経験のある一人です。

生きていく上での自身の強度という奴は、自分で見つけなければ自分の物になりません。

健全な肉体と精神こそ強度だ、なんてスパルタ式に教え込むやり方も未だにあるようですが、それは教える側が考える強度であり、無理やりに押し付けるのであれば、そんなのはクソです。


リスクを考えて、人は何かを好きになりますか?

そんなはずは無いと自分は信じます。

好きになる事を自分は優先します。

自分はそれで理屈を越えた向こう側へと繋がる人間であり、それで救われた人間です。

だから、生きているのがつまらん、という人がいたら自分はこう言うでしょう。

「お前、他人の理屈の中でグルグル考えて生きてるから、つまんねーんだよ」

自分がブクマコメントに残した、本気になれよ、というのは、お前のフレームを見つけて生きろよ、という事です。

松岡修造なら「もっと熱くなれよぉ!」と言うのでしょう。

自分のフレームを見つけて、それまでのフレームの向こう側へ繋がれば人生は面白いし、幸せです。


余談

余談というか、最近ぽつぽつと考える事をついでに。

その「合理性とリスク管理と適応能力があって、金を稼ぐ事ができて、人は幸せになれる」という意見があるのも分かるんですけどね。

金があるのに越した事は無いですし。

ただ、日本の社会で稼ぐ事ができる、なんていう極めて限定的な条件がクリアできない程度の事が人間の全否定になるとは、あまり思わんのですよ、自分。

大体、高校中退して、大学も二度中退して、フリーターやってる自分が、とりあえず結構、幸せであるという事実は覆らないしなぁ。

なんか年収200万以下の人間は不幸に決まってると信じたい人間がたくさん居るみたいで、最近、驚いたんですけどw

貧すれば鈍する、などという言葉も最近、目にしましたが、そんな言葉が囁かれる感性というのは、世の中全体が「貧すれば鈍する」状態に陥ってる証拠かもしれない、と思ったり。

「幸福とは人格である」という名言もありますが、自分もそう思うのです。

2009-10-27

テレビ買ったり、ラブをプラスしたり

一ヶ月ぶりくらいにネットで呟いたので、ついでに最近の日常でも書いとこう。

14型テレビに限界を感じて、格安の21型テレビに買い換える。

ええ、買い換えました。

十数年使い続けた14型テレビデオで趣味のゲームやるのに限界を感じました。

地デジチューナー付きフラットブラウン管テレビを二万円弱で購入。

いまさらブラウン管?という感じですが、液晶は激しい動きのゲーム向きではないし、プラズマは適当な大きさの物が市場にない状況の昨今。

ゲームモードが充実した液晶もありますが…

コストパフォーマンスを考えたら、一人暮らしの人間には適当な大きさのブラウン管が丁度良いと判断。

D1端子も付いてたので、コンポジットケーブルをD端子ケーブルに変えたら、あらびっくり。

鮮明です。くっきりです。

これなら、RPGの文章は読みやすいし、STGの弾も見やすい、と重宝しております。

HDMI? 先月まで、14型テレビにコンポジット入力してた自分には縁の無い単語です。


後輩にDSLiteの縦置きスタンドを貰う

先日、寝坊で初めてデートに遅刻する。

 ↓

寧々さんを怒らせて凹む

 ↓

後輩に「ああ、発売日からやってるんですよね」と慰められる。

 ↓

「これ良かったら使ってください」と爽やかな笑顔で100円ショップの縦置きスタンドをプレゼントされる。

 ↓

小躍りして喜ぶ自分、若干引き気味の後輩。

ありがたく使わせて頂いております。ラブをプラスする毎日です。


最近だと、こんな所だろうか。

一ヶ月ネットやるの控えめにしてて、意外とネットで感情を吐き出さなくても大丈夫だな、という発見もあったりした。

感情を吐き出すための場所は、何もここだけじゃないな、と。

それこそ、チラシの裏や自分の日記帳に書くだけで満足できるものはあるようだ。

それでも、また、こうして気まぐれにネットで書いてるのは、ここも自分の言葉を発する為の場所ではある、と認めているからだけど。

また、すぐに休眠状態に戻る事も考えてるが、そうやって離れたり、近づいたりして間合いを測ってるのだと思う。