あの日以前に帰りたい

週末の雨が上がり寒い冬が戻ってきた。東北大震災から一年を迎えた昨日は穏やかな春の陽気に恵まれたが、今朝は強い北風に小雪が混じっていた。まるで被災していない人たちだけが暖かい春を迎えることがないように、あの日いきなり冷たい水の底に引きずりこまれた人たちのことをいつまでも忘れないために、あの災厄の日々をもう一度思い起こさせる自然のはからいのようだ。
▼一年前のこの日もいっしょに働いた顔が何人か見える日曜の朝礼で、僕は柄にもなく黙とうの時間をとった。「突然家族も仕事も奪われた人たちがたくさんいます。健康に働けるだけでありがたいし一生懸命がんばらなきゃいけないと思う」折にふれ社長に言われていることをそのまま言うだけなのに、声が詰まり鼻が鳴る。情けない。みんなどう思っただろう。かっこつけやがってと思っただろうか。頼りないやつだと思っただろうか。
▼生きていれば辛いことや悲しいこともある。仕事でもプライベートでもうまくいかないことの方が多いだろう。だがそれも生きていてこそだ。僕には家族も仕事もある。それは幸せなことにちがいない。腐らず、前を向いて、ひたむきに、誠実に事にあたるのみだ。直接の被災者ではない僕があの震災の後に何か言えることがあるとすればそれだけだ。
▼一年の節目を迎え、一週間ほど前から震災関連の報道も増えてきた。それについて普通に語ることが憚られるような人類史的な災厄を前にすると、僕のような無信心な人間もつい宗教のことを考えてしまう。おりしも都知事選を控えた石原都知事が、いみじくも「罰が当たった」と言って物議を醸したが、理解しがたい現実を目の当りにして、思わず人智を超えた存在に言及してしまうのはむしろ自然な感情だと思う。
▼下の子がまだ小さかったから十年も前になるだろうか、牧師をしているいとこのにいちゃんと飲んだ時にたずねてみたことがある。「キリスト教の神様って具体的にはどんな風に想像したらいいんですかね?仏教の仏様やイスラム教のアッラーと違ってキリスト教の神様ってのはこういうものだってのはないんですか?信者にはどう差別化してるんです?そりゃ立派な聖職者なら偶像崇拝ってことになるかもしれないけど、下々の人の信仰心に大切なのはやっぱり具体的なイメージですよ。僕は「イワシの頭も信心から」ってのが信仰の基本だと思う…」
▼そのときにいちゃんがどう答えたかはもう忘れてしまったが、焼鳥屋とバーをはしごして、うちに帰ってからもさらにワインをあける僕に「おまえにはつきあいきれん」とにいちゃんに言わしめたのだから、信仰心のない僕も求道心だけはあるんだろう。引っ越してまた疎遠になってしまったけれど、首都圏に住むにいちゃんに震災についてたずねてみたい気もする。
▼大好きな作家川上弘美さんに「神様」という珠玉の名品がある。震災の後、川上さんは「神様2011」という作品を出した。あの日を境に「神様」も変わったのだ。一年前も同じようなことを書いたが、当事者でない僕が被災した人の気持ちや放射能に怯える生活を想像するには、こういう黙示録的な理解しかアプローチのしようがないと思う。
▼強烈な薫りの塊を飲んでいるようなラフロイグの杯をかたむけるも今夜は酒がうまくない。

土曜は餃子*2クール

日曜は鶏のステーキ

月曜はマカロニグラタンにスキヤキ丼
そして神様の最新ネイル