欧米か

先週来北の方からやってきた冬将軍が日本列島に居座って動こうとしない。よっぽど居心地がいいんだね。そりゃあ将軍の本拠地であるロ〇アや中〇や北〇鮮なんかに比べれば日本は天国だろう。ついつい長居したくもなるってもんだ。
▼日曜に一息入れると、ちらほら白いものが舞う厳寒の中、年末までの最終クールが始まった。あと少しの辛抱だ。月曜は目が回るほどの忙しさの中をなんとか逃げ切って早めの帰宅。野球部の下の子はもううちにいる。冬場は寒いし暗くなるのも早いので、あまり練習しないらしい。僕らの頃もそんなだったっけ。野球部といえばムダに練習時間が長いので有名だったけどな。
▼先日パチンコで25万勝ったという鳶が、大勝したときは洗濯機やら掃除機やら必ず残るものを買うようにしているという話をきいた翌日、業界団体の忘年会で、最近パチンコで19万勝ったという人がドライバーのニューモデルを買ったと自慢していた。わずかばかりだがボーナスが出た僕も、彼らの話に影響されて今年は何か残るものが欲しくなり、帰りに中古CDショップに寄ってみた。
▼お目当ては日曜に観た映画の挿入歌、エラ・フィッチジェラルドの「ライクサムワンインラブ」。生憎見つからなかったが、代わりに学生時代の記憶が蘇った。エラは言わずとしれたジャズボーカルの大御所だが、僕にエラのことを教えてくれたのは近所に住む外国人だった。上京一年目、人見知りの僕が地元高校出身者以外でまともに口をきいたのは、銭湯で知り合った彼くらいだったかもしれない。
▼銭湯の横にあるコインランドリー待ちの間に意気投合した僕らは、目鼻の距離にある互いの下宿を訪ねあった。ニュージーランドからやってきて日本で英会話講師をしているという彼は、三畳一間の僕の下宿と大差ない安宿に住んでいた。彼の住まいに行くと「本職は陶芸家なんだ」と言って、自分の作品の写真を見せてくれた。彼が僕の下宿に遊びに来た時、BGMにかけたブルーススプリングスティーンにいい反応を示さなかったので、誰が好きかきくとエラだと言った。
▼けれどもそんな僕らの関係もあまり長くは続かなかった。僕は英語がからっきしだったし、彼も日本語ができなかったので、意志の疎通を図るのがめんどくさくなってしまったのだ。しばらく疎遠になってまた偶然同じ銭湯で再会した時、彼は失恋して金髪に染めた僕を見て「ベリースマート!」と言ったので、僕らは6年間同じところに住んでいたことになる。それからまた少しつきあいが復活したが、相変わらず彼は日本語ができなかった。
▼彼とは在京の1年目と6年目にそれぞれ少しずつ交流があったわけだが、彼に教わったことは多い。朝はいつもびっくりするほど大きなカップになみなみと注がれたカフェオレを飲んでいた。僕がファッションモデルが好きだと言うと、「モデルなんて高慢チキなだけでたいした女じゃない」と言ったり、シンクロや新体操が好きだと言うと、「それはオリンピックのために作られた競技で本来のスポーツとは違う」と言ったりした。目が覚めるような気がした。
▼僕が「ソーロンリー」と言うと、「オマエはあったかいハートの持ち主だ」と言って抱きしめてくれた。それでいてあまり頻繁に訪れるとうっとうしそうだった。いっしょにお酒を飲んだ記憶もない。アルコールもタバコもやらなかったと思う。もしかするとベジタリアンで、あのカフェオレもミルクティーだったかもしれない。6年も日本にいながら、まるで日本語を覚える気がなかった。「日本人はみんな英語でコミュニケートしようとするから困らない」と言っていた。
▼一見欧米的な文化と個人主義を体言しているように見えた彼だが、プラザ合意後の日本経済の絶頂期に、仕事に行く時だけはスーツで決めてあとはヒッピーやバックパッカーのような暮らしぶりの英会話講師は多かったかもしれない。「日本で暮らすのはたいへんだ」とよくこぼしていたが、稼ぐにはいいところだったはずだ。その意味ではフィリピンや中国からの出稼ぎや数多のゴビンダさんたちと変わらないだろう。ただ彼らに対しては日本人はあまり親切ではないので、彼らは一生懸命に日本語を覚えようとし、あっという間にマスターする。

月曜はサーモンのレアとソテーがかぶってしまった。

火曜はすきやき。そして週末はもう投票日だ。
「選挙なんか行ったって何も変わりゃしない」と僕が言うと、わざと怒ったふりをして大袈裟にティッシュやトイレットペーパーを僕に向かって投げつけながら「そんな風に考えるもんじゃない」と言ったのも彼だった。クールなようで、そういうところだけはしっかり民主主義が身についているところもお約束だった。