人生のスタイル

今週はかなり暑かった。熱戦が続くオリンピックも甲子園も終わらないうちに、観てる方だけ楽してんじゃねーよ!てことかな。真夏日くらいなら全然平気だが、猛暑日はかなりこたえる。クーラーのききも悪い。
▼約2週間ぶりに実家から妻が戻ってきた。妻の帰省のサイクルは、木、金の夜にヨガ教室のコマを持っているので、土曜に帰省して1週だけ講師仲間に代行を頼み、翌々週の木曜に戻ってくるというもの。帰ってきたその晩と次の晩はさっそくヨガ教室で一人ごはんだから実質2週間の不在である。次の帰省はお彼岸、その次はもう一周忌だ。早いものだ。
▼帰ってきた妻がまずすることは2週間分の大掃除。男3人の合宿生活は洗濯こそするものの、食器洗いは最小限。掃除機は一度もかけない。布団も一度もあげない。これを僕と下の子で半分ずつ。上の子は見事に何もしない。ものぐさもここまでくると呆れて何も言えねえ。この大掃除の最中に子供たちが次々帰ってきてヤイヤイ言うので邪魔らしい。ナリだけは大きくなっても行動パターンは夏休みにママにカルピスをせがむ小さな子供といっしょだ。
▼17日は5日ぶりに霧ヶ峰の合宿から帰ってきた下の子と待望のオフ。ハードな練習に疲れきったのか物も言わない。もともと口は重い方だ。性格は明るいが言葉が遅れている感じ。LINEもワンフレーズ、全てひらがなである。今回の合宿は上位の練習についていけたらしく機嫌はいい。彼はこのところ、自分のタイムと進路を天秤にかけてずっと悩んでいる。頭の回転は悪いが、正しく生きている。
▼盆休みが終わった上の子は遊び癖がついたのかすっかりやる気をなくしている。仕事が嫌でたまらないようだ。もうやめたいらしい。無理もない。まだ20才。遊びたい盛りだ。毎日22時の土曜祝日なしではキツイ。勉強しなかった報いではない。勉強したって地方公務員女子のようなキャリアは寝る暇もない。イマドキ定時で上がれるなんて日雇いかコンビニバイトくらいのものだろう。
▼彼の一番ダメなところは僕に似て勤勉でないことだ。性格も地頭もいいのに根っからのナマケモノだ。要領よく楽に生きることしか頭にない。こないだ五輪を見てたら「卓球の監督がいい」と言い出した。「点が入ったらガッツポーズして立ち上がるだけでいい」だって。世の中に楽な仕事なんてない。勤勉でない人にとって人生は苦役でしかないだろう。彼自身がそのことに気づくしかない。下の子が無意識にやっているように、自分自身と真剣に向き合わないと。
▼オフは温泉に行くかデイキャンプに行くかいろいろ迷った末、午前中水虫の診療、午後ブログの更新、その後は文藝春秋を読みながらダラダラ昼酒。

翌18日は仕事帰りに映画館に寄る。ジャ・ジャンクー監督の「山河ノスタルジア

おもしろかった。
▼映画には1999年、2014年、2025年の三つの時代がこの順番通りに描かれている。1999年が2014年の現在から15年前を振り返って懐かしむような形で描かれているわけではないし、2025年も「ブレードランナー」や「トータルリコール」のようなSF近未来風に描かれてはいない。だが僕が彼女にフラれてからのこの26年の時間感覚も、映画に描かれている四半世紀の時の流れ方に近いものだ。つまりはそんなに時間がたったような気がしない。
▼ヒロインのタオは炭鉱で働くリャンズーと、実業家として成功したジンシェンの二人の幼なじみに想いを寄せられている。舞台は山西省汾陽。郷愁を誘うタイトルを思わせるような景色はどこにも出てこない。赤茶けた道は1999年時点でも舗装されておらず、三人あるいは二人でよく訪れる河には氷なのかアブクなのか判然としないものが流れている。どんよりと汚れた空を背景に中国風の尖塔が聳える殺風景な故郷。
▼この映画は1999、2014、2025の三つの時代、すなわち過去、現在、未来を描いて、流れゆく時間と共に変化する風景、人の心を描いているわけではない。広い中国では、四半世紀の時間の隔たりより、同時代に広がる生活格差の方がずっと大きい。同じひとつの時代に、自転車の炭鉱夫からスポーツカーの投資家までが同居している。あるものは今も文革以前の生活を余儀なくされ、あるものは既に2025年の生活を手に入れている。
▼その中で人間の寄って立つ処となる故郷とは何かを、ヒロインのタオが体現している。彼女が固執するのは故郷の山河ではない。それはノスタルジーにすぎない。人のアイデンティティを形成する心の拠り所とは、結局のところタオが頑なに変えようとしなかった「生活態度(ルーティン)」のようなものかもしれない。その様式が確立しているように見える人を僕は尊敬する。

木曜久しぶりの妻の手料理(作り置き)は鮭とサラダ。

金曜も同じく作り置きのサラダと豚とポテトの炒めもの。妻は自分のスタイルを貫いている。

土曜久しぶりのデートは少し高級な回転寿司。