2011-12-04
風土と現象
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これまで僕が書いてきた中で「現象」についていくつか触れてきた。しかし、それがどういうものかについて具体的に論じたことはない。正直言ってどうまとめたらいいか分からないからという単純な理由なんだけど。今回、その中でも自分で理解した部分だけここに書こうと思う。徐々に理解を積み上げていくことは、このブログを書いている目的でもあるから。
という訳で具体的な話をすると、和辻哲郎の「風土-人間学的考察-」の一部分を読んだ。和辻哲郎という人については僕もまだ詳しいことについては知らないので言及は避けるが、哲学者でありハイデガーに代表される西洋哲学を日本に持ち込んだ第一人者だと言う。(恥ずかしながらハイデガーについては未読)またこの本は1929年に書かれたもので、以来何度か書き直されてきたものだ。
前置きが長くなったが、この本の第一章に「風土の現象」という項目が立てられている。今まで僕が行った設計の中で、風土と現象をテーマに挙げた経験があったので反応しない訳にはいかない。
まず第一に立てられた問いはこんなものだった。
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我々が寒さを感ずる、という事は、何人にも明白な疑いのない事実である。ところでその寒さとは何であろうか。
「風土」10ページ5行目より抜粋
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風土の現象の具体例として、明白な気候の現象である「寒さ」を挙げている。ここから論は展開していく。「寒さ」と「我々」、果たしてこれらはそれぞれで存立しているか。もし存立しているのであれば、その根拠はどこにあるか。その答えは「ない」だ。「寒さ」と「我々」、それぞれがあって「我々は寒さを感じる」という関係は成立する。そして、その関係性があるからこそ、我々は我々の存在を了解することができる。
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我々は寒さを感ずる。すなわち寒さのうちへ出ている。だから寒さを感ずるということにおいて我々は寒さ自身のうちに自己を見出すのである。
「風土」12ページ12行目より抜粋
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ここで、論は「我々」という部分について深く言及される。
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我々は寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い表わす言葉を日常の挨拶に用い得るのである。(中略)寒気というごとき「もの」の中に出るよりも先に、すでに他の我れの中にでるということにおいてそんしていうる。これは志向的関係でなくして「間柄」である。だから寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである
「風土」13ページ6行目より抜粋
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「我々」と「寒さ」の関係において我々は自己を見出すように、「我」という個もまた「我々」という共同体の中でこそ、我を見出す。と同時に「寒さ」は我々がいないと発生しない。つまり自己存在の根拠は、「我々」という共同体にあり、「我々」の存在の根拠もまた、我にある。そして我々は風土の現象と対応して、それぞれの様々な技術や文化を育んできた。時間を認識することも、風土がなくては始まらない。日本でいえば桜が咲き、新緑が芽を出し、それが紅葉し、落葉するということがあるからこそ、時間の存在を確認する。したがってここ第一章で述べられたことというのは、「風土」の違いは人間社会の営みにおける根本構造の違いであるということだ。その後の章では、その風土の類型をモンスーン・砂漠・牧場に分けて、違いの詳細についてまとめられている。要約をすればモンスーンには四季があり、砂漠は特殊であり主にアフリカ文化を作りだし、日本では価値の無い草原はヨーロッパでは家畜を飼うために積極的に造成され、ヨーロッパの風土の特徴であると語られれている、といったところであろうか。序言で、内容が左翼思想であると述べられていたのだが、原因はその後の第三章「モンスーン的風土の特殊形態」であることは大方予想がつく。つまり先に記した三つの類型からモンスーン、ないしは日本における風土とさまざまな手段の事例を取りだし、どれだけその風土と手段が特殊であるのかを語るところにある。がしかし、そこまで読みこめていないのでなんとも言えない。
とはいえ、おそらく第一章の内容を細かく理解したいのであれば、ハイデガーが必須であろう。全体的に理解していないので推測だらけになってしまったが、ひとまずまとめを終えたいと思う。続きはまたハイデガーを読んでからにしようと思う。
複製技術時代の芸術作品、そして空間
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多木浩二さんが書かれたベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読の前篇部分を読み終える。注釈になるが、この本の前半では多木浩二の解釈が書いてありであり、後篇ではベンヤミンが書いた当時の論文が掲載されている。
建築が映画や写真と肩を並べたとき、固有のものとは何だろうか。例えば、人間は世界遺産や観光地に足を運ぶ。その時に必ず自分の身体ごとその場所へ持っていく。それは映画や写真とは違った空間固有の知覚があり、それを経験したいからに他ならない。映画と建築空間の違いについては「空間としての建築」において1948年にブルーノ・ゼーヴィが触れている。
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シネマは、空間の観察にたいして数多くのアプローチの方法を提供するが、しかし、無限の途によってのみ初めて理解され得るのである。しかしさらに長椅子に腰を下ろして映画を見ることは、たしかに一つのやり方だとしても、生きること、そして行為することは全く別のことである。(一部省略)映画的再現においてさえ、完全なる参加という感覚、すなわちわれわれが空間の肉体的体験として経験する、あの積極的意欲と自由なる解放感を欠いている。
「空間としての建築(上)」68ページ4行目より抜粋
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ここには、身体がいまここに在るということ、それによって経験を自由に、また能動的に得られるということ、それが映画との決定的な違いであると述べられている。こうした意味において、映画と建築空間の違いは明確化される。
がしかし、これらはすでにベンヤミンによって語られていた。それが1936年に書かれた「複製技術時代の芸術作品」である。この本の優れたところは複製技術時代の芸術作品として写真・映画・建築の違いを的確に述べ、またこれらの芸術の行く末を予見しているところにあると僕は思う。そして、写真・映画・建築の見方として重要な知覚は3つある。一つは視覚、二つ目は聴覚、そして三つ目に触覚を挙げている。主に写真は視覚的なものであり、映画は視覚的かつ聴覚的なものを対象とした芸術である。そして建築は触覚的なものであると述べられている。しかし、ここでの触覚とは一般的に意味することと少し異なる。
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こうした建築経験の全体が、いわば触覚的というべき受容を形成している。触覚的重要とは手で撫でるとか、指先で接する場合の知覚をいうのではない。すでに述べたことであるが、時間をかけ、思考にも媒介され、多次元化した経験に伴う知覚を「触覚的」と呼ぶのである。
「複製技術時代の芸術作品」精読122ページ9行目より抜粋
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写真や映画には独自の知覚がある。それには何か対面することによって生じる緊迫感がある。しかし人が建築を知覚するとき何かと対面するものではない。むしろ当たり前のように人はその中で活動し、それを意識せずに知覚しているのである。それを触覚的受容であるとベンヤミンは述べているのだろう。
現代では建築を語る際、当たり前のように「空間」という言葉が用いられている。しかしながら、語られている「空間」はそれぞれの建築家の間で共有されているのだろうか。少なくとも僕自身は今まで「空間」についての具体を知らずに口にしてきた。だからこそ、今回この本を読んで、その具体の一端を明確化できたのは大きい。
やはり歴史上で語られている言葉から学ぶものは多くある。そう実感した。