第3回日本グランプリ

プリンスチームに秘策あり

R380のテストも順調に進んで、1966年5月、第3回日本グランプリを迎えます。このときの観客層動員数は10万人、予選の2日に降った雨のために、道路整備が不完全であったこともあり、サーキットまでの渋滞はすさまじいものでした。日本グランプリの名誉総裁であった高松宮さまも開会式に間に合うよう途中から3kmの距離歩いたとのことです。(参考、林信次著『富士スピードウエイ最初の40年』)
では実際、レースに出場するドライバーはどうやってサーキットに入ったのでしょうか。
「渋滞して時間通りには入れないことは分かっていたから、前の夜にサーキットに入るんだ。眠れなくて、苦労した人もいたみたいだけど、俺はよく眠れるねえって感心された」
プリンスR380が出場するグランプリ(レース専用スポーツカー)クラスにはまたもやポルシェがエントリーしました。今度は滝進太郎のポルシェカレラ6です。


しかい今回、プリンスチームには、R380だけではなく、ピットワークにも秘策がありました。
360kmの走行距離の中で、R380にとって給油が必要でピットストップを余儀なくされます。そこで、「重力式スピード給油装置」と呼ばれている、ガソリンを高いところから給油できるようにする装置の開発したのです。
この装置を考え出したのは、当時設計部にいた柿島道雄氏でした。
柿島氏:「毎年レースが終わると、次の年のレースカーの設計に取り掛かりました。設計部の仕事は5月、6月、7月が大忙しで、試作部は秋が戦争でした。冬にはテスト走行が始まりますから、設計変更があって、設計部も忙しい。3月4月には、ドライバーの練習走行が始まりましたのでレース部隊として借り出されていました。
その時に、チームの動きを見ていて、一周当たり2L使うとしたら、ゴールまであと20L必要と計算して、その分だけ上から給油すればいいと思いついたものでした。プリンスはいい会社で、私のような若い社員が書いた図面でも、持って行くと試作品を作ってくれたのです。
車の走りで1秒縮めるという事は大変なことですから、これでピットインの時間が短縮できると聞いて、レース監督の青地さんも非常に喜んでくれました。この作戦はトップシークレットでした。サーキットで練習すると、他のチームにばれてしまいますから、給油の練習は荻窪工場内ででこっそり行いました」


砂子義一もこの給油方式知ったのは、日本グランプリ決勝当日のドライバーズミーティングの時だったようです。
当時、ドライバーへは給油などのピットワークが終わると、ポンポンと車体をたたいてピットから再スタートの合図にしていました。

チームとしての戦い

雨の中で行われた予選結果は、1位が日産フェアレディの北野元、2位がトヨタ2000GTの田村三夫、3位がプリンスR380の砂子義一でした。悪天候のためR380はタイムを出すことよりもプラクティスを重ねる時間に切り替えたようです。

「スタートで決まるなと思った。だから、1周目でトップをとらなくちゃダメだとチームからも言われたんだ。スタート直後、第一コーナーでは1台抜かして2位だったから、2週目の横山コーナーで無理してトップに出たんだ。
 何で横山コーナーっかっていうのは、練習走行のときに横ちゃん(プリンスチームの横山達)が乗った車のアクセルが第一コーナーで戻らなくなっちゃって、土手に登っちゃって大騒ぎしたことがあったんだ。それで横山コーナーって名前がついちゃったんだ。
 プリンスは、レースでは一番早い車をチームメイトが援護するというチーム内のルールが出来上がっていたから、まずは、一番前に出るしかないと思った。それまで4輪に転向してから一度も優勝をしたことはなかったから、このときばかりは絶対優勝したかった」

2周目で、プリンスの砂子と生沢の1−2、3位にポルシェの滝進太郎の順位で6周まで続きます。6周目にはポルシェの滝が生沢を抜き、とうとう24周目、砂子もストレートで280km/hの速さで抜かれます。
32周、滝は給油のためピットに入りますが、ピットアウトするまで55秒がかかりました。その間に、プリンスの砂子、生沢に抜かれ、順位を3位に落とします。
生沢は、プリンスのチームでの戦いに貢献しようとポルシェの行く手を阻み、砂子の赤いR380はトップ周回を重ねて行きます。
36周目、砂子のピットストップ。「重力式スピード給油装置」を使用したチーム力で、わずか15秒の速さでピットアウト。1位の順位を守ります。

結局、ポルシェの滝は41周目、最終コーナーのガードレールにぶつかり、リタイア。滝を押さえにまわっていた生沢も、オーバーヒートで45周目でリタイアしました。

「ポルシェがリタイアした時に、チームが「×」というサインボードを出してくれた。それで、自分が優勝できると確信したんだ。もう、夢心地でステアリングを握っていたよ」
2位もプリンスの大石秀夫でしたが、周回遅れでした。3位はトヨタ2000GTの細谷四方洋でした。

 砂子はマシンに無理をさせず、スムーズにそのままゴールに向かい、2時間9分58秒のタイムで総合優勝。表彰台の真ん中で満面の笑みを浮かべます。
このときの優勝賞金は、150万円。1966年当時の大卒初任給は2万8千円程でしたので、現在の価値に換算すると1千万円を超える高額な物でした。

 グランプリが終わった後チームをあげて箱根で祝ったそうです。

こちらで第3回日本グランプリの画像が見られます。↓

http://jp.youtube.com/watch?v=zg4-HiAK3dI

※この記事は、砂子義一氏のインタビューを元に再構成しております。