日本のモータースポーツ黎明期物語 砂子義一伝説

2008-10-23 1967年のヨーロッパ視察

R380最終モデル

1964年プリンス自動車のレーサーとしてのキャリアをスタートした砂子義一。

ヤマハエンジニア達は、大学出なんてことを鼻にかけない、いい人たちで大好きだった。プリンスの人たちも似た気質があって、人間味あふれる会社だったよ」

1966年プリンス自動車の悲願であった日本グランプリでの優勝を成し遂げます。

しかし、そのグランプリはプリンス自動車として最後のグランプリでした。

日産自動車

1966年8月にプリンス自動車工業は日産自動車合併します(合併をもってプリンス自動車工業は解散し、スカイラインやグロリアなどプリンス系の自動車開発は事業部としてそのまま残りました)。

プリンスの名前は完全に消されず、販売会社のプリンス自動車販売に日産プリンス自動車販売として残ります。

プリンス自動車レーシングチームは、日産自動車レーシングチームとなり、砂子義一もその一員になります。R380はニッサンR380と名を変えグランプリに出場します。

日産への移籍は全然心配していなかった。もともと(日産自動車レーシングドライバーの)高橋国光北野元らとは、ともに二輪レーサー時代から知り合いだった。レースが終われば友達だったから」チームメイトにはなじみましたが、プリンスと日産の組織としての違いは感じざるを得なかったようです。

1967年の日本グランプリ

第4回日本グランプリは、昨年までプリンスに在籍していた生沢徹ヨーロッパへ渡り、今度は滝レーシングチームのポルシェカレラ6で日産R380と戦ったレースとして語られています。

ニッサンチームは昨年日本グランプリで優勝したR380を改良型のR380?、4台エントリーしました。

エントリー名はそれぞれ、ドライバーの個人名となっています。

水色の9号車は北野元、赤の10号車が高橋国光、紺の11号車が大石秀夫、クリーム色の12号車が砂子義一です。

4台の日産チームはもちろん生沢に絶対勝つつもりで臨んでいます。しかし、レース序盤、まず、大石がスピン、そして、ローラT 70の安田銀治のスピンにまきこまれた砂子と北野が遅れてしまいます。そして18週目には生沢にピタリとついて2位で走行していた高橋が、

これも生沢のスピンにまきこまれ、6位に後退してしまいます。

砂子は、序盤のスピンから立ち直った後、徐々に順位を上げ、49周目で高橋に抜かれる前の46周から48周は2位を走行していました。

結果は生沢がそのまま逃げ切り優勝。2位が高橋国光、砂子は3位でした。

砂子の今回のレースは苦しいものだったようです。

 《砂子はレース前、「とにかく不調だ」と語っていた。「練習中2度もガードレールにぶつかってマシンをバラバラにしてしまうし、マシンの調子をようやくつかめたかと思うと雨に降られるし、とにかくうまく練習ができなかった。もう、こうなったら本番に懸けるよりしょうがない」と話していたが、(引用者注安田のスピンにまきこまれて)それは早くも挫折してしまったようだ。》(「日本の名レース100戦」009号 P53-54より)

ヨーロッパ視察

1967年10月7日茨城県谷田部の高速自動車試験場にて、横山達氏の運転するR380によって、7つの国際スピード記録が塗り替えられました。

そのころ、砂子はヨーロッパへ、R380での出場を前提にしたル・マンへの視察とヨーロッパでのツーリングカーレースを視野に入れた視察のため45日間滞在します。これは元プリンスの青地康雄氏の提案によるものでした。

R380で走ることは叶わず、スカイライン2000GTで実際にル・マンサルテサーキットニュルブルクリンクを走っています。

同じ時期、生沢徹も同じヨーロッパイギリスで単身F3への挑戦をしていました。

1967年の「オートスポーツ」に連載されていた生沢徹の日記「日本人ドライバーただいま奮戦中 激戦ブランズハッチ」には、このような記述があります。

《10月26日(木) 夜、家でぼんやりしているとベルが鳴った。いまごろダメだろうと思って応対に出ると、なんと、砂子さんだった。今夜はザコ寝だがぼくのアパートに泊まってもらうことにする》(「オートスポーツ」1967年12月号) 

第2回日本グランプリから砂子と生沢の間には微妙なものがあると思われていただけに、この記事は意外な感じがします。

実際、この時、日産ヨーロッパ視察チームは、ブランズハッチでの調査でイギリス入りしていました。

この件について砂子義一は、

「俺からは電話はしていないよ。日産の視察チームがイギリスに入っていて、生沢から青地さんに連絡があって、一緒に食事をしたんだ。生沢は日本食が恋しいらしくて、青地さんが日本食の店に連れて行ってあげたんだよ。俺は、『バカヤロー、イギリスに住んでるんだったら、向こうのメシに慣れろ』って言ってやったけど」

と、振り返ります。

ル・マンに出場すればスターティングマネーも用意できると主催者側から具体的な話しになっていて、エールフランスからも支援を受けられる話まで出ていたんだ」

しかしこの時期のル・マンへの出場は、日産自動車の判断によって、見送られます。

もし実現すれば、砂子義一が日本人最初のル・マン24時間レースを走った最初のドライバーとなったはずでした。


※砂子義一氏のインタビューを元に構成しています。