2011-11-20
OpenIDEOってご存知?
みなさんはOpenIDEOってご存知でしょうか?
簡単に言うと、出された課題に対してアイデアを競い合うコンペが同時並行でいくつか行われているウェブサイトなのですが、独特なのはSNSでもあること。
たとえば現在、OpenIDEOで募集している都市系の案件名を見てみると、「How might we restore vibrancy in cities and regions facing economic decline?(経済的停滞の直面した都市・地域の活性化はどのようにすればいいのか?)」とあります。
タイトルだけだとかなり抽象的で、止めどなくアイデアが発散しそうなので要項を見てみると「都市の人口減少」「雇用状況の悪化」「社会活動・市民活動の減衰」のようなありきたりな単語が羅列されているばかり。
建築コンペの課題がこれだと相当ヤバそう(建築学科の諸氏はお分かりの通り)で、このままで最終的に数案に絞って評価できるのかと思ってしまいそうですが、普通のコンペとOpenIDEOが異なるのは、アイデアを具体化していくために用意された4つのフェーズをオープンに参加者同士がやりとりしながら進めていくところ。
4つのフェーズの途中で参加者や閲覧者がアイデアに対してコメントをしながら発展させていくので、敢えてこのぐらいの抽象度の課題でアイデアを集めて徐々にカテゴリごと絞り込むのが、最終案のバリエーションができて良いようです。
ちなみに本案件は今のところ1つめの「inspiration(閃き)」のフェーズにあり、オンラインでブレストをしてる感じで、362案が提出されています。
これが「concepting(概念化)」に発展し、「applause(称賛)」で課題提出者からの評価が行われ、「evaluation(評価)」を経て「winning concepts(受賞案)」が決定します。案件によっては受賞案が「Realisation(実施)」されるものもあるようです。
なんだか楽しそうだな、なんて思いながら今日もOpenIDEOを眺めていたのですが、久々にゴールの決まっていないアウトプットをしたくなってきたので、良いパートナーもいる手前、参加してみようかと思っています。
さて、あなたもチャレンジしてみてはいかがでしょうか?
2011-05-22
ベスター:虎よ、虎よ!
読書 | |
人気にもかかわらず寡作だったベスターによる、超能力ものの古典的作品?
- 作者: アルフレッド・ベスター,寺田克也,中田耕治
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/02/22
- メディア: 文庫
- 購入: 18人 クリック: 181回
- この商品を含むブログ (175件) を見る
本作はいわゆる復讐譚だけに、敵の同定から報復までの展開を楽しむ作品なんだろう。
というのも、作品のキーになる設定であるジョウント(=すべての人が獲得しているテレポテーション能力)にしてもパイアにしても、その背景が取って付けたような説明しかされておらず、その展開を最大化するためのギミックとして配置されているからだ。
展開に比重を置いているだけに、その設定下での世界の描写(=考証)はすごく甘い。
たとえば犯罪の描写があったけれど、瞬間移動できるならもっといろんな制度や抜け穴が出てくるはず。ジョウントの発着台にしても、人間の空間認知と移動する座標の関係でもっと何か書けたんじゃないかと思えて仕方ない。
サイバーパンク以降の作品に慣らされた読み手には、ガジェットやその背景となるテクノロジーに対する描写の甘さが気になってしまうし、間違っても、テクノロジーの「移動の概念の消失した世界における、人間の意識の変容」なんかを取り扱った作品ではない。
そういうのを期待する人は別なSFを読みましょう。
2010-11-17
成果物しか講評できない教官たち
「この敷地にこんなものは建たない」「この形はいいね。でも開口がいまいちだな」(なぜそう感じたのか理由は言わない!)
先日の卒業設計中間講評会で先生方の「卒計指導」を見ていて強い疑問を持った。あんな「指導」しかできない人が設計を教えていてはまずいのではないか。
僕が疑問を持ったのは、設計途中の断片的な情報に裁定を下すようなスタイルで講評する教官が少なくなかったことだ。
設計が「条件の設定から流れの中で組み立てていく行為」であることはすべての設計課題をしたことのある人に了解いただけることと思うが、彼らの「指導」はその流れをぶった切ってちぎり取ったパーツを誉めたり貶したりしているだけに過ぎない。
目の前に用意されたものを見てただ「何を感じたか」を断定的に述べるのは教育的とは言いがたい。
それは「設計をしたことのある教育の素人」のコメントであって「設計の教育者」の指導ではない。
コンペの審査のような非教育的な状況なら話は別だが、今回はあくまで設計プロセスの講評会なんだ。
自分のアイデアの着地点を見つけていない学生たちに、一方的にアイデアの断片を押しつけるような物言いでは学生の思考力は育たない。
彼らがしているのは「どんな魚を釣り上げようか」と迷っている学生に「お前はメバルを釣ってこい、ここで竿をおろせ」と言っているようなものだ。
こんな「指導」をされていては次の設計で同じように迷うだけだろう。必要なのは「魚を釣ってやる」ことではない。
では、どんな指導が望ましいのか
それは「魚の釣り方」を教えることだ。
どこにどんな魚がいるかを教え、天気や潮の読み方、竿の硬軟のような釣り道具の性質を教えて釣りに出かけさせる。これが一人前の釣り師を育てる順当な方法だろう。
外的な条件や内的な嗜好によってつなげられた「流れ=ロジックのチェーン」に綻びがないかをレビューして、不味いところがあればチェーンのつなぎ方を教える(時として力業やレトリックを使いながら)。このような「教育的な」設計指導をすれば、敷地やプログラムのような条件がリセットされる次の設計でも対応できる。
しかし驚いたことに卒計の中間発表では初見の思いつきで「何を感じたか」を述べる程度のことしかできない先生方が多数おられた。(せめてもの救いは10人以上の講評者が巡回する形式だったことだろうか。この形式によって、多数の「指導」も自然に相対化されたことと思う。)
こんな人たちが設計プロセスの講評者、というより教育者としてふさわしいのだろうか。
学部の4年間のなかで、おそらく最も悩むであろう設計課題の指導に対して配慮を欠いていると言わざるを得ない。
機会を見つけて、先生方に談判してみたいと思う。
このような「指導」を続けていては、いつまでたっても本学科の教育によって「釣り名人」は育たないだろう。






どの曲も真摯に、完璧なテクニックで深い解釈で演奏します。
真の芸術家というのはこういう人だと私は思いますね。
「いやな顔をされた」という知人の方はギレリスの真髄を味わえなかった方なのでしょう、きっと。