買っちゃった。

The Danse Society "Heaven is waiting" 日本盤再発CD

後から「ぼくはじつは、このアルバムが好きだったのだな…」としみじみ思い出していた一枚。このところのニューウェーブ一挙再発の一環としてリリースされていたので、つい買ってしまった。オリジナル盤は1984年リリース。20年前の作である。

聴き直して、10代最後の夏の気分とかが思い出された。


ジャンルでいえば、ゴスに入るのだろうか。ジョイ・ディヴィジョンの影響下にあるポジティヴ・パンク・バンドである。安っぽいシーケンサーとシンセ、シャリシャリいうギター、切迫した、でもくぐもったヴォーカル。はっきりいって下手な演奏と唄。陰鬱で反抗的だけれど、その実、大したことをいっているわけではない歌詞。いわゆる「音楽性」という観点からみたら、とてもちゃちで、ひどく薄っぺらなものだろう。
それは、同時代のポストパンク・バンドであるニュー・オーダーやスミスなどと比べてもそうだと思う。


でも、ぼくはこうしたものを愛している。
相反する感情が、おのれの内で激しく衝突し、出口を求めてのたうち回るような表現。とても男の子な、真摯なんだけどあまりに不器用なやり方。ポストパンク特有のざらついた感触。
それがある限り、ぼくはこうしたものを愛している。
たぶんそれは、一生変わらないだろう。
「ポストパンク、ポストパンク、ポストパンク」と三回唱えただけで、目頭が熱くなってしまうほどだ。
その意味で、ぼくのある部分は、こういったもので出来ている。


このアルバムを聴きこんでいた当時のぼくは、全身で「男の子」だったわけだが、いまは「男の子」の部分を何らかの契機でふと、己のうちに見出したり、思い出すものに変化している。

そんなことを思いました。

ご批判をいただきました(オレ、あんたに何かした?)。


「批判」というよりも「嫌味」とか「罵声」に近いものですが。
http://www5.ocn.ne.jp/~juchi/Diary/2004/200403.htm

久しぶりに見た伊藤剛氏の日記。
相変わらず何とかの一つ覚えのような語り尽くされたようなオタク批判を繰り返し書いている。
彼はかなり長い間、オタク批判をしているのに、未だに独自の視点から批判することができないのだろうか。
それとも、「ボクはボクをバカにするようなオタクなんかよりもエライんだい!」と
主張したいだけか?
でも、彼のオタク批判って、全部彼のことに当てはまるんだよな。書いてて虚しくないのかね。


とくに虚しくなんないですね。
「批判」というのは、その対象に対して、批判する相手と一緒になって、真剣に前向きに考えましょう、というものだと考えています。だから虚しくならないし、その程度にはぼくは「オタク」を愛しているのでしょう。この場合「好き」というよりは「愛」といったほうが適当です。
この方のいわれるように、もしぼくの意見が、すべてぼくのことに当てはまるのであれば、それはそれで喜ばしいことなのではないですか。であれば、ぼくは同じ土俵で「オタク」について考えるという立場を自明なものとできるのだから。また「批判」をする場合には、常に「ひょっとしたらこれは、自分についてもいえることなのでは?」という自省がついて回るものだし、それのない「批判」は、それこそ空虚なものだと思っています。
しかし、彼は同時に、ぼくのことを(彼が考える)オタクとは認定していないようです。ぼくとしてはどちらでも構いませんが、となると、最後の一文は、単なる言い回しであって、まじめに意味を考える必要のないものかもしれません。

まあ一般に、相手に対して分析を試みた場合、結果として、本人の意思とは関係なく、相手とは別のレヴェルに立ってしまう、少なくともそう見えてしまうというリスクは常についてまわります。この方のぼくに対する批判も、同様の展開をたどっています。つまり、相手に対して何かをいうとき、無限後退的な「どっちがよりメタレヴェルに立てるかゲーム」にはまりこんでしまいがちなのです。でも、そういうのって疲れるばっかりでくだらないでしょ。止めましょうよ、そういうの。

実際、ぼくがしている「批判」(というよりは応援や苦言に近いんだけど)が、「何とかの一つ覚えのような語り尽くされたような」もので、「全部彼のことに当てはまる」ものであったとして、だからどうなの? 奇抜なアイディアであるとか、珍奇な考えに基づくものは、この際、必要ないんじゃないかな。
それに、このひとはなぜそれが不快なのでしょうか。それとも、彼はぼくのことを真剣に心配してくれているのでしょうか? 見ず知らずなのに。

*追記:

と学会で3軍程度の私

上の批判の主は、こういう人でしたね。ようは三下が吠えてみたってところかい。くだらない。