マンガをめぐる言説の世代間断絶……?


先日出た、「本とコンピュータ」での小特集『マンガはどこにある?』について、マンガをめぐる言説の世代間断絶についての問題提起というふうに読まれたフシがある。

本とコンピュータ』最新号の「特集 マンガはどこにある? マンガを語る地図を作ろう 夏目房之介さんに聞く」http://www.honco.jp/magazine/06_manga/index.htmlが話題に出て、マンガ評論家・研究者の世代の断絶についての話だったのだが、私はマンガ言説史に疎いうえ、まだそのインタビューを読んでいなかったので、さっぱり英語で説明できず要領を得ず。

id:AYSさんは、先週末の漫画史研究会で、フランス人ジャーナリスト氏にこの特集について説明することになったようだ。ぼくは所用で行けなかったのだけれど、行っていたら、まずぼくが矢面に立たされたと思う。ぼくにしても英語はかなり心許ないので、たぶん脳が焼き切れそうになるまで疲労困憊してしまったんじゃないかな。もー少しいろいろ余裕が出てきたら、NOVAにでも通おうかな……。

それはさておき、この小特集には、ぼくも書いている。ちゃんとここで告知してなかったけれど、『自律化するキャラクターたち』というタイトルで、1980年代後半に、マンガというジャンルには決定的な切断線が走っているという趣旨の小論だ。そこでは、86年6月の『ぼのぼの』の初回をもって、マンガにおけるポストモダンの起点としている。テクストから遊離するキャラの「自律化」を、マンガにおけるポストモダンの徴候とし、その起点を、『ぼのぼの』初回の四コマがまさにキャラがキャラとして成立するぎりぎりの要件のみで構成されていることに求めている。
そして、この「切断線」を乗り越えられなかったものとして、90年代に盛んになされた「マンガはつまらなくなった」言説群を批判的に検証している(詳しくは「本コ」を読んでください)。そこでは、たしかに先行する評論家の方々の名を具体的にあげている。呉智英村上知彦米沢嘉博のお三方を中心に、である。とはいえ、問題を世代的な問題に回収してしまってはいけない、とも書いている。


昨晩、宮本大人さん(やはり、同じ特集に書いている)から、id:AYSさんの日記の記述を教わり、あらためて「本とコンピュータ」の同特集をざっと読み返してみたのだが、確かにこれは特集全体として「世代間の断絶」をめぐる問題提起と読めてしまうな、と思った。しかし、それは本意ではない。少なくともぼくにとってはそうだし、他の書き手のひとも同様だと思う。なぜかというと、これを世代間の問題としてしまうことで、見えなくなってしまうことがあまりにも多くなるからだ。マンガをめぐる言説には、たしかに「断絶」は存在する。それは随所にある(たとえば、ウェブと紙媒体の間にも断絶はある)。また逆に、その「断絶」がなぜそこにあるかを考えることで見えてくるものもある。ゆえに、ここで考えられなければならないのは、なぜそれが、とりわけ「世代」の問題としてとらえられがちなのか? ということだと思う。
そういえば、東浩紀くんに対する批判にも、東はオタクの世代区分に事寄せている、というものがある。これもやはり、同じく徴候としてカウントされるべきではないだろうか。この場合は、東くんに対する批判者のほうが「世代」の区分を自明な前提としているという意味だ。たしかに「世代」で考えるのは楽だし、わかりやすい。しかし「世代」というものにもまた、実体があるわけではなく、やはりものの見方、ひとつのモデルにすぎない。つまりその考え方自体を疑い得る。にもかかわらず、それに実体があるように語られることは多く、そこから逃れることも難しい。

ぼくにしても、本人はなんとかそこにとらわれずにものをいおうとしているのだけれど、それでも、気を抜くと「世代」の枠にはまっていくことがある。

別に世代間抗争を仕掛けようとかなんとかは考えていないし(そんなことに何か利得があるとは思えない)、もっといえば「マンガを読む」ことの共同性という意味において、ぼくは比較的に「同世代感覚」が希薄である。世代感覚みたいなものはあるけれど、それはむしろ、ロックのほう、ポストパンク〜ニューウェーヴのほうに持っているし、それをマンガ評論の軸に置こうとは思っていない。


……ていうか、それ以前に、この「本コ」の特集ってどの程度読まれてるんだろう?