愛知の管理教育

東浩紀id:hazumaくんの母校がCLANNADのモデルになったとかで盛り上がっているが、ぼくがいま母校について話をするとなると、これが途端にヘヴィなものとなる。

悪名高い「愛知の管理教育」の影がちらつくからだ。
確かにひどい状況にあったのは一部の学校に限られるのだけれど、愛知県で高校生活を送った者にとっては、程度の差こそあれ、当事者席に座らされる話題だと思う。

県立東郷高校を頂点に、無意味な校則と教師による暴力行為が吹き荒れたことについては、知っているひとも多いと思う。詳細については、当時、果敢にも学校側に異議申し立てを行った内藤朝雄氏のテキストを読んでもらいたい(http://web.archive.org/web/20020105160847/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/newpage8.htm)のだが、この問題は、蛮行の直接的な被害者となった「一部の県立」の生徒には留まらない。そこが、ぼくにとってもこの話題がヘヴィである所以なのだ。


ぼくは名古屋市立向陽高等学校というところを卒業している。
何年か上のOBに石坂啓がいて、一年下には岡田有希子がいた。ぼくが通っていた当時(1982〜85)この高校は、「向陽パラダイス」とか「向陽温泉」とか揶揄されるほどのヌルい学校で(セカンドベストの進学校なんて、概してそんなものだと思うが)、恋愛ごっこと勉強以外、とりたててやることのないようなところだった。だからこそ、岡崎京子の『東京ガールズブラボー』に対して、「犬山のび太は私だ」と言い放てるほどの十代を送れたわけだ。つまり、自分の生活環境においては「愛知の管理教育」とはほぼ無縁でいることができた。
事実、入学時のオリエンテーションでは教師が「ウチは一部の県立校とは違いますから」といい、学期の節目になる式でも整列や行進は一切、行わないという学校だった(これも、一年の担任ほかの教師から「先生のなかに、嫌な気持ちになる人がいるから」という理由で説明された)。また卒業式でも、国旗は掲揚せず「君が代」もない。それだけでなく、在校期間中に校歌を唄う機会もなかったため、壁に大きく歌詞カードが貼られていたほどだった。当然、学校への帰属意識も薄く、泣く者などひとりもいない、無味乾燥な卒業式だった。

いまにして思えば、これらの徴候の少なくとも一部が、「愛知の管理教育」に対する反動形成だったことは推測できる。どこまで事実かは分からないが、当時、名古屋市教育委員会は愛知県教育委員会と仲が悪く、方針の対立があったという噂も聞いた。
また、東郷をはじめとする学校の「管理教育」が、1968年以降に新設された「新設校」て展開され、それ以前にすでにあった学校は「既設校」とされ、そこに対立図式が持ち込まれていたのも事実だ。ここに、ぼくが要らないヘヴィネスを抱える要因がある。


ようは、ぼくは「逃げた」のだ。
中三の夏、ものすごい勢いで受験勉強をし、成績をあげることで「新設校」へ行かされることを回避したのだ。
当時、名古屋市東部地域で成績中の上の生徒は、ともすれば天白高校や東郷、日進、という新設校にまわされるというリスクを背負っていた。それを回避するには、わざと公立を落ちて私学に行くか、「群」と呼ばれる市内の進学校を狙うかしかない。「群」というのは学校群制度に組み入れられていた学校の総称である。名古屋市内とその周辺においては「昔からある、いい学校」とほぼ同義で使われていた。

いまこのタイミングで「愛知の管理教育」について言及しているのは、ぼくが通っている鍼灸院の先生が同世代で、まさにその「新設校」に通っていたひとだったからだ。鍼を打たれながら、そういう話になったのである。

そこで「あんな学校だと知っていたら、行かなかった。名古屋市内の学校に行っていればあんな目には遭わなかったのに。群のヤツらなんか、本当にムカつくよね(笑)」
といわれた。

あ、あの……先生、ぼくその「群のヤツ」なんですけど……といったのだが、いかんせん、治療台に寝かされ、背中を針山にされている状況である。お互い大人なので安心はしていたけれど、それでも痛いツボとかにブスっと刺されたりやしないか、と思った(笑)。彼がこういったのは、まさに「上手いことやりやがって」というニュアンスだっただろう。
実際、ぼくは「上手いことやりやがった」のだ。
それにより、理不尽に教師に殴られることもなければ(彼は、一時限目から五時限目まで複数の教師に殴られ続けたことがあるそうだ)、自分の読む本を規制されることもなければ(たとえば『窓ぎわのトットちゃん』は禁書だったそうである)、いきなり教師が自宅のガサ入れに来るなんてこともなかったのである。


また、ぼくの高校には、東郷町や日進町(現・日進市)に自宅がありながら、地元の中学には行かず、住民票を操作するなどの手で名古屋市内の中学に越境通学していたひとが少なからずいた。なぜかというと、「愛知の管理教育」は、名古屋市を取り囲む郡部の学校でほぼ展開されており、地元(東郷町や日進町など)の中学では、地域の高校である東郷高校や日進高校の進学率を上げるため、成績のよい生徒を、とにかくこれらの高校へ送り込むということがされていたからだ。彼らは、それを回避するために、「越境通学」という裏ワザを使っていたのだ。

これが、80年代前半当時の名古屋市周辺の事情である。
そのころの中学生が得られる情報など、本当に限られたものだ。
先の鍼の先生のように、進学先の実状を知らないまま「近いから」という理由で進学することもあれば、ある程度は知っていても、他に選択肢がない(少なくとも「ない」と思いこむ)状況はふつうにあった。
また、ぼくにしても中三の一年間、あれほど必死に受験勉強をしたのは、ひとえに「殴られるのがイヤ」だったからだ。その情報をどこで得たのかは記憶にないが、朝日新聞の報道だったかもしれない。
いずれにせよ、「既設校/新設校」の図式にうまうまと乗っていたわけだ。「よい子にしていればいい目に会える」と信じ、大人の要求を先回りしていただけだ。なんのことはない、真の意味で「管理」されていたのはオレだ。
もちろん、嫌なことを努力で回避したという意味では、ことさらに責められるものでもないとは思う。だが、それでも、なんとなく後ろめたさを感じていたし、その感情をずっと否認し続けてきたように思う。事の重大さが違うため、こんな例えは許されないかもしれないが、どこか亡命ユダヤ人のようなところがあったのである。自分だけ助かった、という感覚だ。


その程度には、「愛知の管理教育」は、ぼくの人格形成に影を落としている。
90年代に入り、これらの教育現場での蛮行、犯罪行為はほとんどなくなったと聞いている(まだ若干は残留しているかもしれない)。理由もいろいろ聞いているが、卒業生が就職先で使い物にならない、というクレームがあったこと、進学先での留年率、中退率が高かったこと、そして、現場の教員たちが肉体的にも精神的にもきつくてやっていられない、という理由が大きかったという話だ。

いずれにせよ、「東郷方式」とよばれる方法は、単に失敗した。何の成果もあげられなかった。それは間違いないだろう。
だが、「愛知の管理教育」が教育の名のもとに行った犯罪については、何の責任も追及されていない。それについては、id:hesoが(id:heso:20040503)「語り続け、告発し、追跡する、このことだけが教育の名を騙る蛮行を滅ぼすのだと思う」と的確にいっている。その通りだと思う。
さらに、これらの野蛮な行為を、愛知県政が推進した、控えめにいっても容認したという事実は厳然として残る。その背後には、名古屋や愛知の地域性というか、風土のようなものも横たわっている。


それについて考えると、本当に陰鬱な気分になってくるので、その詳細について触れるのは止めておこう。ただ、あの土地から何か文化的なものが盛り上がってくるということは、たぶん、今後もないと思う。また、経済のソフト化に伴い、ゆるやかに日本国内での地位も下がっていくに違いない。あんな教育を容認しえたのだから、それも必然といっていい(地域で最大のシェアを持つ中日新聞は、あれらの蛮行を最後まで隠蔽し続けたという)。
そういえば、以前、友人とブランキー・ジェット・シティの話になり「なんで名古屋なんて土地から、こんな素晴らしいバンドが出てくるんだ?」と問われ、「クソったれた場所だからだろ」と答えたことがあった。われながら模範解答だったと思う。


<参考リンク>
・東郷ちゃんねる
 http://jbbs.shitaraba.com/school/983/
・同窓BBS 愛知県立東郷高等学校
 http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=chuubu&vi=1002189998

・しかしここでもエロゲオタの話題が……。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/school/983/1082730294/
80年代前半、東郷方式の暴風が吹き荒れるさなかでオタ趣味をやってた先輩はいました。大丈夫です。