岩月謙司教授VSくらたま



「育て直し」という「心理療法」で知られた香川大学岩月謙司教授が、猥褻容疑で逮捕された件を知り、少し関心を持っていたら、内田樹氏のブログでも触れられていた。
岩月教授が神経症という女性と「治療行為」として一緒に入浴したり、胸や下腹部を触ったりしたという事件だ。


http://blog.tatsuru.com/archives/000572.php


内田氏は、岩月氏のやってることや著書の内容についてかなり疑問を持っていたというか、はっきり警戒していたようだ。
内田氏の記述は、今回のように事件化したことと、岩月氏が従来から行ってきたことととは連続するものという解釈をしている。
内田氏の文章を一読しての印象は「岩月氏はうさんくさい」というものだ。
しかし、ことメンヘルに関わることの場合、判断は慎重にならないといけない。小学生言葉でいうと「いいもん」が実は「わるもん」であり、「わるもん」が実は「いいもん」であったという事が往々にしてありうるからだ。
そして、その判断は個別のクライエントによって変わったりもする。




なので、次に岩月謙司氏の公式サイトをみてみる。


……うーーん。これは、どうなんだろう。


http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/8029/


確かに、言われていることには一理あると思わせる部分もないではない。だが、著書の紹介をみて、「ただのマッチョ親父なのでは?」という気がした。
「治療者」の指命に、患者を現在の社会に適応させることが含まれる以上、現状の社会に対して保守的なものを孕むこと自体はいい。
むしろ、そうあってもらわないと困るくらいだ。
だけど、それは、患者の側が「自分がこうありたい」と思っている(顕在化はしていなくても、心のどこかで望んでいる)、よりよい形に近づけるものでなければならないだろう。その意味で、一面的な価値観には収束しない筈だ。


しかし、岩月氏の著書のタイトルをみていくと、
倉田真由美氏との共著である


「だめ恋愛脱出講座」(青春出版社岩月謙司倉田真由美共著


をはじめとして、


「男は女のどこを見るべきか」(ちくま新書
「結婚力」(マキノ出版


といった著書があがっている。
しかも、「結婚力」は、


> かわいげのある女性とかわいげのない女性の違いについて解説した


ものなんだそうだ。
「かわいげがある女性」は、よりよい結婚をする力があるってこと???


うーーむ。「かわいげがある」というのもまた微妙な表現だが、それは「魅力がある」とか「憎めない」とかではないの?


このへんにマッチョ親父の匂いがする。


もう大分、古い本なんだけれど、東北大学で絶食を利用した心理療法をやっている教授の本が、ひどく保守的というか、良妻賢母型の家庭ばかりが正しいという倫理観に貫かれていて、辟易したことがある。
それに近いんじゃないかと思った。


もっともぼくは、既成の倫理感がすべてダメといっているわけではなくて、そうした「常識」が信じられなくなったいまは、逆にもっと上位の「良識」を身につけることが重要だと考えているが、それは「嘘はつかない」「責任から逃げない」とか、「他人をことさらに傷つけない」とか、「他人に何かしてもらったら感謝の意を表する」とか、まあそんなレベルのものだと思っている。
こういうものまで否定したら、それこそどうしようもないですからね。


しかし、前々からくらたまの仕事には「?」という面がなきにしもあらずだったのだが、岩月教授との共著自体から激しく「だめんず・うぉーかー」臭がする。
ひょっとして、岩月教授が「だめんず」なんじゃないのか。


著書を見ていないし、公式サイトといってもファンが作っているものなので、彼の理論や方法はいまひとつ分からないのだが、岩月教授は、「だめんず・うぉーかー」的な心理を、「家庭内ストックホルム症候群」などの概念で整理し、その起源を女性の女親に求めている。
また女性がわざわざ「不幸になる」選択をしているということは指摘しているが、しかし、その起源を母親の「嫉妬=この子を私より幸せにしてなるものか」に求めている。
つまり、患者である女性は常に「被害者」の位置に置かれている。
かくして、患者の親以外の当事者は免責される。


さらに、どうも「育て直し」というのは、 優しく暖かく愛されてこなかった(と、本人が思っている)患者に、暖かく接し、愛されているという実感を反復させること……らしい。 二十代も後半になった患者に、ほ乳瓶でミルクを飲ませたりといったこともされているようだ。「赤ちゃんプレイ」などといわれるのは、その強烈なイメージに由来するものだろう。
いずれにせよ、子ども自体に満たされなかった(と、本人が考えている)欲求を「かなえてあげる」ことが基本にあるようだ。
だから、教授のもとに依存的な患者が集まってくるのは必然といえるだろう。


しかし、どうなんだろう。
教授は、彼が問題として対象としている女性たちの主体的な判断とか意思を軽くみているような気がする。
もっとも、それがはっきりさせられないのが「病」だということなんだろうけれど、前提としてそうした前向きな主体の存在自体を否定していないだろうか。
そこが、「マッチョなんじゃない? この親父」という疑念の根っこにあるんだけが、もっと強い言い方をすれば、その教授自身にも、女にすぐに手をあげるけど「優しいときはすごく優しいの〜」という男性と近いものは潜在していないんだろうか。
一方で男性優位の構造を温存したまま(女性の主体性をどこか軽視したところがありながら)、他方でどこまでも「優しく」接するというセットということだ。


月氏の意図は別にしても、関係性がそういう構造にはまりこむ危険はあるんじゃないか?




それは、まったく根拠なく言っているわけではない。
これは具体的な事例を見ているのだが、しかし、その当事者を傷つける可能性もあり、そのリスクをおかしてまで例示をする必要もないので引用・参照はしないが、岩月教授が行っているような「育て直し」に対する期待が膨らむだけ膨らんで、それを確実に受けられなければ自分は救われないという態度もクライエントの側に見て取れる。
たしかに、それだけ切羽詰まったものがあるということだろう。


反面、それを依存的なパーソナリティといえばそれまでなんだけど、
岩月教授自身にも、こういうタイプの女性を引きつける要素があったんじゃないか。


そしてもうひとつ、この「治療」が、どうやって切り上げられるものかが不明だというところも、どうしても懐疑的にならざるを得ない点である。もちろん、治療効果があった事例も多いだろうし、その「効果」までは否定しないが、治療の「方法」としてどうか? という話である。




そこにくらたまが絡んでいるというあたりも、少しイヤな感じがしたわけだ。
ぼくは、『だめんず・うぉーかー』のキモは、コンセプトと絶妙のバランス感にあると思っている。
まず、「ダメな男にばかり惚れる女」を描くというコンセプトはとてもいい。
みんな薄々知ってたけれど、表に出てこなかったものだから。
かといって、あまりに深く突っ込んでいったら、これはこれで深刻になりすぎ、ただの陰惨なマンガになって終わってしまう。
そこで、くらたまの持ち味が発揮される。
それが、悪くいえば適度な「ヌルさ」ってことだが、よくいえば絶妙のバランス感覚である。言い換えれば、対象である「ダメ男に惚れちゃう女性」との程よい距離感覚と、読者にとって入りやすい「透明な視点」を持ちうるということだ。
このへんにヒットの理由があるような気がする。


だから、そういう人が岩月教授との共著を出すというのは、決定的にまずい。
岩月教授の強い磁場に捕らわれてしまうからだ。
岩月教授の側も、その自覚があってしかるべきだと思った。
だが、「共著」という事実があるだけでも、くらたまの持ち味であるところのバランス感覚が、実は「バランス」でもなんでもないというように見えてしまう。
未読なまま評価を下すのは本来、してはならないことだが、本の中味で、よほど岩月教授の「論」や「実践」に対して批評的なことが行われていないかぎり、くらたまの分は悪いのではないか。
それって、倉田氏の商売としてもどうなんだ、いや、「私もやっぱり”だめんず”でした〜」ということに共感する層にはアピールするからいいのか。
などと考えてしまうのである。


ただ、白夜書房から出たくらたまとヨーコ会長がホストになった座談会本を献本いただいたので読んだのだけれど、本自体は面白かったのだが、くらたまってホントにつまんない人だなあというのが率直な感想だった。これだけ濃いゲスト(加藤鷹とか、ドクター中松とか)を呼んでいるのに、ありきたりのことしか言わないくらたま。きれいにまとめようとするくらたま


もっとも、あれはあれでヨーコ会長他の人々に食われていたとか、あるいはここは自分が前に出るんじゃなくて、全体をまとめなければという姿勢の現れだったかもしれないのだが。


というわけで、そんな倉田真由美と共著を出したということも、私の岩月教授への評価を厳しくしているのであります。