『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹

だからね、グラフ、僕らを作ったもの、僕らを今日あらしめたものは、「前史」なのだ。僕の「履歴書」は僕の祖父母にはじまり、僕の誕生とともにほとんど終わってしまうことになる。――『熊を放つ』ジョン・アーヴィング村上春樹

 わたしがここで書こうと思ったのは、自分の過去を思い出している一人の「私」である。わたしの過去は朝鮮につながるものだった。このことはすでに、他の幾つかの小説にも書いた。朝鮮と私の結びつきは、確かに日本人として幾分か特別のものであったろうと思う。
 しかしわたしはここで、何か特別な体験を書いたつもりはない。当の本人にとっては、どのような体験も、いわゆる特別な体験などというものではなく、あくまでも自分の体験に過ぎないのである。――『夢かたり』後記 後藤明生

 最近これらの本を読み*1ながら、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を思い出した。たしかあれには、満洲軍の話が出てきたはずだ。いや、それ以外の部分は全く思い出せない。しかし、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそういった話を書こうとしたのではないかと思ったのだ。他に挙げるならば、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』のような。あるいは、グレイス・ペイリーにあるユダヤ人としての背景のような。そして、村上春樹は失敗したように思う。なぜなら、『ねじまき鳥クロニクル』はあまり面白くなかったからだ。それは村上春樹の「私」と、他の「私」の体験の差なのか目の差なのか。世代の差なのか生まれた国の差なのか。
 実にとりとめもない。第一、こんな事を思いついたなら『ねじまき鳥クロニクル』を再読すべきだ。ぜんぜん的はずれかもしれない。けど構わない。自分の脳内でどう作者と作者、本と本が繋がろうが、それは俺の勝手だからだ。しかし、一瞬繋がったことをこうしてメモしておけば、将来の俺にとって何かになるかもしれない。何もならないような可能性が高い。