感傷と追憶の昭和史〜リアル大正野球娘に聞く〜

祖母いずこ

 感傷と追憶の湘南行き。そこで、またひとつ向き合わねばならない存在があった。鎌倉の家でともに暮らしていた父方の祖母である。一家離散ののち、彼女はアパートで独り暮らしをしている。独居老人である。週末には私のおじが泊まりに戻るが、生まれてはじめての独り暮らしをしているのだ。
 その祖母と会ったのは、離散後一回きりである。一度だけたずねたことがある。母と弟と一緒だった。何かの用事のついでだった。ちょっと顔を見せるという程度だった。別れ際はさみしそうだった。それっきりだった。それっきりなのは、ある種のわだかまりがあるというのも本心だし、たんに面倒くさいから、というのも本心だ。
 だが、今回、自転車でモノレールの下を走り、失われた我が家を訪れるのに、その通り道に住む祖母に会わないわけにはいかない。こんな機会がなければ、会うこともない。
 私は意を決して、細い路地に入った。入って、適当に進み、気づいたら「あ、これ、すみやへの道じゃん」となって、住宅街から飛び出てしまった。私は一回だけ訪れたアパートを覚えるほど、記憶力はよくないのだ。こういうとき、頼りになるのは、やはり家族だ。離ればなれになったとはいえ、血を分けた兄弟……。

 トゥルルルルル……ガチャ。
俺「あー、俺、俺、俺だけど、今、すみやの駐車場にいるんだけど、おばあちゃまがどこ住んでっか知ってる?」
弟「すみやっていつの時代よ? つーか、何銀河? ぜんぜん場所ちげえよ」
俺「いいから、アパートの名前とか教えろバカ」
弟「名前しらねー。でもナビしてやんよ。町屋の坂んところから入って、右、右、左だアホ」
俺「丁寧なナビありがとう、ファック、死ね」ガチャ、ツーツー。

 私はまた町屋から入り、迷い、知らない二軒のアパートの表札を見て周り、ようやく、ようやく私と同じ苗字の郵便受けを見つけたのだ。私は扉を叩き、呼び鈴を押した。反応がない。しかし、あまり外に出かけるようなことはないはずだ。私はもう一度呼び鈴を押す。遅れて、「はーい」と中から声がした。俺は、なぜか「あー、はい」と返事をした。祖母がドアを開ける。そこに立っていたのは、ユニクロのスポーツウェアに身を包んだ、サングラスの男、私だった。「あー、●●●(私)です、おひさしぶりです」。「まあ! めずらしい! どうぞお上がりになって!」。

祖母

 祖母のアパートは、かつての実家の祖母のいた母屋の匂いがする。おじもいた。父の双子の弟である。高校野球を観ていた。祖母も、高校野球を観ていた。二台のテレビ。一つは群馬か栃木かどこかの決勝。もう一つは、神奈川県大会、横浜対横浜隼人高校であった。回は終盤を迎え、横浜が6点差をつけられ、負けていた。横浜隼人の投手はかわいらしい童顔の投手で、笑顔をたやさない。
 祖母はコップに氷を入れ、お茶かジュースかと聞くので、私はお茶と答えた。ペットボトルの緑茶、ありがたい。アイスクリームはどうか、と言う。私はポタリングの途中であり、腹の調子などを考えてなんとなくことわったが、かまわずに皿に盛られた。思えば、祖母の母屋の冷蔵庫には、いつもレディーボーデンの茶色い、まるい蓋の箱がはいっていて、その濃厚なヴァニラの味を、ときどき楽しんだのだった。この日に味わったアイスも、あのレディーボーデンであった……というと話が通るが、とくにそういうわけでもなかった。そういうものだ。
 どんな会話から始まったのか忘れた。「さいきん、あなた自転車に凝っているのですってね」と言われたのだっけ。母は、この祖母とちょくちょく会っている。
 「わたし、何歳になったか知ってる?」と祖母。
 「うーん、さあ」と俺。
 「86になったの」と祖母。
 「とてもそうは見えない」と私。
 「よく言われるの」と祖母。
 86歳の人間が、これだけ……、なんというのだろう、明晰に話せるというイメージはない。というか、正直、小さなころから、この人は歳をとっていないように思える。

祖母と鶴岡一人

 祖母と野球の話になる。目の前で高校野球をやっているのだから当たり前だ。
 「わたしの歳で野球に詳しいのって珍しいのよ。なんでも知ってるんだから」と祖母。「あなた、鶴岡一人って知ってる?」。
 「えーと、‘ひとり’って書く人でしょ。現役はもちろん、監督としても、名前でしか知らないな……」と私。私の世代からすると、野村克也のさらに師匠筋という、伝説のはるかかなたの存在である。
 「あのね、●●さん(祖母の兄)が一高で、その先輩に、日本で最初に野球をはじめたって人がいたの。野球殿堂に最初に入った人。それで、その頃はプロ野球なんてなくて、六大学野球でしょう。毎年、年間指定席を買って、しょっちゅう見に行っていたの。ネット裏は、ネットが邪魔だからって、三塁側席だったから、すぐそこでプレーしていたの見たものよ」と祖母。
 「うわー、そりゃすげえっすね。今、鶴岡の現役時代を見たことある人なんて、日本中でも少ないんじゃないですか!」と私。
……

 なんだかんだいって祖母も歳だし、歳でなくても人間の記憶はあてにならない。私の二日前の記憶もあてにならない。ゆえに、いくらかネットで調べて補足したい。
 旧制一高の先輩、とは「wikipedia:青井鉞男]氏のことではないだろうか。最初に野球殿堂入りしたわけではないが、この人のことを指すと思われる。

 一高時代、横浜の外人居留地を尋ね、そこでドロップを体得した。「日本に敵なし」と言われた一高ベースボール部の主戦投手となった鉞男は、この外人居留地の外人アマチュアクラブチームに一高と試合するよう申し込むが、当時の日本人の体格は小さく技術も稚拙であるとして外人クラブは試合を拒否。それに挫けず当時の一高の英語教授・メーソンを通して試合を申し入れたことにより、1896年(明治29年)5月23日、横浜の外人居留地運動場で外人チーム(横浜外人クラブ)との国際試合(記録上では日本初)が実現する。この試合で鉞男は投手として活躍し29対4で大勝、これが記録上はじめて日本の野球チームが外国人チームに勝利した試合である。

 そして、wikipedia:鶴岡一人

旧制法政大学では1年からレギュラー、華麗な三塁守備は六大学史上最高と言われ、法政初の連覇に貢献するなど花形スター・主将として活躍。リーグ通算88試合出場、331打数99安打、打率.299、2本塁打、56打点。首位打者1回。

 なるほど、三塁側で見た、という記憶はたしかなようだ。うらやましい。

祖母と六大学野球

 昔……、それはもう戦前のことになるが、プロ野球がなく、また、その黎明期においては、六大学野球こそが野球の主役であったという。それは、いろいろの本を通じて私も知っている。澁澤龍彦もそんなことを書いていなかっただろうか。ともかく、祖母は六大学野球のファンだった。
 「早稲田は応援っていうと、『都の西北』を歌うでしょ。で、慶応は『若き血』でしょ。若き血に燃える者〜♪ ってわたし覚えちゃったわよ」と、実際は『若き血』を最後の方まで歌う祖母。
 ちなみに、父は学生運動に入れ込みながらも、半年留年で早稲田を出た、不肖この孫は「バカき血に燃える者、講義寝てる我ら」と、ドロップアウトしてしまったのである。血は劣化していく。
 「……それで、早稲田の方が、‘お前たちも校歌を歌え’と、こういうわけよ。それでね、慶応は塾歌っていうんだけれども、あれってぜんぜん強そうじゃないのよ。力が抜けちゃうわ。でもね、立教ってクリスチャンでしょう。だから、‘セントポールセントポール♪’っておかしいの」。祖母は、セントポールの歌も歌ってみせた。
 「それにしても、東大は弱かったわ」。
……

 早慶戦はとくに調べる必要はないだろう。塾歌を唄わせて萎えさせる作戦があったのかどうかは知らないが。それよりも、立教大学野球部の話が面白かった。検索すると、ちゃんとあった、セントポール

 Youtubeにも上がっていた。テレビの画面に応援団が映ったので、「そのころも応援団っていたの?」と聞くと、「いましたよ〜」と答えた。「女の子がしゃんしゃんやったりしてはいなかったけれど」だって。
 しかし、早慶戦にしろ、セントポールにしろ、戦前から同じ事を繰り返しているというのは、なかなかすごいことじゃないかと思う。日本野球万歳。

祖母とサッカーとラグビー現代日本プロ野球

 「わたしはね、勉強とか難しいことは知らなくて、試験の前でも小説ばかり読んでいたし、あとはスポーツばかり見ていたの。あんまりこの歳では珍しいでしょう。
 サッカーもね、一高の人が最初にはじめたんだけれども、少女時代ね、兄三人とボールを蹴って遊んだわ。もちろん、オフサイドなんてなくて、手で触ったらだめだぞってだけだったけれども」
 「あと、ラグビー。京都にいたころ、お正月になると、おじいさま(祖母の配偶者、私の祖父)はスポーツはあまり見なかったけれど、毎年(何か聞いたことのあるラグビー場。私が失念)に、一高と三高、京大と東大(?)の試合とかを見に行くのが習慣でね、わたしもルールを覚えたのよ」
 私は「すごいね! そのころサッカーで遊んでた人なんて、ほとんどいなかったんじゃないの?」と言ったが、それよりも私が驚いたのは、86の祖母から「オフサイド」という単語が出たことである。ちなみに、私はラグビーのルールを知らない。
 「最近は、お父さん(祖母の息子、私の父)がメジャーリーグの選手名鑑を置いていったから、メジャーも見ているのよ。でも、やっぱりなんといってもイチローが一番活躍しているわね。けど、いい選手がみーんな向こうに行っちゃって」。
 「あなた(発音はあぁたに近い)はどこファン? ああそうね、広島ね。でも、広島で暮らしてるころは広島が弱かったし、こっちに来てからも、横浜は弱いでしょう。カープも、山本浩二とか、衣笠とかがいたころは強かったのにね。わたし、衣笠好きだったわ」。
 ……まったく衣笠にカープの監督やらせたい。そうだ、父と祖母と三人で横浜スタジアムに試合を見に行ったことありましたね。「ポンセポンセ」と私。というか、だんだん会話に再構成するのが面倒になってきたので、祖母の一人語りのように書きます。じっさいは、私もおしゃべりなたちなので、ベラベラくっちゃべっていました。

 wikipedia:日本のサッカーを見ると、一高が発祥とはどこにも書いていない。なんでも一高の手柄にしようとするのは、兄が通っていたせいだろうか。このような、家族まで巻き込む愛校心のようなものは、古い世代ではよく見られるような気はするが。しかしながら私は、一高と三高がそれぞれ東大と京大の全身だと、いましがたはっきり認識したくらいである。

祖母と政治と文学

 「しかし、本当に長生きしてると、時代は変わりますね。ほら、アメリカの大統領。黒人が大統領になるなんて、むこうは、一滴でも黒人の血が入ってると、黒人だって差別されていたんだから。バス事件って知ってる? そう、女の子がね、白人用の席に座って……。それでね、黒人がみんなでバスをボイコットするっていって、白人はみんな裕福だからマイカーを持ってるでしょう。だから、黒人が乗らないと、バスはお客さんいなくなっちゃうって」
 ……日本人であっても、長く生きている人には、黒人大統領誕生というインパクトはより大きいようだ。

 「そうね、日本の政治も変わりそうね。でも、民主党もなんか頼りなくって。それで、自民党にも入れたくないでしょう。だからって、共産党は、中国の共産党一党独裁なんか見てると入れたくないわ。だからもう、選挙に行くのもいいかなって思ってるの。でも、こないだ市会議員選挙があったから、モノレールの駅にエレベーターを付けますって人にいれたわよ。もう、足がだめで、登りはいいけど、下りがつらいのよ〜」
 ……なんだかもう、このあたりはまったくとくになんというか、今どきネットで交わされるような言葉と違いなかった。「頼りない」とも、「一党独裁」ともたしかに言った。

 「そういえば、こないだ、村上春樹の『ノルウェイの森』読んだんだけれども、まぁ! 最近の男の子ってこうなのね! って驚いちゃった。ねえ、そうなの? そうなの?」
 ……いやー、『ノルウェイの森』っていっても、最近じゃないような。つーか、実は、自分、村上春樹のおおよそを読んでいるのですが、『ノルウェイの森』はまだ読んでないのです。そういえば、祖母の本棚の多くを占めていたのは、探偵ものだった。この日も、『長いお別れ』の古い文庫を認めた。蔵書をずいぶん処分した上で残っているのだから、フィリップ・マーロウはお気に入りなのかもしれない。
……

 黒人少女とバス……。「バス利用者は貧しい黒人が多かったから、ボイコットは成功した」というのは初耳だった。しらべてみれば、それは正しかった。だが、wikipedia:ローザ・パークスについては、私も祖母も重大な勘違いをしていた。その運動の発端となったローザ・パークスはその当時42歳、少女ではなかった。
 なぜ、少女と勘違いしていたのか? 祖母がどう覚えていたのかわからないが、私の脳裡には、毅然とした態度で、白人に囲まれてバスの席に座る黒人の少女の画が思い浮かぶ。キング牧師の演説映像に重なって出てくるようなイメージ……が、今検索してもよくわからない。まったくどこかで模造された記憶なのだろうか。私以外に、ローザ・パークス、いや、その名を知らずとも、バスの事件、公民権運動の発端が、少女だったと思っている人はいないだろうか。

祖母と先祖

 私が自転車に乗るという話から、先祖の話になった。彼女の父方の家系である。
 「わたしのおじいさんだから、あなたの……ひいおじいさん(違うと思う)? 幕末のころね、宇都宮藩の城代家老だったの。それで、毎日のように薩長につくか、幕府につくか話してたの。ほら、あの、そう、河井継之助みたいな立派な人なんていなかったんだから。それで、薩長が、錦の御旗をかかげてわーわーって押し寄せてきて、それじゃあ官軍につこうってなったの。それで、ずーっと戦なんてしなくて、役人みたいなことばっかりしてたでしょう。だから、慣れない馬にまたがって、いざ峠を越えて攻め込もうってときに、足も短いし運動神経もないから、落馬しちゃったのよ! うちの家系はみんなそうなの。スポーツを見るのは好きなんだけれど、やる方はからっきしなんだから!」
 ……ああ、我が先祖。私も足は短いし、運動神経はない方だ。というか、祖母くらいの世代になると、まだ幕末の空気がかすかにのこっていたのだな。

祖母と結婚と戦争

 せっかくの機会なので、歴史の続きに、私は戦時中のことを聞くことにした。この間気になったことを、直接聞いてみようと。
 そして、しばらく話を聞いて、私は小学校時代のことを思い出した。学校の課題で、「おじいちゃんやおばあちゃんがいる人は、戦争中にどんなことがあったのか聞いてみましょう」というようなものが出された。私は祖母にインタビューを試みた。そして、子供心に「この人は戦争であんまり苦労していないのではないか」と思ってしまったのだ。そして、もうちょっと自分の家が今、金持ちでもいいのではないかと思ったりした。べつに、貧乏ではなかった。どちらかといえば恵まれていたのに、だ。ともかく、私はまたそんな気になった。が、少し違う感想も、持った。それは後で書く。

 「おじいさま(私の祖父)は、京大を首席で出て、化学者だったでしょう。それで、海軍の技術大尉になったの。最初は、四日市の燃料廠にいたんだけれど、マレーやボルネオで出た石油を台湾で精製するからって、高雄に行くことになったの。
 それで、おじいちゃまの家族が、結婚相手がいたほうが、生きて帰ろうという思いが強くなるだろうって、慌ててお見合い相手を探したの。それで……(祖父の兄と、えーと、祖母側の誰かが友人だったのかな。私の失念)、台湾に行く前日によ、ともかく会ってくれって。それで、東京まで来たんだけれども、でも、●●さん(祖母の兄)、そのころ、一高の土木を出て、建設省、そのころは内務省に勤めていたんだけれど、とんでもない話だから断るって言って、昼休みに抜け出して、ホテルに会いに行ったら、これがおじいさま(私の祖父)と意気投合しちゃったのよ! それで、わたしは家でのんびりしていていいって言われてたのに、急に電話がかかってきて、今から行くから、普段着でいいからって。そうしてちょっと顔を合わせて、次の日には台湾に行ってしまったの」
 「それからは手紙のやりとりはしていたのよ。で、だんだん戦局が悪くなってくるでしょう。それで、化学者とかはさきに内地に帰ることになって、上海、そのときは陸軍が占領していたところに行って、そのあと、朝鮮半島を空路帰ってきたの。
 それで、慌てて結婚式をしようってことになったのが、1945年の5月よ。京都の平安神宮で。それでね、花婿が遅刻しちゃったのよ! 東海道線で来ようとしていたら、爆撃されて、中央線で来ることになっちゃったの。あとからさんざん、‘もうちょっと待てば戦争終わったのに’って言われたわ。でも、そのときはどうなるかわからなかったから」
……

 ……とまあ、このあたりの、とくに結婚式のエピソードについては初耳であった。「長話になるけど、あなた知りたそうな顔してるから」と、なにか見透かされていた。なお、あとは山口県田布施疎開していたそうだ。
 燃料廠の話は、最初四日市にいたということで、第二燃料廠のことであろう。高雄にいたという話はよく聞いた。たぶん、処分されてしまったと思うが、燃料廠史のような本が実家にあったと思う。
 ちなみに、「京大首席」というのは祖父を形容するさいに必ずついてきた言葉だが、本当にそうだったかどうかはわからない。実はないしん、眉唾物ではないかとも思っている。ただ、化学博士であることはたしかなようで、フルネームで検索すると京都大学「京都大学学術情報リポジトリ」で、私には理解できぬ化学論文のPDFがひっかかる。というか、戦後間もないなんらかの論文の断片まで、スキャニングされてアップされているとは恐れ入った。

祖母と戦後

 「それで、戦争が終わって、おじいさまも京大に戻るかって話になったんだけれど、軍にしばらくいたから、新しい人とかが入っていて、今は時代が時代だからお金は出せないけれど、席は用意するから、好きな研究をしていいって言われたの。それで、おじいさまのお父様に相談したら、‘おまえたちの食い扶持くらいは出すから、好きにしなさい’っていうことになって、戻ることになったの。おじいさまのお家も、けっこう裕福だったの。でもね、あなた、GHQの農地開放で、みんななくなっちゃったのよ! それで、働かなくちゃいけなくなったんだから、もう」
……

 ちょwwwwwwwwwテラ地主! 働かなくてもいい階層! 有産階級! しかも、祖父母の実家どっちとも! なんというのか、このあたりが、私がなんともいえなくなるところである。正直、子供心にこういう話を聞いたとき、私はGHQを、マッカーサーを憎んだものだった。鬼畜米英め。そうだ、戦争に負けなければ、とすら思った。もし、そうであれば、私……もちろん歴史のifにおいて、その私は私ではないのだけれども、まあ私にあたる人物であろう私は、もっと何不自由なく、ファミコンのカセットも買い放題で、ミニ四駆も、ガンプラもなにもかも買えて、なおかつ将来働かなくても済むのではないか、と妄想したのだ。甘美な想像だ。
 ただ、今となって、たとえば祖母が「日本人に豊かな人は少なくなった」などとちょっと漏らすのを聞けば、「ちょっと待ってよ」と思えるくらいにはなった。ものすごい数の、すごい貧乏な人がいたんじゃないのかな。底が上がったんだよ、と。とはいえ、祖母がそんなことわからないわけもないだろうし、それも彼女なりの追憶と感傷、斜陽気分なのだろう。
 そうだ、忘れていた。私の感じた「少し違う感想」だ。それは、それなりに裕福な家庭であっても、三代あれば十分にストックを食いつぶし、社会の底辺の方に行く可能性がある、ということだ。今、この世に不自由なんてないという顔をしている、たとえばあの世襲政治家どもの子や孫とてどうなるかわからん。その可能性がある。いい気味じゃないか。そうだ、私の祖父母とて、誰かからそのように思われていたかもしれないし、私の境遇を見てどこかでいい気味じゃないか、と言っているだろう。まあ、それでいいじゃないか、と。古い家は取り壊されるべきだし、新しい者、そのとき輝いているものが、新しい家を興せばよろしい。

祖母と私と横浜と横浜隼人

 ブラウン管の中の横浜高校と、横浜隼人の試合は、終盤になってもつれてきた。横浜の猛烈な追い上げがはじまる。横浜隼人の、童顔エースの投球数も増える。ついに三点差。
 私は、祖母にこういった。「この試合が終わったら、おいとましますよ」と。祖母は、「それじゃあ私は横浜を応援するわ。だって、試合が終わったら帰るっていうんですもの」と言う。
 はたして、祖母の望み通り、九回、ついに同点。自然と、話は目の前の野球談義に。
 「外角に外して、次はどうなると思う?」などと祖母。
 「高めの釣り球じゃないっすか?」と私。
 「ふーん、そうかしら」と納得しなさそうな祖母。
 決め球は内角低め、凡打。ああ、筒香嘉智、あと70年生きて、また打席に立てば、そのときは打てるはずさ。
 延長10回裏、横浜隼人の攻撃。三塁方向に微妙な打球が転がる。サードの見せ場。ジャンピングスロー! が、ボールは逸れる。打者は二塁へ。次のバッター、右方向に鋭い打球、右翼手突っ込む、ボールはこぼれる。サヨナラ!
 「今のはヒットよね」と祖母。
 「今のはしょうがないでしょう。それよりも、さっきのサード」。
 「やっぱりプロとは目測が違うのよね。無理して投げるから、エラーになっちゃうのよ」と祖母。
 
 そして、私は祖母のアパートをあとにした。
 ちなみに、横浜高校サードのために、忘れずに記しておくことがある。
 エラーはファーストの筒香についたのだ、と。

おわりに

 こんな身内の話をなぜさらすような真似をするのか? 祖母自慢、家系自慢がしたかったのか。それもあるだろう。ただ、よくわからないが、祖母とていくら元気であろうと、いつお迎えがくるかわからない、そのことだ。幽明境を異にすれば最後、もはや彼女の話はどこにも残らない。話が残らないというのは、どうにもつまらない。彼女の話ばかりではない、それを聞いた私の話もだ。私はこれを書き留めておきたいし、またどこかの物好きの目にとまるなら、それでいいと思う。祖父の話をふと書いたときも、そう思った。それと、同じことだ。今からの夜道、私もダンプカーにぶつかって死ぬかもしれない。
 本当は、まだ書くべきことはたくさんある。山本五十六の話、失われた家の話……。そうだ、家の話が主題だったはずじゃないか。なぜ、野球の話になったのだ。まあ、いい。祖母は、「今が一番気楽」と言った。私はそれを、強がりともなんとも思わない。おそらくは、本音だ。
 家はときに、重荷になる。家族も、そうだ。私たちは、離散によってそれぞれ楽になったと思う。家族だからといって、近くにいればそれでいいというものではないのだ。嘘だと思うなら、『闇金ウシジマくん』でも読んでくれればいい。宇津井のエピソードだ。
 ともかく、祖母はいま、人生ではじめての独り暮らしをしている。とても気楽だという。祖父の遺族年金と自らの年金、生活に困ることはない。選手名鑑を手に野球を観て、窓から見える山を見ては(環境はすごくいいのだ、鎌倉だからな!)古いフランスの詩人の言葉を思い出し、福祉施設のバザーに出すマフラーを編む。本も読む。ときおり、年老いた兄弟、姉妹と会う。おまけに、あやしげな孫まで訪れる。実に、自由だ。
 ……なんだ、それは私の理想だ。そうだ、私にはそれがわかる。私に会えてうれしいのも、会えずにさみしいのも本音だろうが、彼女が今感じてる自由もまた、本音なのだ。私には、それがわかるのだ。なにせ、私の性質は、性格は、嗜好は、この祖母に似すぎている。私は、そのことをこの日、痛烈に感じたのだ。目の前の野球よりは、むしろ追憶の野球、選手名鑑への愛、労働よりも小説、芸術を愛し、ただ趣味の中にある。もちろん、彼女とて、長い人生がすべてそのようなままであったはずがない。厳格な科学者であった祖父との生活はどうだったのか? 長くパーキンソンの看病をしたことは? 幼いころに障害を負ってしまったおじを育てるのは? そして、あの厄介な私の父、そして家族、古くなる家、きしむ生活。初めての困窮……。たくさんの、重荷があった。それでもなおかつ、明るさを失わず、また自分の世界を持っていた祖母。この若造が、あれこれ断じることなどできない。表面だけを、今見えるものだけを見てはいけない。
 ……ああ、しかし、私が「僕に向いている職業というのは、貴族ではないのかね」とうそぶくとき、それはもうほとんど本音の本音なのだ。人生も仏教もアナーキズムもくそくらえだ。俺は遊んで暮らしたいんだ。わずらわしい人間関係も、七面倒な労働ももうたくさんだ。自由に、どこまでも自由にありたいんだ。ああ、まったく、まったく、やっかいな血統を引き継いだ! でも、なんとか祖母くらい生きて、あの場所までいきたい!

↑五年、いや、十年前にイラレをいじりはじめた私が作ったうちわ。どうしてここにあるのかさっぱりわからん。

※もしも私の親類縁者がこれを読んでも、私に「読んだ」などと言わないように。念のため。

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