ロス・インディオスの話ではない

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 もう10年も昔になるだろうか、大井競馬場でのことだ。大井競馬場の時計台の下のステージで、ロス・インディオス&シルヴィアが「コモエスタ赤坂」を演奏するのを見たことがある。「俺が有名人のライブを見るのは、これが最初で最後だろう」などと思った。そのとおりに人生は進んできた。人生は思い通りになる。
 女が、ライブチケットが取れた、という。もともとは俺が少し聴いていたバンドだったが、いつしか女のほうがファンになっていた。俺はいよいよ、30を超えてライブというものに行くことになったのだった。ちなみに、シルヴィアは去年の暮れに亡くなった。ロス・インディオスがどうしているかは知らない。

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 500円と引き換えたドリンク・チケットはハイネケンとなって胃に流れ込んだ。ハイネケンこんな味だったかな。よく覚えていない。流し込んだあとは、流れ出させる。俺は頻尿に近く、仕事中もしょっちゅう席をたってはトイレに行く癖がある。会場に入って一回、ビールのあと一回。すべてぬかりはない。
 フロアに入る。少し段になった後方から人が埋まっている。あまりよく考えず、入り口から遠いほう、ステージ向かって左手に進む。オールスタンディング、けっこう前のポジションとなる。ステージもよく見える。というか、女性ファンが多い。貧弱なチビとして生きてきた俺の背が少し高くなったんじゃないかと思う。みな、おしゃれすぎるというほどおしゃれではないし、内気すぎるほど内気というほどでもない。ピースフルな人々、俺もそのなかのひとり。まったく。
 ライブ開始7時予定。あと10分、5分、女と話しながら、俺はひそかに尿意を感じていた。尿意の予兆を。2回も行って、きちんと出して、それでもまだあるものだろうか。フロアは埋まりはじめている。行くべきか行かざるべきか。俺は入り口に遠い側に来たことを後悔していた。ついになにか流れていた音楽が止まり、フロアの照明が変わる。みな数歩前に出る。俺もそれにしたがって、ステージに近づく。左斜め前のポジション。

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 メンバーが、出てきた。昭和76年のころは大勢いたらしいが、今は2人のバンドである。もちろん、サポートメンバーはいある。ギターのサポートメンバーが目の前のポジションに来る。華奢で清潔的、美少年の面影がある。こちらサイドの客席からいくつか歓声がおこる。それは、よくわかる。ちなみに、そのギタリストの所属するバンドのボーカルは一昨年の暮れに亡くなった。俺はそのバンドのことをよく知らない。彼のストラップの照明にピカピカ反射する光がよく目に入る。そのたびにちらりと、なにかを喪失してしまった人間について考えたりもした。
 演奏が始まる。聴いたことのないインスト。楽しそうに演奏するステージ上の彼ら。ベースと、ドラムの音が腹に響く。悪い意味で、下腹部に響く。俺は尿意をはっきりと感じていた。最初のMCの合間に、出よう。そう思う。最初の挨拶。まだ早い。女は楽しそうにステージを見上げている。左前にいた知らないメガネの女性は、ビール缶片手にノリノリだ。すばらしい雰囲気、ただ調子の悪い俺のぼうこう。上の空で2曲か、3曲。
 フロアが明るくなる。MCがはじまる。このあたりの、電車の話である。俺は女に耳打ちした。ちょっとトイレに行きたいのですが、一緒に入り口の方に移動してくれませんか、と。答えはノーだった。このポジションが気に入ったようだ。なるほど、ステージに近いのに、いくらか空間がある。せっかくとった場所である。ここで待っている、という。

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 俺はひとり、愛想笑いを浮かべながら、立錐の余地がないとはいえないまでも、そうとうに混み合った人々の間を移動した。とくに、ステージ正面は奥のほうまでそうとうぎっしりと詰まっていて、通るのに難儀する。とはいえ、こちらももう引くわけにはいかない。なんとか入り口からエントランスに出る。エントランスに出て気づいたが、左耳の調子が悪くなっていた。俺は大きな音が苦手なのだった。
 始まったばかりのライブの外に出る。遅れてくる人とすれ違う。また、俺のように出る人も、まったくいないではないが、いないわけでもない。3度目のトイレ。赤を基調としたデザイン、暗い照明。俺が3度目の放尿を始めるのと同じく、フロアで演奏が始まる。風呂につかるかなにかする曲だ。悪くない。一曲終わっても、俺の放尿はつづいた。ちょっとどうにかしてしまったのかと思う。俺は来てすぐに一度、ビールを飲んだあとに一度、きちんと始末をつけたはずだ。コートを屋外のコインロッカーに預けて、しばらく寒中にいたのがいけなかったのか。まったくよくわからない。ただ、このままぼんやりトイレの中で過ごしてしまおうか。ほら、ずっと個室から出てこないやつがいる。あいつはどうしたんだろう。
 べつに急ぐこともなく、手を洗い、手を乾かし、フロアに戻る。戻ろうとする。ドアを開ける。ドアを開けて、困ったことになったと思う。入口付近が人で一杯になっているのだ。後から来た人もいるのだろう。なんとか入るのがやっとというところ。電車と同じだ。入口付近は混み合う。奥は空いているが、あきらめてとどまり、それが重なる。正面もさらに重なっているのだろう、俺はフロアの向こうに帰るのをあきらめた。僕はここで待っているからさ。でも、こっち来てくれないかな。来ないか。
 今度のポジションはステージ向かって右斜め、けっこう後ろ。さっきは近くに見えていたステージ上の彼らも、今は遠くになってしまった。せっかく一緒に来た女も、今は離れ離れ。無理して行こうと思えば行けないわけでもないだろう。ただ、おそらくはそうなるとわかっていたのだし、これはもうこうなってしまったのだからしかたない。俺は一人でライブを見ているのだろうし、人の海の向こう側で女も見ているのだろう。いくらでも語ることができるだろう。

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 俺が戻ってからすぐの、ある曲の始まりだ。ボーカル・ギターがピタっと演奏を止めた。止めて、フロアの一点を凝視する。俺のいた方だ。まったく表情を変えない。シリアスだ。なにか、客の間でよからぬトラブルでも起こっているのかと思う。口を開く。どうも、気分の悪くなった人が見えたようだ。客に向かって、出口まで通してあげてください、と言う。空気が薄いから、気分悪くなったら外の空気吸ったら調子良くなりますよ、と。俺もずっと我慢していたら、彼に心配されるようなことになっていたかもしれない。目の前を、気分の悪くなった人と、それを介抱している人が通りすぎていく。ライブは再開する。なにもかもすばらしく進んでいく。ステージの上も楽しそうだし、客席も楽しそうだ。いい気分だ。ジャム・セッション、自由な掛け合い、なにもかもうまくいくような。ああ、しかしなんというプロのミュージシャンというものは。なにと比較していいかわからないが、どれだけすごいのだろう。あの人はこれをどう見ているのだろう。
 と、長いセッションが終わって、ペコリと頭を下げてメンバーが舞台袖に下がっていく。ライブが終わったのだ、ひとまず。会場の拍手がいく度か調子を変え、ようやくといったところでベースが出てくる。「自分が客の時も、早く出てこいと思うが、実際疲れているので、回復に時間がかかるのだ」といい、物販の説明を始める。物販の説明が終わり、アンコールが始まる。まったく、アンコールはすばらしかった。それまでもすべてすばらしかったが、まったくすばらしかった。暗がりを走る、最終バスが出て行く、ギターからそんな音がするのかと思った。

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 そして、俺はスーパーマーケットの前で煙草を吸いながら女が出てくるのを待った。ずっと人の流れでてくるのを見ながら、彼女を探す。ようやく、最後の方に出てくる、手を上げて合図する。俺はかけよる。たくさんの話をする。長い長いトイレの話をする。気分の悪くなったお客さんの話を聞く、最初ノリノリだった子が最後は疲れて空き缶を落としてしまったという話を聞く、それはリフレインに涙したからじゃないのかと言う。話はつきない。
 帰り道のりんかい線、アンケート用紙の「とくによかった曲」に一曲書き忘れたと女は言う。曲の名前は「犬とベイビー」。たぶん俺は飼い主とはぐれていた犬みたいだったんだろう。まったく。

 わん。