埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』を読んだのだか読んでいないのだかわからない

 埴谷雄高不合理ゆえに吾信ず』を読んだ、といっていいのかどうかわからなかったのだった。ようするに前半に収録されている「アフォリズム集」など、率直にいえば「日本語でおk」の気になってしまうわけなのだった。
 それでも雨の土曜日、布団の上で読んでは寝て読んでは寝てを繰り返しつつしていると、不思議となつかしい気持ちになってくるのだった。雨音の外は片瀬の丘の上の家の二階であって、窓の外に腰越の浜につづく家々を見下ろす景色があるように思えてくるのだった。
 十五年、下手すれば二十年前の俺も、ときどきこんなふうに、父の本棚から取り出したなにかよくわからない本の字面を追っていたのだった。ただし、俺は字面を追うのが精一杯で、だいたい知らない単語、固有名詞にあふれていて、それを読書と呼べるのかどうかも怪しいのだった。それでも、なにかそれが自分を遠いところに連れていってくれているような、そんな気にはさせてくれているのだった。そして、いつかはそこに言及されている古典や、前提として語られている西洋のいろいろの思想や哲学も知るだろうし、俺はいくらか物を知る人間になるのではないかという気がしていたのだった。

 まあ、結局のところ、俺はついにそういう人間にはなれなかったのだった。なによりも俺のむつかしい本の字面を追う行為は「ときどき」なのだった。俺はそれよりももっとポップで楽しく、わかりやすく、エロいものの方が好きだったし、そちらに多くの時間を費やしたのだった。当時は全巻揃っていた『こち亀』や『ドラゴンボール』を何度も何度も読み返したり、ファミスタダビスタをしたり、エロ漫画を読んだりするのに熱心なのだった。俺にはもっと即物的でわかりやすく、プロ野球選手やサラブレッドのような固有名詞とプロフィールが好きなのだった。そしてまた、好みの小説のジャンルや作者というものもあまりなく、やはり漫画ばかり読んでいたのだった。

 そしてまた、自分の頭の向き不向き、ある方向からいえば如実な欠陥というものがあったのだと思うのだった。あらゆる思想や哲学というものが聳え立つピラミッドのようなものだとして、頂点がそれだけをかすめ取ることのできない、まるでわけのわからぬ概念の一片だとしても、そこに至るひとつひとつのブロックの一番底辺には、手で触れられる人間の感覚が必ずあるはずだというが、俺はそれがだいたい二段目になるともうわけがわからなくなるのだった。いつしか俺はそれを「二階建ての言葉」と呼んで、俺には登れぬ階段があるのだと思って、できるだけ平屋に見えるものばかり選んで読むようになっていたのだった。もちろん、俺が一階だと思ってくつろいでいても、それが二階や三階かもしらず、また一階しかわからぬ俺にはそれを見分ける術もないのだった。
 また、小説など読んでいても、「この作品における納屋は女のメタファーだ」などと本読みには自明のことらしいことがらが、俺には「解説」で指摘されるまでピンと来ないのだった。ただ、読んでいて不思議な気がするとか、わくわくするとか、どきどきするとか、まったく四百字詰めの読書感想文をあらすじで埋めなくてはほかになにもないようなものしか得られないのだった。
 ただ、俺は学校のテストとかいうもので国語の成績だけは相当によく、持って生まれたなにかか、あるいは本棚環境か文化資産だかしらないが、それで大学受験の小論文とかいうものまではほとんど努力もなく通過できたのだから、「いずれわかるのではないか?」と自らの能力を誤解していたのもあながちひどい勘違いとも思えないのだった。

 まあ、今考えるに、一方でまったく算数ができないところに俺の脳のなんらかの欠陥があって、要するに観念的なものを頭の中で操作するといっていいのかどうか、今それを書いていてもふわふわしていて、わけがわからない困惑におそわれるのだけれども、哲学といわれるものに俺が全く歯が立たない理由はそこにあるように思えるのだった。そしてまた、文学と呼ばれるものについても、そのコマンドを持っていないがゆえに、なにか読んでも「俺には読んだといえる資格があるのかわからない」という思いと、読み終えたものをすっかり忘れてしまい、なにか頭の中に蓄積されることのない空虚さがあるのだった。
 そしてまた、それがゆえに、俺にはなにかむつかしげな言葉である時代を語ることもできないし、ある事件をなにかの考え方のメスで切り取って、べつの何かに見立てるようなこともできないのだった。ただ、そういうことをできうる能力を持った人間をたいしたものだと思う反面、あるものは見事だと感じる一方で、なにかあまりにもいい加減でこりゃ紛い物じゃないか感じるものもあるのだけれども、やはりそれは「感じ」に過ぎず、理路をステッチして否定しうるなにものも持っていないのだった。
 だからといって、俺の厄介な性分として、生活者の実感や無学が学を軽蔑する態度というものについて、まったくそれに与したくないのだった。俺にはよくわからないが、人類が紡いできたなにか知の流れというものがあって、それは科学に限らず、実学に限らず、あるいは宗教でも美術でもいいが、そこには価値があるだろうという予感のみはあるのだった。要するに、自分は二階に登れないくせに、自分より馬鹿そうなのを馬鹿にしているという、実に滑稽な存在なのだった。
 して、そんな俺がはたしてなんの理由かわからないが、こうやって文章を書き散らし、日記を人に晒すとなると、やはり俺にはむつかしいことが、二階の言葉が書けないのであって、いきおい生活者の実感であるとか、愚痴や唸り声みたいなものにしかならず、まったくなにやらよくわからないのだった。また、なにかの感想を書くとしても、やはり「おもしろかった」、「おもしろくなかった」以上のメスを持っていないのだし、俺には「考察」というものはできないのだった。あるいは、今日の前田智徳のヒットや、河内貴哉の登板について語るべきだったのかもしれないのだが、やはりある種のフォーマットに乗せてそれを書いても、なにからしさをかもし出せるかもしれないが、高みも深みもなく、やはりそれは140字もいらないことにすぎないのもたしかなのだった。
 まあそういう人間ですら言葉が与えられてしまっているのはしかたのないことだし、これが公表までできてしまうので、なんの理由かわからないが公表してしまい、わずかの人の目に触れるという、またこれがなんなのかは、やはり俺にはよくわからないのだった。おしまい。

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不合理ゆえに吾信ず 1939~56 (埴谷雄高全集)

不合理ゆえに吾信ず 1939~56 (埴谷雄高全集)

埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選書3 (講談社文芸文庫)

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