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関内関外日記(跡地) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2013ねん09がつ23にち

伊藤計劃『ハーモニー』を読む

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

(……二つ出てきたから新しい方を選んだら、Kindle版でやんの。はてなさん、商品挿入のところからだとわからんのですが、これはAmazonのせいですかね?)

 ずいぶんな話題作だったし『虐殺器官』も『メタルギア』のやつもおもしろかった。が、おれはなぜかわからないが話題の本に飛びつく癖もなく、また、これを読んでしまえば伊藤計劃長編単著は終わってしまうというもったいなさから読んでいなかった。

 電脳ネットワークを形作り、人間意識を……というのは『攻殻機動隊』でもなんでもいいが、ありがちといっていいかもしれない。一方で、この『ハーモニー』は身体の健康管理によるネットワークベースにある。その着眼点おもしろくもあり、また著者の境遇から出たところであればすこし悲しいとも言えるか。

 おれはこの本を読みながら、なんとなく田村隆一の「立棺」という詩(http://web1.kcn.jp/tkia/trp/022.html)が頭に浮かんでいた。ただ好きな詩というだけであって、これがなんの詩なのか説明はできない。ゆえに『ハーモニー』とのいかなる関連をも語れぬが。

われわれには毒がない

われわれにはわれわれを癒すべき毒がない

 マークアップされる感情というものがあったとして(表紙の<harmony>タグが閉じられてないのはわざとかしらん)、おれだったら<takuma>金持ちをすべてぶち殺してやりたい</takuma>というものがある。いや、あった。ジプレキサという脳に効く薬を飲み始めてから、他害の感情というものがきれいにパージされてしまった。もっぱら自死のことばかり考えている。正確ではないかもしれない。ラピッド・サイクラーというのが近いか。ただ、おれの意識ベース抑うつ的だ。いつでも、だいたい。

 人間意識とはなんぞ。よくわからない。よくわからないが、おれはとくに脳を特別なものだと思いはしない。所詮筋肉や臓物と変わらないという思いは昔からあった。たとえば、アロチノロール塩酸塩など、血圧をどうにかする方から逆算して不安心を取り除こうという意図で処方されている。好きな薬だが、最近不安はいくら強いベンゾジアゼピンを食っても取り除かれないのだが。

 『ハーモニー』の主題とされるところのユートピアあるいはディストピア論と離れたところで、おれは一つのユートピアを見る。限られた世界管理されたものであろうがなんであろうが、生きていていい。子供も大人も有益リソースだという前提が、ある。おれのようなきちがいの役立たずにも衣食住の不安がなさそうだ(似たようなところでいえば、アニメサイコパス』で「いまどき無職なんているんですか?」だな。続編やるんだっけ?)。それだけが救いだ。もっとも、救いのなさそうな世界も描かれているが。

 まあ、フィクションの中の救いが現実に反映されることなどない。いや、あるのかもしれないが、たとえば金に困っていて生活がままならないのを金で救ってはくれやしないのだけれど。まったく、おかしな話だ。有益伊藤計劃が死に、無益なおれが生きている。脳はおかしいが、身体という点では血液検査など健康そのものといったあんばいだ。いくらか死ぬのがもったいないと思うことすらある。しかし、世の中そう甘くもないだろう。

 小難しいことはよくわからないので、おれに書ける感想文はこのくらいのものだ。狗子仏性とか適当なことは書く気にもなれない。いずれにせよ、著者の死は惜しいとあらためて思える。無駄のない構築、この切れのよさというのはなかなかにない。一方で、どこかユーモアがある。サービス精神がある。どこのどの部分とは言えぬが、そういう印象がある。そんなところだ。

>゜))彡>゜))彡>゜))彡

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

屍者の帝国

屍者の帝国

……これも近いうちに読んでみるか。

長田弘『一人称で語る権利』を読む

一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)

一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)

 まず。なんといってもタイトルがいいじゃあないか。そう思わないかベリーベリーナイスだ。このタイトルだけでもなにか語れそうな、そんな気にはならないか。といっても、「一人称で語る権利についてレポートを提出せよ」とか言われても困るが。

 詩人の、エッセイだ。言葉に関してこんな一節がある。

 わたしたちは誰も今日、言葉にたいして無垢でありえないんです。のぞもうとのぞまないと、言葉に巻きこまれています。むしろわれをうしなうほどにかかわってしまっているというべきでしょう。それだから、そのことを、じぶんなりの方法で、自分なりの気質をとおして明らかにしなければならない。そうでなければ、こんどこそほんとうにわれをうしなってしまうことになるんじゃないか

 新旧かなや新旧字体の流れで出てきた話だが、どうだろうか。もとは1984年ごろの本だから、いまみたいにインターネットで膨大な量な言葉が溢れている情況とは関係ない話だが、関係ありそうにも思える。いや、情況やらなんやらどうでもいい。おれがしこしこと数十人いるかどうかの相手になにかを書くとき言葉に対してどうかかわっているんだい、っちゅう、そんな問いかけをされてるように思える。思いあがりだろうがなんだろうが、まあ「誰も」って言ってんだから、おれが勝手にそんな問題意識をちらりと感じたところで問題あるまい。だれも問題にするまい。

 ……と、またいろいろと付箋を貼ったページを読んでいると、あれもこれもといろいろ言いたくなる本だ。なにか、当たり前のことを言ってるね、とか、現代には言い尽くされてる、あるいはもう古くなってるのかもしれないね、なんてところもある。あるけれども、上の部分のように、バシッと撃ってくるところもある。言葉歴史都市怪獣ボブ・ディランコンサート、そして詩について、暮らし人生社会について。

……「公」に対して「私」をよく拮抗させてゆくようでないと、全体がたちまち「公」の名の下にちいさくなってトリッキーになっていってしまうんです。「十人十色」という言葉をおもいだしたい。わたしたちはそういうい言葉をもってるはずなんです。じぶんにとってのいま、ここというのは「いまはこういう時代なんだ」というような、みくだす物言いによっては、けっしてみえてこないだろう。わたしはそうかんがえています。そうではなくて、じぶんにとって他に代わってもらえないものは何かという、一人ひとりの側にあるその何かのなかに、ひとりのわたしにとってのいま、ここというのはあるんだ、と。

 と、こう言われる。さて「私」はいま、ここのこれだととりあえず措定したとして、じゃあ「公」とはなんぞとなってきたりもする。いまはどういう時代なんだというと、おれもそれを一言で切り捨てるような言葉が欲しくなるときもある。けれど、それじゃああかんのか。おれにも一人称で語る権利がある。さあ、何を語る。まったく、さて。