車谷長吉『漂流物』を読む

秋の夜長は読書とブログ

漂流物 (新潮文庫)

漂流物 (新潮文庫)

 本を読むことには、何か辛いものがある。よい本はよい本なりに、悪本は悪本なりに。多分、言葉の毒に中毒するのだろう。いや、言葉だけでなく絵や写真にも毒はあり、それにも存在の一番深いところを刺し貫かれることがある。少なくとも私には、もう本を読むなんていやだなと思うことが、しばしばある。
「めっきり」

 おれは去年あたりから図書館を利用するようになって、借りては返しをほとんど繰り返して切らしたことがない。だいたい6冊の枠をめいいっぱい使ってだ。そして、借りた本はたいていきちんと読んできちんと返している。まったく読まないで返却ということがまったくなかったではないが。だいたいは、読んでいる。そうして日記に読後感を記している。
 こう書くとまるで読書家のようだが、自分ではそうは思えない。6冊なら6冊家に持ち帰ってみて途方にくれるところがある。これを読まなくてはならないのか、という非常に面倒くさい気持ちに襲われる。自分が読みたい本を無料で借りて帰ってきたら、ウキウキでページをめくるべきなのだろうが、とりあえずうんざりしてしまう。
 これが漫画を買ってきたあとならばどうだろう。おれは急いで袋こじ開け、すぐさま読み始めるだろう。
 この差はどこからくるのか。いろいろの形の表現のメディアがある。絵や写真に中毒するというか、「もう見るのはいやだな」とおもったことはない。どういう情況か少し想像しにくいが、美術館のはしごかなにかだろうか。しかし、レンタルした映画をなかなか見ない、ということはある。返却期限なしの通販レンタルだ。そこにハードルはある。
 では、一番見やすいものはなにか? スッと入れるものはなにか? たぶん、おれにとってはアニメだ。漫画よりもさらに入りやすいかもしれない。
 念の為に言っておくが、この「入りにくさ」がそれぞれの表現方法の貴賎や面白さと関連していると考えているわけじゃあない。ただ、おれにとっては言葉が、文章が、本が一番やっかいなものだ。そのわりに、本こそが一番近寄りたい、ふれていたいものでもある。そう思いたいところはある。二律背反とでもいうのか。ただ格好つけたいだけか。

……言葉を書くいうことは、人をまどわすことやで。かどわかすことやで。かたることやで。ゆすりかたりのかたりやで。言葉ほど恐(オト)ろしいもんは、あらへんで。
「抜髪」

 車谷長吉の話だった。『漂流物』は『鹽壺の匙』以降の短編、中編を集めた本である。なかでも、著者の母親の口を通して語られる体の、著者への言葉の乱射のごとき「抜髪」はすさまじい。私小説の業を、いや、なにか著者の業、人間の業がこれでもかとたたきつけられる。そこには多くの血が流れているように見える。桜玉吉も病むわけだ。
 そして本書最後の一編「漂流物」は一本の映画を見たような気にさせられる。ロードムービーだろうか。料理屋の流れ者の一人である青川の「かたり」。惹きつけられてやまぬものがある。これがあるから、おれは「本を読むのはやめられないな」と思う。そう思うだけの本に、これからどれだけ出会えるかわからないのだけれど。