人形遊び

チェリオ! ドールライフのはじめかた (別冊dolly・dolly)

チェリオ! ドールライフのはじめかた (別冊dolly・dolly)

momokoドール公式サイト - momokoDOLL.com
 帰りに新宿で途中下車してブックファーストへ行き、なんかのムック本で作った椎名林檎ドールを拝む。5体。「幸福論」、「ここでキスして」、「ギブス」、「この世の限り」、「キラーチューン」のプロモの衣装を完全ドール化!凄い、良くできてる。。。でも、撮影禁止・ブログでの紹介も禁止なので、写真はなし。うう、ケチ!ケチ!ケチ!さすがに5体並んでいると飛びぬけたインパクト。これは、。。。欲しい。ああ、売り物じゃなくて良かった。
 それにしても、人間ってなんで人形なんて作るんだろう。何が面白いんだろう。古墳のころから、出来はともかく(あのころはあれが流行りだったんだ、まあ、そういうな)、人形を作ってきたんだからなあ。やっぱり、馬鹿にできない根源的な欲望があるということだろう。
 それは、結局、人間を思い通りに作ってみたいということなんだろうか。人間は人間を作りたがる動物なのかもしれない。犬とか牛とかサルにすれば、人間が人形で遊ぶというのは、さぞ不思議なことをしているように見えるだろう。そう思っている犬とか牛とかサルというのも、人間目線から見ると、十分不思議だが。
 考えて見ると、神様が泥をこねてアダムとイブを作ったというのも、人形っぽい発想だ。やっぱり、人形に対する人間の欲望の根は深い。
 人形を作るのは、形を作れば、それは心を持つだろう、という素朴な思いこみに端を発するのではないか。心などという由来の知れぬものは、見て触り存在を確かめることが出来る形あるものに従属するものに過ぎないはずではないか。完全な機械を作れば、むくむくと朝の湖水から立ち上る霧のように、心はそこから自然と発生するはずだ。そんな素朴な万人の心の奥に潜む唯物論が、人間に人形やロボットを作らせるのだと思う。
 心の存在をどうすれば証明することができるだろうか。それは肉体や論理には証明できない。なぜなら、それは別の心が「その心が存在することを認める」と言うことでしか証明できないからだ。もし、別の心が本当にそう思うのなら、それは奇蹟だ。この奇蹟を「愛」と呼ぶのだろう。
 人形やロボットというのは、「愛」を求めようとして永遠に失敗に終わることを定められた、人間の永遠の試みなのではないか。