(055)ユージニア

ユージニア

ユージニア

数十年前に北陸のとある名家で発生した大量毒殺事件。物語はその事件の関係者へのインタビュー、関係者自身の回想などで事件の真相が明らかになっていくが、同時に新たな謎も提示されていく。語り部やその聞き手がそれぞれ異なったりで、最終的に物語中で提示される全ての情報を持っているのは読み手側のみとなっており、更に最終的に犯人を断言する箇所も無いので読者挑戦的なミステリーとなっている。
最後まで一気に読んだけど、先述したように最終的に全ての謎が解けたわけでなかったので、1回読んだだけでは消化不良。そして謎解きする為には数回読み返した結果余計消化不良に。考察サイトもいくつか覗いてみたけど決定的な結論が出されているところもなくて更に消化不良。たしか同作者の作品の「六番目の小夜子」も真相が明示されていなくて消化不良になった気がするけど、こちらに関しては作者の記述不足というかご都合的展開があったりでそれほど真剣に考察しようとは思わなかったけど、本作品に関しては解決の為の全てのヒントが(恐らく)提示されているため、分からないということは読み手の実力不足ということになりそうなので繰り返し読み返したくなる。ネタ明かしが無い点ではミステリとしては不十分なのかもしれないけど、真犯人云々というよりも誰もが疑わしいという後味の悪さを演出したい作品だったというのであれば十分成功かもしれない。まぁミステリ部分は色々あるけれども、以下に引用したような描写は個人的に恩田陸らしいなと思った。相変わらず感覚の言語化が上手い作家だなと思う。

いくつぐらいからでしょうね、旅というものの目的が変わってきたのは。
若い頃は、見たことがないものを見に行くのが旅の目的だったでしょ。新しいもの、凄いもの、珍しいもの。何でも見てやろう、なんて言葉があった。
でも社会人になって、仕事に追われるようになると、何も見たくなる。むしろ、余計なものを見ないことを目的として、旅に出るようになる。日常からの逃避、という奴だね。
それからさらに、もう暫く経つと、今度は自分の見たいものを見るために旅するようになる。自分の見たいものというのは、現実に存在しているものとは限りませんよ。自分の記憶の中にあるもの、かつて見たはずのものを探したくなるんですね。例えば、子供の頃の原風景とか、懐かしいものとか。


大人って、子供に対して時間をケチるんだよね。
自分の使える時間全体を百とするなら、子供に使うのは十くらいと決めている。近所の大人だったら、よその子に使うのは、二か三くらいかな。声を掛ける時も、ここで一くらい使っといてやるかっていう割り当てを計算しているのが見え見えなんだ。だから、何か話し掛けて、子供がそれに食いついてきて、一のつもりだった時間を三使わせられそうだって感じると、みんな慌てて子供を突き放す。
子供は、大人が自分に対して時間を惜しむのに敏感だ。惜しまれると余計に欲しくなるから、必死に大人から時間を奪い取ろうと頑張る。大体逆効果になって、失敗するんだけどね。そうやって大人に対する不信とあきらめを覚えていく。
普段はさんざん自分の時間をケチっているくせに、何かあった時だけ、「さあ、包み隠さず全部話してごらん」と親と先生は言うんだな。
自分の時間はくれないくせに、おまえの時間をまるまるこっちに寄越せと言われたら?子供が抵抗するのは当然だね。