夢について話したりしたね

江古田cafe flying teapotでAlfred Beach Sandalとザ・ムンズの竹野恭章のライブを見ながら、前に竹野さんのライブを見た時彼を例えるなら「炎」かなあと考えたことを思い出して、いや違うな、でも彼や北里さんがキャンプファイヤーのような、夜の炎の前で歌うとしたらきっととても素敵だろうなと想像した。麓さんやmmmさんもきっと似合うだろうな。炎に照らされて、光と影が歌う顔や身体やギターをちらちらと揺らして、静かな夜の空の下で、小さなスピーカーやアンプから音を出して、ぱちぱちと薪が燃える音がして、煙草を吸う人、缶ビールを飲む人、体育座りの人、音に合わせて揺れる人、みんな好きなように音楽を聴くんだろう。すごく素敵だと思う。きっと忘れられないひになる。
7月9日、麓さんのライブを観て、「麓健一が妖精のように見えた」と知り合いの男性に話したら、「ファンシーだね」と笑われて、でも私が考えた妖精はそんなんじゃなくて、ちっさいおっさん妖精みたいなそういうやつ。彼にそのまま半透明の小さい虫のような羽が生えていて、きれいなものをずっと追い求めていて、それを見つめたり、数えたり、並べたりしている。普通の人より少し過剰にセンチメンタルで、悩んだり恋をしたり泣いたりして、でも人と何が違うのかっていうと、彼は地に降り立てていない。その男の人は「どこへ行くんだ麓健一!」と嘆くような呆れるような焦がれるような口調で吐き捨てていて、いつかグラミー賞のステージで「Miss Misery」を歌ったエリオット・スミスみたいに彼もなってほしいと思ってるんだ、と話してた。いい曲を書くんだからと。それと、彼の視点は彼でも僕でもなく左斜め上後ろから僕や彼を見ているようだと話してた。男から見た、女から見た論は結構盛り上がって、うまく伝えられなかったなとも思ったけれどとても楽しかった。共通したのは「彼は面白いですよね」ってところだった。麓さん自身はステージに立つのが好きじゃないそうなのだけれど、私はもっと人目に晒されてほしいと思っている。その日首が広くあいたカットソーを着て、繰り返しの続く新曲を数曲、思い出の詰まった池袋なのでいつもよりセンチメンタルな選曲、新しい曲の断片と古い曲をつなげて演奏、などしていた。ティファニー、キング、クイーン。歌もギターの音も、どうしてこうももろく、今にも途切れてしまいそうなのだろう。14日のライブに行けなかったのはとても残念に思っている。8月2日のライブはきっと行く。惑星のかぞえかたや王舟ソロも素晴らしかった。
7月1日に下北沢インディーファンクラブ2012へ行ったときは、VIDEOTAPEMUSIC→WUJA BIN BIN→NRQ→(((さらうんど)))→王舟→ホライズン山下宅配便→チッツ→yumbo→oono yuukiと見たんだけれど、個人的ベストアクトは王舟バンドだった。ぎゅうぎゅうだった(((さらうんど)))から抜け出して、ステージの近くで見た王舟のライブ、音楽は、くちびるがわなわなと震えてしまうくらい素晴らしくて、大好きだった。私はきっといま、好きな音楽を信頼しているんだと思う。王舟の音楽はバンドで演奏されたほうが幸福そうだなと感じるんだけれど、月曜日に見たソロも、いい曲のタネを聞かせてもらっているようで良かった。Hara Kazutoshiの「楽しい暮らし」のカバーが好きで、原曲のハラさんと王舟さんとでは歌を伸ばす部分がすこーしだけずれていて、その王舟さんらしさがぐっとくる。

短歌入門の本を読み進めている。普通に電車に乗っていたり美容院で髪を切られていたりするときでも、よい短歌や好きな短歌に出会うと心が震えてしまってひとりで泣きそうになってしまう。鼻がツンとして視界がかすんでくるから慌てて鼻から大きく息を吸って、目を見開いてみる。本の一ページのうちの一行足らずの文字たちに心打たれてしまうのだから、短歌ってすごい。評者が「この短歌はこわいですね」と話しているときがすごく好き。
なぜ一本のギターを抱えて歌を歌わなければならないのだろうとか、なぜ31文字の中だけで歌を歌わなければならないのだろうとか、なんでこんな制限ばかりの中でもがいたり試行錯誤しなくちゃならないのだろうって甚だ疑問に思うのですよ。制限のある中でどれだけできるかを競っていかなきゃならないってことなのかな、もう世の中全部が。セールで安くなってる夏のための服が欲しいけれど、全部同じに見える、こともある。どれも無地か、ボーダーか、花柄か、チェックか、水玉かで、ドルマン袖だったり細めのデザインだったり丈が長かったり短めだったりだぼっとしていたり、赤や青や黄色や白や緑や黒やオレンジやピンクや紫や水色やマスタードやネイビーや、そんなの全部知ってるよ。って思ってしまう。そしてそういうときはだいたい怒っている私。
この前、氷がいつの間にか溶けてしまうようになった冷蔵庫を修理しにメーカーの人が家へあがってきた。あまり片付いてるとはいえない物が多い台所と紙やいらない磁石がぺとぺと貼ってある冷蔵庫を案内するのがとても恥ずかしくて、私が"生活感"を嫌う理由が少しわかった。恥ずかしいし情けないなと思うのだ。生活感を、弱みのように思っている。人を気軽に部屋へ招き入れる友人をすごいなと思っている。もう何年も他人を自室へ呼んだことがない。もうとにかくなんでもないけど恥ずかしいの、生活が。
秘密は本人の口から漏らされるのが一番だったし、私は口を滑らせなくてよかった。太陽に真っ直ぐに照らされていると自然発火してしまいそうだと思うことがあるんだけれど、まさにそんな暑さと、どこへ行っても満席のお店にうんざりしながらも、久しぶりにお気に入りの喫茶店へ入ってゆっくりできてとてもよかった。会社へ着ていく服を選ぶ友人と、そうやって服を選ぶ私を想像できない私だった。
「てのひらが溶けて流れる夢を見た今日はたくさん水を見たから     ねむねむ」