「単なる」「私的な」「個人的見解」と修飾語を連ねても、批判は免れない


id:buyobuyo さんのとこでの id:E-You さんのコメント。本題とは違う話なんですけど。

私とあなたの意見が合わないからといって、批判される筋合いはありません。
だって、あくまで私的な意見だもの。
もしそれがあなたを傷つけたのなら謝るけど、批判?
いったい何様ですか?

  1. 批判は意見が合わないからこそするものです。
  2. 意見が合わなければ、それだけで批判するのに十分な理由になります。
  3. 私的だろうと何だろうと、あらゆる意見は批判に晒されるべきです。
  4. しかし、短絡的な批判は時として誹謗や嘲笑になりさがるので、慎重さが必要とされるのは言うまでもありません。
  5. 「意見の相違に基づく批判」は、傷ついた傷つかないという「気分」の問題に劣るものではありません。
  6. 批判は、その内容が重要なのであって、批判すること自体には何の資格も必要ないはずです。
  7. 嫌ならスルーすればいいと思うよ(僕みたいに)


あらゆる意見は批判に晒されるべきです。あらゆる意見には、誰からでも、いつでも「批判される筋合い」があるのです。批判されるのが嫌なら、口を噤む以外に方法はないでしょう。ときどき「あくまで個人的見解ですけどね」とか言って批判をかわそうとする人がいますが、個人が個人の資格で書いてるのはわかってるんだから、そりゃ「個人的見解」に決まってるわけです。そんなのわかりきってるんですよね。

たぶん、何かしら公的な立場で公的なものとして、あるいは何かの団体を代表するような形で出される意見というものに比べて、個人的な意見を口にするために負うべき責任は小さい、というところから、こういう感覚は来ているのかもしれませんね。しかしよく考えてみれば、個人的な意見を言うのに負うべき責任が軽いのは、「批判を受けるのが自分一人だから」なのではないの?あらゆる発言にはその責任者がいるわけで、他人を代表していないぶん責任が軽いのは確かかもしれないけど、でもそれだって批判されることが前提ですよね。なぜか個人的な意見は批判する/されるべきでない、とか思っている人がときどきいて不思議に思っていたんですが、この辺の感覚の混濁に原因があるのかもなー。


あと、なんかまた嫌われるかもしれないけど、傷ついたなら謝るけど批判はしないでくれ、っていうのも僕には理解できない。「自分はこう考えるから、あなたは間違ってると思う」という批判よりも、「その発言に傷ついた。謝ってほしい」という要求のほうが、そんなに重大なの?いやそりゃね、傷つけなくてすむ所でことさらに人を傷つけるのは良くないと僕だって思いますよ。だけど「間違ってる!」よりも「傷ついた!」のほうがずっと深刻だという感覚は、ちょっと自分には理解できない。いやまあ、これは感覚的なことで意見というほど強いものじゃないですし、別に批判ではありませんけどね。


いやまあ、いつも批判をやんわりとやりすごす僕がこういうこと言っても説得力はないかもしれませんね…。でも、個人的見解だから批判を拒む、という姿勢よりは、自分が正面から向きあうことは稀だけど(弱い)、批判そのものは誰でも好きなだけすればいい、という姿勢のほうが、自分としては誠実なつもりなんですよ。一応。