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2007-04-30

[][]「脳死は一律に人の死」なのか?

衆議院で、臓器移植法改正案の審議が始まるようです。そして早ければ、短期で採決に移るとの報道がありました。提案されている改正案は、中山案(旧町野案→旧河野案→修正)、斉藤案(森岡杉本案→小児科学会案→修正)の2案です。

このうち、現在優勢である中山案は、実に、「脳死を一律に人の死とする」案としても読めるし、「脳死を一律に人の死としない」案としても読めるという、きわめて問題点の多い案です。その点を詳細に分析した論文を、倉持武さんが「現代文明学研究」から刊行されました。

> 倉持武「「脳死は一律に人の死」なのか?:臓器移植法改正「中山案」を解剖する」

衆議院での議論と並行しての論文刊行となりましたが、この問題にご関心のある方や、衆議院の議論と関係している方がおられましたら、ぜひご一読ください。また、関係する方々にぜひこの論文のことをお知らせください。

おそらく今回の衆議院での議論で、臓器移植法の改正の基本枠が決定すると思われます。きっと最後のチャンスとなるでしょう。

PS:臓器移植法改正については、臓器移植法改正を考えるにて、いままでの経緯を知ることができます。

2007-04-29

[][]「きけわだつみのこえ」から聞こえてくる声

きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

『新版・きけわだつみのこえ』は、95年に新しくテキストクリティークを施した新版である。不備の多かった戦後すぐの版に比べて、ずいぶんと原典に近づいているのだろう。学徒出陣で戦地に強制招集され、特攻隊などで死んでいった大学生たちの手記は壮絶だ。これを超える文学作品は多くない。

長谷川信の手記

歩兵の将校で長らく中支の作戦に転戦した方の話を聞く。

女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。

俺は航空隊に転科したことに、一つのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかもしれないが、直接に手をかけてそれを行なわなくてもよい、ということだ。

人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。

人間は、人間がこの世を創(つく)った時以来、少しも進歩していないのだ。

今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。

敵対し合う民族は各々(おのおの)その滅亡まで戦を止めることはないであろう。

恐ろしき哉(かな)、浅ましき哉。

人類よ、猿の親類よ。(284頁)

長谷川は1922年生まれ、明治学院高等部入学、1945年4月12日沖縄にて戦死。23歳であった。

上原良司のことは、テレビなどでも紹介されているから、ご存じの方も多いだろう。みずからを自由主義者と考え、全体主義へと傾斜していく軍国主義日本を否定した。しかし彼はその日本のために自ら命を捨てるのである。

悠久の大義に生きるとか、そんなことはどうでも良い。あくまで日本を愛する。祖国のために独立自由のために闘うのだ。(374頁)

「生を享(う)けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした・・」で始まる上原の遺書は、感動的である。遺書全文は本書で読んでいただくとして、私が注目するのは次のような文章である。

人間にとっては一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は、実に些細な事です。驕れる者久しからずの譬(たと)え通り、若(も)し、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来ることを知るでしょう。若し敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。(376頁)

上原の脳裏には、宇宙全体の歴史から考えたときに、地球はいずれ破裂してしまうのだからいまの戦争など些細なことだという「突き放し」がある。国や民族や地球すらも相対化する知性がそこにはある。と同時に、上原の中には祖国日本のために闘い、死んでいくという自覚もある。しかし上原のこころを一番占めていたのは、おそらく、もっと別のものであった。

天国における再会、死はその道程にすぎない。愛する日本、そして愛する道辧覆ょうこ)ちゃん。(374頁)

上原にとっておそらく一番大事だったのは、きょうこちゃんだ。上原は、家に隠していた羽仁五郎『クロォチェ』の本文に、暗号でメッセージを残していた。そのメッセージを拾い出してつなげると、このようになる。

きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった しかしそのとき すでにきみは こんやくの人であった わたしはくるしんだ そして きみのこうフクをかんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした しかし わたしはいつも きみを あいしている (378頁)

上原が特攻機に乗るときに、きょうこちゃんはすでに天国の人となっていた。上原は、互いに矛盾するいくつもの思索を抱えながら、きょうこちゃんに会いに行った。上原良司、1922年生まれ、慶應義塾大学経済学部入学、1945年5月11日沖縄にて米機動部隊に突入戦死。22歳であった。

戦争を肯定するすべての思想を私は全否定する。

2007-04-28

[][]DPI日本会議神奈川大

6月9日〜10日、横浜で開催されるようです。私も行こうかなと思っています。

http://www.dpi-japan.org/

第23回 DPI日本会議全国集会神奈川大会のご案内

― 私たちの権利条約!新しい権利の時代の幕開けを! ―

 DPI日本会議では、第23回全国集会(総会)を横浜で行います。

 権利条約を機に新たな時代の構築をめざし、目前に広がる自立支援法などの問題に立ち向かうべく熱い議論を戦わせます。障害者の存在や権利について根源的な提起を行った、障害者運動の発祥の地とも言える神奈川。 その神奈川で開催される今回の全国集会が、新しい権利の時代の幕開けとなるべく、積極的な論議が交わされることを期待します。

 皆様のご参加を心よりお待ち申し上げます。

日時:2007年6月9日(土) 13:30〜16:30

          10日(日) 9:30〜16:30

場所:ワークピア横浜 (社)神奈川県労働福祉センター

      〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町24-1

        (電話)045-664-5252 (FAX)045-664-6743

      http://www.workpia.or.jp/

参加費:3,000円(資料代含む)

     懇親会(9日17:30〜) 5,000円(希望者のみ) 

     昼食代(10日)      1,000円(希望者のみ)


主催:特定非営利活動法人DPI日本会議

    特定非営利活動法人神奈川県障害者自立生活支援センター

気になる生命倫理分科会には、青い芝の会の横田弘さんも特別報告者として来られるようです。

特別分科会・1

生命倫理「あらためて問い直そう!優生思想と生きる権利〜『尊厳死法』『脳死臓器移植法改正』の動きの中で」

尊厳死法の法制化の動きや、脳死臓器移植法改正の動き等、重度障害者をはじめとする社会的に「役立たず」とされる人間の命が軽視され、奪われようとしている情勢がある。生まれる時から死ぬまでの人間の命の選別を問題に、それぞれの立場からの話題提供を受け、会場全体で広く論議したい。

○【特別報告】横田 弘(神奈川青い芝の会)

●シンポジスト: 冨田直史(北海道IL-ism)、金子和弘(全国青い芝の会)、ほか関係団体、議員など。

○コーディネーター:片岡 博(全国青い芝の会・DPI日本会議常任委員)

2007-04-27

[][]「パラダイス・ナウ」関西で上映

東京ではいち早く公開されていた映画「パラダイス・ナウ」が、関西でも上映されるとのことである。ぜひ、見てみたい。6日にはアラブ文学研究者岡真理さんのトークショーも予定されているようだ。

関連情報:「映画:パレスチナ若者の苦悩を描いた「パラダイス・ナウ」、来月6日に上映会」

http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/osaka/news/20070425ddlk27200453000c.html

パラダイス・ナウ」公式HP:http://www.uplink.co.jp/paradisenow/

(いきなり音楽と音声が入りますので注意)

[][]道徳教育必要ない

今朝の東京新聞の一面記事。山崎正和さんが、道徳教育を学校カリキュラムに取り入れることに否定的見解を示したとのこと。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007042790080734.html

「道徳教育必要ない」 山崎・中教審会長

 文部科学相の諮問機関・中央教育審議会山崎正和会長が26日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、倫理教育や道徳教育について「学校制度の中でやるのは無理がある。道徳教育は、いらない」と、授業で教えることに否定的な見解を示した。政府の教育再生会議は「徳育」の教科化を5月にまとめる第2次報告に盛り込むなど、道徳教育の強化を進める方針。山崎氏の発言は、「個人の意見」と断った上でのものだが、学習指導要領見直しの議論に一石を投じそうだ。

 山崎氏は「人の物を盗んではいけないかは教えられても、本当に倫理の根底に届くような事柄は学校制度になじまない」と話した。妊娠中絶や、競争社会で勝者と敗者が出ることなどを例に挙げ「学校で教えられるような簡単な問題ではない」と述べ、安易な道徳強化論にくぎを刺した。その上で、「代わりに順法精神、法律を教えればいい」と話した。

 山崎氏は「歴史教育もやめるべきだ。わが国の歴史はかくかくしかじかであると国家が決めるべきではない」とも指摘。「歴史がどうであったかは永久に研究の対象」と述べ、同じ事柄を正反対に記述した歴史文学2冊を読み比べさせることを提唱した。一方で「中教審会長としては委員の意見に耳を傾け伝達するだけ」として、自身の考えを、学習指導要領見直しを議論している教育課程部会の方向性に反映させる考えはないことを強調した。

先日の記事だが、山崎さんが批判する政府の「教育再生会議」は「親学」を提唱している。こちらの会議では、道徳の教育可能性について、楽観的な立場を取る委員が多いようだ。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070426k0000m010157000c.html

山崎さんの問題提起が、今後どう展開していくのか、注目したい。

[][]ウェブに「他者」は現われるのか?

kanjinaiはgordiasの主催者のひとりとして、いままで何度かコメントを削除してきた。そのうちの一件の削除に関して、コメントで渡邊良樹さんという方が違和感を唱えられた(削除されたコメントは別の方のものである)。そのコメントの中で、下記の部分は、改めてエントリーを立てて考えてみるに値すると思ったので、とりあえずここにエントリーを立ててみる。

その部分を引用する。

遠く離れた難民とか言葉を交わすこともなかったホームレスに対してはきわめて共感的なのに、現実に対話している相手とのやり取りがすぐに切れるのも不思議です。反論も何もして来ない相手にだけは、ほしいままに同情できるという風に見えてしまいます。

kanjinaiは、自分が管理人の役割をする掲示板(類)においては、書き込みは管理人が恣意的に問答無用で削除できる、削除の理由は開示しなくてよい、削除に関しての議論は受け付けない、という方針で運営してきた。掲示板は基本的に開設者の私的管理領域であり、そこでは公共的で民主的な議論は不可能である、という考え方をkanjinaiがもっているからである。kanjinaiはgordiasにおいてもそれを踏襲しているし、今後も踏襲する。

渡邊さんの批判は、それに関連している。いままで、アフガニスタンの難民や、ホームレスへの共感、というような話題をしてきていたのに、自分の掲示板に現われた「都合の悪い他者」の書き込みについては問答無用で削除するというのは、ダブルスタンダードなのではないのか、という趣旨の批判だと私は解釈した。

さらにこれを敷衍してみよう。つまり、アフガニスタンやどこかのホームレスという、いまの自分に危害が及ばないだろうような他者に関しては、「他者と出会わなくてはならない」とか「援助しないのはおかしいのではないのか」という姿勢を取りながら、実際に自分に危害が及ぶような他者が掲示板に現われたら、それと対話するどころか、問答無用に削除してそれを切り捨て、目の前から消し去っているではないか。その姿勢こそが最大の問題ではないか、というわけである。(これはkanjinaiによる再構成・再解釈である)。

ここで言わんとされていることを、私は理解できるし、大筋は賛同できる。しかし私には一点だけ異論がある。それは、ウェブに現われてきた都合の悪い書き込みというのは、はたして「他者」なのか?という点である。私はそれを「他者」であるとは考えていない。

私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。

これに対して、昔(このブログ開設はるかはるか以前に)私の掲示板に粘着的な書き込みを繰り返してきた人たちは、この意味での「他者」ではなかったと私は思う。彼らと私の延々と続いたやり取りのなかで、彼らは私からの批判をすべて自分のパラダイムに変換して解釈し、彼らの基準でもって私に反論し、私もまた自分のパラダイムでそれを変換して解釈して彼らに返し、双方とも互いにまったく「ゆらぐ」ことなく、これが延々と続き、ささいな揚げ足取りが永遠に分岐し、やりとりをやめようとすると「あなたは逃げる気か」「それは卑怯ではないのか」「民主的ではない」「説明を求めます」の応酬となり、最後には疲れ果て、徒労感だけが残り、掲示板は荒れ果て、人々は去っていった。掲示板でのやりとりがこのような応酬へと変貌するきっかけといえば、実は、ささいな言葉尻であったり、単語表現であったり、であることが、いまではよく知られている。そしてこのように展開していくやりとりに、「他者」は実は現われていない、というのが私の考え方である。そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。

なぜそこに「他者」が現われないのか。その理由のひとつは、現在の電子コミュニケーションに、「生身の肉体」が現われないからだと私は考えている。そこを切ったら血が出るし、そこを愛撫したら暖かくなるような「生身の肉体」がネットにはない。そこには「他者」は降りてこない。

上記のような体験をしてから、私は、ネットには「他者」との出会いを探さないようになった。そのかわり、私が生身の現実で必然的に出会う「他者」と真摯に応接しようと思うようになった。私はいまそのように生きている。したがって、私は一見ウェブ中毒であるが、実は同時にウェブ・ペシミズムなのである。

「じゃあお前はこういうブログを作って何をしようとしているのか?自己確認をしたいのか?」というふうに問われるだろう。私は、仲間と一緒に、ここで、意見公開と、情報交換と、意見交換と、可能な限りの学び合いをしようとしている。しかし「他者との出会い」というような奇跡をここで得ようとは思っていない。ではこう言われるかもしれない「あなたがそういう姿勢を取ることによって、あなたは、他者からの声がウェブに降りてきたときにそれを見ることなく、不当にも目を閉ざしてしまうことだろう。それはあなたの哲学に背くのではないのか」、と。それに対して私は答える「そういうことがないとは言えない」「だが、私はウェブよりも生身の世界のほうを愛している」と。

もちろんこれは極論ではある。そのことは分かっている。しかし私のウェブ観の基本はこれである。

もちろん、「いのちの電話」的なコミュニケーション、それは私がかつて(1993年)「意識通信」と呼んだものであるが、それがウェブで可能であることは事実である。しかしそれが可能になるためには、どのくらいの条件と偶然が伴わなければならないか。それは誰でもが見れる公開の掲示板で実際可能なのか。この点についても私はいまペシミスティックである。

問題点が広がりすぎてしまったが、ウェブに他者は現われるのかという点は、大きな論点であると思う。私の以上の考え方は極端であるだろうし、ほかにも様々な考え方が可能だろう。

__________

追記

id:mojimojiさんによる応答「他者を歓待するブログについて」が、G★RDIASにゲスト投稿された。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070529/1180428267

それへの私の応答「ウェブに現われる他者の具体的検討」が掲載された。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070602/1180711842

2007-04-26

[][]エロスと倫理学

藩金蓮さんのブログは前にも紹介したが、今回のエントリもなかなか興味深い。

「あなたしか知らない女」

http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070425#p1

このようなエロスの奔流に対して、倫理学はおそらく何もまともには応答できないだろう。私はそこに学問としての倫理学の限界を見る。それはまた私が倫理学を捨てた理由でもある。私はこの書き手のことをまったく知らないが、おそらく専門的訓練を受けてはいないだろうこの書き手の腕力には毎度感心してしまう。

[][][] 暴走する九鬼周造先生

私が真の哲学者に感じるのは、一種の「暴走感覚」だ。ニーチェの暴走感覚はまた格別だが、フロイトフーコーにもそれを感じる。日本では、なんと言っても九鬼周造だろう。私は、日本の哲学者では彼にいちばん才能を感じるのだが、それは私が九鬼の暴走に惚れ込んでいるからにちがいない。

九鬼の代表作のひとつに『「いき」の構造』がある。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

九鬼は「いき(粋)」とは何かを哲学的に考察する。九鬼によれば「いき」とは、「媚態」というものが、武士道にもとづく「意気地」と、仏教にもとづく「諦め」によって、完成させられたものだ。九鬼曰く、「いき」とは「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である(29頁)。

「恋」は「いき」じゃない、「「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ」(28頁)とか言ってる時点で、もうかなりヤバイのであるが、これなどは序の口であろう。

それで、「模様」のなかでは何が「いき」か、という話になって、九鬼は「縞模様」が「いき」であると言う。なぜなら、「永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線」が、「いき」の本質であるところの、武士道にもとづく「意気地」と、仏教にもとづく「諦め」の<二元性>を、もっともよく表わしているからだ。(63頁)

そのうえで、九鬼は断言する。

まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。(64頁)

九鬼は堂々としたものである。その理由をちゃんと説明してある。なぜ横縞よりも縦縞が「いき」なのかと言えば、それは人間の目が横に二つ並んでついているからである。横に並んだ目は、横縞よりも縦縞のほうを、容易に平行線として知覚する。つまり、縦縞のほうが、上記の「意気地」と「諦め」の<二元性>を、はっきりと意識することができるからである。だから縦縞のほうが「いき」である、と。

九鬼は、これだけでは説得力不足だと思ったか、次のように付け加えている。

なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。横縞には重力に抗して静止する地層の意味がある。縦縞には重力とともに落下する小雨や「柳条」の軽みがある。(65頁)

まったく論証になっていないのだが、私は九鬼のこういう文章に実は惹かれる。さらに九鬼は書く。

例えば、すらりとした姿の女が横縞の着物を着たような場合、その横縞は特に「いき」である。およそ横縞は場面を広く太く見せるから、肥った女は横縞の着物を着るに堪えない。それに反して、すらりと細い女には横縞の着物もよく似合うのである。しかし横縞そのものが縦縞より「いき」であるのではない。全身の基体においてすでに「いき」の特徴をもった人間が、横縞に背景を提供するときに初めて、横縞が特に「いき」となるのである。(65〜66頁)

これが、日本を代表する哲学書に書かれてある文章である。ガチガチの概念分析のあいまに出てくるこのようなユルい文章も、実は計算尽くであるように思われる。

また、「いき」な色とは、ねずみ色、茶色、青系統の色だと九鬼は言うのだが、その理由はと言えば、

要するに、「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に<生き>ている。個人的または社会的体験に基づいた冷ややかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥(なず)まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿(かく)している。(74〜75頁)

分かるようで、何を言っているのかよく分からない。でも、かっこいい。

『いきの構造』は、最初のほうは、概念的分析をきちきちとやっているのだが、だんだんとそのうちに、自分の美感というか趣味というか、そういうものと論理とが混ざり合ってきて、途中からはもう、いったい論証なのか、オヤジの飲み屋の蘊蓄なのかさっぱり分からないという状態に突入し、こんな着物が「いき」だとか、こんな女が「いき」だとか、こんな建築が「いき」だとか大暴走をはじめ、怒濤のように終局に向かうのである。論理分析という装いを取ってはいるものの、この本の最大のおもしろさは、「俺が「いき」だと言うから、これが「いき」なのだ、文句あるか!」という九鬼の暴走感覚にある。ここまで言うと、京都学派のみなさんからは顰蹙を買うだろうが、私は、九鬼のこういうところを尊敬しているのである。私も九鬼のような哲学者でありたい。

2007-04-25

[][][]性と暴力のアメリカ

 GWあたりに読んでみようかと思っています。

 斎藤美奈子さんの書評。

no title

2007-04-24

[][][]朝日夕刊に青い芝の会

関西だけの連載かもしれないが、4月23日付朝日新聞の夕刊の連載「ありのまま生きて(6)」に、青い芝の会*1が登場している。副題は、「反差別 過激と言われても」。記事は、7割がた横田弘さん(青い芝神奈川県連合会長)のインタビュー。

青い芝の会は70年代、その「過激」な行動で世に知られる。

70年5月、横浜で30歳の母親が脳性まひの2歳の娘をエプロンのひもで絞め殺す事件が起きた。母親に同情する人たちが減刑嘆願運動を始めた。横田は恐ろしくなった。

「減刑になることは、僕たちの存在が、社会で殺してもいいということ。冗談じゃない」(横田(引用者註))

愛と正義も否定、ですか?

「かわいそうだから障害児を殺したほうがいいという、そんな愛ならば、いらない」と横田。

(横田(引用者註))「形の違う者、能力の劣る者を排除しようとするのね。でも絶望的な顔をしないでちょうだい。そういう矛盾を抱えているとわかればいいんだ。ひとり一人が。僕は絶望してませんよ、人間に。絶望してたら、運動なんかしてない」

私見を述べれば、「そういう矛盾を抱えているとわかればいい」だけではない、もう少し進むことができる、と思っている。しかしそれは、横田らの思想を真に受け止めた上で、なお後に続こうとする者たちの仕事だとも思っている。その意味で、青い芝の会の思想は「原石」であると思う。

=参考=

*1:「「踏まれても踏まれても起きあがる芝」から名づけた」とある。

2007-04-23

[][]創造説は見えすいた嘘、か?

たまたま読んでいた本に、次のような会話があった。

功刀(由紀子):社会的な受け入れ体制と科学者の積極的な努力がなければ、誤った考え方や偏見がいつまでも社会にはびこることになりますね。

赤松(良子):もう一つ教育の問題も大切です。ところによっては、地動説さえ教えられてない学校があるっていいますからね。

功刀:米国では聖書の中身を教えるように強制されている州もあるとか。カソリック女学校で教育を受けた学生が、「創造説の講義を受けた」と言ってましたもの。

板東(昌子):そういう見えすいた嘘は論外として、教育にはたくさんの問題がありますね。たとえば・・・(以下ジェンダーの話)

『性差の科学』一九九七年(功刀由紀子・・愛知大学教授・農学博士、赤松良子・・元文部大臣、板東昌子・・愛知大学教授・理学博士)http://leo.aichi-u.ac.jp/~kunugi/seisa/j/senden.htm

この、「そういう見えすいた嘘は論外として」というのは、文脈上、「創造説」のことを指すと思われる。創造説を、「見えすいた嘘」とさらっと言えてしまうことが、日本社会においてキリスト教徒が疎外感を感じてしまう理由のひとつなのだろうかと思った。

ちなみに、化石ごと創造されたとする創造説を「論理的に」否定するのは至難の業であることは哲学思考実験によってよく試されている(バートランド・ラッセルなど)。感情的に否定するのは簡単。もちろん実証するのも至難の業。ちなみにkanjinaiは宗教を信じてはいない。

[][]いまどきの女と男

kanjinai さんのエントリーに関連した連載を読んだ。オーマイニュースの記事で、記者の方は kanjinai さんと同世代である。

特集

http://www.ohmynews.co.jp/feature/5?member_id=8009

自立した女性、支える男性〜亀山早苗コラム(12)〜

http://www.ohmynews.co.jp/news/20070410/6095

この記事では、働く女性が期待する男性像が語られている。

 女性への尊敬の念をきちんと表現できる男性は、まだまだ少ない。女の愚痴なんて聞くに値しないと感じつつ、半分流しながら聞いているフリをする男はいても、本気で受け止めて励ましてくれる男は少ない。だからこそ、自分の道をまっすぐに進んでいこうとする女性は、サポートしてくれる男性を選ぶ。

一方、kanjinai さんの発言

モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。

パートナーの女性に「尊敬の念」を表現し、彼女を「大切にすることができる」という点が鍵なのだろうか。

下記リンク先のアンケート「夫に言われて傷ついた一言」では、男性(夫)の敬意のなさが女性(妻)を傷つけていることが示唆されている。

http://www.nikkei.co.jp/p1/ranking/

2007-04-22

[][]「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報

バージニア工科大学事件の追悼がキャンパスで行なわれているが、キャンパスに置かれた犠牲者追悼のための「石」に、33個目の石、つまり容疑者のチョ・スンヒのためのものが追加されたとのことである。

Associated Press の Matt Apuzzo は次のように書いている。

"With this evil, there is still goodness." The mourners gathered in front of simple stone memorials, each adorned with a basket of tulips and an American flag. There were 33 stones - one for each victim and Cho Seung-Hui, the 23-year-old gunman who took their lives.

"His family is suffering just as much as the other families," said Elizabeth Lineberry of Hillsville, who will be a freshman at Tech in the fall.

As experts pored over Cho's videotaped rant and his twisted writings, Gov. Timothy Kaine declared Friday a statewide day of mourning for the victims, and parents urged everyone to focus on the young people cut down in the attack, not the killer.

http://test.denverpost.com/sportscolumnists/ci_5714582

容疑者の分まで置いたというのは「彼の家族も、他の家族と同じくらい苦しんでいるから」。

「33個目の石」は、米国の「大学」という特殊世界だからこそ可能だった出来事のように思う。アラブ系への偏見や脅威が続く中で、注目すべきことだと思う。

振り返ってみて、日本でこういう「33個目の石」みたいなことは、ありえるのだろうか。もし仮に、こういう事件が日本で起きていたら、「33個目の石」みたいなことをする人がいるだろうか。もし誰かがそういうことをしたとしたら、それこそ週刊誌やネットが、徹底的に叩くのではないだろうか。「お前は殺人犯の肩をもつのか!」と。

私は米国社会一般がすばらしいなどという話はしていない。「33個目の石」みたいなことは、おそらく日本では起きえないだろうという暗い予測を述べている。もし学生がやろうとしたら、大学側が止めると思う。「世間から何を言われるか分からないから、やめておきなさい・・・」と。

2007-04-21

[][]安倍首相の慰安婦問題への責任と反省とは?

安倍首相がニューズウィークウォール・ストリート・ジャーナルに「慰安婦」問題に関しての「責任」問題を語ったらしい。

毎日新聞による安倍発言の要旨

慰安婦の方々に人間として心から同情する。そういう状況に置かれたことに、日本の首相として大変申し訳なく思う。(軍による狭義の強制性はないとした過去の発言は)私が初めて述べたのでなく、今までの政府見解だ。ここで事実関係を述べることにあまり意味がない。彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に、我々は責任がある。非常に苦しい思いをしたことに責任を感じている。河野洋平官房長官談話を私の内閣は継承している。

ポイントは、日本軍による狭義の強制性についての「事実」や「責任」については何も述べずに、慰安婦として存在しなくてはならなかった「状況」に対する「責任」を述べていることか。政府筋の作文技術はなかなか周到である。

あと、面白いのは各紙の反応、とくに、次の2紙を比べてみよう。

読売新聞

 さらに、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀で、日本にもその責任があり、例外ではない」と述べ、慰安婦問題を人権問題と位置づけ、日本の責任を明確に認めた。

産経新聞

 一方で、首相は「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だが、日本も例外ではない」とも述べ、戦時の人権侵害が日本だけの問題ではないことをにじませた。

(^_^)

NewsweekWall Street Journalは読んでみないといけないですね。ウェブに出るかな?

===============

追記:Newsweek 記事が出ていました(eireneさん情報による)

核心部分は、ここ。

We feel responsible for having forced these women to go through that hardship and pain as comfort women under the circumstances at the time.

http://www.msnbc.msn.com/id/18233740/site/newsweek/page/3/

「当時の状況下において、彼女たちが慰安婦としての苦難と痛みを味わうことを強制したことに対して、われわれは責任を感じます」(仮訳)

日本軍の強制連行については、まったく触れていません。

[][]バージニア工科大学事件とアメリカ映画

バージニア工科大学事件の犯人チョ・スンヒが、韓国映画オールドボーイ」の影響を受けているのではないか、ということをニューヨーク・タイムズが報道して英語世界では話題になっている。

(ヘラルドトリビューン版)

http://www.iht.com/articles/ap/2007/04/20/america/NA-GEN-US-University-Shooting-Movie-Inspiration.php

ここのところ英語系TVばかり見ているので、日本での報道がどうなのかいまいち分からないが、英語系TVではこの事件のことばかりずっと放映している。次々と続報が出てきて、お祭り騒ぎである。なかでも犯人が送りつけてきた写真、ビデオ、手記は何度も流されてインパクトが高い。そのなかで、韓国映画からの影響説が出てきたわけである。

私は「オールドボーイ」という映画を観ていない。だが、直観的に思うのは、米国メディアの一部が、またこうやって自国の病から目をそむけようとしているのではないか、ということだ。あの写真とビデオを見て私が最初に思ったのは、これは「タクシードライバー」のトラヴィスじゃないか、ということだ。「タクシードライバー」を観た人には説明不要だし、観てない人には説明できないのだが(これはいかにこの映画が優れているのかを証明しているのだが。(蘊蓄:ちなみに「パリ・テキサス」の主人公もトラヴィスという名前))、チョ・スンヒの病の核心部分は、すでにこの映画によって描き切られているように思うのである。鏡に向かって「Me?」銃シャキーン!!、みたいな。そしてあの映画のラスト近くの残虐性も連想されよう。

もし映画の影響を言うのなら、世界で最も残虐なアメリカ映画こそを取り上げなければならないであろう。そこを飛ばしておいて、韓国映画だとか指摘するのは、目隠しも甚だしい。「悪魔のいけにえ」やら「パトリオット・ゲーム」やら、殺戮場面が平気で描かれるアメリカ映画こそが、アメリカの残虐嗜好・連続殺害嗜好をもっともよく反映しているのであり、それこそがいつまでたっても銃を手放すことができないアメリカの病を象徴しているのである。

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追記:id:kagamiさんが、犯人の映像がTVで繰り返し流れたことで、真の狂気・邪悪が全米に流れ、犯人の思うつぼになったと指摘している。

http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070420

そのうえで思うのは、その狂気・邪悪を涎を垂らして消費し快楽しようと待ちかまえていたものこそが全米の視聴者という怪物であり、TVはそれに応えるために映像を流したのではないのか、というのが私の言いたいことのひとつである。映画「ネットワーク」を想起せよ。視聴率のためにはキャスターすらライブで殺すTV局と、それを求める視聴者との共犯関係。

2007-04-20

[][][][]On Faith

 On Faith は、Newsweek 誌と Washington Post の編集者二人が共同で運営しているサイトである。米国宗教界のオピニオンリーダーたちがパネリストになり、さまざまな問題について積極的に発言している。読者のコメントも書き込めるようになっているのが特徴。

 米国宗教界の関心事や、宗教者に固有の視点に触れることができる点で、なかなか有益なサイトだと思っている。

http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/

 ここ数日、新聞も読まず、テレビも見ない生活だった。ヴァージニア工科大学の事件については、ようやく各種記事をまとめ読みしている所だが、On Faith では、18人のパネリストが、この事件について文章を寄稿している。

http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/2007/04/virginia_tech/

 私個人は、Reese 神父カトリックイエズス会司祭)の文章が、よく書かれていると感じた。

[][]「加担する」とは何をすることなのか

先のエントリーで、「「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか」と問いかけた。

それに対して、次の3つの意見がみなさんより出てきた。

(1) 加担したと言える。

(2) 加担したとは言えない

(3) よく分からない(加担したと言われればそういう気がするが、・・・)

私自身は、(1)の「加担したと言える」という意見を持っている。アフガニスタンまで行く前に、まず目の前での出来事でどうなのかを確認し、そこから階段を上っていこうと思ったわけだ。だが、「加担したとは言えない」という声が実際に上がるとは想定していなかったのは、私の甘さであろう。

なので、さらなる迂回路を通ることになるが、このケース(再掲する)で、「加担したとは言えない」ということが、ほんとうに言えるのかどうかを検討しないといけない。

寒い夜、道を歩いていると、ホームレスの人が道ばたで倒れていた。私は警察を呼ぶこともせず、救急車を呼ぶこともせず、黙ってそこを通り過ぎた。夜でもあり、人気は少なかった。

この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。

「加担したとは言えない」とする理屈として、

理屈1

私が黙殺したことによって、そのホームレスの人の寿命や健康状態が短縮・悪化したかどうかは確定できない。ただ寝ていただけかもしれない。寒さにとても強い人かもしれない。云々。だから、「加担した」とは確言できない。

理屈2

通行人には、救助する作為義務はない。(勤務中の警察官等にはおそらくある)。作為義務違反がない場合は、「加担した」と言うべきではない。

これらに対して、もし理屈1が言えるというのなら、じゃあ、いったいどういうケースなら「加担した」と確言できることになるのか? 目の前で死に至るのをじっと見続けていた場合とかか? 目の前でその人が死に行くことを確認して黙殺するケース以外では、「加担した」と確言できない、ということになるのだろうか。

もし理屈2が言えるというのなら、目の前でその人が死に行くことを確認して黙殺する通行人もまた「加担した」とは言えない、ということになるのだろうか。加担したことになるのは、救助義務、通報義務が法的にあるとされている人のみである、と。

ひとつ議論すべきは、「加担とはそもそも何か」という点。「責任」論に行く前に、「加担」論が必要か。倫理的次元と法的次元の腑分けも含めて。(これはアフガニスタン・ケースでも言えることかもしれない)

こういう仔細な議論を喜々としてするのって、学者の空論じゃないか、という違和感をもつ人も多いよね。こんな議論を積み重ねることが必要なのではなくて、「そこに人が倒れていたら、すぐに助けられるようにしていく」ことが真に大事なことだろう!、と。私もその意見に賛同します。そのうえで、実は、両方とも必要と言っていきたい。

亀の歩みのように進んで行こう。(途中で冬眠するかも、というか、きっとする。あとブックマークコメントは、「座布団一枚!」的な芸のあるもの以外は、基本的にネタ・釣りとして費消していきますのでよろしくです。)

2007-04-19

[][]好井裕明『差別原論』(平凡社新書

以前kanjinaiさんが書かれたエントリ「社会学と「生き方としての学問」」に関する類書が出版された。

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

<わたし>はいかに差別をしてしまうのか、その心性と社会構造とを好井さんは丁寧に見て取っていく。とりわけ、部落差別と障害者差別が好井さんの原風景のようだ。

「生きられた優生主義」の項で、好井さんは言う。

私はその話(引用者註・ナチスのような優生主義ではなく、この10年の英米系の生命倫理の議論で出てきた、個人が自主的に決めた行為であれば、優生学は承認されるというもの)を聞きながら、恐ろしくなった。これから生まれようとする存在を、すでに生まれている誰かの意志で否定できるというものだからだ。なぜそのような議論が成り立つのか、それは生命倫理などの専門書を読んでほしい。でも私がここで確認したいのは、「生きてもいいよ」という世の中をなんとかしてつくりたいと思うとき、生命(いのち)の値踏みをいったい誰ができるのだろうか、ということだ。私は、そんなことはできない、やるべきではない、と思う。確かに、今の世の中は、障害のある人にとって、まだまだ住みやすいものではない。こんな新書を私が書きたいと思ってしまうのも、その表れだろう。でも仮にきっと生きづらいだろうから、この子はこの世に生まれないほうがいいと勝手に決めつけるという生命(いのち)の値踏みは、やはりするべきではない。(pp.192-193、強調引用者)

この世の中が障害者が生きにくい世の中であるのは、明らかに私たちが障害者を(とりわけ重度であればあるほど)「生命の値踏み」にかけてしまうからである。その社会自体の分析ももちろん大切である。その上で、「私たち」に必然的に組み込まれる好井さんご自身もこの本の中では、また一人称の<わたし>として再帰的に分析対象となっている。フィールドワーク全般や、生命倫理、差別問題に興味のある初学者、とりわけ大学1−2年生向けの入門書であるといえる。それと同時に、<わたし>から始まる社会学の、好井さん的視点の詰まった<抗い>の書とも言えよう。

2007-04-18

[][][]サルトル的「責任論」

本来なら、『実存主義とは何か』を引用すべきだが、あいにく手元にはないので、以下より引用。

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

サルトルは、自分の行動を選ぶことは、自分個人だけの問題ではなく、人類全体の問題だ、と主張する。たとえばある人が結婚を選択したとする。それは、人類全体をほんの少し、一夫一婦制の方向に進めたことになる、とサルトルは言う。

私は、「私とは〜である」ということに責任をもっているだけではなく、「人類とは〜である」ということにも責任をもっているのである。彼はここで、自分の行動は自分だけの問題だ、という個人主義を否定している。(p.128)

これがサルトルの思想の1つの核を射抜いているとして、確かにナイーブな感じは否めないし、言い直したいところもいくつかある。しかし、私にとってこうした考えが原点にあることは間違いない。ここから、どのように「責任論」を組み立てていくか。

(追記:孫引きですみません)

2007-04-17

[][]ホームレスの人を助けなかった私

前エントリーでは、搦め手から迫ろうと思ったが、うまく成功しなかったので、今回は正面から行きます。これは、x000000000さんのエントリーに発する論争を腑分けするための私なりの第一歩の問いです。x000000000さんは遠いところにいる人々をテーマにしていますが、私はそれを問う前にまず目の前の人のことを考えてみます。

寒い夜、道を歩いていると、ホームレスの人が道ばたで倒れていた。私は警察を呼ぶこともせず、救急車を呼ぶこともせず、黙ってそこを通り過ぎた。夜でもあり、人気は少なかった。

この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。

みなさんはどう思いますか?

なお、極限状態のケースを創作することで倫理の問題を考えることはよろしくないという趣旨の意見がありましたが、上記の例は私が実際に大阪市で遭遇し、私が実際に取った行動であるということを、(痛みとともに)ここに記しておきたいと思います。

私が問いかけているのは、括弧内の最後の一文の問いです。評論や蘊蓄ではなく、この問いへの正面からの回答を聞くことができればうれしいです。

___________________

追記:

続きは、ここ。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070420/1176996502

[][]筑摩書房の新刊(5月)

http://www.chikumashobo.co.jp/comingbook/

 哲学関連書も何冊かありますね。『高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選』なんていう本も。

 個人的には、阿満利麿さんの『仏教と日本人』(ちくま新書)が気になります。

2007-04-16

[][]ホームレスの人を助けるべきか

x000000000さんのエントリー「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」(2007年4月9日 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070409/1176086019)が、hatena村で異様な反響を呼んでいるようである。それらの反響は、どれもたいへん興味深い。

x000000000さんの提起された論点については、私も結論をもっているわけではない。ここではまず、ザックリとした問題提起をしてみたいと思う。

x000000000さんの当初の論点はこれであった。

たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。

目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。

それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。

このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。

仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。

これに対して、いろんな反論が投げかけられている。とくに、最後の一文に対して、それは違うだろう、という反論が多いようだ。

では、次のようなケースではどうなるのだろう。(次のケースは、上記のケースとはまた異なった設定である。上記のケースを深く考えるために役立つかもしれない)。

私の住む大阪市では、寒い夜に、道ばたによくホームレスの人が不自然な姿勢で倒れている(ように見える)。

私はこのような知識を持っている。「ホームレスの人は致命的な病気を持っていても、お金に余裕がないために病院にかかれず、死期を早めてしまうことが少なくない」。

さて、私は8千円持っていて、いまからそれで手塚治虫全集を買おうと思っていたのだが、私の目の前で倒れているホームレスの人に声をかけて、8千円を渡せば、ひょっとしてその人がそれで病院に行き、致命的な病気が見つかり、その人がより健康になり長生きするかもしれない、と思う。だが、私にとってはその人の命よりも、手塚治虫のマンガのほうが大事だったので、そのまま無言で通り過ぎた。

さて、この場合、私は「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。

もしそれが言えるのなら、私と同じような行動をしている人々すべてに、それは言えることになるでしょう。

もしそれが言えないのなら、高額所得者である私は、<すごく心が楽になります>。

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追記:17日に新バージョンを書きました。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070417/1176810310

[][]山本義隆さんの新著

 『磁力と重力の発見』の山本義隆さんの新著が、まもなく発売されるようですね。科学史や、ヨーロッパ思想史に関心のある方は、要チェックの本ではないでしょうか。

一六世紀文化革命 1

一六世紀文化革命 1

一六世紀文化革命 2

一六世紀文化革命 2

 みすず書房の website

http://www.msz.co.jp/news/topics/07286.html

2007-04-15

[][]Web評論誌「コーラ」

創刊号が発刊されたようです。要注目!

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

私は、広坂朋信さんが書かれた「「嫌倫家」末木文美士氏への違和感――『仏教vs.倫理』をめぐって」が非常に面白かったです。

[][]人を責めるのはよくないのか?

私の投稿した記事「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」に関して、さまざまな反応をいただいている。それはそれで、非常に面白い。

その上で言えば、「自責としてならよいが、他人の責任を追及するような言い方はいかがなものか」という言い方が複数散見された。これは単に、「他人から責任があると言われたくないだけ」なのではないか、という感じもした。ただそのことが、暴力だという批判は承知している。承知した上でなお、他人の責任は、それがあるならば追及されてよいとは思う。もちろん、そのときに「言い方」や、「誰が言っているのか」という問題は残るとは思うが。

あと、私たちはどうしたところで生命を貪りながら生きているし、生命の宿命として他の生命を殺しながら生きながらえることは、事実として認めなければならない。それを悪と呼ぶなら、私たちは悪を背負いながら生きざるを得ない。本当の問いは、「悪を背負いながら、私たちはどう生きるか」にあるのであって、「悪を悪だと考えない」ところにはないように私には思える。そしてそれこそが、「責任」ということを考えるにあたっての最初の一歩になるのだと思う。「他の生命を殺しながら生きる、ということを背負いながら、一方で私たちは他の生命とどうともに、豊かに生きていこうとするのか」。この問いを、私は手放さずに考えていきたい。

 

[][]宮台真司さん、モテを語る

 三人の社会学者による鼎談。電車の中で少しづつ読んでおりますが、宮台真司さんが本書で「モテ」について発言している。興味深い論点が含まれているように思ったので、紹介したい。

……

 オタク問題で言えば、ライターの本田透さんが、「自分たちオタクがモテないのは女が資本主義化しているからだ」というルサンチマンを、ネタとしてであれ振りまいています。ぼくに言わせると「まともな感情プログラム=”論理”」を欠いているという他ありません。

 女性の立場から見るとよく分かります。女にモテるために必要な要素は単純です。ぼくの周囲のナンパ師を見ても、本田さんの言うように「イケメンかどうか」とか「金があるかどうか」は関係ないんですよ。ナンパ師の大半には両方ありません。

 あるのは、コミュニケーションの力です。それも高度なコミュニケーション能力が必要というわけじゃない。誘惑術なんてまったく関係ない。たんに、女の子のことを理解してあげる力があればいいというだけの話です。

 ところが、これが昨今の若い男の子にとって難題みたいなんですね。たぶん昔の男にとっても難題だったのでしょう。でも、自由恋愛が当たり前になって四〇年近い年月がたち、女の子たちはますます一緒にいる時間の充実を追求するようになりました。昨今の若い男の子にこれに応える力がないのですね。

 これが若い男の子にとって難題なのは、理解に必要なキャパシティがないからというより、余裕がないからといったほうが正確かもしれません。自分のことで精一杯。何に精一杯かというと、自分を承認してもらうことに精一杯。ボクはこんなにダメな人間だ。コミュニケーションもできない。カッコも悪い。それでも「そんなアナタが好き」と言ってくれる、そうした「すべてを受け入れてくれる少女」というロリコン的な形象を追い求めるわけです。

 ぼくらの世代でも中学生ぐらいまではそういう幻想を抱いたりしました。ぼく自身もそうです。でもそこから先、そういう幻想をもつ男は、男のあいだでも軽蔑の対象になりました。だから、自分本位の幻想を捨てて、現実の女の子に対処しようと思ったわけですね。

 いまやオタクという言葉からは、侮蔑的な意味が消えつつあります。そのぶん、「全てを受け入れてくれる少女」というロリコン的な形象が、成人した後も維持されやすくなっています。女の子からすれば、まったく馬鹿げた要求だということになります。

 こうして、理解を求める女と、承認を求める男の、巨大なミスマッチが生じています。そのことは誰の目にも自明なはずです。彼らがモテたいと思うなら、「そんなアナタが好き」と言ってくれる女の子の登場を待ち望まず、理解の能力を獲得すればいいだけの話。

 まったく論理的な話でしょう。別にナンパ術がどうのこうのじゃないんです。こうした単純なことが分からないのも、「まともな感情プログラム」をインストールされていないからだと言えます。昔はわざわざインストールを考える必要はなかったけど、いまは違います。

……

(p.30-32)

 宮台さんが「女の子のことを理解してあげる力があればいい」という部分は、なるほどと思う。私の観察でも、そのような男がモテているような印象はある。

 ただし、ここで「ナンパ師」が例に挙げられているのは、ちょっと微妙か。kanjinai さんのような立場(前日のエントリー参照)からすると、「ナンパ師的なモテ方=権力欲から脱却していない男のあり方」という意味になりそう。その意味で、批判の対象になりそうだ。

[][]講座「不安社会ニッポン」をどう生きるか

 NPO法人 PARC の自由学校で、興味深い内容の講座があるようです。

http://www.parc-jp.org/main/a_fs/kouza/2007/14/index_html

http://d.hatena.ne.jp/parcfs2007/20070302

 講師陣が注目ですね。杉田俊介さん、生田武志さん、雨宮処凛さん、赤木智弘さんら、注目の論客も登場されるようです。

[][]女であることとセックス

たまたま読んだ、藩金蓮さんのエントリーが非常に面白かった。この方は、「AVを見る関西在住三十路女」とのことだが、自省的な深まりは哲学的な素質を感じる。たとえば、下のリンクなど。タイトル、内容はアレだが、とくに後半が読ませる。私は感動しました。

美少女調教日記 〜D-1クライマックスとNちゃん・後編〜

http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070107#p1

お前も私も女という醜悪な怪物だ ―「グロテスク」 桐野夏生

http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070211#p1

2007-04-14

[][]モテとはひとりの女を大切にすることである

モテ/非モテということが、男子のあいだで話題になっているようだ。これについては、人生の先輩として言いたいことがいろいろあるので、少しだけ書く。

モテは、「ちょいモテおやじ」みたいに、いろんな女にちやほやされて、性的な視線を送られることというふうに理解されることが多いと思うが、そこをコペルニクス的転回しないといけないように思うのである。

そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。

そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。

では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえずいまは男性の側に立った異性愛のみを考える。クィア論的次元についてはおいおいのちほど)、次のような男のことである。

モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。

そういう男になることができたら、その結果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。

これが、私の考えるモテる男である。

そんなのはモテる男とは言わないだろう!と思った男子諸君、では、きみたちのそばにいる女子諸君に、↑のような男がいたらどう思うか?と聞いてみてほしい。それで、↑のような男がモテる男だと言っているやつがいるが、どう思うかと聞いてみてほしい。(私もその結果を知りたいのでよろしく)

もちろんこれを読んだ諸君からすぐに反論があるだろう。

・そもそも「恋人」ができないのに、大切にすることなどできない。

→でも、モテの概念を変更して、上記のような能力を磨いていったら、恋人ができるようになるかもしれない、とは思えませんか?

・どうやってそういう能力を磨くのか?

→それは今後、徐々に述べていきます。

・モテは「顔」である。キモメンは、何をしてもモテない。

→モテの概念を変更しましょう。そしたら、ブサイクなキモ顔でも、きれいな女子を恋人にできている男が実在することを発見することでしょう。(事実を隠蔽してはいけない)

・俺はいろんな女とやりたい、ハーレムを作りたいんだ。

→権力欲丸出しでは、きっとモテないでしょう。

・どうせモテないんですよ、ほっといて。

→はい。

・非モテで団結して恋愛至上主義社会を解体しよう。

→はい、面白そうですね。

・どうせ、「きみひとりだけが好きなんだ」とかを、いろんな女に囁いて、やりまくっているだけだろう。

→山脈は、いちばん高いところを越えましょう。そういうふうにひがむあなたの権力欲が、女子を警戒させているのかもしれませんよ。

・問題は、そんな権力欲とかではなくて、「劣等感」なんですよ。

→その点は、よく分かります。でも劣等感をくぐり抜けて、モテるようになる道筋はきっとありますよ。権力欲とひがみとに絡め取られるのを慎重に避けながら。

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追記:14日午後

非モテについては、hatenaキーワードにまとめがある模様:

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6

革命的非モテ同盟に、「喪男の倫理と非モテの精神 −非モテの残された道− 」という文章がある模様:

http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20070326/1174845264

ともに「モテ」の定義があいまい。これについてはまた書きます。

追記:14日午後2

モテの定義は、hatenaキーワードにありました:

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%C6

このエントリ「非モテ界隈における「モテる」の定義」も有益:

http://d.hatena.ne.jp/maroyakasa/20050906#p1

モテ概念の2種類は、非常に興味深い。また書きます。

追記:5月1日

続編を書きました。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070501/1177947000

2007-04-13

[][]ペットブームの光と影

http://www.tv-asahi.co.jp/earth/

 テレビ朝日系列で、15日・日曜日の夜(23:00-23:30)に、遺伝子組み換え生物の特集があるようです。遺伝子組み換えで体が光るようになったメダカは、以前、NHKも特集していましたが。

参考

BBCの記事

http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/3026104.stm

環境省「未承認の遺伝子組換えメダカの回収のお願いについて」

http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=6802

[][]行動遺伝学と優生学の・・・

雨崎良未さんのブログで、日本の行動遺伝学(双子の研究にもとづく)の第一人者である安藤寿康さん(慶応大学)と、雨崎さんの対話が始まっている。双子の実証的研究をすると、人間というものがどこまで遺伝(子)的に決まっているのかということが、科学的に判明するというのが安藤さんの立場です(もちろん環境からの影響はある)。ところが、研究倫理、優生学の扱い、正義などをめぐっていきなり二人のすれ違いが起きています。このすれ違いは、読みごたえがありますので、興味ある方は参戦されてみては。

ちなみに、私は安藤さんとは知り合いでして、安藤さんが実は優生学や倫理などの文系の視点を強くもっている、この分野ではめずらしいタイプの方だということを知っているのですが・・・。それでもすれ違うのか・・・という驚き。

スレッドは、ここです。

「行動遺伝研究を、世間や各立場はどう見ているか」

http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-730.html

2007-04-12

[][]「卵子を提供して神を感動させよう」

ヒトクローンES細胞の捏造で科学界に深刻なダメージを与えた、ファン・ウソク(黄禹錫)教授の事件の続報が、『女のからだから』No.253(2007/3/27)に掲載されている。ユン・ジョン・ウォン「研究のため、健康な卵巣まで摘出:黄禹錫事件から1年、国家生命倫理委が報告書発表」(7〜9頁)。

タイトルにもあるように、研究のために健康な女性から「卵巣」(卵子ではない)まで摘出していたという衝撃的な記事である。卵子摘出についてはWikipediaの記事にも載っているが、卵巣摘出については、たぶん日本ではほとんど知られてないのではないだろうか。

記事から引用する。

自分の体から「正常の卵巣」と判断される卵巣が摘出され、研究に提供されたにもかかわらず、卵巣が摘出された事実も知らないまま生きてきた女性たちの被害はどのように説明され、補償されるべきか方法が見えない状況だ。黄禹錫研究チームと卵巣を摘出した病院、管理監督をすべき政府など、だれひとりこれについての責任をとっていない。「定期的に生理があり、正常に機能する卵巣を持っているのにもかかわらず、卵巣の切除を行なわれたと推定される患者が39〜46歳の9名であり、このなかで両方の卵巣を切除したケースは8名である。」(7頁)

このグループは、卵巣(その中には無数の卵胞がある)を、本人のインフォームド・コンセントがないまま、摘出してES細胞研究に使用するという、前代未聞のことをやっていたことになる。

黄禹錫らは、女性研究員からも卵子を提供させているが、そのときには「卵子提供同意書」が提出させられている。さらに、

ある研究員の陳述によれば、黄禹錫は「神まで感動させよう」という表現を何度も繰り返しながら、「研究員、自ら、卵子を提供するのも神を感動させる方法」と話したそうだ。(8頁)

ユン・ジョン・ウォン記者は、「〜そうだ」という伝聞形式を使っているので、この部分は国家生命倫理委員会の報告書に書かれているわけではないのだろう。その分、割り引いて考えないといけないが、ここで「神」が出てくるのが、実はポイントなのかもしれない。

ヒトクローンを世界で最初に成功させたと自称した(嘘だったが)クローンエイドは、ラエリアンという新宗教が作った研究団体であり、ラエリアンの教義では、人間はクローン技術でみずからを複製することで「神=宇宙人」に近づけるということになっている。

韓国の宗教事情はよく知らないが、キリスト教キリスト教系新宗教が、日本とは比べものにならないくらい力を持っていると言われている。

ヒトクローンをはじめとする超先端医学は、実は新宗教ととても相性がいいのかもしれない。(サリン製造したオウム真理教のことも想起せよ)。

なお、卵巣摘出に関しては、「韓国だから」というお約束の反応はしないこと。日本でも、卵巣摘出事件は過去にたびたび起きている。(優生保護法下における子宮・卵巣摘出問題を想起せよ)。同根である。

黄禹錫の事件から見えてくるのは、科学者という人間の抱え持つ、「他人を少々犠牲にしても、だましてもいいから、自分の研究で世界のトップに立ちたい」という強烈な「欲望」である。その欲望を実現してしまう科学者はきわめて少数であるのだろうが、その「欲望」そのものは、きわめて広く分布しているのではないかと推測したくなる。

2007-04-11

[][]カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

 ウィトゲンシュタインレヴィナスも愛読した『カラマーゾフの兄弟』であるが、すでに何種類かの邦訳がある。私は大学生の時に、河出書房新社の全集版(訳者は米川正夫氏)で読み、途中で挫折。その後、新潮文庫原卓也訳で完読したのだが、原訳でも訳文が硬く、読みにくいと感じていた。

 ところが、光文社古典新訳文庫から、亀山郁夫さんによる新訳が出た。amazon のレビューでも絶賛されているように、訳文がこなれており、大変に読みやすい。『カラ兄』は元来は「新聞連載小説」である。この翻訳なら、当時のロシア人読者と同じスピードですらすらと読み進んでいけるのではなかろうか。

 現在、第3巻まで刊行されている。

[][]肥満である権利

言われなき差別を受けてきた人々は、差別をする社会に対して、われわれはいまのままでいいのだ、ありのままの私たちを認めよ、われわれは自己否定しなくてもいいんだ、と主張し、運動してきた。有色人種運動、障害者運動、フェミニズム、などなど。「ありのままの私でよいのだ」という意識が、彼らをエンパワメントし、社会の偏見を変える運動へと結実した。

米国には、肥満でもいいじゃないか、という運動がある。

その前に、この記事を見てみたい。

警鐘にもかかわらず…専門家アキレた超肥満の増加ぶり

シンクタンク、ランド研究所は9日、体重(キロ)を身長(メートル)の2乗で割った体格指数(BMI)が40以上の「超肥満」の米国人が2000年から05年までに1.5倍に急増したとの研究報告を発表した。

 BMI30以上の人の増加率は同じ期間に24%にとどまっており、超肥満の急増ぶりが際立つ。より肥満度の高いBMI50以上の米国人はこの間に75%も増えており、専門家は「肥満が健康に及ぼすリスクがこれだけ指摘されているにもかかわらず、驚くべき増加ぶり」と警鐘を鳴らしている。

 BMI40以上となる体重は、身長175センチの男性の場合で約135キロ。

http://www.zakzak.co.jp/top/2007_04/t2007041018.html

これは、たしかにそのとおりだろうと思う。昨年、米国に10日間ほど滞在したが、彼らのあまりの肥満ぶりには仰天した。私が1991年に米国に住んでいたときとは比べものにならないくらい肥満の人々が増えている。日本にいたのでは、米国の肥満状況は分からない。なぜなら、テレビや映画などが彼らの姿を映さないからである。しかしいったん米国に行くと、すぐにそれが目に入ってくる。シカゴ空港で、オルバニー市のモールで、日本では想像できないくらいの肥満の人々が、しんどそうに歩いていたり、車椅子に乗って移動していたりする。シカゴ空港では、搭乗の列に並ぶ時間のあいまに、居ても立ってもいられず巨大なチョコドリンクを買って立ち飲みする肥満の人を見た。ポテトやチキンを歩き食いしている大人もかなり目立つ。米国の彼らを見ていると、日本での肥満など、まったく問題にならないくらいだ。小食の私から見れば、彼らが食べる量は、異様の一言に尽きる。モールでフレンチフライを食べた私はいきなり胃炎になってしまった。油の質と量が違うのである。

ところで、こういう私の言い方それ自体が「肥満差別」である、という批判がある。米国でそれを強く主張してきたのが、NAAFA(National Association to Advance Fat Acceptance http://www.naafa.org/)である。彼らは、上記のような、肥満者への偏見や差別の視線を糾弾してきた。人々はどんなサイズであってもよい、肥満だからと言って軽蔑の視線を受けてよいはずはない、肥満が不健康であるということはない、人は肥満であってもよいのである、と主張する。

まさに「ありのままの私でよい」という当事者運動の主張をしているのである。

その主張を前にして、私は、自分の肥満者への視線を考え直すべきではないかと思ってしまう。私はシカゴ空港で、立っているのもしんどそうな肥満の人が、山盛りのフレンチフライを黙々と食べているのを見た。しかしその人には、そうする権利があるのであり、ありのままのその人であっていいのである、ということだと言われれば、たしかにそうであろうし、私が批判的なことを言ったり、視線を向けること自体が、彼らをくじけさせることになるのだと言われれば、その通りだと思う。そして、このようなブログポストを英語で書いたりしたら、非難が嵐のように降ってきてたいへんなことになるのだろうと思う。

世界には飢えて死んでいる子どもたちがいる、ということは、関係ないのだろうか。おそらく関係づけても仕方のないことなのだろうか。

上に紹介した、NAAFAや、類似のページを以前に見て以来、私はこの問題をどう考えていいのか、クリアーな答えが出せずにいる。タバコの場合は、私は分煙派ではっきりしている。しかし肥満の場合は、他人に危害を加えるわけではない。どんな人にも、ありのままである権利があるという主張は、障害者運動の主張を参照するかぎり、そのとおりだと思えるのである。

NAAFAは、肥満の多くは遺伝的な原因であると主張している。それはたしかにそうだろう。だがそれに加えて、食生活の要因が、悪化要因として働いていることはたしかであろう。(白人に限れば)同じ人種のヨーロッパよりも米国の方が肥満の人が多いように見える。HAAFAも、食生活の改善の必要は認めている。だとしたら、肥満であることそれ自体はそれでよいが、食生活は変えたほうがよい、ということだろうか。しかし、どうして他人に食生活を変えろと言われなければならないのだろうか。食べたいものを、食べたいだけ食べる、これこそが自己肯定ではないのだろうか。そこを社会の中で肯定しないかぎり、肥満の人の社会的肯定も、あり得ないのではないだろうか。みなさんはどう思いますか?

2007-04-10

[][][]買った本

いつもx0000000000は、どんな本を買っているのか? とか思われる方もいるかもしれないと思い、今日書店に行って買ってきた本を並べます。

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

脱暴力のマトリックス (戦後・暴力・ジェンダー)

脱暴力のマトリックス (戦後・暴力・ジェンダー)

現代倫理と民主主義

現代倫理と民主主義

『脱暴力へのマトリックス』所収の堀田義太郎さんの「優生学とジェンダー」、あと斎藤さんの新書の初めの部分だけ電車の中で読みました。

[][]クィア学会が誕生するらしい

大学に来たDMで知りましたが、2007年秋に、クィア学会が誕生するとのことです。ウェブサイトは、

http://queerjp.org/

上記サイトより引用:

クィア・スタディーズとは、性と身体、そして欲望のあり方にかかわる諸規範を問いなおそうとする、批判的/批評的な学術的探究の総体であり、以下に代表されるような試みの全てを含む。ジェンダーセクシュアリティとをどちらか一方に還元することなく、しかもその両者が既存の性と身体、そして欲望のあり方にかかわる諸規範の下でいかに関連してきたのかを、分析すること。これらの諸規範が、社会において自然とみなされる身体やアイデンティティなどにかかわる認識の様態をいかに条件づけてきたのかを、考察すること。それらの規範的認識とそれによって維持される経済的・社会的・あるいは表象上の権力構造とが、人種・民族・宗教・国籍・地域・言語・経済階層・身体性などにおける諸差異といかに相互に作用しあってきたのかを、理論的また実証的に検討すること。そして、既存の規範に従わないようないかなる性と身体のあり方、いかなる欲望の形態が可能であり、あるいはより望ましいのかを、探究すること。・・・・・・

呼びかけ人:

石田 仁(明治学院大学 非常勤講師)、風間 孝(中京大学 助教授)、釜野さおり(国立社会保障・人口問題研究所 室長)、河口和也(広島修道大学 教授)、川坂和義(国際基督教大学大学院)、清水晶子(東京大学大学院 准教授 4月より)、菅沼勝彦(メルボルン大学大学院)、田中かず子(国際基督教大学 教授)、谷口洋幸(中央大学 兼任講師)、平野 遼(国際基督教大学大学院)、堀江有里(花園大学ほか 非常勤講師)、クレア・マリィ(津田塾大学 准教授)、村上隆則(翻訳者)

たいへん面白いのではないでしょうか。

ただ、「学会マスコットキャラ「クィアちゃん」」は、ちょっと引いた。クィアちゃんは、ウェブには出てません。印刷物のみ。

[][]「私」おばけのフッサール

フッサールはドイツ(オーストリア)の哲学者で、「現象学」の創始者。20世紀の哲学社会学に大きな影響を与えた。その最晩年の主著が、この『デカルト省察』である。

デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

この本の中で、フッサールは、「我思うゆえに我あり」のデカルト原理にまで戻って、もう一度、確かなものとは何かをはっきりさせようとしている。不確かかもしれないものをぜんぶカッコに入れて除外していくと、結局、「私」みたいなものだけが残る(これはデカルトがやったこと)。でも、すぐに問題になるのは、じゃあ、「他人」っていないの?ということ。「他人」がいることまで不確かだって言うのなら、それは「独我論」じゃないのか?

フッサールは、それに答えて、いやいやそんなことはない。私の哲学は、一見独我論に似てるけれども、実は独我論じゃないんだよ、と言いはじめるのである。なぜかというと、「他人」つまり「他の私」というものの意味は、私の世界のなかでちゃんと構成されるからだよ、というのである。

私の生き生きした現在において、すなわち、「内的知覚」の場面において、私の過去がこの現在のうちに現れてくる調和的な想起によって構成されるのと同様に、私の原初的な領分において、そこに現われその内容によって動機づけられた共現前によって、異なる我(エゴ)が私の我(エゴ)のうちで構成されることが可能となる。(207頁)

つまり、他者は、現象学的には私の自己の「変様」として現われるのだ。(206頁)

フッサールは言う。「あなた」つまり「他我(もうひとりの私)」は、私の「私の世界」のなかで「構成される」。そしてそのように構成された「あなた」は、「私の自己の変様」にほかならない、と。そして実際に、私は、「あなた」とか「他人」というものを、そういうふうなものとして実際に了解しているはずである、と(265頁あたりでそういうことを言っている)。

しかし、そんなこと言ってたら、結局「あなた」とか「他人」とかいうものは、「私の世界」の内部で私が積み木のように積み上げて作り出すおもちゃみたいなものにすぎないだろう。それは、私の「外部」に現存するはずの「ほんまもんの他人」じゃないだろう!・・・ やっぱりあんたは独我論やん!

それに対して、フッサールは、いやいやそんなことはないのだよ、と言う。こういうふうにして自分の世界の中で「あなた」を作り上げるような「私」というものが、実は、客観的世界の中に、たくさん埋め込まれているんですよ。そのたくさんの存在者こそがほんまもんの「他人」なんですよ。と言うのである。

フッサールは、「私の世界」のことを、ライプニッツにならって「モナド」と呼ぶ。それで、「モナド」は実はたくさんある。

それゆえそれらは本当は、私自身をともに包括している唯一の普遍性に属しており、この普遍性は、共存するものと考えられるべきすべてのモナドモナド集団を一つにまとめている。それゆえ、唯一のモナド共同体、つまり、あらゆる共存するモナドの共同体のみが実際には存在することができ、したがって、唯一の客観的世界、唯一の客観的時間、ただ一つの客観的空間、ただ一つの自然のみが存在することができる。(250頁)

フッサールは、かくして、「私」の確実性から出発して、とうとう、「他我の存在」だけじゃなく、「唯一の客観的世界・時間・空間・自然」までも確実に存在するのだという結論にまで至っているのである。

私にとって存在するものは、すべてその存在の意味をもっぱら私自身から、私の意識の場からのみ汲むことができる、というテーゼが根本的な有効性を保持しながらも、独我論という仮象は解消されることになった。(268頁)

フッサールという人の、この力業にはほれぼれする。「私」→「他人」→「客観的世界・時間・空間・自然」が次々と論理的に導かれてくるなんて、嘘に決まってるやん。でもそれをあえてガリガリやってしまうところが大哲学者たるゆえんでしょう。もちろんフッサールの死後、このセオリーは間違っているよね、という意見が噴出して、もめにもめてます(たとえば意味は構成できても存在は構成できないだろう、とか)。でも、作品として読むときには、この本はたいへん面白く刺激的です。浜渦辰二さんによる翻訳もたいへんすばらしい。フッサールは本書のドイツ語版を見ることなく死んでます。ちなみに、この本のフランス語訳を担当したひとりが、レヴィナスだとのこと。なるほどね、レヴィナスの「他者」は、フッサールのセオリーの全否定という意味もあったんですね。

2007-04-09

[][]「本当は、できるでしょう?」の原初的風景

もう少し、この問題にこだわってみたい。

たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。

目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。

それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。

このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。

仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。

私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。

これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。

ただ、私は「200円を募金「できなかった」のではなく、「しなかったのだ」」というふうに言うべきだということなのである。それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。もちろん、「どのように」受け入れるべきかは議論されるべきだと思うが、事実を隠ぺいすることは許されないであろう。私は、そのような単純な事象から考えている。

(追記:[x0000000000]4/21 mojimojiさんのエントリ「道徳的詐術とは何か」。私も実はkanjinaiさんから紹介されたuumin3さんの「道徳的詐術」、これは違うだろうと最初から思っていました。なんか、的確な批判ではない、はずしている、とは思っていました。いまちょっとこの件で(も)書き物していますので、しばしお待ちを)

(追々記:[x0000000000]4/24 ようやく真っ当な「批判」が登場。感謝します。「募金箱の背景にあるもの」

「「200円」をはらうか、はらわないかは、どうでも いいんじゃないか。大事なのは、この世界に歴然たる貧富の格差がいま現にあり、日本では「おかし」が かえる金額で4人家族が1日くらすことができる地域があるということ。そしてなにより、その地域では そのお金が たりていないということだろう」

「【「間接的ではあろうが、私は人殺しである」】というのは、もっとまえから そう」

まったくもって、そう思います。どうもありがとうございます)

2007-04-08

[][]「本当は、できるでしょう?」という暴力

老親への介護などの場面で、「介護をしたくない」と言うべきときに、「介護をすることができない」と言い換えようとするところ、そしてみんながその言い方を許してしまうところに、「姥捨山問題」の萌芽があるのではないかという問題提起を、x0000000000さんが行なっている。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070406/1175824830

x0000000000さんは、さらにこうも言う。「「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか」(上記URL)。

それに対して、id:font-daさんが、そういう「本当は、できるでしょう?」という言い方自体の中に、介護などの現場で揺れ動いている人々を追い詰める別種の暴力が潜んでいるのではないか、と批判している(ように私には見える)。

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070407/1175955958

 「本当にできるかどうかは、やってみなくてはわからない」もちろん、それはそうだ。それで、やってみて「やっぱりできませんでした」では済まない。だからこそ、苦しむ。しかし、そこで苦しむことを目的としない形で、倫理を語らなければならない。そうでなければ、介護=苦しみという言説は、「もっと苦しめ、苦しまなければ<本当の>介護ではない」という不幸の美学が入り込んでくる。不幸の美学の中では、「私は<本当は>できたはずだ」という思いの中で、目の前の認知症者とのかかわりは精彩を失い、「こんなダメな介護者としての私」ばかりが浮かび上がる。そして、オルタナティブとして施設が再び理想化されて「施設にいれてあげなさい」という結論が導き出される。

問うことは必要だ。しかし、問う以上は、答えられた後、どうするのか。問うた側は、問題の外部にいることはできない。

 「本当はできるでしょう?」と問うたあと、その問いを向けられ取り乱す問われた側を、どうするのか。問う側が問われるのは、その覚悟である。

つまり、「できないんじゃなくて、ほんとうはしたくないんでしょう? ほんとうはできるんでしょう?」と問い詰める者がいたときに、その者は、そう問われた相手の揺らぎやら葛藤やら自罰やらそこから出てくるかもしれない自傷やら絶望が生み出すであろう「強力な磁場」からもう逃げ出すことはできないはずだ、ということか。問うことの暴力によって返り血を浴びるということから逃げることそれ自体が「姥捨山問題」を生むということなのか? それとも、そう問うことの暴力性に無自覚に問うことが、もっとも罪深いということなのか?

[][]「ホームレス食事制限法」関連

オーランド市に逮捕者が出たという記事を読み、ネットを少し検索してみた。

毎日新聞

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070407k0000m040124000c.html

 一部を引用。

「フード・ノット・ボムズ」の設立者、ケイス・マクヘンリー氏は毎日新聞の取材に「都市はホームレスの問題がないように観光客に見せかけようと条例を作っている。我々はホームレスの人々に食事を提供しているだけで威圧的な集会や集団行動はしていない」と話している。

・オーランド市について。アメリカ有数の観光都市。ウォルト・ディズニー・ワールドがある。

オーランド - Wikipedia

・公園のホームレス対策について。Lake Eola park の景観を保持するために、市当局はホームレス対策に乗り出しているという話。

http://www.foxnews.com/story/0,2933,250141,00.html

・ラスベガスのホームレス食事禁止法について。ラスベガスでは、市の公園のホームレスに給食事業を行うと、最高で半年の服役と千ドルの罰金が科せられる。

http://www.usfl.com/Daily/News/06/07/0731_016.asp?id=49761

http://seattletimes.nwsource.com/html/nationworld/2003141634_webvegas20.html

※追加(4月9日)

「フード・ノット・ボムズ」のウェブサイト。今回の事件についての説明があります。

http://www.foodnotbombs.net/

http://www.foodnotbombs.net/fnb_resists.html

P-navi info さんによる情報提供と解説

P-navi info : 大勢のひとに食事を与えて逮捕される 米国

関連して、以前、私のブログでも取り上げたリンクを紹介したい。

公園のベンチが人を排除する?

http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000001539

ベンチの仕切り研究会

http://www.geocities.jp/benchkenkyu/index.html

写真を見ると、野宿者を公園から排除する力学が働いていることが分かる。

アメリカの場合

http://www.usemenow.com/web-log/archives/the_antisit/

2007-04-07

[][][]社会学と「生き方としての学問」

友人から次の本を紹介されたので、入手してみた。非常に興味深い本であった。

小倉康嗣さんは、みずからの社会学のスタンスを、こういうふうに述べている。

本書の底流にある〈生き方としての学問〉とは、世界と自分(あるいは認識論的次元と存在論的次元、学問形成と人間形成)とを切り離さない学知のあり方の探求である。さまざまな葛藤に直面しながらも、しなやかに生き抜いている現代中年の人びととの出会いのなかで、私自身、みずからの世界観がゆさぶられ、みずからの「生き方」を問い、みずからの「生き方」が触発され、そして変容していった。本書には、そんな私自身の〈生き方としての学問〉生成の痕跡も滲み出ているであろう。そしてそれも、まぎれもなく人間生成・社会生成のひとつの「現場」にほかならない。(vi頁)

私にとって社会学とは、「生きる」ということと不可分であるように思う。自分自身が社会学のフィールドそのものであると言ってもいい。私のなかでは、つねに自分という人間形成(生活経験)と学問形成(研究実践)とが分かちがたく結びついており、それが、私が社会学という学問を実践する原動力となってきた。また、そんな生活経験と研究実践との再帰的(reflective)な関係のなかで、みずからの生(life)が生成されていっているようにも思う。その意味で社会学という学問は、社会を映し出す鏡でもあるが、まずもってその社会のなかで生きている自分自身を映し出す鏡である。この社会のなかで生きている自分自身と向き合わずして、社会を切実に照射することは、私にはできない。(497頁)

小倉さんがここで述べていることは、私の視点から言えば、社会学に対する「生命学的アプローチ」以外の何ものでもない(「生命学とは何か」(http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm)参照)。けっして自分を棚上げにしない知のあり方、知ることと生きることの相即、というのは生命学の基本的な発想だが、小倉さんの社会学のスタンスは、まさにこのようなものとなっている。「生きている自分自身と向き合わずして」というあたりは、まさに生命学的アプローチだと膝を打ちたくなる。現代の社会学で、このようなスタンスを公言しているものは、どのくらいあるのだろうか? 私は社会学は詳しくないので、ぜひコメント欄で教えてほしい。思うに、社会学にはこのようなスタンスは潜在的にはたくさんあるのだが、なかなかそれを公言できにくいということなのかもしれない(なぜなら「客観性」が失われるから)。エスノや臨床社会学にはこのようなスタンスのものはあるような気がする。「自分と向き合う社会学」「生き方としての社会学」ということを、レトリックとしてではなく、方法論としてもちいる社会学があるとしたら、それは、もう生命学とつながりあっていると私は思う。社会学と生命学の架橋ということを、本気で考えてみたい。

小倉さんが、このようなスタンスをとるに至った理由の一つは、次のようなものである。

私がこのような社会学観を抱くにはそれなりの理由がある。それは、私の身体に刺さった「棘」である。その「棘」とは、私がゲイ(同性愛者)であるということであり、ゲイであることで人生と、そして世間と格闘せざるをえなかった経験である。(498頁)

小倉さんの言う「棘」は、私の言うところの「破断」(上記論文参照)にひょっとしたら通じるものがあるのかもしれない。このような「棘」や「破断」を根本動機として隠し持ったとき、社会学(あるいは学問全般)に、生命学的アプローチの萌芽がやどるのだろうか。私は『感じない男』で自分自身の性的な「棘」について語った。それは小倉さんとはまったく違うものであったのだが、それを起点として学が立ち上がることがあり得るということを身をもって知った。

などということを思いながら本書を読んだ。個人的には「補論」で述べられたことを本格的に展開したらどのようなものができあがるのか非常に興味深く思った。期待したいと思う。

[][]ホームレスに食事を与えて逮捕

「Arrest is first under homeless-feeding law」

http://www.orlandosentinel.com/features/food/orl-homeless0507apr05,0,2602061.story?coll=orl-shoppinghg-headlinesinthek

Eric Montanez, 21, is the first to be arrested under the city's controversial ordinance that bars feeding large groups of people in downtown parks without a special permit.

オーランド市で、「ホームレス食事制限法」(ホームレス25人以上に市への許可なく食事を与えてはいけないという法律)による初逮捕者が出た模様。

この記事中の警察当局の人が、"Our job is to enforce the rules"と言っているのには、アイヒマンを連想させるものがある。いったい、何のための法律であり、何のために法律に従うのだろうか。

これは、米国だけの出来事であろうか。昨年の靭公園、今年の長居公園での行政代執行を見る限り、日本においても同じコースを歩んでいかないとも思えない。

[][]島尾ミホ『海辺の生と死』

海辺の生と死 (中公文庫)

海辺の生と死 (中公文庫)

戦後短篇小説再発見5 生と死の光景 (講談社文芸文庫)

戦後短篇小説再発見5 生と死の光景 (講談社文芸文庫)

 先月末に、島尾ミホさん(1919-2007)の訃報に接した。ミホさんは、作家・島尾敏雄さんの夫人。文学者としての活動経歴もあり、著書『海辺の生と死』(1974)では、奄美・加計呂麻島で過ごした少女時代の思い出や、海軍震洋特別攻撃隊の隊長として島に駐屯した敏雄さんとの出会いが綴られている。

 以下は、『海辺の生と死』より。

「浜辺の死」

 夏の真昼。白い砂浜に黒い牛が立っていました。赤い布で腰のあたりを覆っただけの裸の男たち。万太おじ、斎おじ、モ(注・王へんに百)玖おじ、阿仁おじの四人が牛を囲んで高い声でしゃべっていました。すぐ側には枯木の束が積まれ、よく研がれた鉈や庖丁が太陽の光を眩しく照りかえしていました。何故幼い私がひとりだけ大人たちの仲間入りをしてそこにいたのか今は思い出せませんが、私は牛のまんまえに立ってかすかな口のうごきさえわかる近さで、まじまじとその顔を見ていたのです。牛は優しい眼つきで私の眼を見ていました。涙がこぼれそうなぐらい胸にひびくあたたかい眼でした。斧を持った阿仁おじが何かに区切りをつけるように、「がんば」と言って私の側にきて立ちました。私は「ああ、まき(眉間)を打つのだわ」と思ったんです。でもちっとも怖くはありませんでした。ただ「さようなら」だと思っていました。牛も私も目をそらさず互いにみつめあっていました。この時の牛の眼を私は生涯忘れることができません。口元近く手綱を持っていた万太おじが両手でそれを抑えて「うれ」と言った時、身構えていた阿仁おじは斧を振りあげ、刃と反対側のところを牛の眼のあいだに打ちおろしました。牛は前足を二本いっしょに曲げてのめり、続いて後足も曲げながらゆっくりうずくまりました。大人たちは早く、形よく曲がって横に張った二本の角を抑え、首にかけた手綱を引きしぼりますと、牛は急にあばれ出しました。それはいやいやをしている子供に大人がよってたかって灸をすえているような光景に見えました。黒い毛並みが光って激しく波打ちあえぎましたが、だんだん勢いが引いていきやがて止まってしまいました。じょうだんをしているようにばたつかせていた四本の足も静かになり、牛はゆっくり寝てしまったかと思えました。もしも掌を触れたらあたたかいぬくもりが指を通してからだじゅうに伝わってきそうなのです。しかし牛は毛を焼かれるために枯木の上にのせられ、火がつけられました。勢よく燃え上がる焔の上に横たわった牛は、眼を半眼に開き、赤く血走ってはいましたがそれでもまだやさしく語りかけているかのように見えました。

『海辺の生と死』(中公文庫、50〜51頁)

 子供の頃、田舎で育った私も家畜が屠殺される場面を目撃したことがある。この文章を読むと、その時の胸の詰まるような切ない感情が呼び覚まされる。

  中公文庫版(1987年刊)は絶版になっており、復刊が待たれる。

2007-04-06

[][]哲学のスタートラインに立つ

「生命学とはなにか」(http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm)でも触れたが、私は自分のことを「生命学者」だとはまったく思っていない。私は、自分のことを「哲学者」だと思ってきたし、最近とみにその感は強くなってきている。生命学を開発しつつ、生命学的に生きようとしている哲学者という感じだろうか。

じゃあ、哲学者とは何かということになるが、まずその一般的な答えはないと思う。哲学者詩人は、自称すればそれでOKというのがkanjinai説。(ただし自称するのに勇気がいりますけどね)。いまの私はどう考えているかというと、遠く古代のギリシアの哲学者たち、アジアのほうでは古代インドの哲学者たち等々を源泉として、そこに各地の哲学が合流し、混交し、泡立ち、そして様々に分流して、何十世紀を経ていまここの私へと到達して私の血肉となってしまっているこれ、これが哲学であり、この私が哲学者である、というふうに感じている。この圧倒的な伝統の先端に私は位置しているというこの生々しい感覚こそが、哲学者のリアリティなのだろうと私は思う。(と、こういうことをぬけぬけと言えないと哲学者とは言えないですよね、ニーチェさん)

このリアリティに正直になれば、私は、男である前に、日本人である前に、誰かの子である前に、誰かの親である前に、誰かの友人である前に、上記の圧倒的な伝統の一員であるということになり、これは、関係性と権力性を抜きにしてものを言うことを拒絶する現代思想の語り口からすれば噴飯ものの言説であるということになるだろう。そしてこれは、圧倒的な伝統・対・私という構図であるがゆえに、はやりのことばで言えばセカイ系以外の何ものでもなく、その点での弱点を共有しているということになるだろう。そしてやはり、この境位を彩るのは孤独である。

この言い方は、どう考えても、反現代的だな。意外にも、こういうことを別の面から語っているのが中島義道だと思うし、前に触れた本田透であるとも言える。その上で言えば、中島義道哲学と心中し得てないように見えるし、本田透はいまだ批評家の安全圏から語っているように見える。でもそれぞれの道があり、それぞれでよい。

お勉強ごっこ(同業者を「バカ」と呼び合うゲーム)や、注釈ごっこ、位置づけごっこはもうする時間がないから、私は残された時間で悔いなく哲学者をやっていきます。この歳になって、はじめて哲学のスタートラインに立てた気持ちになっているのだから。

(ひとりで盛り上がってゴメン! あしたガイダンスだし、来週から忙しくなるので、ペース落ちます)。

[][]姥捨山問題をめぐって

sugitaさんの「優生学・家族負担・尊厳死」で姥捨山問題が考察されている。

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070405/p1

姥捨山問題は、次のようなことを問題にする。

出来ないからしない、というのなら話は分かる。ところがこれらのケースでは、「出来るのに、しない」のである。出来るのに、しない。それはなぜか。それをすることで、私が(あるいは私の身内が)これ以上苦しむのがいやだからである。痴呆性老人の世話を続けることで、あるいは赤ちゃんを産んで育てることで、私がこれ以上苦しむのがいやだから、私は彼らを見捨てる。本人のためを思ってとか、そうするのが普通だからとか、様々な言い訳がなされるだろうが、心の奥底では、私がこれ以上苦しむのがいやだから彼らを見捨てるのだ。

http://www.lifestudies.org/jp/ubasute.htm

「できないのではなく、したくないから、しない。倫理的にそれは間違っていると言われるだろう。法的義務の放棄として裁かれる時もあるかもしれない。しかし、この感覚を見ないところから組み立てられる正義や自由の感覚は、どこか弱いのではないか」と言われるsugitaさんは、鋭いと思う。私自身は、姥捨山問題とは、端的に「嘘つき・欺瞞」の問題だと考えている。すなわち、「出来るのに、しない」ということを、「出来ない」と言い放ってしまうことに問題があるのでは、と考えている。私が苦しむがいやだから他人を見捨てるのだと、言えばいいのではないか。もしくは、私はそう言わせたい。「いやだから、しない」ということを、「出来ない」と言い放っておけばとりあえずは「許される」、ここに姥捨山問題の萌芽があるような気がしている。「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか。

[][]石川啄木と子どもの死、底知れぬ謎

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

石川啄木のデビュー作『一握の砂』は、著者による次のような文章から始まっている。

・・・また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆(しょし)の手に渡したるは汝の生まれたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌(やくじ)となりたり。而(しこう)してこの集の見本刷を予の閲(けみ)したるは汝の火葬の夜なりき。

この文章は、何を意味しているのだろうか。

『一握の砂』は、有名な次の歌から始まる。

 東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたわむる

そのあと、数々の名歌が並んで、最後は次の歌で終わるはずだった。

 わが友は

 今日も母なき子を負いて

 かの城址にさまよへるかな

啄木はここまでを出版社に渡した。その朝に、長男が誕生する。

しかしその男の子は、幼くして死ぬのである。啄木は、見本刷りを、その子の火葬の夜に受け取った。いまわれわれが手に取ることのできる『一握の砂』には、上記の歌の直後に、わが子の死を悼んだ8首が収められている。ということは、啄木は、出来上がった見本刷りの最後のページに、この8首を追加して書き込んだことになる。その8首こそが、啄木最高の短歌となった。

そのうちから3首を紹介したい。

 真白(ましろ)なる大根の根の肥ゆる頃

 うまれて

 やがて死にし児(こ)のあり

 死にし児の

 胸に注射の針を刺す

 医者の手もとにあつまる心

 底知れぬ謎に対(むか)いてあるごとし

 死児のひたひに

 またも手をやる

他の5首もぜひ原著で読んでみてほしい。個人的には、「真白なる・・・」が神業に近いと思う。真白に肥えた大根と死んだ子との対比、「うまれて」での改行、そして「大根の根」という禁じ手を鮮やかに成功させたところ。近代短歌最高作であろう。しかしそれが啄木に降りてくるためには、わが子の死というものが必要であった、ということをどう了解すればいいのか。

そして、私の見るところ、啄木短歌生命は、この8首で終わっている。次作『悲しき玩具』は駄作だ。啄木もまた、『悲しき玩具』刊行を待たずに27歳で死んだ。

壮絶で、残酷である。これも、生命だ。

2007-04-05

[][]ハンナ・アレント「道徳哲学のいくつかの問題」

遺稿集所収の論文

責任と判断

責任と判断

ニーチェはみずからモラリストと名乗っていました。そして実際にモラリストだったのは間違いありません。しかし倫理に関するかぎり、生命を最高善とすることには問題があります。キリスト教的であるかどうかを問わず、すべての倫理は、死すべき人間にとっては、生命が最高善ではないことを前提とするものだったからです。そして人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在するのです。

何が重要とされるかには、時代ごとに大きな違いがありました。ソクラテス以前の古代ギリシアで重要だったのは、偉大さと名誉でした。ローマで〈徳〉とされたのは、国家の永続でしょう。現世での魂の健康さと来世での魂の救済が重要だった時代もあります。自由や正義が、あるいはその他さまざまな理念が生命よりも重要とされることもありました。

どのような〈徳〉も、こうした事柄や原則に依拠するのですが、これは人々が考えを変えれば、すぐ別のものに代えられてしまう価値にすぎなかったのでしょうか。ニーチェが指摘したように、〈生命〉そのものという究極のものの前では、これらは放り捨てられてしまうものなのでしょうか。たしかに一部の人々の行動によって、人類の存続そのものが脅かされることもありうるなど、ニーチェは想像もしていなかったでしょう。そしてこの稀な出来事を前にしては、人間にとっての最高善は、〈生命〉の維持であり、世界と人類の存続であると主張することもできるでしょう。

しかしそれは、いかなる倫理も道徳性も、もはや存在しなくなるということにほかならないでしょう。そして原則としてこの思想は、ラテン語の古い疑問、「世界が滅ぶとも、正義はなされるべきか」という問いで、すでに予測されていたものです。カントはこの問いに、「正義がなくなれば、人間が地上で生きていく価値はなくなる」と答えたのです。

このように、近代において唱えられた唯一の新しい道徳的な原則は、「新しい価値」を主唱するものではなく、道徳性そのものを否定するものとなったのでした。もちろんニーチェにはそのことは知りえなかったことです。とはいえ、道徳性というものがどれほどお粗末で、意味のないものとなってしまったかをはっきり示したのは、ニーチェの変わらぬ偉大さです」(pp.65-66)

つまり、アーレントによれば、ニーチェは〈徳〉を批判するためにこそ、〈生命〉という価値を持ち出し、称揚したのだということになる。アーレント自身は、「人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在する」と述べている。これは、「人類は存続せよ!」と説いた、同じハイデガー門下のハンス・ヨナスへの批判であるとも受け止められるだろう。

「生命が最高善か」という問いを問うということ、それ自体を問うことが必要ではないのか。なぜなら、「生命が最高善か」という問いには、誰もが「答えられない」だろうと考えるからだ。もちろん私も答えられない。そして、「答えられなくてよい」と思う。どうしてかと言えば、この問いに肯定的に答えるならば、「それでは生命以外の〈徳〉は必要ないのか」という追撃を許し、否定的に答えるならば、「では今すぐ生命より重要なもののために死ねるか」という追撃を許してしまうからだ。

この問い、すなわち古来よりなされてきたであろう「生命は最高善か」という問いは、罠ではないのだろうか。この問いには「答えようがない」のだ。そして、「生命は最高善であるか」という問いを問うこと自体を無効にしていかなければならないのではないだろうか。自由や正義は、(十全な)生の(享受の)ためにこそ必要なものだ。「生命は最高善か」という問いは、真摯なように見えて実は八方ふさがりの「行き止まりの問い、思考停止に陥れる問い」ではないのか。アーレントが生きていたら、そのように応答してみたかった。

[][]「生命学」という発想について

kanjinaiによる「生命学とは何か」という論文が、4月1日に刊行されました。

生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことです。「生命学」という言葉を発案してからはや20年、ようやくここまで言葉を絞り込めました。これも、一緒に考え続けてくれた仲間がいたからです(感謝)。

生命学は、それぞれの生の現場で、それぞれの形で深められるべきものなので、誰にでも通用する<普遍的な>生命学というものはありません。この点が、自然科学とは根本的に違ってきます。

Aさんの生命学、Bさんの生命学、・・・・・・というふうに。そしてそれでよいのです。それでもなお「学」なのです。

kanjinaiは、kanjinai独自の生命学を深めていくことになるわけで、それは「悔いなく生き切ること」を中心に深めていく生命学となる、ということが最近ようやく分かってきました。

ここまで来るのに、長かった・・・。しかしこれから先が、本格的な挑戦になるはず。

論文より引用:

生命学を構想する過程で分かったのは、生命学を実践してきた人々はおそらくいままで数限りなくいただろうということである。たとえば「補論2」で述べたウーマン・リブの女性たちや、青い芝の会の障害者たちは、生命学という言葉を使ってはいないが、私が生命学と名付けたいものを、十全に生き切ろうとしていたように思われる。いや、むしろ正確には、彼らが作り上げた生の軌跡が、様々なルートを通して私にまで届いて、私に言葉をしゃべらせているというべきである。同じような営みは、未来に向けても広がっていくであろう。私の書いたものを共感的に読んだ人が、その人独自の生命学を作り上げていくにちがいない。このようなことを考えるにつけ、森岡の生命学は、この世に無数にあり得る様々な生命学の、たかだかひとつの形にしかすぎないと、私は思うようになった。森岡は森岡の生命学を追求し、AさんはAさんの生命学を追求する。そしてそのあいだで、やりとりがあり、学び合いがある。生命学とはそういう形で展開していく学なのである。

さらに、こういうこともしつこく考えました。

「生まれてきて本当によかった」とは、たとえこれまでの人生のなかで後悔や失敗があったとしても、この世に生まれてきて人生を経験できたこと自体は本当によかった、と肯定できることである。後悔や失敗が散りばめられた人生ではあるが、それでも、この世に生まれてきて人生を経験できたことは本当によかったと思えることである。

生命学の可能性がどこまで広がっているのか、まだ私には分かってません。とにかく追究していくしかないです。

「生命学とは何か」(『現代文明学研究』第8号(2007):447-486)

 http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm

超簡単まとめページ

 http://www.lifestudies.org/jp/seimeigaku03.htm

[][]スピリチュアル・メッセージ

 来週の水曜日、4月12日深夜ですが、フジテレビ系列のドキュメンタリー枠で、「スピリチュアル」のブームを取材した番組が放映されるそうです。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/index2.html

 参考

spicon.org - 

 社会心理学的な分析や、研究論文がすでにありそうですが、アマゾンで「スピリチュアル」で検索すると、香山リカさんの新書がトップに出てきます。

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)

それから、今年刊行された『宗教と現代がわかる本』では、

宗教と現代がわかる本〈2007〉

宗教と現代がわかる本〈2007〉

佐藤壮広「癒しの見本市『すぴこん』」

伊藤雅之「スピリチュアル文化風にアレンジされたヨーガ・ブームとその背景」

藤本由香里「少女マンガとスピリチュアルな世界」

香山リカ「ポップソングにも頻出する『生まれ変わり』『奇跡』『運命』『生まれた意味』」

 という論文が収録されています。

2007-04-04

[][]モテ、萌え、への予告

以前に紹介したシュレーディンガーの本に、彼の「自伝」が入っているのだが、その中に以下の文章がある。

・・・なぜなら私は女性に関することがらを書き落としており、それはこの自伝の不備であると同時に、また必要なことだと思ったからである。その理由は、女性に関する話はうわさ話になるからであり、それは特に興味のあることでもないからである。それにこのようなことがらについて男は心底から誠実に語ることはなかろうし、その必要もないからである。(56頁)

うーん、どうですか、諸氏? これ、「俺はモテたのだよ」と言っている文章ではないのか?

今日ひさびさにリアル書店に行ったので、いろいろ物色したが、うわさの本田透喪男の哲学史』があったので、ぱらぱら立ち読みしました。

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

いや、これは怪作ですね。私はけっこう気に入りました。そのうちにちゃんと読んで批評したいと思います(商業書評するには古すぎ)。

ここのところ、モテについて考えていて、そのうちにこのブログでも投稿しようと思っています。私は「モテ/非モテ」の二元論に反対します(たぶん)。しかし萌え論争だけじゃなくて、モテ論争にまで脚を突っ込んでこの先どうなっていくのだろう>自分。

参考:mojimojiさんのスレとそこでのコメント

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070403/p1

[][][][]マタイ受難曲

 カール・リヒターが指揮した、バッハ作曲「マタイ受難曲」はCDがたしか三種類ある。以前は最後の録音を愛聴していたが、昨年にDVD映像を入手したので、これを見ている。値段はちょっと高いが、映像のクオリティは悪くないし、これから「マタイ受難曲」を聴きたい人にはお勧めだと思う。

 聴いて思うのは、「イエスは『神の子羊』であり、人間の罪をあがなうために、十字架につけられた」というキリスト論の言語が、いかにも古いということ。古いけれど、バッハの音楽と「マタイ受難曲」のドラマが凄すぎるので、つい聴いてしまう。

 このキリスト論言語を、現代人のセンスに合った、もっとわかりやすい形に言い換えたら、どうなるんだろう……ということを最近考える。「罪をあがなった」という言い方は、信仰告白の一つのフォーマットとして大事にするとして、もうちょっと自分自身にとっても、自分の周囲にいる人にとっても、すっきりする言い方はないだろうか。そこに、いまの自分とキリスト教の接点があるかなと思う。私の場合、どうもすっきりしないので、キリスト教を学んでいるという思いが強いです。

 復活祭前の時期、ここ毎年は、「マタイ受難曲」を聴くと共に、イエスがなぜ殺されたのかを考えている。言い換えると、「イエス様は十字架で人類の罪をあがなった、万歳!」という信仰を告白する前に、なぜかれのような存在が、人間の歴史から抹殺されることになったのか、その暴力がいったい何に由来するのかを、反省してみるということです。

 歴史のなかに、イエスのような活動をして、時の権力者と正面からぶつかり、公然と殺された者(例・キング牧師)、あるいは秘密裏に殺された「匿名のイエス」が数多くいる。

 聖なる人を殺す、その権力とは何なのか。その権力が働くような仕組みに乗っかり、甘い汁を吸う者は誰なんだろうか、と問い詰めていくと、この私にも責任があるかな……と思わざるを得ない。イエスを裏切ったユダは、ある意味でこの私。かれを十字架刑で抹殺したローマ帝国の支配体制・権力機構は、ある意味でいまの先進国の社会体制だという視点を手放さずに、福音書を読みたい。

 「マタイ受難曲」のガイドブックとしては、音楽学者の礒山雅さんの『マタイ受難曲』がある。10年ちょっと前の刊行ですが、音楽学・歴史学からのバッハ研究の成果が盛り込まれており、「何でこんな奇妙な歌詞なのだろう」「どうして、ユダのアリアは明るい長調で書かれているのか」といった、マタイを聴く日本人が持つ疑問に答えてくれます。目から鱗を幾つも落としてくれる名著です。

 もう一つ、「マタイ受難曲」のファンに勧めたいのは、聖書学者の佐藤研さんの『悲劇と福音』。これは四つの福音書の受難物語の人間学的な意義を、アリストテレス『詩学』の悲劇論を援用しながら、解読しようというもの。抹香臭いキリスト教本ではないので、非クリスチャンの人には読みやすいだろうと思う。

マタイ受難曲

マタイ受難曲

[][]シュライエルマッハーの怒濤の生命論

一昨日もシュライエルマッハーについて紹介したが、今日もその続き。(一昨日のはこれ:http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070402/1175515159

独白 (岩波文庫)

独白 (岩波文庫)

最後のほうのページから引用する。

まずこれが完成され、次にあれが完成されなければならないなどと言うな! お前の気の向くままに、お前の気の向く時に、軽い足取りで進んで行け。お前がかつて為したことはすべてお前の内に残っていて、お前が帰って来たとき、それを再び見いだすのだからだ。

お前がいま何事かを始める場合、それがどうなるかなどと心配するな! それがお前以外のものになることは決してない。お前が欲しうるものは、またお前の生命に属するものであるからだ。行為において中庸を得ようなどとはゆめ思うな! 絶えず清新に生きて行け。お前が用いずにお前の内に蔵(しま)い込んでおく力以外には、いかなる力も失われることはないのだ。

お前が後にあのことを欲しえんがために、いまこのことを欲するな!(←kanjinai註:これ誤訳では?)自由な精神よ、もしお前のうちにあるある一つのものが他のものに使役されるといったようなことがあるならば、自ら愧(は)じよ! お前のうちにおいてはいかなるものも手段であってはならない。一つのものはまさに他のものと等しい価値をもっている。それゆえに、お前が何に成ろうとも、それをそのもの自身のために成らしめよ! お前が欲しないものを欲しなくてはならないなどということは馬鹿げた欺瞞だ! (136〜137頁)

はい、ここまで読んで、「あれ、ニーチェ?」と思った人は読書家さんです。ここだけ切り取ってしまえば、ニーチェと言われても分からないかもしれない。しかしシュライエルマッハーのこの本が出版されたのは1800年。ニーチェが生誕したのが1844年です。

これは、シュライエルマッハーが、老年に差し掛かったことを自覚しつつ、一方において老年を肯定しつつ、同時に、青年に向けてはっぱをかけてアジっている箇所。「美は乱調にあり」的な生命論が、とうとうと語られている。このあともっと続くのですよ。

生命論、生命の哲学というのは、宿命的に、このような怒濤の流れに乗ってしか発露してこないのかもしれない。平衡と静謐へと向かう哲学とはまったく逆の情念がないと、生命論は語れないんだろうか。しかし生命論は、世界史的にもまだまだ成熟してない。だから、もっとこれから可能性があるはず。怒濤の生命論と、平衡の生命論の2種類を開拓していければ面白いと思う。

2007-04-03

[][][][]アメリカ国民の宗教意識

 キリスト教世界の暦では、来週日曜日が復活祭にあたります。Newsweek(2007年3月31日付)に、アメリカ国民の宗教意識に関する調査結果が出ていましたので、紹介します。

NEWSWEEK Poll: 90% Believe in God

http://www.msnbc.msn.com/id/17879317/site/newsweek/

http://www.msnbc.msn.com/id/17875540/site/newsweek/ (12.以降を参照)

「90%が神を信じる」

 内容を要約すると、

・アメリカの成人の10人に9人(約91%)が神を信じ、そのほとんど(87%)が、特定の宗教に属している。キリスト教徒が82%。その他の宗教の信者は5%(ユダヤ教イスラム教等)。

・48%が科学的進化論を否定。大卒者の約3分の1(34%)が、聖書の創造の記事(=神は天地万物を6日間で創造し、7日目に安息したという「創世記」冒頭の記事)を「事実」と考える。福音派プロテスタントの73%、非福音派プロテスタントの39%、ローマ・カトリックの41%が、神は最近一万年の間に人間を創造したと信じている。

 → 大卒者に進化論を否定する人が結構いる点が、注目でしょうか。

・10%が「宗教なし」、6%が「神を全く信じない」と回答。3%が「無神論者」を名乗っている。過去の統計と比べると、信じる多数派が信じない少数派に寛容になった傾向がうかがえる。ただし、登録有権者の約6割は、自分は無神論者だと公言する候補には投票しないと回答。

 → 先月ですが、スターク議員が米国史で初めて「神を信じていない」と公言したことがニュースになっています。

http://www.usfl.com/Daily/News/07/03/0316_015.asp

・アメリカ政治に、既存の宗教の影響力が近年強くなったと考える者は、36%。

 参考。アメリカ国民の宗教意識について、研究文献は多くあると思いますが、とりあえず二冊ほど紹介しておきます。

Evolution Vs. Creationism: An Introduction

Evolution Vs. Creationism: An Introduction

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

[][]雨宮処凛さんの新著

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

読みました。フリーターや野宿者問題、心の病、そして過労死というきわめて現代的なルポをもとにした雨宮さんの主張は、以下に凝縮されている。

闘いのテーマは、ただたんに「生存」である。生きさせろ、ということである。生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ方をするな。俺は人間だ。(p.10)

生命倫理学では、「生命の神聖性」(Sanctity of Life)と「生命の質」(Quality of Life)という先鋭的な対立があるとされる。しかし、雨宮さんが「生きさせろ!」という可能性に賭けて声を大にするとき、もちろん「ただ生きているだけを達成させること」を主張しているのではない。「人を馬鹿にした働かせ方をするな」と言うぐらいだから、「当たり前に認められてよい」*1レベルの個人の生を社会は無条件に肯定せよ!ということなのか。だとすれば、SOLとQOLは対立しない、むしろ個人のQOL(「生活」の質)を社会が高めるという視点で、SOLと両立し得るのではないか、そんなふうに感じた。

雨宮さんのブログ「すごい生き方」

http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/

<参考>

生命の神聖性説批判

生命の神聖性説批判

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

*1:私自身はと言えば、アマルティア・センの言う「基本的ケイパビリティ」の水準を想定しているが、これは当然に議論があってよいところ。

2007-04-02

[][]論座・五月号

 まだ内容をチェックしていないんですが、特集がアメリカと綿矢りささんです。

http://opendoors.asahi.com/data/detail/8006.shtml

論座 2007年 05月号 [雑誌]

論座 2007年 05月号 [雑誌]

 篠山紀信さんが激写しているらしい・・・。

 武田徹さんが寄稿されたおすすめ記事がネットで読めます。武田さんはネットラジオを開始されたんですね。大変面白い試みだと思います。

http://opendoors.asahi.com/ronza/story/index.shtml

[][]綿矢りさ、と言えば・・・

↑のeireneさんの書き込みで思い出しましたが、昨年私は、こういう記事を書きました。

 加藤典洋のエロチックな時評(朝日新聞綿矢りさ、ガルシア=マルケス

 http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20061101/1175002512

綿矢さんも、つねに自分の容貌込みで書き物が評価されるというのは、本人的にはどうなんでしょう。まあ本人のことは本人に考えてもらうとして、問題なのは、そういうふうにつねに扱おう・処理しようとする周りのマスメディアのほうであることにまちがいはないでしょう。

[][]シュライエルマッハーの生命論と「共鳴する死」

ちょいマイナーな神学者・哲学者のシュライエルマッハー(1768〜1834)の『独白』という本が、岩波文庫より刊行されている。

独白 (岩波文庫)

独白 (岩波文庫)

その中より一節:

生命と未来とについて思い及ぶたびに常に無情にも附きまとうこの陰鬱な念(おも)いよ! あるいは、友人は私にとって死にはしない、と言いうるのかもしれない。私は友人の生命を私のうちに受け容れる。友人が私の上に及ぼす影響は決して消滅することがない。けれども友人の死は私を殺してしまう。友情の生命はいわば美しい諧音の連続である。もし友人がこの世を去れば、共同の基音は絶えてしまう。もとより、内心にはその後に反響が長く続いて、音曲はなお熄(や)みはしない。けれども私という基音に伴っており、私のうちにおける彼のものとして私のものであったあの彼のうちの同伴的和音は死滅してしまったのである。彼のうちにおける私の働きは止んでしまった。つまり生命の一部分が失われたわけである。(115頁)

シュライエルマッハーは、こういうことを言っている。友人が死んでも、私の内部にある友人(の生命)は死ぬことはない。しかしながら、私と友人がともに紡ぎ出してきたあの二人のあいだの響き合いは、途絶えてしまう。それにともなって、友人の内部にあったはずの、響き合いの和音の片割れもまた、死滅してしまう。友人の死によって、生命はこのように断片化してしまうのである−−−と。

友人が死んでしまった経験のある人は、この言葉の意味するところのものを、沈潜とともに了解するんじゃないか。あるいは、脳死問題における「共鳴する死」(小松美彦)とか、「関係性としての脳死」(森岡正博)などを連想する人もいるかも。

小松美彦的に言えば、生命というのは、生きている個体に内部閉塞していると考えるべきなのか、それとも、生きている者たちのあいだに滲出して、場の広がりをもって存在している(共鳴している)と考えるべきなのか、ということか。私としては、生命は個体に必然的に内属しながらも外部に必然的に滲出しているものであり、それが生命の本質なのだと考えてみようとしている。

2007-04-01

[][]大澤真幸の新刊?

id:elieli さんによれば、大澤真幸の「ナショナリズムの由来」がようやく出版されるらしいとのこと。ずいぶん前に連載してて、なかなか出なかったですよね。これが出たら、たぶん彼の代表作になるような気がする。「私的所有論」「無痛文明論」「ナショナリズムの由来」・・・。金かかるね・・。

http://d.hatena.ne.jp/elieli/20070327#1175006979

[][]論文への批判など

まだ未完成ではありますが、ホームページ

http://www.nozakiy.org/

をつくり、そこに最新の論文「障害の哲学・序論」

http://www.nozakiy.org/ronbun/200703.html

を掲載しました(売り物ではないので、問題ないのでしょう)。

さっそく、「いちヘルパーの小規模な日常」のエントリで紹介され、dojinさんという方からのコメントで批判頂きました。

「無能力者・経済・交換」

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070331/p2

ありがたいことです。

上記エントリへのコメントで書かせてもいただいたのですが、今後ますます、学際的な知の構築が必要なように感じました。このブログでも、哲学だけでなく、人文科学社会科学自然科学の方からも反応いただければうれしいですね(もちろん「研究」を生業にしていない、しようとしていない方からも)。

[][]沸騰するインド医療ビジネス

 来月のBSドキュメンタリーですが、インドの医療ビジネスの特集があるようです。外国人患者がメディカル・ツアーでインドに入国し、現地の医療スタッフから治療を受ける様子をリポートしているとのことです。

 4月14日(土)後10:10〜11:00

http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/bsdoc.html

 参考記事

インドの意外な有望産業――外国人を虜にする「病院力」:日経ビジネスオンライン

 「インド政府観光局」の記事

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