「本当は、できるでしょう?」の原初的風景

もう少し、この問題にこだわってみたい。
たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。
目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。
それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。
このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。
仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。
私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。
これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。
ただ、私は「200円を募金「できなかった」のではなく、「しなかったのだ」」というふうに言うべきだということなのである。それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。もちろん、「どのように」受け入れるべきかは議論されるべきだと思うが、事実を隠ぺいすることは許されないであろう。私は、そのような単純な事象から考えている。

(追記:[x0000000000]4/21 mojimojiさんのエントリ「道徳的詐術とは何か」。私も実はkanjinaiさんから紹介されたuumin3さんの「道徳的詐術」、これは違うだろうと最初から思っていました。なんか、的確な批判ではない、はずしている、とは思っていました。いまちょっとこの件で(も)書き物していますので、しばしお待ちを)

(追々記:[x0000000000]4/24 ようやく真っ当な「批判」が登場。感謝します。「募金箱の背景にあるもの」
「「200円」をはらうか、はらわないかは、どうでも いいんじゃないか。大事なのは、この世界に歴然たる貧富の格差がいま現にあり、日本では「おかし」が かえる金額で4人家族が1日くらすことができる地域があるということ。そしてなにより、その地域では そのお金が たりていないということだろう」
「【「間接的ではあろうが、私は人殺しである」】というのは、もっとまえから そう」
まったくもって、そう思います。どうもありがとうございます)