男をバカにした『モテる技術』

モテについては、近々新しいエントリーを書くが、その前に、私のテーゼ「モテる男とは一人の女性を大切にできる男である」を全否定するモテ本がある。それが、ここに紹介する『モテる技術』である。

モテる技術 (SHO‐PRO BOOKS)

モテる技術 (SHO‐PRO BOOKS)

この本で言う「モテる」とは、いろんな女と、とっかえひっかえセックスを堪能するという「豊かなセックスライフ」を送ることであり、これが「モテる」ことだとされている(私の言うモテ1)。著者たちは米国人だが、この本を実際に読んでみると、まことに男をバカにした本であることが分かる。以下、同書から引用してみたい。

今やわたしたちは、この本の技術を用いるだけで、望むままに女性を手に入れられるようになった。(2頁)

恋愛はゲームだ。人生における重要なゲームであるが、ゲームであることに変わりはない。(5頁)

あなたの周りにも、魅力的な女性との恋があとを絶たない男がいるだろう。何の苦労もなく、思うままに女性をモノにし、まさに望みどおりのセックスライフを堪能している男が。・・・(中略)・・・この本を読んだあなたが、その行動様式を自分のモノにして女性とつき合えるようになったとしたら、それだけでこの本のもとは取れたと言えるだろう。しかもより多くの女性とセックスできるというおまけつきで。(50〜51頁)

モテる男は常に複数の女性を追いかける。・・・(中略)・・・モテる男は、目標を一人に絞ることはない・・・モテる男性から聞き取り調査を繰り返し、彼らの行動を真似するうちに、著者はある恐ろしい真実に気がついた。それは、あなたがモテる男を目指すなら、ことセックスに関するかぎり、たった一人の女性を追いかけることは、誰も追いかけないよりも悪い結果を引き起こすと言うことだ。(62、66頁)

要するにこの本は、いかに多くの女とセックスをできるようになるか、というそれだけを目標にしている。そういうことができる者が、「モテる男」だというのだ。では、モテる男になったら、どういう女とセックスできるようになるのか。

さて、著者のうちの片方のかつての恋人であり、今はよき友人であるドーンという女性がいる。年は二四歳。ブロンドの長い髪にぱっちりとしたブルーの瞳。長身ですらっと伸びた足、見事なバスト。ボディコンのドレスが大のお気に入りだ。しかもセックスが大好きで、何時間でもオーケーときている。要するに、ドーンは多くの男性たちの夢を現実にした女性なのだ。(40頁)

ギャグじゃないですよ、大まじめでこう書いている。少なくとも私はこのような女性と恋愛もセックスもしたくない。男をバカにしていると思わざるを得ない。

と同時に、次の文章も読んでほしい。

女性の言葉を、バカな子供のたわごとぐらいに考えることができれば、女性をモノにするという目標を見失わずにすむのだ。(423頁 「バカな子供のたわごと」がゴチックで強調されている)

女のことも完全にバカにしている。

このような本が、米国だけではなく日本でもよく読まれている(アマゾンでは評価5点満点中4.5、ランクは5000くらいだった)。このような本を評価している男子諸君、目を覚ました方がよい。そしてこのような言説を垂れ流すような本こそが、真に批判されるべきなのだ。
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追記:ブックマークコメントで、私のこれまでの主張を知らずにコメント書いている人もいるようだから、私の過去の記事も併読しておいてほしい。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070501/1177947000
↑この記事の改訂版を書いた。↓
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070609/1181322127

小畑清剛『近代日本とマイノリティの<生―政治学>』

非常に面白かった。著者は法哲学者で、本書は、とりわけ障害者やハンセン病者の生と、現代思想(副題にもあるように、C・シュミット、M・フーコー、G・アガンベンを軸としながら)とを切り結ぶという、非常な意欲を感じる力作。

その中でも、第一章は、ダーウィン、プレッツらに潜む優生思想を浮かび上がらせ、市野川容孝、松原洋子、立岩真也らの立論をもとに、シュミット=アガンベンの主権権力理論と、障害者プロレス、「夜バナ」*1、青い芝の会などの思想とを接合しようと試みる。

アガンベンによれば、強制収容所の住人は、あたかも死刑囚のように、「ある意味では、気づかぬうちにホモ・サケル、すなわち殺人罪を犯すことなく殺害できる生と同じものとなっている」。文殊菩薩やキリストのような聖なる存在に喩えられることのあるハンセン病患者も、癩療養所の「特別病室」に収容して殺害できる生であるという意味で、広義のホモ・サケルなのである。それゆえ、アガンベンが示唆するように強制収容所や癩療養所から出発する以上、H・アレントが主張したような古典的な政治に戻ることは、もはや不可能である。なぜなら、ユダヤ人にとっての強制収容所ハンセン病者にとっての癩療養所では、都市(ポリス)と家(オイコス)の見分けが全くつかなくなってしまっているからである。そこでは生物学的な「肉体=身体」と政治的な「肉体=身体」を区別する可能性は、もう永久に失われてしまっているのである。(p.35)

小畑はまた、「先天性身体障害者精神障害者そしてハンセン病患者の問題は、社会哲学や倫理学にとって決定的な意味をもつ」(p.36)と喝破する。そして、A・センの「潜在能力アプローチ」を肯定的に評価し、J・ロールズやR・ノジックを、障害者の問題を後回しにしたと批判する。「われわれ=健常者」と「かれら=障害者・病者・患者」との間の(「平和国家」ならではの)闘争を、丹念に読み解いている。
私が小畑を知ったのは、『法の道徳性〈下〉歪みなきコミュニケーションのために』における思考がはじめである。著者は自分を「異形の法哲学者」と名乗り、「法人間学」なる学問を打ちたてようとする。自身が重度の身体障害者でもある。その彼が小さいころ、みずから知的障害者を「劣った存在」であると考えていた過去を反省しつつ描写するあたりは、「生命学」の名にふさわしい研究者であるように私には思われる。

*1:『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史

「成長停止」をめぐるシンポジウム

 macskaさんが、ワシントンで行われた「重度障害児に対する『成長停止』療法」についてのシンポジウムについての報告をブログで書かれている。macskaさんによる経緯の説明は以下のようになっている。

論争の発端となったのは、アシュリーと呼ばれる女の子をめぐる一つの症例。彼女は生まれつき重度の知能障害を持っており、生後3ヶ月の赤ちゃんと同程度の知能しか持たないとされるばかりか身体的にも手を挙げたり足で歩いたりは不可能な状態だが、それ以外は健康だったとされている。両親は彼女を一生自宅で介護していくつもりでいるが、彼女の身体が年齢相応に成長すると介護や外出のために彼女を持ち上げたり移動させることが困難になり、またベッドの上で身動きのできない彼女自身にとっても身体的に大きく成長することは負担であると考え、一時的なホルモン投与と外科手術によって彼女の成長を抑止するよう医師に求めた。ワシントン大学付属のシアトル小児病院は倫理委員会を開いてこの要求について審議したうえで、40人の委員全員の賛同のもとに、彼女が6歳の時点(3年前)でホルモン投与と子宮・乳腺の摘出を行なった。

macska「重度障害児に対する「成長停止」をめぐるワシントン大学シンポジウム報告(前編)」『macska dot org』(http://macska.org/article/186

シンポジウムの議論もかなり込み合っていて、読み応えのある記事で、後半が気になる。*1特に、私が印象に残ったのはmacskaさんが会場でした次の指摘。

わたしは Woodrum が自らを「両親の味方」と位置づけていることに対して、医者は何よりもまず「患者の味方」であるべきではないのか、と指摘した。フロイディアンではないけれど、わたしは Woodrum が「患者の味方」と言わずに「両親の味方」と言ったのは言い間違えでも省略でもなく、本音の発露だと思っている。歴史的に見ても、親と医師が結託して障害者たちから自己決定権を奪おうとした例は(例えば精神障害者に対する過剰な投薬や入院の強制など)いくらでもある。いまさら医師たちが「患者の味方」になろうとしてもそう簡単に自己変革できるわけがないわけで、だったらなおさら発達障害のある人たちの権利を守るためには、法律家に障害者の権利を代弁させたうえで (guardian ad litem) 法廷の許可を必須にするべきではないか、と主張した。

(同上)

「当事者の声を聞く」という話のときに出る問題。とてもデリケートな問題だと思う。これまで障害者運動が問うてきた問題でもある。日本でも、これから論じられるはずだ。

 これは障害者を取り巻く問題だけでなく、たとえば、殺された被害者(子ども)の親と、被害者自身を同一化し、親の声を「被害者の声」と呼んでいいのか、というような問題とも同根である。慎重に考えるべきだ。既に、先日の大阪弁連のシンポジウム*2で、「被害者と司法を考える会」*3の片山さんも少し触れていた。「少し違いはあると思う」というようなコメントだったと記憶している。現在のマスコミの報道では、現在その違いについては区別されていないように思われるが、考えなければならない問題だろう。特に、これだけ「被害者の声」という言葉が広まり始めただけに。

*1:英語版は既に公開されている→http://eminism.org/archive/2007/05/17-12.html いくつかのmacskaさんの短いコメントはこちらにもある→http://d.hatena.ne.jp/macska/

*2:「犯罪被害者と司法を考えるシンポジウム」(http://www.osakaben.or.jp/web/event/2007/070428.php

*3:http://victimandlaw.org/