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2007-06-30

[][]大澤真幸ナショナリズムの由来』

ナショナリズムの由来

ナショナリズムの由来

以前、ここで話題になっていた大著が、ついにお目見えでございます。ギリギリ5千円以下。まだ買っていませんが、夏休みの宿題にぴったりです。現物を拝見しましたが、押し花が大量生産できそうな厚みでした。広辞苑並み。

2007-06-29

[][]杉野昭博『障害学――理論形成と射程』

日本でも、「障害学」と呼ばれる領域が精力的に研究されつつある。本書は、いま絶好のタイミングで出版されたと言って差し支えないだろう。

障害学―理論形成と射程

障害学―理論形成と射程

障害学の理論的な枠組みは、英国のカルチュラル・スタディーズである。それまで医学や福祉の対象のみとして研究されてきた障害について、社会の側の問題点を指摘する。フェミニズムが「Personal is Political」と主張してきたのと同様に、である。その点は評価されすぎることはない。

そのうえで、カルチュラル・スタディーズが基盤となっていることに関して、その可能性と同時に限界もまたあるはずである。杉野はあとがきでこのように述べている。

本書の執筆にあたっては、障害学を研究しようとする人にとって理論的な案内書となることを主眼においた。また、障害学になじみのない研究者にとっても、それぞれの専攻領域と障害学との接点を理解できるように工夫した。たとえば、法学政治学研究者ならば本書の5章を、経済学社会学を専攻する方ならば4章を、フェミニズムやマイノリティ研究などを専攻する方は3章を、リハビリテーション学や障害者福祉や特別支援教育研究者ならば2章と5章を読んでいただければ、障害学を研究したいという大学院生にどのように指導すればよいのか大まかなイメージはつかんでもらえるのではないだろうか。(pp.285-286)

私の不満は、なぜここに「哲学倫理学」が入っていないのか、ということである。「(障害dis-abilityの対概念としての)能力とは何か」ということを考えるのは哲学的営為であるし、また、社会政策哲学としての分配論や、出生前診断をめぐる生命倫理学も、障害研究とは切っても切れないだろう。哲学倫理学方面から障害に切り込むこともまた、必要なことなのである。

ともあれ、そのような不満は本書の価値を落とすものではない。この本の内容を咀嚼したうえで、どう考えるのかが重要なのである。ぜひ手に取って読んでいただきたい一冊である。

[][][][]誰のための被害者参加制度なのか?

 kanjinaiさんも下で紹介しているが、20日に刑訴法の改案が可決され、裁判の「被害者参加制度」が現実化するという方向性が決まった。法学者の白取祐司はフランスの法制度と比較しながら次の点を指摘する。

 フランスの刑事裁判は職権主義で裁判長のイニシアチブで審理が進む。検察被告が直接に攻撃・防御をする、日本の当事者主義とは全く状況が違う。また、被害者に認められているのは民事賠償のための主張・立証である。量刑は要求できない。(=死刑は要求できない*1)さらに、フランスの刑務所における報酬は日本と比べて高額なので、弁済金をそこから払うこともできるようになっている。(白取祐司「日本型『被害者参加』の導入で刑事裁判はどうなるか」『世界』2007年5月)

 このように、フランスの被害者参加制度は、厳罰化とは本来関係のないものである。しかし、現在の日本の状況では、甘すぎる司法を追求するために、被害者参加が必要だ、という論調がとられやすくなっている。

 今のところ、私が読んだ文章で一番まとまっている、この制度への批判の文章は後藤弘子さんのものだ。後藤さんは、重要な問題として、裁判参加をしない被害者への対応が全く配慮されていない点を指摘する。

 「基本計画」が指摘するように、犯罪被害者遺族はあらゆる制度を利用して初めて、亡くなった被害者本人に対して「責任を果たせたと感じる」ことができる。そのため、遺族はどのような犠牲もいとわず、「被害者参加人」となり、刑事裁判に参加するであろう。しかし、実際には参加できない遺族や、遺族内での意見調整がつかない場合も考えられる。そうした場合、制度がなく排除されているならともかく、制度があって「自らの意志」で参加しない選択をすることの精神的負担は計り知れない。参加できなかった自分を責める被害者に対して、本来なら十分な支援が必要なはずであるが、今回の制度設計には、選択しなかった被害者に対する配慮がどこにもない。

 また、今回の制度を利用できるのが公判請求された一定の事件の犯罪被害者に限られていることから、制度を利用したくてもできない犯罪被害者に対する配慮もまったくない。

 さらに、たとえ参加しても、すべての行為について、検察官の許可が必要であるし、また、証人尋問は情状に限られるなど、制限が多い。犯罪被害者の尊厳回復のためには、自らコントロールできることを増やしていくことが重要であるが、今回の制度はその意味では犯罪被害者の回復には役に立たないどころか、マイナスに働く可能性も否定できない。

(後藤弘子「犯罪被害者にとって朗報となるのか」『法学セミナー』2007年7月号、63頁)

三つめの指摘は重要だ。犯罪行為は、被害者の主体性を無理矢理奪い、徹底的に受動的で無抵抗な状態に晒させることが多い。特に、性犯罪の被害者はそのような状況に追い込まれやすい。暴力に支配されて抗えない、という無力感から回復が必要になる。

 例えば、アメリカのレイプクライシスセンターは、この点を熟知しており、対応する支援者は常に、被害者に選択肢を並べる。それは「この椅子に座る?あっちに座る?」「飲み物を飲む?何を飲む?」というような、些細なあらゆる行動に、「あなたの自由は保障されていますよ」というメッセージをこめていく。そのことによって、状況の支配権を自分が握ることできるのだ、と被害者が主体性を取り戻せることが大事な目的になる。

 現在の日本の刑事裁判制度は確かに被害者にコントロール権が少ない。だから、なんらかの司法改革は必要であった。しかし、裁判に被害者が参加することが最良の方法だったのか。様々な人が指摘しているように、検察が勝訴するためのカードとして被害者参加が使われるとすれば、さらに検察の状況支配により被害者が傷つけられることになるのではないか。

 さらに、公判まで持ち越せる犯罪被害者は多くない。1999年の時点で窃盗の不起訴率は58.5%、交通関係業過*2不起訴率は87.8%である。*3そして、犯罪人地件数は2000年で窃盗が65.5%、交通関係業過は25.0%を占める。もちろん、殺人や放火などのほとんどは起訴されるが、実際の刑事事件の総数を占める割合は決して多くない。

 また、起訴か不起訴か、という判断は検察庁検察官[追記コメント欄でご指摘頂きました。]に一任されており、被害者はその審査のあいだ大変不安定な心理状態におかれる。不起訴処分になった場合は、検察審査会に申し立てすることができるが、ここで起訴相当・不起訴相当の議決が出ても拘束力はない。

 つまり、多くの被害者は公判までたどり着くことができない。もっと言えば、性犯罪は親告罪であり、被害者が公判を求めなければならない。しかし、現在の日本の状況では、裁判を起こす中での二次被害は避けがたく、そのダメージも甚大であるために、多くの被害者が公判を断念する。こういう状況を生み出す社会情勢や司法システムは批判しなければならないが、被害者が公判を断念することはなんら批判されることはないし、「公判を多くすることによって社会を変えるべきだ」と外から強制されることがあってもいけない。

 その上で、今回の「被害者参加制度」がどれだけ有効性が高いのかは、疑問を持たざるを得ない。また、法案の制定過程にも、批判は向けられている。先の後藤さんはこういう。

 法制審議会の審議で特徴的だったことは、「全国犯罪被害者の会」(あすの会」が作成した案を元に、審議が行われたことである。事務当局は、第一回会合の冒頭で、今回の諮問はこれまでと異なり、具体的な要項骨子を示して意見を求める形をとっていない、とし、「幅広い観点から検討」していただきたいと述べている。ところが、実際は、「全国犯罪被害者の会」の提案を元に議論が行われ、現行制度とあまりにも相容れない点のみ(たとえば、犯罪被害者の訴因の決定権など)を是正する形で議論が推移していった。

 この背景には、委員として「全国犯罪被害者の会」の代表幹事(犯罪被害者)が参加していたこと、具体案として「全国犯罪被害者の会」案が存在していたこと、弁護士委員も刑事弁護関係の委員と被害者支援関係の委員とで、意見が合わず、共同歩調がとれなかったことがある。

(後藤、61頁)

犯罪被害者の会」の代表幹事は司法関係者であり、もちろん、他の委員も司法関係者であった。その中で、支援関係の委員だけが司法関係者でなかったため、その委員がかなり苦しい立場に置かれたことを指摘する声もある。さらに自民党の後押しで強引に通した側面もあるとの指摘は、法律時報の座談会(「犯罪被害者と刑事訴訟」『法律時報』79巻7号)で出ている。

 もう一つ言うと、まだ、誰も指摘していないようだが、遺族とは誰を指すのだろうか?法律で、当人の家族を限定するには注意が必要だという議論は、臓器移植法でもなされてきた。また、被害者当人と被害者遺族は違う。遺族は、被害者が死んだ苦しみを背負うが、被害者当人は被害後も生きるという苦しみを背負う。この間には埋められない溝があることにも注意が必要だろう。

 なんにせよ、手放しで「被害者の権利が守れて良かったね」という結論では終われない難しさがある。年内に基本的なガイドラインが作られるようだが、経過を追っていきたい。

*1:むろん、ヨーロッパのEC加盟国は全て死刑制度が廃止されているのだが

*2:道路上の交通事故に係る業務上過失致死傷及び重過失致死傷をいう。

*3:しかし、被害者運動により、起訴率は変動している可能性がある。手元にデータがないのでそれは明記できなかった。

2007-06-28

[][][]被害者参加制度は重罰化を推進するか?

インパクション』157号(2007年7月10日号)にて、弁護士の山下幸夫が、「重罰化が進む昨今の法改正について」というコラムを書いている。その中に、今国会で成立(6月20日)した「被害者参加制度」(裁判の時に被害者側も出廷できるという制度)への批判が書かれている。

刑事裁判の場では、犯罪被害者やその遺族は、検察官の横に座って被告人に睨みをきかせるようになることから、気の弱い被告人や自責の念に支配されている被告人は自己に有利な弁解や主張をすることすらできなくなってしまうと考えられる。

 そうすると、被害者参加制度は、被告人に対して弁解を許さず、厳罰を課すための制度として機能することになるだろう。そして、この制度が裁判員制度と一緒になれば、刑事裁判は、犯罪被害者や遺族と市民が、被害を与えて国家秩序を乱した被告人を糾弾し断罪する「市民法廷」の場に変貌することが予想される。

 ・・・(中略)・・・とりわけ、被害者参加制度が、被害者や遺族による求刑を認めていることから、犯罪被害者や遺族が、「死刑」を求刑する場面が増加することが予想される。特に、2009年5月から裁判員制度が実施され、市民である裁判員が量刑判断にもかかわるようになるが、犯罪被害者や遺族の生の迫力に圧倒され、その被害者に共感する裁判員によって、現在以上に死刑判決が急増することが予想される。(2頁)

犯罪被害者や遺族の感情や権利が蚊帳の外に置かれてきたという批判を取り入れた制度であるが、法廷にこういう形で持ち込むのが良いやり方だったのか、というわけである。かなり難しい問題である。だが、もう国会で成立してしまった。

山下の言うように、裁判員制度と組み合わされるとすれば、原告側は当然の戦略として、被害者や遺族への「演技指導」を行なうようになるかもしれない。そのために専門家が雇われることになるかもしれない。被害者や遺族の心の中にあるであろう、仇をとってやりたいという感情は最大限に活用されることとなるが、その下に眠っているかもしれない「和解」の感情はどうなるのだろうか。などと、いろいろ考えてしまった。これは、以前に書いた「「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報」と深く関連する話である。

日弁連は、この制度導入に反対していた。

本被害者参加制度を直ちに導入することに反対する理由

(1)真実の発見に支障をきたす

(2)刑事訴訟の構造を根底からくつがえす

(3)被告人の防御に困難をきたすおそれがある

(4)少年の刑事裁判ではさらに深刻な問題がある

(5)事実認定に悪影響を及ぼし裁判員制度が円滑に機能しなくなるおそれがある

   証拠法則が空洞化するおそれがある

   裁判員制度が円滑に機能しなくなる

(6)外国の制度はその基盤・背景に大きな相違がある]

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/070501.html

被害者と司法を考える会」という被害者側の団体も、公判で被害者への2次被害が起きるなどの理由で反対していた。(http://victimandlaw.org/victimyousei20070307.pdf PDFファイル)

これは、山下や日弁連の論調とはまったく逆に、この制度によって、被害者が加害者から法廷で2次被害を受けたり、法廷に出ない被害者が低く見られたりする危険性があるという指摘である。これも頷ける話である。

このように、被害者側の意見も一様ではないし、ひとりの被害者や遺族の心にも様々な思いがあるはずだ。

この結論でほんとうによかったのか?

2007-06-27

[][][]フリーターズフリー

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。

 アマゾンから届いたので、少しづつ読んでいる。とりあえず、冒頭の対談、ビッグイシューの発行者へのインタビュー、栗田さん、野崎さんの文章に目を通す。

 対談では、フリーターズフリー(FF)のコアメンバーの自己紹介がなされ、本書が刊行に至ったいきさつや、目下の問題意識がざっくばらんに語られている。

 FFは「有限責任事業組合」という組織形態を取っている。世にある営利企業、同人誌的な私的サークル、学会とは異なり、志をもった人が出資金を持ち寄り、協同で事業を営む。本書の出版は、働くひとがつながり支え合う新しい方法を提案する、という意図もあるようだ。

 FFのウェブサイト。

http://www.freetersfree.org/

 はてなにブログが開設されている。

http://d.hatena.ne.jp/FreetersFree/

 ビッグイシューの発行者の佐野さんのインタビュー。ビッグイシューとは、都市の路上で野宿者が販売する雑誌である。一般の書店では売っていない。定価200円の雑誌を一冊売ると、売り手に110円が支払われる。仕事と収入を提供し、野宿者の自立を支援しようというわけだ。

 ビジネスの手法を用いて、社会問題の解決に貢献しようとする「社会的企業」は、日本ではまだ少ない。ビッグイッシューはその貴重な試みのひとつ。佐野さんが雑誌を販売しようと思いついたいきさつ、ビッグイシューを立ち上げるまでの苦労話が興味深い。

 ウェブサイトがある。

http://www.bigissue.jp/tachiyomi/saishin.htm

 実は、私はまだ読んだことがない。今度購入してみたい(販売スポットは、上記のウェブサイトで公開されている)。

 「”ないものとされたもの”これくしょん」と題された栗田隆子さんの「観察ノート」。ユニークな視点と、簡素だが思考の奥行きがじんわり伝わってくる一連の文章が印象に残った。その出だし。

 やりたいことは書評やエッセイではない。強いていえば、「観察ノート」といえるだろうか。「見えてきたもの」を書くこと、それに尽きる。

 「世間様が見せたくないと思っているもの」を見たい。「自分が見たくないと思っているもの」も見たい。見たいという願いにとりつかれた「観察」とそれに基づく「報告」を集めた「これくしょん」、それが私の書きたいものだ。見たくないものを見ようとすると、痛みを感じる。その場合、痛みを覆い隠さないように努めた。痛みは痛みとして言葉にしなければならない。ただ、その痛みに淫してもいけない。痛みの中に己の実感を求めることは何より危険だから。最も無意識かつ強烈な自己中心となるから。「世界の中心で」私は生きているわけではない。とはいえ、世界の一部を占めている。見たいと願い、祈れば、見えてくるものがあると信じること。そこからこの「これくしょん」は生まれた。……(150ページ)

 栗田さんは学生の頃にシモーヌ・ヴェイユを研究されていたそうだ。このような視点はヴェイユ(彼女も自身の観察にもとづくノートを書いた)との繋がりを感じさせられる。「これくしょん」では、女性フリーター、秋葉原サウンドデモ、雑務(家事労働)についての考察に、はっとさせられる論点がいくつもあった。今後の号で、続きを読みたい。

 野崎泰伸さんの「生活保護とベーシック・インカム」。日本の格差社会化の進行にともない、社会保障政策としての「ベーシック・インカム論」の紹介や、導入についての呼びかけが、ちらほら聞こえるようになってきた。

 野崎さんは「人間の生存維持に必要な最低限の財」を再分配するベーシック・インカムの理念に一定の評価を与えつつも、それが貧困者・低所得者に貼り付けられた「スティグマ」(=貧困者・低所得者は社会の落伍者だという偏見)をなくし「生の無条件の肯定」を目指す政策としては不十分で、福祉受給者の個々のニーズを顧慮しない問題をはらむと指摘する。

 ベーシック・インカムの対案として野崎さんが提案するのは、現行の生活保護制度の改良である。

生活保護法」

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO144.html

 ベーシック・インカム法を新たに制定するより、生活保護法を改良し、福祉受給者の個々のニーズに対応する方が望ましいとする。生活保護を受給する者は社会の落伍者であるという考え方は、ベーシック・インカムの導入によって「回避」するのではなく、「人々の価値意識を規定する私的所有の論理」を批判することで「解消」されねばならない。

 「貧困者・低所得者は社会の落伍者」「生活保護を受けるような人間は無価値な存在」という人間観を内面化している人、また、そうした見方を内面化させる社会のあり方に、一石を投じる内容だ。

 すべてに目を通すまで時間が掛かりそうだが、この充実した内容で1500円は安いと思う。生田さんのフリーター論は、それだけで新書一冊分ぐらいの字数がありそうです。

2007-06-26

[][]臓器移植法改正を考える勉強会

転送可とのことなので掲載します。

長期脳死の「有里ちゃん」のお母さんの話が聞き所かと思われます。

_________________

臓器移植法改正を考える第15回勉強会

脳死は人の死? 本人意思は不要?

【呼びかけ人】池坊保子 泉健太 漆原良夫 枝野幸男 遠藤武彦 逢坂誠二 岡崎トミ子 金田誠一 黒岩宇洋 小池晃 郡和子 小宮山洋子 西村智奈美 白真勲 平岡秀夫 福島みずほ 細川律夫 森ゆうこ 山本孝史 阿部知子(2007.6.25現在)

と   き  6月28日(木)15:00〜16:30

と こ ろ  衆議院第2員会館 第3会議室 

  子どもの脳死診断は可能か?

― 小児科学会会員アンケート調査より ―

お 話   掛江 直子さん 

国立成育医療センター研究所成育保健政策科学研究室 室長。日本小児科学会小児脳死臓器移植に関する基盤整備委員会委員として小児科学会の調査結果を中心になってまとめた。

脳死と診断されても生きてるよ!

― 長期脳死の「有里ちゃん」と家族のいま ―

お 話   中村 暁美さん(有里ちゃんのお母さん)

有里ちゃんは両親と3人の兄の6人家族。2005年12月に急性脳症から脳死と診断された。家族の見守りの中で1年半後の今も身長・体重共に成長を続けている。有里ちゃんのようなケースは世界中で報告され、医学界の「常識」に警鐘を鳴らしている 

◎どなたでもご参加になれます。14時45分より玄関で通行証を配布しておりますので、入り口で提示の上、ロビー左手奥の第3会議室にお入りください。

◎国会周辺図:http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_kokkaimap.htm

※連絡先 衆議院議員阿部知子事務所 栗原優子

TEL3508-7303 FAX3508-3303

h05272@shugiin.go.jp

[][][]澤瀉久敬『医学の哲学

ある方に勧められ、澤瀉久敬さんを読んでみようと思っている。私は恥ずかしながら初耳だったのだが、デカルトベルクソンなど、フランス哲学研究者であったようだ。そして、注文した本がこれ。ちょうど、誠信書房からオンデマンド版が出されているようだ(最初の4冊)。

医学の哲学

医学の哲学

澤瀉さんは大阪大学で教鞭をとられていたようだから、いまの阪大医の倫理学教室にもその思想は受け継がれているのかな…? 安易な推測はやめておくが、年代をみれば『医学概論』三部作が1960年、『医の倫理』が1971年だから、日本において学術的なフィールドでいわゆる生命倫理が議論し始められる以前のことである。欧米流の生命倫理学が流入してくる前の日本の「医の哲学」、どんなものか早く読んでみたい。

2007-06-25

[][]BSアニメ夜話

 今晩から四夜連続で放映。

http://www.nhk.or.jp/animeyawa/list.html

BSアニメ夜話 第8弾 (2007年6月25日〜28日放送)

6月25日(月) 母をたずねて三千里 監督: 高畑勲

6月26日(火) 装甲騎兵ボトムズ 監督: 高橋良輔

6月27日(水) 時をかける少女 監督: 細田守

6月28日(木) 精霊の守り人 監督: 神山健治

 水曜日には、原作者の筒井康隆さんが出演されるそうです。

[][][]キャディ『切除されて』

切除されて

切除されて

 女性器切除を扱った書籍が、ブックファーストの新刊棚に平積みされているので手に取った。著者はセネガル人で、女性器を切除され、性暴力の被害にあった過去を持ち、現在はフランスで反女性器切除の活動を続けている、という半生を綴っている。

 それはともかくとして、女性器切除に関する議論が一切引かれていないのに違和感を持った。著者がどのような立場なのかは知らないのだが、せめて編集者か訳者は後書きに、日本も含めた先進国でフェミニストを中心に投げかけられた、女性器切除を外側から論じることに対する難しさの問題を、紹介すべきではなかったか?*1ネットでも、女性器切除を「撲滅するべき」「先進国が率先して〜」というような感想をみかける。意図的に無視しているのだろうか?

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

 アフリカの村の女性が女性器切除の抵抗を始める「母たちの村」という映画を去年観た。アフリカの青い空と原色の衣服、コミュニティの人々の明るいやり取り。女性器切除と性暴力の悲惨さは繰り返し描かれるのだが、その状況を変えようとするのは、白人先進国の文明化された金持ち青年ではなく、呪術をもちいてたたかう、アフリカの文化に深く根ざした中年女性の主人公である。アフリカ人による、アフリカ人の映画として高く評価されている。DVDが出ているようなので、女性器切除の問題に興味のある方は是非。

母たちの村 [DVD]

母たちの村 [DVD]

*1:詳しくは岡真理他を参照。「女性器切除のような野蛮な風習の残った、未開国を啓蒙してやろうという、植民地主義フェミニズム」への批判が起きた。また「女性器切除」(FGM)という呼び方にも賛否両論ある。

2007-06-24

[][][]ブリューゲルとルーベンス

今日が最終日だったので、急いで大阪・中之島にある国立国際美術館の「ベルギー王立美術館展」に行ってきた。すごいお客さんがたくさんいた。大阪の美術ファンってこんなに多いのだろうか。けっこうみんな、しぶい作品を熱心に見ていた。

話題の、ブリューゲル父(?)の「イカロスの墜落」をじっくり見た。f:id:gordias:20070624192234j:image

結論から言うと、世評とは裏腹に、たいした絵ではないというのが私の印象だ。もちろん、きれいな色合いだし、不思議な構図で、良い絵に間違いないが、それほど騒ぐほどのものだろうか? もしこの絵に「イカロス」というタイトルが付いていなかったとしたら、右下の脚が誰のものか分からなかっただろうし、評判にもならなかっただろう。要するにこの絵の評判を上げているのは、絵の「タイトル」である。ブリューゲル父子の作品は、もっと別のものを見たい。ベルギーに行くべきか。


展覧会での最大の収穫は、ルーベンスを見れたことである。なかでも、大作「聖ベネディクトゥスの奇跡」は、大傑作である。

f:id:gordias:20070624192248j:image

ルーベンスの絵は、まったく表面的ではない。何か、ある出来事、というか、ある動きというか、そういうものを必死で捉えようとしている。岡本太郎流に言えば、これは「止まっているのに動いている」絵である。未完成作品らしいが、それがかえってよかったのかもしれない。上部の天使たちの動きの描き方は最高。知恩院の来迎図を彷彿とさせる。(ウェブ上だと色合いがきたなく映るみたいだ)

となりに、ドラクロワによる模写が並べてあって、これも面白い。緻密に写しているが、できばえの差は歴然としている。原作の魂である「動き」がまったくとらえられていない。ドラクロワの模写は、まあ模写だが仕方ないと言えばそれまでだが、非常に表面的な絵である。それに比べて、ルーベンスの原作は、表面に表われていないものを描き切ろうとしている。アートや思想はすべからく後者を目指すべきである。

[][]ダーウィンの悪夢

 NHKのBSドキュメンタリーですが、7月1日(日曜日)の枠に「ダーウィンの悪夢」の放映予告があります。映画で公開された作品と同じものでしょうか。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/yotei/index.html

http://www.nhk.or.jp/wdoc/yotei/index.html#060305a

2007-06-23

[][]朴裕河(パク・ユハ)『和解のために』

和解のために 教科書、慰安婦、靖国、独島

和解のために 教科書、慰安婦、靖国、独島

 韓国からの留学生の友人の話では、今の韓国では日本思想が大ブームだという。特に柄谷行人は、韓国語に翻訳されたものも多く、「今、一番注目を集めてる思想家」らしい。

 朴さんは、そんな韓国で日本文学を研究している。柄谷行人夏目漱石の翻訳を手がけてきた。そして、5年前に『反日ナショナリズムを超えて』を出版し、賛否両論を読んだ。さらに、2005年に上記の『和解のために』を刊行したのだ。

 『和解のために』で、朴さんは「教科書」「慰安婦」「靖国」「独島」*1の4つの、多くの研究者が避けて通りたがる問題に、真っ向から取り組んでいる。日本の動きと、韓国の動きを同時に描き出しながら、お互いに誤解をしたまま溝が深まる様子を浮かび上がらせる。両国が、いかに相手のことを捉え損ねたまま、関係がねじれていくのかを、あらわにする。

 重要なのは、この本で朴さんが、韓国人として、韓国の自己批判を促していることだ。例えば、慰安婦問題では、朴さんは、日本が加害主体であることを当然の前提としながら、「慰安婦」当事者の視点の重要性を強調する。「慰安婦」に対する(はずだった)保障を、国内のインフラに使ってしまった政府への批判、「慰安婦」に無垢な被害者のイメージを押しつけようとする動きへの批判、「慰安婦」に国民基金*2を受け取らせないように圧力をかけた運動団体への批判、売春婦差別への批判、そして韓国の女性を「慰安婦」に無理矢理させようとした韓国人がいたことにへの批判がなされる。*3

 韓国で、朴さんは多くの批判を浴びているようだ。日本をかばっているとみなされている。しかし、朴さんは日本を免罪するつもりはないと明言している。

 周知のように、「慰安婦問題」は、「民族」の問題であるばかりか本質においては「性」の問題であり、「階級」の問題である。現在の日本人が「日本」人の思想であるがゆえに彼女たちの「不幸」に対して「責任」があるとするなら、当時貧しい彼女たちを「慰安婦」に送り出し、学校や結婚に逃避した結果、貞淑な女性として残ることができた有産階級の子孫であり、朝鮮人募集策に関わった者たちの子孫であり、彼女たちを蹂躙した朝鮮人男性の子孫である韓国人にも、責任がなかろうはずはない。

 韓国のなかの責任を問うことは、日本の責任を薄めることにはならない。むしろもっとも大きな責任を負うべき、「発案」し「命令」した者の責任をいっそう明確にするためにも、「遂行」した者に対する責任は問われねばならないのである。(91-92頁)

どこまでが日本の責任で、どこからが韓国の責任なのか腑分けしていくこと。そうして問題を精緻に掘り下げることで、日本の責任の大きさはよりいっそうと明らかになるという。

 朴さんはデリダ*4を参照していることを、日本語版のあとがきで書いている。

 フランスの哲学者デリダのいう「赦す力」について、わたしはこの間考えていた。謝罪を見届けてから赦すのではなく、赦しが先に立つのではないか。そうしてはじめてわたしたちは、過去の「真実」について、より自由に語ることができるのではないか。

(略)

 韓国のナショナリズムを問題にするとき、韓国は被害国であるのだから日本と同列において批判するのは不当だ、という意見をよく耳にする。そのような意見は、まったく間違っているわけではない。しかし被害者のナショナリズムと加害者のナショナリズムとの違いは、紙一重ぐらいの差でしかない。なによりもそのような良心的な言葉は、ともすればこうむった被害をかざし続ける間に、被害者自身に目をつぶらさせる。ナショナリズムの無前提の許容は、そのなかにひそむ数々の矛盾――欲望と権力化と言葉による暴力に眼を塞がせ、免罪するのである。

 さらに、それは結局のところ、被害者をそのままの状態に押しとどめてしまうことになりはしないか?被植民意識を払拭するためには、支配を受けた事実に派生する被害者としてのナショナリズムを、韓国みずからが俎上にのせる必要があるのではないか?いわば被害者としてのナショナリズムの呪縛から解き放たれるためにこそ自己批判は必要ではないか?「赦し」は被害者自身のためにこそ必要なのだ。怨恨と憤怒から、自由になって傷を受ける前の平和な状態にもどるために。

(239-240頁)

上記は汗がでるくらい真摯で強い、日本と韓国の間に向けられたまなざしである。これを読んだ日本人は、上野千鶴子のこの言葉を必ず噛みしめることが必要だ。

 朴さんは、和解があるとすれば、それは被害者の側の赦しから始まる、と言う。それを言える特権は「被害者」の側にしかない。わたしたち日本の読者はそれにつけこんではならない。彼女の次の言葉をメッセージとして受け取る、日本の読者の責任は重いだろう。

「被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になる。」

上野千鶴子「あえて火中の栗を拾う」(同書、250-251頁)

被害者は決して、被害者になりたかったわけではない。そして、被害者にさせられた被害者は、赦すしかない、と考えるから、赦す。まさか、と思うが、この朴さんの記述を読んで、「韓国の責任を問う」理由ができたと喜ぶような、恥知らずな日本人がいないことを願うばかりだ。真に問われているのは加害者である日本である。

[追記]

いくつか、文章のおかしいところを修正しました。

[][]竹内敏晴『生きることのレッスン』と身体の言葉

『ことばが劈かれるとき』の著者、竹内敏晴さんの新刊を読んだ。竹内さんは、竹内演劇研究所を主宰している。

竹内さんへのインタビューだが、前半の半生記もなかなか面白い。敗戦直後の様子など、興味深いものがある。

身体のレッスンのことも面白い。小児マヒの後遺症であるという発話障害?をもった女性の発話を聞いて、

私はギョッとしました。どうにもならない障害をもった人だということを、自分がまったく考えていなかったことに、気がついたんですね。自分はからだの問題をずっと探ってきたのに、かの女が固定化した障害をもっていることに思いが及ばなかった。そういう自分とはいったい何なのだろう、と。それが大きなショックだった。そして次にきたのは、そういう障害を、どうして私のからだが感じ取れなかったんだろうというショックです。その二つのショックで、棒立ちになっていた。(155頁)

その日から、竹内さんは、彼女の発話を自分の身体で真似して、考えてみる。そして、レッスンのときに、みんなの前で次のように言う。

それにみんなが意見を述べたわけですが、私の番になったとき、私はほとんど目をつむって、あなたはこういう話し方をしますとって、いきなり「わ、わ、わたしは・・・・」と、かの女の真似をやってみせました。かの女が「そうです!」と叫んだ。私は、目を上げられなかったが、つづけて「こうやっていると、私のからだのなかに、ふしぎな感じがおこる。自分は子どものころに聴覚言語障害があった人間だが、その正直な感じからいうと、うまくことばが出ない人間がひっかかるというのは、なかにしゃべりたいことがいっぱいつまっているのに、どうしてもそれが外へ出てこないということだ。ところが、あなたの真似をしていると、私のからだのなかに、しゃべりたいことはないのに、意志だけで口を開け、意志だけでしゃべろうと努力しているという感じがしてくるんです」といい切った。(156〜157頁)

これがどういうことだったのかというのは、本書を読んでみてほしい。各方面に多大な影響を与えてきた竹内さんだが、すごいと思う一方で、オカルト寸前という危なさもある。客観的に確かめようのない世界で勝負しているから、いつ不思議な領域に踏み入れてしまうかもしれない。だが人々が、ワークや演劇に惹かれてしまうのは、きっとこの危なさがあるからだろう。

[][]ネットカフェ漂流

 6月24日(日)深夜2時35分〜3時30分、フジテレビ系列で『ネットカフェ漂流』という番組があるようです。

http://wwwz.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/16th/07-174.html

<企画意図>

 今、東京で、懸命に働きながら、それでも最低限度の生活を営めない若者が増えている。彼らは“日雇い派遣”として働きながらも生活に困窮し、家賃が払えなくなり、ネットカフェのリクライニングシートで夜を明かす…。

 景気が回復したと言われる今も、セーフティーネットの網からこぼれ落ち、再チャレンジ不能に陥り、ネットカフェなどで暮らすことを余儀なくされた“現住所不定”の若者フリーター、日雇い派遣労働者が増えているのだ。

 格差社会、ニート、ワーキングプア…。2006年に流行ったこれらの言葉では説明できず、社会から見えない存在となっている新たな貧困層。なぜ今の生活から抜け出すことができないのか? そして今、何を思っているのか? 彼らの本音に迫る。

 同じ日には、日本テレビ系列でも「ネットカフェ難民」のドキュメンタリーが放映されます。 

http://www.ntv.co.jp/document/

*1:日本では「竹島」問題と呼ばれることが多い

*2:「女性のためのアジア平和国民基金)

*3:「慰安婦」と加害日本兵が恋愛関係になりえた可能性を抹消することへの批判もされている。これは重要で、慎重に考えるべき問題である。「もとよりそのような兵士がいたからといって、日本軍の加害性が相殺されるわけではない。また自己の体験についての安易な意味づけが、その関係に存在する支配関係を隠蔽することは多々あることである。しかし、たとえ「性暴力の被害者」であったとしても、そのことがただちにそこにあった「関係」を規定しうる決定的な決め手になるわけではない。かりに知識人女性がそのもてる知識で「それは恋愛ではない」としても、そしてそれが決して対等な関係でなかったとしても、当事者達が「恋愛関係」だと考えたのなら、それはやはり恋愛関係だったといえるだろう」(97頁)「慰安婦」だけに限らず、全ての性暴力が孕む問題である。そして朴さんが言うように、たとえ恋愛関係にあったとしても、そこで起きた暴力の被害は軽減しないし、加害者は免罪されないだろう。むしろ恋愛関係にあるからこそ、その関係性を利用した暴力は許されない。

*4:私(font-da)のデリダがいう「赦し」についての考えについては、はこちらを参照→http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070519/1179586075 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070522/1179761897

2007-06-22

[][][]米国の手塚治虫

サンフランシスコのAsian Art Museumで海外初の本格的な手塚治虫展をやっている。

Tezuka: The Marvel of Manga (June 2 - September 9)

http://www.marvelofmanga.org/ (←重いです・・)

解説など読むと、けっこう力が入っている模様。行ってみたいなあ・・・。

2007-06-21

[][]鷲田清一『思考のエシックス』と「他者」

思考のエシックス―反・方法主義論

思考のエシックス―反・方法主義論

鷲田さんの新著で、「他者」について議論されている。レヴィナスの路線で考えていこうとしている。

傷ついた〈顔〉にふれるとき、わたしはすでに他者の呼びかけに晒された、あるいはそれを迎え入れたわけであって、まさにそのような他者の苦しみの受信者として自己を認めるかどうかという反省は、言いかえると手をさしのべるかどうか、ともに苦しむのかどうかという選択は、この接触にとって事後的なものでしかない。わたしはすでにもう切迫に応えているのであり、それに相対するような距離は、接触が断たれたあとに生まれるのだ。他者のこのような切迫にふれつつそれを忘れること、判断を停止することは、それだけでもう他者への暴力となりうるというわけだ。(161〜162頁)

「他者」の到来が「先に」あること、そしてそれを忘れることが「暴力」になりうるという指摘がなされる。そのうえで鷲田さんは次のように言う。

われわれは他者に遭う。他者との遭遇はあらかじめ予測や選択ができないものであるかぎりで、偶然のものである。自分が他者を選ぶのではなく、他者と遭うのだということ、このような偶然性のなかでわれわれの社会性は生成する。そしてこの偶然性、この予見不可能性が、そこで遭われる者の「尊厳」を形成する、そのように考えることもできよう。(163頁)

「他者」の到来と遭遇が、人間の「尊厳」を形成するという主張は、たいへんおもしろい。ふつうは、他者を単なる道具として扱わないことが「人間の尊厳」だというような、カント的な理解になると思われるが、鷲田さんのこの指摘は、それとはまた別の道筋を暗示しているように思われる。大注目したい。

「人間の尊厳」の新たな解釈については、私も「生命学とは何か」(の後ろのほう)で議論した。「人間の尊厳」というテーマは、まさに現在的なトピックであるし、もっとみんなで議論を深めていくべきだと思う。

鷲田さんは、いつぞや拙著の解説を書いてくれたけど、夏から大阪大学総長になっちゃうし、偉くなってしまわれましたね。研究会などでお会いする機会は減ってしまうのかな。

[][][]『フリーターズフリー』創刊

下でfont-daさんも派遣労働問題について触れられているが、雑誌『フリーターズフリー』が、このたび創刊された。

フリーターズフリー」HP

http://www.freetersfree.org/

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。

(上記HPからお求めになれます)

ここには、さまざまな立場からいろいろな論考が載せられている。font-daさんも触れられていた『生きさせろ! 難民化する若者たち』の雨宮処凛さんも「生きづらさとプレカリアート」という文章をお書きになっている。

東京の方は創刊記念イベントが目白押しのようだ。詳しくは上記HPからご覧ください。

私も「生活保護とベーシック・インカム」という論文を掲載していただいている。これについては個人ブログの同名エントリで書きました。

2007-06-20

[][][]派遣労働問題

 先日、私の携帯電話に知らない番号から電話がかかってきた。出ると、「プレミア・サービスです」という女性の声。怪しんで問いただすと、人材派遣会社の「クリスタルサービス」が社名を変更したらしい。

「ああ、『クリスタル』が名前を変えたんですか?」

と聞くと、あっさり「そうです」との答えだった。

 私は、2002年頃にアウトソーシングと業種に書いてある求人広告をみて、面接を受けに行った。アルバイト情報誌には、時給1000円のアンケートの仕事だと書いてあった。興味を持ち、電話をかけると、登録制だから会社まで来て欲しいといわれ、ビルの一室で5〜6人の登録希望者と一緒にビデオを見せられた。画質の悪い、アウトソーシングについての説明のビデオで、周りで働いている社員の声がうるさくて音もよく聞き取れなかった。そのあと、持参した証明写真をその場で書いた簡易履歴書に貼り付け、社員の簡単な面接(というより、希望の仕事内容を伝えた)を行って、登録した。アンケートの仕事はもう埋まってしまってないが、別の仕事を紹介すると言われた。このとき、登録した会社は「ジオン」だった。

 「ジオン」で仕事をいくつかこなした。工場のライン作業もあれば、倉庫でのピッキングもあった。その後、定期のアルバイトが見つかったので、しばらく「ジオン」には連絡していなかった。しかし、事情があってまた、短期でのアルバイトを希望して、前の番号に連絡した。すると、社名が「クリスタルサービス」に変わっていた。よくわからないまま、いくつか仕事をして、またこの会社とは縁遠くなった。

 それから数年後、私は新聞で社名変更の理由を知って背筋が寒くなった。「ジオン」は、免許を持たない登録者にフォークリフトを運転させ、事故を起こしていた。その労働者は亡くなった。もちろん、行政指導が入ったが、親会社の「クリスタルグループ」が「ジオン」を吸収する形で、社名も「クリスタルサービス」に変えさせ業務を継続させたのだ。もちろん、私も含め、登録者に向けてのアナウンスは一切なかった。そして、社員の業務形態も、登録者の待遇もなにも変化はない。

 先日、その「クリスタルサービス」が「グッドウィル」に統合されたことはニュースで知っていた。さらに「グッドウィル」が不祥事を起こしたときに、「クリスタルサービス」もヤバイな、とは思った。そう思っていた矢先に、かかってきたのが、冒頭の電話だった。一部の報道機関は、「グッドウィル」の件で、派遣労働問題にもメスが入ったなどと言っているが、実際には、また社名を変更することで全てなかったことにされ、肝心の登録者の待遇(そして社員の待遇も!)は改善されない、可能性が高い。

 その証拠に、私の古いメールアドレス(登録時に使用していたもの)に入ってきたのは、プレミア・サービスからの情報はこれである→(http://west.crynavi.com/m/i.php?I=40347c2ec0)観て頂ければわかるが、アドレスはcrynabi、「クリスタルサービス」をもじっている。つまり、「クリスタルサービス」時代のシステムを、社名だけ変更して使っているのだ。そのうえ、メールの送り主は「クリスタルサービス」のままだった。[追記:この部分は誤りを含んでいるので、追記しました。]

 多くの登録者は、また、過去の私のように何が起きたのか知らないのではないだろうか。

 元気がなくなるこんな話題には、やっぱりこれ↓

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

読んでて哀しいのは、全く他人事ではなく、私も含めていつワーキングプアと呼ばれてもおかしくないこと。東京で正社員で働く友人は、仕事が上手くいっているにも関わらず、日々、転落の恐怖にさいなまされ、解雇が一番恐れるあまり上司に逆らえないのはもちろん、残業代の申請すら怖くてできないという。派遣労働者の友人は2年働いているが、未だに正規採用の見込みはないという。聞いていると、偽装請負そのものだった。(誰でも知ってる大会社で起きていること)別の友人は、毎日10時間の労働にもかかわらず残業代はカットされ(時給制なのに!)、休憩は一日に30分しかない。労基法って何だろうねえーとつぶやく毎日です。路上で鍋する*1しかないのだろうか??

 そんな派遣労働者のための、学習会が開かれる模様です。

派遣労働ネットワーク・関西

第二回事例研究会「スポット派遣の現状」

日 時 2007年 6月 29日(金)  18:30〜

会 場 エルおおさか 5F 研修室3

派遣労働は「人間リース」!?

 派遣労働ネットワーク・関西は、全国の派遣ネットワークとともに、その被害を少しでも少なくし、派遣労働者の尊厳と待遇改善を目指して地域のユニオンなどと一緒に、労働相談、政策提言、学習活動を行っているネットワークです。

 勝ち組・負け組の格差社会に泣き寝入りしないために、派遣労働者の権利をいっしょに学びましょう。妊娠・出産・育児と仕事の両立や、派遣先への直雇い制度を活用するなど、仕事と生活が調和でき、公平で人間らしい働き方について、一緒に考えていきましょう。

http://homepage3.nifty.com/hatarakujosei/2007/hakennet.html

女性運動系のグループのようだけれど、性別限定は特に見受けられませんでした。たぶん、公開のはず・・・私は日程が合わないので、行けないのですが。

[追記]

 私が大きく勘違いした箇所があったので、訂正します。「クリスタルサービス」が「プレミア・サービス」に社名を変更したの2007年5月1日で、「グッドウィル」と統合直後でした。「グッドウィル」の不祥事と、社名変更は関係ありません。*2ただ、この会社にとって、社名変更は本当に、名前を変えるだけの意味しか持たないことは間違いないでしょう。

[][][]バンコク児童買春の闇

これは、タイの少女・少年売春の地獄のような実態を描いたものである。著者は、白人の女性ソーシャルワーカー。原著出版は93年だが、おそらく事態は今日でもまったく変わっていないだろう。著者は、支援者の男とカップルを装って、売春宿に行って調査をする。ホテルの部屋に売春婦としてやってきた少女は、8歳である。

トイがタイ語でやさしく尋ねる。ついさっき会った大人はどんな人なの。どこで。その人はどんな格好の人だったの。どんなことをさせようとしたの、ソンタ(少女)が話す。3時間ばかり前、147号室。背の高い、白人の男がベッドに横になって待っていた。ソンタがシャワーを浴びるのを、待ち遠しくてならないといった感じで、じっと見ていた。ウィスキー一瓶とグラス2個が、部屋に一つだけあるテーブルにのっていた。部屋はたばことアルコールの臭いがしていた。ソンタはベッドに横になった。男の90キログラムのからだがソンタにのしかかった。(22〜23頁)

著者は、ソンタを返すことができず、ルールをやぶって、ソンタを買い取ろうとする。宿屋の女主人と交渉して、800ドル(10万円くらいか)でソンタを買い取る。そしてソンタが誘拐されてきた村に連れて行き、家族と再会させる。しかしそんなことで問題が解決するわけではないことは誰よりもよく知っている。著者は、ギャングから脅迫され、部屋に臓物を届けられたりする。

80年代のヨーロッパの旅行会社のパンフレットにはこのように書かれている。

毎晩6人の小さな奴隷のなかから一人をお選びください。夜12時には、ガイドが参加者のためにくじで女の子を引きます。運のいい方は可愛い子猫ちゃん二人とベッドをともにできます。・・・「12歳でタイの少女は父親に強姦され、次いで母親からあらゆる体位について手ほどきを受ける」。(246頁)

欧米とは文化が違うのだから、心配しなくて良い、という伏線が張られる。著者は現地で買春するフランス人にもインタビューしている。

「ここでは、子どもはかなり幼いころから性的に成熟する。8歳、いや10歳かな。そこでからだを提供する。つまり、売春する。彼らには経済的な価値があるからね。でもそれだけじゃない。大人は子どもを痛がらせずに肉体的に愛することができるんだ。・・・(中略)・・・おわかりですよね、それが、新しき愛なんです。・・・(中略)・・・父親との間に性的関係を見いだすことよりも、小さな女の子や男の子にとって、もっと安心感を与えるものって何だと思います?それを引き受けるものこそ外国人だという考え方のほうが当然だと思いませんか。(87頁)

買春する外国人の年齢は20歳から70歳。売られる子どもたちは売春宿に閉じこめられ、逆らうと殴られたりナイフで虐待される。からだは傷とアザだらけである。ショーウィンドウに並べられて、客の指名を待つ。

本書の内容は引用したものよりもさらに衝撃的である。描写には、著者の憶測や脚色が入っているが、その裏側に透けて見える事実を否定することは不可能だろう。

先日、BBC国際放送で、タイの少女売春についての侵入レポートをやっていたが、ほんとうに、小学生くらいの少女たちが売られていた。警察とはイタチごっこが続けられているらしい(というかひょっとしたら警察との癒着があるんじゃないだろうか)。被害児童の写真は見るのがつらいし、客の写真は醜い。

*1:私は「生きさせろ!」に出てくる、この鍋のエピソードが大好き。03年のクリスマスに六本木ヒルズで鍋をする集会を開いた松本哉さんの話は、最高に馬鹿で素敵だ。(ほめてます)

*2:しかし、じゃあ、なんで数年、登録したまま放置していた私に電話がこのタイミングでかかってきたのだろう?人材不足?

2007-06-19

[][]MINAMATA の半世紀

転送可とのことなので、紹介します。

MINAMATA の半世紀

制作者とともに観るNHK 番組のなかの水俣病(全4回)

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[][][]ケアリング・エージェントの生命倫理

研究室に新着雑誌がたくさん来ていたので、少し紹介。『Ethics』Vol.117,No.3 April 2007に、Arnieszka Jaworska, "Caring and Full Moral Standing" (pp.460-497)という大論文が載ってます。パーソン論は、ある存在者が正当な道徳的配慮を受けられる「人格」であるために、自己意識や理性が必要と主張しますが、この論文はある意味でそれを覆そうとするもの。著者は、人格という概念ではなくて「FMS Full Moral Standing」という概念を用いて、ある存在者がFMSであるためには、それが「ケアリング・エージェント(ケア行為体?)」である必要があると言ってます。このケアリングこそが、人格の自律よりも上位概念であると言います。

In this way, carings function as the most elemental building blocks of the capacity for autonomy: a caring agent at least has the beginnings of a self with which to engage in self-legislation. And due to their role as starting points of autonomous decisions, caring attitudes once again emerge as plausible bases for FMS. (p.494)

というわけで、人格概念の基礎を、自己意識・理性・カント的自律から、ケアリングに転換すべきだということになります。

その結果付随的に、ケアリングをすることのできる高等霊長類は、シンガーらとは別の意味で、人格だと考えないといけなくなるだろうと言ってます(p.497)。

この理論的作業は、ほんとにうまくいってるのかな? 斜め読みしただけなので、厳密な要約ではありません。詳しくは元論文をぜひ当たってみてください。

そのほか、

・Nicholas Agar, "Whereto Transhumanism?: The Literature Reaches a Critical Mass," Hastings Center Report37, No.3 (2007):12-17 (人間をがんがん改造しちゃおうというトランスヒューマニズムをそろそろ無視できなくなるよ、という話かな?)

・Heather Widdows, "Is Global Ethics Moral Neo-Colonialism?: An Investigation of the Issue in the Context of Bioethics," Bioethics, Vol.21,No.6 July 2007,pp.305-315 (グローバル・バイオエシックスは新植民地主義だという途上国の倫理学者からの声は、言えてる面もあるが、でも現実問題としてはそうやって相対化して済む話じゃない・・・という感じ)

あたりが面白そうでした。

[][]進化論の挑戦

進化論の挑戦 (角川ソフィア文庫)

進化論の挑戦 (角川ソフィア文庫)

 伝統的なキリスト教信仰に基づく世界観・人間観に、ダーウィン進化論がいかなる影響を与えたのか。疑問に思う論点がいろいろあり、関連文献を少しづつ集めている。

 その途上で、佐倉統さんの著書に出会うことになった。本書は大学の講義がベースになっているそうで、著者の知的興奮が、文章の行間から溢れてくる。文体や例示など、非専門家の読者向けに工夫が凝らされており、かなり面白く読めた(電車の中で読んでいたら、二駅ほど乗り越す)。初版は1997年で、2003年に文庫化。

 本書の特徴は、ダーウィン自身が唱えた進化論の解説は最小限にとどめ、遺伝学や動物行動学などの知見を取り入れて、いまも研究が進展しつつある進化生物学が、伝統的な人文・社会科学に与えた思想的インパクトについて、多くの頁が割かれているところにある。

 もっぱら人文系パラダイムの内部で教育を受けてきた私は、自分なりに考えなければいけない宿題を沢山頂いた感じがする。佐倉さんは、新書でも進化論について書かれている。そちらも読んでみたい。

2007-06-18

[][][]関西クィア映画祭

 今年も、関西クィア映画祭が大阪・梅田HEPホールで、7月20〜24日まで開催されます。私は去年から参加していて、とても楽しみにしていました。どれも観たいのですが、『男子であること』『0メートルの隔たり』は絶対はずせない感じです。

(詳しい情報は↓です。)

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2007-06-17

[][]自然科学リベラルアーツの統合:このままでは無理

「"自然科学"と"リベラル・アーツ"を 統合する会」というものが、多田富雄先生によって設立されたというのを新聞で読んで、そのサイトを訪れてみた。

http://www.insla.jp/

多田先生はかつてNHKで対談させてもらったこともあるし、共著もあるしで、たいへんお世話になっている偉い先生である。この会の賛同人・実行委員会のメンバーも、多田先生の豊富な人脈のおかげで壮絶なメンバーが集まっている。このプロジェクトはいわゆる理系と文系の統合・融合を目指すものだ。その討論などの活動はすべてネットで行なうとされている。

はっきり言わせてください。無理です。まず賛同人・実行委員会の偉い先生方はネット時代以前の方々で、ウェブのことをたぶん肌で分かってない。その証拠に、上記のオフィシャルサイト、ありえんぐらいダサい。レイアウトもむちゃくちゃだし、PDFが散らばっているし、インタラクティブになってない。本ブログ見てるみなさんならきっと私の言いたいことお分かりになるでしょう。

私は賛同される先生方の意図は非常に理解しているし、貴重で崇高だと思う。でもこれじゃダメ。私自身、1988年からずっと理系と文系の統合・融合プロジェクトに山ほどかかわってきた。それらと、今回のとの違いがまったく分からない。結局、功成り名遂げた学者たちの学際的講演会シンポジウムを並べて終わりになるであろう。そこでは何ものも統合されないし融合されない。

理事に藤原書店の社長が入っている時点で、今後の成り行きがだいたい予想される。

お世話になった先生方が多数参加されている会のことを、こんな悪し様に言う私は恩知らずの親不孝者である。でも私にここまで言わせる何かがそこにはあるということを先生方には分かっていただきたいと思う。

もし本気でやるのなら、この企画の現状を過激に解体しないとダメだ。

[][]人文系における論文捏造とは?

今年2月に大阪府立大学工学部大学院生による論文捏造が発覚して、新聞でも報道された。調査委員会のレポートが、5月に公表されている(「調査概要」PDFファイル)。そこから引用:

当該学生の主張要旨

データを捏造した動機は、良い研究結果を出すことが良い就職につながると思ったからである。当該教授の評価を得たかったという気持ちもあった。 1度、捏造したデータを作ってしまうと、それを塗り重ねるしかなかった。 当該教授は、自分を信用しているので、疑うはずはないと思っていた。 データの捏造は、理想的でなく、わざと多少の問題点を含めたものを作れば気付かれないと思った。しかしながら、リアルなデータは簡単には作れないから、かなり関連する論文を読んだ。 助手が計測器の計測限界を調べ始めた時点で、発覚することを覚悟した。発覚したときは、自分は生きる価値は無いと思った。死にたいとも思った。工学研究科のある教員から、これから前向きに生きることが償いになると言われたので、今は何とかそうしたいと思っている。

なんとも生々しい。この学生の指導教員2名が減給などの処分となっている。

ところで、人文・思想系における論文捏造ってどんなことがあるんだろう。文献研究と思索がほとんどで、実験や調査はあまりしないから、たとえば外国語文献の意図的な誤訳とか、存在しない文献を引用するとかかな。「盗作」はけっこうありそうだけど、「捏造」となるとあまり思いつかない。人文系の論文の場合は、書かれた表面の文章に出ているものがほぼすべてだから捏造しようがないということなのかな。どうだろう。

2007-06-16

[][]ニート君もう春ですよ・・・

第17回伊藤園新俳句大賞の佳作特別賞に次のような句があった。

ニート君もう春ですよ動きなさい

((c)著者)

著者はおそらく素人の方であろうから、名前は出さない。これは昨今のニート論批判の視点からすると、どうなんだろうと思ってしまった。またこれを佳作特別賞に選出する伊藤園もどうだろうと思ってしまった。

[][]筑摩書房の新刊(7月)

http://www.chikumashobo.co.jp/comingbook/

 7月の新刊情報。哲学関連の本では、フーコーの講義録のほかに、ポール・K・ファイヤアーベント(村上陽一郎 翻訳)『知についての三つの対話』と、長谷川宏『高校生のための哲学入門』が刊行されます。

2007-06-15

[][]「サバルタン」って言うな!

 x0000000000さんからトラックバックをいただいた。

サバルタンが本当に必要としているのは、サバルタン論なのか」ということなのである。そして、僕はそうではないと思っている。(略)「いま、ここで」サバルタンに必要なものは、その生を肯定し得る物質的・精神的基盤なのである。

x0000000000「サバルタン論は誰に届けるべきか」『世界、障害、ジェンダー、倫理☆』(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070615

結論から言えば、「本当に必要としている」ものは誰にもわからない。何も届けられないという、無力感の前に立ち尽くす状況を告発するのがサバルンタン論であれば、サバルタンの「生を肯定し得る物質的・精神的基盤」が何であるかもわからない、とするのが筋ではないか。そして、その「生を肯定し得る物質的・精神的基盤」がサバルタン論に埋め込まれているかもしれない、という可能性も否定できないだろう。

 素朴に考えて、やはりサバルタンと呼ばれそうな人の前で、スピヴァクサバルタン論を解説するのは、馬鹿のやることだとしか思えない。*1しかし、何をやったって、サバルタンの前では私は馬鹿にしか見えないのではなかろうか。飢えている人に、自分の鞄からパンを出して渡すことは、馬鹿ではないのか?私の鞄は無限にパンが入っているわけではない。その場しのぎにパンを渡すことも、やはり馬鹿にしか見えないだろう。しかし、馬鹿にみえることを厭うて、サバルタンを無視し続け、サバルタンのままにすることが一番の不正義である。何をやったって、馬鹿にしかみえないが、何かすれば、少なくともサバルタンに呼びかけることになり、可視化することができる。

 私は、x0000000000さんの次の部分に共感している。

実は僕はスピヴァクの論を「サバルタンは語ることができる」と解釈している。すなわち、特権階級の者たちが、語らせないだけなのだ。特権階級の人たちが「学び捨てる(unlearn)」とは、サバルタンの、身を呈した「ここにいるという存在が発するvoice(声/態度/ありよう)」を、嘘偽りなく事実として受け止めていくことなのではないのか。

しかし、サバルタンの存在は、特権階級の人たちが、馬鹿にしかみえない身振りをすることでしか、受け止められない事実だろう。

 では、何をすべきかというと、馬鹿にみえる/みえないに関わらず、全てを分配することである。サバルタンが必要としているものは、非サバルタンには決められない。「サバルタン論はサバルタンに必要がない」という申し立ては、サバルタン側つまりサバルタンでなくなったサバルタンによって、事後的におこわなれる。そのとき、サバルタン論を説いた非サバルタンは馬鹿にみえるだろうが、それは仕方がないことだ。サバルタン論を占有している特権階級の、サバルタン研究者たちは、そのサバルタン論こそを手放し分配しなければならない。「生を肯定し得る物質的・精神的基盤」には、学問も含まれ、分配されるべきだ。

 そして、サバルタン論が、サバルタンと名指される人のもとに届いたとき、つまり「私はサバルタンで、この人たちはサバルタン論に基づいて自分に接触してきた」ということが明らかになったとき、おそらくサバルタンは「サバルタンって言うな!」と抵抗するのではないか。「私は、声をあげることができる/あげさせろ!」と言うとき、サバルタンと非サバルタンの境界線は揺らぐだろう。

 kanjinaiさんが、このブログの下に新しいエントリーを立ち上げて言っている。

「あなた」と呼びかけている対象の人物が「サバルタン」であるということが、なぜ分かるのかという点である。すなわち、サバルタン論の極北においては、「いったい誰がサバルタンなのか我々は分かってはいけない」というテーゼがあるのではないか。この人に財を配分しなくてはならないとわれわれが考えた瞬間に、その人はわれわれによって「非サバルタン」へと振り分けられたのではないか。

kanjinai「『ここにサバルタンがいる』と言えるのか?」(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070615/1181886496

私は、「あなたはサバルタンである」と指差されたその人は、サバルタンと非サバルタンの境界線に立たされると考えている。その瞬間に、サバルタンと非サバルタンの回路は開かれる契機がある。私の「あなたはサバルタンである」という指差しに対する答えがあれば、その人はすでにサバルタンでないので、間違った私は馬鹿にみえる。指差しに対する答えがなければ、サバルタンに呼びかけただけで、私は、何もできない無力さの中におかれるので、やっぱり馬鹿にみえる。 この馬鹿にみえる身振りだけが、サバルタンを浮かび上がらせる。*2

 ところで、私が先の記事で書いた「非公開研究者会議」について、もう少し。まず、なぜクローズドでなかればならないのかが、わからない。聞かれたくないような話があるのか?と外からみるとかんぐってしまう。次に、ここでいう研究者とは、めちゃくちゃ限定されている。サバルタン論にかかわり、学ぶもの、という意味ではないだろう。私はkanjinaiさんの表現を借りれば、「サバルタンの話が好きな、声届きまくりのパンピーのファン」である。そういう人間に来て欲しくないのはなぜ??邪魔ですか??もしかして、サバルタン論を研究する辛さを分かち合う場を作るんだろうか。だったら、そっとしておくほうがいいのかな。どちらにしろ、東京も沖縄も行けないので、爪かんで寝ます。

[][]「ここにサバルタンがいる」と言えるのか?

font-daさんのエントリー「ガヤトリ・スピヴァク来日」において、font-daさんが、

スピヴァクの話は、研究者のような特権階級にはない人(=声をあげるチャンスを奪われている人)が、優先的に聞けるようにすべきでは??理想論かなあ。

と書かれ、私のコメントに呼応して、

サバルタン論は、サバルタンに・・・届けるのがサバルタン論の研究者の仕事やん!!と私は常々思っております。

と書かれている。それに刺激を受けて、x000000000さんがご自身のブログのエントリー「サバルタン論は誰に届けるべきか」にて、font-daさんとは別の論点を出されている。すなわち、サバルタンに本当に必要なのはサバルタン論というよりも、

、「いま、ここで」サバルタンに必要なものは、その生を肯定し得る物質的・精神的基盤なのである。「いま、ここにあなたがいてよい」という言葉、それを裏うちする財、などである。・・・(中略)・・・むしろ、「サバルタン論(という非サバルタンが考え出した知的な装置)をサバルタンに届けるということの挫折」を露呈するものこそが、サバルタン論なのである。言い換えれば、非サバルタンにしか届かないということを、非サバルタンに心の底から自覚させようとするものこそ、サバルタン論なのである。

それでは、サバルタン論の研究者の仕事とは何か。まずは、そうした「サバルタンが世界に存在するということ」を示していくこと、と同時に、サバルタンサバルタンであるために抱えざるを得ない生きづらさを減らしていく、すなわちそのような不正義な社会を変えていくことなのである。(後略)

font-daさんとx000000000さんの両者は非常に重要な論点を提出していると思うし、また両者のズレのように見えるものもまた、たいへん興味深い。

そのうえで、さらに先に進めて考えてみる。

x000000000さんは、いまここでサバルタンに必要なものは、物質的・精神的基盤、言葉、財などであるとする。言わんとすることは充分に理解したうえで、さらに思うのは、「あなた」と呼びかけている対象の人物が「サバルタン」であるということが、なぜ分かるのかという点である。すなわち、サバルタン論の極北においては、「いったい誰がサバルタンなのか我々は分かってはいけない」というテーゼがあるのではないか。この人に財を配分しなくてはならないとわれわれが考えた瞬間に、その人はわれわれによって「非サバルタン」へと振り分けられたのではないか。

すなわち、「世界にサバルタンがいる」ということは主張できても、ある人を指さして、「ここにサバルタンがいる」とは主張できないのではないか。できない以上、個々のサバルタンを指定したうえでの財の再配分や言葉がけは、理論的に不可能なのではないか。

これ上記の私の論[←kanjinai追記]はきっとスピヴァクサバルタン論からの逸脱であろうと私は思う。だからといって無視してよい論点だとも思えない気がする。と同時にkanjinaiはまた変な方向に話を持って行ったような気もする。

というわけで、まあ、ぼちぼち考えていきましょう。

*1:以下、馬鹿馬鹿と連呼するけれど、馬鹿であることをネガティブにとっていうというよりは、「道化」という意味で書いています。パンを差し出すことは大事です。

*2:ついでに言うが、確かにサバルタン研究者だって、物質的・精神的援助をサバルタン論以外でできる方法は考えることができるし、私はそうしたほうがよいと思っている。しかし、それは一人の人間として行うべきであり、サバルタン研究者としては、やはりサバルタン論をこねくりまわすべきだ。そして、24時間サバルタン研究者をやってる人は原理的にいない。(ご飯も食べるし、風呂にも入るだろう)

2007-06-14

[][][]ガヤトリ・スピヴァク来日

 来日の噂はあったのですが、ついに詳細が発表されたようです。 

第一回招聘フェロー

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク 来日記念プログラム

滞日期間:2007年6月28日ー7月20日

「人文学における学問的アクティヴィズム」

日時:2007年7月7日(土)3:00 pm-6:00 pm

会場:一橋大学 東2号館2201教室

主催:一橋大学大学院言語社会研究科・社会学研究科

共催:国際文化会館

問合せ先:一橋大学大学院 鵜飼哲研究室

Tel: 042 (580) 9034 e-mail: ce00236*srv.cc.hit-u.ac.jp (*を@に代えて下さい)

用語:英語/日本語(逐次通訳付き)

比較文学再考」

日時:2007年7月10日(火)6:00 pm-9:00 pm

会場:佐喜眞美術館(沖縄県宜野湾市)

会費:1,000円

主催:スピヴァク招聘インターカレッジ沖縄実行委員会

共催:国際文化会館

問合せ先:琉球大学文学部 新城郁夫研究室

e-mail: shinjou*ll.u-ryukyu.ac.jp (*を@に代えて下さい)

用語:英語/日本語(逐次通訳付き)

非公開研究者会議

スピヴァク・コロキュアム「ガヤトリ・C・スピヴァクとの対話」

開催日:2007年7月14日(土)

会場:お茶の水女子大学

主催:お茶の水女子大学21世紀COE「ジェンダー研究のフロンティア

共催:国際文化会館

用語:英語/日本語(同時通訳付き)

「他のアジア」(アイハウス・アカデミー)詳細はアイハウス・アカデミーのページをご覧下さい。

司会:鵜飼哲一橋大学教授)

日時:2007年7月18日(水)7:00 pm-8:30 pm

会場:国際文化会館岩崎小彌太記念ホール

主催:国際文化会館

会費:会員無料、一般1,500円、学生1,000円

用語:英語/日本語(同時通訳付き)

財団法人 国際文化会館http://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/ushiba/index.htm

沖縄と東京です。誰かレポート書いてくれないかなあ。しかし、非公開の研究者会議っていうのはどうなんでしょう?スピヴァクの話は、研究者のような特権階級にはない人(=声をあげるチャンスを奪われている人)が、優先的に聞けるようにすべきでは??理想論かなあ。

[][]ゲーテ「野ばら」再考

かの有名な若きゲーテによる詩「野ばら」、シューベルトらも曲を付けているから、みなさんも一度は聴いたことがあるだろう。手塚富雄先生による訳詩。

ゲーテ詩集 (1966年) (角川文庫)

ゲーテ詩集 (1966年) (角川文庫)

「野ばら」

野にひともと薔薇が咲いていました。

そのみずみずしさ 美しさ。

少年はそれを見るより走りより

心はずませ眺めました。

あかいばら 野ばらよ。

「おまえを折るよ、あかい野ばら」

「折るなら刺します、

いついつまでもお忘れないように。

けれどわたし折られたりするものですか」

あかいばら 野ばらよ。

少年はかまわず花に手をかけました、

野ばらはふせいで刺しました。

けれど嘆きやためいきもむだでした、

ばらは折られてしまったのです。

あかいばら 野ばらよ。

(17〜18頁)

子どものときに読んだおりに、なんかいやーな感じだなとずっと思っていたが、今回ひさびさに読み直してみて、わかった。これは、少年が、処女をレイプする詩である。必死の抵抗むなしくレイプされて、ああ、〈赤い〉薔薇よ、という詩。こんな詩だったとは。当時ゲーテが付き合っていた女を歌った詩で、女を傷つけてしまったことへの悔恨の詩という説もあるらしい。だとしても、勝手に自分の欲望で傷つけておいて、勝手に悔恨している、自己中の男という感がある。

ファウストの最後の行も、女によってどんでんがえしで救済される超都合のいい男ファウストだった。靴下止めが大好きなゲーテは、こんなものを書く男だ。

2007-06-13

[][]本田透さんのインタビュー

 mammo.tv という高校生向けのウェブサイトに、本田透さんのインタビューがアップロードされていました。

「モテなくても、それでも俺は生きていく」

http://122.200.201.84/interview/archives/no215.html

 人間関係自体がうまくいかないし、女の子にモテない。キモがられる。そういうのが積み重なって、高校にはいられなくなって不登校になってしまった。モテの方向に行こうと思っても、鏡を見ればそれは無理だし、とりあえず自分の世界観を作り直さないと生きていけないなと思いました。それで何もかも疑うというデカルトみたいな人間になってしまった。「えらそうに現実なんて言っているけど、現象界なんてものは、しょせんは人間の意識に表象される観念の世界にすぎず…」なんて言いだしたらその人はもう立派な哲学者ですよ。

 女性にもてない、自分は性的魅力が乏しいという自意識哲学を生み出す……という本田さんの直観は面白い。『喪男の哲学史』は、kanjinai さんも読まれたそうだが、チェックしてみます。

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

[][]福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

久しぶりに自然科学系の本を読んだ。これはおもしろかった。

ワトソンとクリックは約50年前、「DNAの二重らせん構造」を突き止めた。それは「生命とは自己複製をするもの」という定義につながってきた。現代の人文科学社会科学にも「オートポイエーシス」という概念を定着させた。

その上で福岡さんは、生命の新たな定義を試みようとする。それは「生命とは動的平衡にある流れである」(p.167)というものである。つまり、DNAの構造=秩序は、それが守られるためにこそ壊されている、と福岡さんは述べるのである。そして、その秘密は、タンパク質にあるらしい。

生を学際的に考えるうえでは、必然的に自然科学的な知識や分析方法も学ばなければならない。必要以上に敬することはないが、人文科学社会科学がともすれば陥りがちな自然科学嫌悪もまた、コトの本質を見失う要因になり得る。

この本の冒頭では、ウイルスの分別の実験を通して、「どんな実験をすれば何がわかるか」に関する科学的分析方法も紹介されている。そこは生物科学における科学論入門としても読めるであろう。

2007-06-12

[][][]堀江有里『「レズビアン」という生き方』

「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う

「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う

 今年の秋から、来年の春にかけて、同級生が3人結婚する。そのうちの一人の結婚準備期間の幸せっぷりにあてられ、思わず「結婚してもいいかもねー」と恋人に漏らしたところだった。その折りにこの本を開くと、頭から冷水を浴びせられた気分になった。

 堀江さんは、レズビアン牧師である。堀江さんは、職業牧師の生業である、結婚式をとりおこなう仕事について、こう書く。

多少挑発的に例を挙げると、わたしにはこんな「素朴な疑問」がある。たとえば、「生活のため」という理由づけ――もしくは言い訳――であれ、ホテルなどでの結婚式の司会を行うこと。たとえば、あえて法律婚をしていること、異性愛者の中でも(いや、異性愛者のなかでこそ)戸籍制度への抵抗運動がつくられ、せめて法律婚を拒否しようとする人々もいるにもかかわらず。たとえば、あえて教会で結婚式という儀式を行うこと。無意識であれ、これらのような「正しいセクシュアリティ」を特権化する行為と、同性愛者差別への取り組みに矛盾はないのだろうか。もちろん、両立するはずがない、と結論づけて「切り捨てる」つもりはない。ただ、せめてその矛盾に立ち止まって思考することでさえも不可能なことなのだろうか。

(100頁)

私は、面倒になっていたのだ。「なぜ結婚しないの?」と聞かれるのが面倒だった。相手の納得する理由を考えるのが面倒だった。しかし、その面倒くささは、異性愛者であり、パートナーがおり、結婚が可能であるという、「結婚を選ぶことのできる特権」を手にしているからこそ、得られる問題である。そして、面倒くささによって、思考することを停止した瞬間に、私は「正しいセクシュアリティ」を特権化する行為に荷担することになる。

 さらに、堀江さんは続ける。

 このように差別構造の問題に踏み込むと、「問題意識を共有する気がないのか」と恫喝(と、わたしは感じるのだが)されたりすることがしばしばある。一緒に考えてきた仲間を評価しないのか、という避難もある。つまり、レズビアンという場から差別構造を問うことはときに分断行為としてレッテルを貼られる危険を伴うこともある。そして、それを主張する側は「強い人間」であると表現されることもある。

 しかし、忘れてはならない。マジョリティ既得権――自明視されている事柄のなかに埋め込まれた特権――が侵害される、という恐怖を呼び起こされるがゆえに、差別構造を問うマイノリティの側に「強い」という形容詞をつけているに過ぎない。

(100−101頁)

これはあらゆる差別を問う場で起きることではないだろうか?女が強いとされ、障害者が強いとされ、在日外国人が強いとされ・・・。堀江さんは「恐怖」だと言うが、私はもっと卑近な「面倒くささ」としか呼べないような感情を持っている。「あー、疲れてるのにな」「普段から考えてるほうなんだよ」と言い訳が頭をよぎる傲慢さ。それこそが差別の醜さであるのに。

 堀江さんが直面したのは自らが属するキリスト者コミュニティ内の、同性愛者差別事件である。レズビアンとしてこの問題への抵抗運動をする中で、このようなエピソードがあったという。紛糾する議場で、堀江さんは話し合いの糸口を、議長団と交わす「約束」によって得る。

とりあえずの「約束」で、その場はおさめられ、わたしはふたたび、傍聴席に帰った。そこにいたのは、静かに、しかし、見るも無惨なキョーレツな顔をして涙を流している二人の友人たちだった。かのじょたちは、きっと、わたしの前日の一言がなければ、一緒に執行部への直談判に向かっていたのだろう。前日、わたしは何度も何度も「大住文書」を読みながら、言葉にならない思いのやり場がなかった。その苛立ちも含めて、わたしは一緒にいたかのじょらに暴言を吐いた――「異性愛者のあなたたちにはわからない」と。なんてことを言ったのだろう、と、後悔しても、すでに遅かった。

 わたしにとって、”たたかい”の原点はここにある。遠くに見える二人の(異性愛者の)女たちの背中と、傍聴席に座って涙を流していた二人の(異性愛者の)女たち。

(204頁)

私は、この文章を読んでいるときに、道は開かれたと感じた。「わからない」のだ。しかし、まだ、「わからない」という言葉は聞こえている。それは、細い細い、私(異性愛者)と堀江さん(非異性愛者)をつなぐ一本の糸なのだ。

<実感>から立ち上がった声は、語ろうとしても聞かれない。その結果、その声は掻き消され、「語らぬもの」とされていく。これまでも、その歴史のなかで、多くのレズビアンだちは<抹消>されてきた。一人ひとりのたくさんの個々の<経験>から立ち上がる、しかし聴かれることのない声を掻き消すことは、その存在を<抹消>することにほかならない。

(241頁)

多くの思想系の書物では「声を聴く」のが大流行だ。助けを求める声?悲痛な叫び?そんなものを期待して、「声を聴こう」とするのは、すでに聴く構えとしておかしい。

差別に公的に抗うことは、”わたし”と”あなた”を取り巻いている異性愛主義という<規範>に異議申し立てすることである。であれば、必然的に誰もが<自己切開>を伴うはずのものである。それまで「自明のもの」とされてきたことが、覆されようとするのだから。いや、少なくともそれを問おうとするのだから。であるから、「課題」として列挙されているうちは許容されつつも、実際に差別に抗おうとする行動に参与すると「反発」を導き出してしまうわけだ。

(55頁)

この本は、堀江さんのたたかいの記録である。しかし、それは異性愛者を責める調子ではなく、差別という問題に向き合い、細かく分析していく姿勢で語られる。堀江さんのたたかっている、キリスト教者のコミュニティの状況は絶望的だという。そのことについて、こう書いている。

ただ、もし教団に希望があるとすれば、こんな<絶望的>な状況のなかに留まりつづけ、せめてもの抵抗をつづけていこうとする人々がいること。(略)ほかにもあきらめずに立ちつづけようとする女たちがいる。であれば、わたしもしばらく、この<絶望的>な場の片隅にかかわっていたいとも思う。だから、わたしにとっての現状認識は、本格的に絶望的、ではなくて、あくまでもひとつの表現としての<絶望的>でしかない、ということだ。

(224頁)

 付箋を貼りながら読んでいたら、大変な量になってしまった。論の進め方も、用語の使い方も、セクシュアリティの問題にこれまで馴染みがなかった人にも、読みやすいように注や解説が加えられている。短い章立てで、様々な問題にスポットが当てられていき、性の問題に関する入門書にもなるように感じた。なかなか、書店で手に入りにくいようだが、アマゾンでは取り寄せできる。ぜひ、一度手にとって欲しい。

[][]全注釈付き『善の研究』

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

 西田幾多郎『善の研究』(1911年)と言えば、岩波文庫か、岩波版・西田全集を紐解くのが普通だった。

 ところが、昨年に、西田研究者の小坂国継さんの注釈がついた『善の研究』が講談社学術文庫から刊行された。

 難読の漢字にルビが振られ、各種の哲学用語・哲学者についての注釈と各章解説が巻末ではなく、本文中に挿入されている。西田哲学をこれから学ぼうとする学生にはうってつけ。学生時代に、こういう本があれば嬉しかった。

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[][]17・18世紀の中絶の手技

シービンガーの『植物と帝国』を読み終えたが、なかなか読みごたえのある作品であった。その中で、次のような箇所があったので、引用しておきたい。

ただし、中絶などについて苦手な方や、生々しい記述がダメな方は、続きを読むのは控えておいてください。

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2007-06-11

[][][]小谷野敦のモテ論と私

モテの関係で、ひさびさに小谷野敦もてない男』(1999年)を再読している。

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

これは、ほとぼりのさめたいまとなって読んでみれば、なかなか面白い本である。小谷野の「モテ」の定義は、意外にも、私のモテの定義に近い。諸君はこれに気づいていたか?

さりながら私は、本が出たあとで、どうも自分の念頭にある「もてない男」は、世間で言うそれとは違うらしいことに気づいた。世間で言う「もてない男」というのは、ほんとうに、救いがたく、容姿とか性格のためにまるで女性に相手にしてもらえない男のことをいうらしい。じつは私はそこまで考えていなかった。私がもっぱら考えていたのは、好きな女性から相手にしてもらえない、というような男だったのである。(8頁)

小谷野はこういうふうに書いているのだ。ということは、小谷野にとっての「モテる男」とは、「好きな女性から相手にしてもらえる」男のことだろう。これは、前エントリーにおける私の「モテる男」の定義と、かなり近い。

そういえば、この本で話題になった箇所のひとつは次の文章でしたね(懐かしい)。

さらに私が不快なのは(もうかなりやけくそになっているが)「男フェミニスト」どもである。というのは、私の妄想かもしれないが、「男フェミニスト」には、いい男、もてそうな男が多いような気がするからである。やけくそだから実名を挙げるが、森岡正博、瀬地山角、宮台真司伊田広行(写真を見るかぎり大したことないのだが、「いい男」という声あり)など。私は邪推するが、彼らはきっと「女にもてる」のであろう。それで、「俺は女の扱いがうまい」から「女を理解している」と幻想し、「結婚なんて制度だから」と言いつつ事実婚していて、フェミニスト的なことを言っていると女もさらに喝采してくれて、みたいな環境にいるのではないか。彼らは私のように、恋愛がうまくいかなかったりして女への怨恨を内攻させることもないし。(111〜112頁)

小谷野の妄想が爆発している箇所ですね。

この本が話題になったころ、私は『論座』の編集者をとおして、小谷野に「モテ」についての対談を打診したことがあるが、小谷野はそれを断わってきた。そんなに私のことが不快なのかなあ、と思ったものである。

まあ、そのときは小谷野が愛煙者だとは知らなかった(もっとも本書の写真で小谷野はタバコをくわえているから、気づかなかった私が注意散漫だったということだ)。仮にいま対談の話がきたとしても、目の前でタバコを吸われてはかなわないから、私はそれを理由として丁重にご辞退申し上げるだろう。

2007-06-10

[][]人間の学としての倫理学

人間の学としての倫理学 (岩波文庫)

人間の学としての倫理学 (岩波文庫)

 和辻哲郎の『倫理学』が今年になって岩波文庫に入ったが、『人間の学としての倫理学』が今月文庫化される。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/38/6/3811040.html

http://www.iwanami.co.jp/shinkan/index.html

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

 岩波文庫で読める和辻の作品

2007-06-09

[][]モテへのアドヴァイスは恋愛至上主義に加担するのか?

みなさんからの多数のコメントなどを参考に、再度、モテについて最初から考えてみる。

まず、人は恋愛する必要はない。モテる必要もない。私はそのように考えている。だから「恋愛できない男は、男じゃない、一人前ではない」という思想(恋愛至上主義)を私は否定する。もしそれが日本社会を分厚く覆っているのならば、それは解体されるべきである。これが私の基本スタンスなので間違わないようにしてほしい。

そのうえで、「恋愛したい」「モテたい」と心から思っている男の子に対して、私はアドヴァイスをしてあげたい。(これはモテなかった若き日の自分自身に対するunfinished businessという意味もあるのだろうと私は思っている)

まず第一に、「モテ」の概念を転換しておきたい。一般には「モテる」とはいろんな女にちやほやされて恋愛・性愛しまくれることだと思われている。私はこれを「モテ」という言葉では呼ばない。なぜなら、それは権力欲への願望にほかならないし、このようなモテは結局のところ恋愛の至福から疎外される結末に至るだろうから。(エントリー「男をバカにした『モテる技術』」参照)

私の言うモテとは、次のことである。「モテるとは、自分のほんとうに好きな一人の女から特別な好意を寄せられることである」(←ここ変更しました)。そしてこのような意味でモテるためになすべきことは、「その一人の女のことを心から大切にしたいと思っている」というメッセージを、その女のもとに届けることである。そのときに、注意しておかなければならないことがいくつかある。たとえば安全の確保、女の身になって考える、話をよく聴く、そしてその女ひとりだけに集中する、などである。これらについてのさらに詳細なアドヴァイスは、男の子たちにとって有益であろう。(キモい顔はさほど問題ではない)

モテる男とは、このように考えることができ、このように行動することができる男のことだ。ひとことで言えば、「モテる男とは、一人の女を心から大切にできる男のこと」なのである。それができるようになれば、その副次的効果として、まわりにいる女や男から、暖かい好感をもって見られるようになる。この副産物は、あなたの人生に軽やかな彩りを添えることであろう。

結局、いちばん大事なことを標語としてまとめると、

<モテる男とは、一人の女を心から大切にできる男のことである>

ということになる。

以上の筋道で、以前よりかなり論旨はすっきりしてきたのではないだろうか。

ところで、以上の言説は恋愛至上主義ではないかというコメントがいくつか寄せられている。これに簡潔に答えておきたい。

最初に書いたように、私は、恋愛至上主義は解体された方がよいと思っている。これをまず確認したい。

そのうえで考えたいのは、モテたい男の子たちにモテるアドヴァイスをするということは、「モテてこそ一人前の男」という恋愛至上主義を裏側から補強することなのではないか、という論点である。

私の現在の結論は、恋愛至上主義に加担することなく、モテたい男の子にはそのアドヴァイスをする、という道があるはずだ、というものである。

すなわち、

・恋愛しなくても世間からの軽蔑や非難や否定的な眼差しをけっして受けず、恋愛しないことが人間としての価値を下げないような社会に変えていくことを、サポートしつつ

・モテたい男の子にはそのアドヴァイスをする

というこの二つは、両立可能なのではないかということだ。

ここまではよろしいだろうか。

しかしこのあとでなんとも言えない問題が浮上してくるのである。

すなわち、上記の主張は、

・障害をもっていても世間からの軽蔑や非難や否定的な眼差しをけっして受けず、障害をもっていることが人間としての価値を下げないような社会に変えていくことを、サポートしつつ

・障害児を産みたくない人にはそのための技術を提供する

というこの二つが両立可能だ、という主張とほぼ同型ではないのか、という問題である。

この論点について、みなさんは如何なる意見をおもちだろうか。

________________

追記:新しいのを書いた。小谷野さんちから来た人は、こっちも読むべし。

小谷野敦のモテ論と私」

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070611/1181549666

↑こっちを(も)リンクしてくれればいいのにね、ほんとに、ひねくれた人だ。

2007-06-08

[][]来週のクローズアップ現代

http://www.nhk.or.jp/gendai/ 

 6月11日(月)放送予定 なぜ膨張する? “もうひとつの人生”(仮題)

 6月12日(火)放送予定 出現 新若者ホームレス(仮題)

 月曜日はセカンドライフ、火曜日は「ネットカフェ難民」についてのリポートでしょうか。

[][]地主に課税すると都会から緑が消える!?

和光市議会議員の松本たけひろさんのブログで、地主に重課税すると、地主はその土地を手放し、マンションなどの開発が始まって、都会から緑が消えるという主張が載っている。

東上線沿線のケヤキの大木はほとんど地主の屋敷林にあります。のびのびと高くそびえる巨木は大地主の庭にしかありません。彼らを税制などから虐待しすぎると、それらは伐採されて、建売住宅の乱開発が始まります。

世の中には相続税を100パーセントにしろ、とか金持ち重課は平等だ、と叫ぶ人がいます*。気持はわかります。私も「無産者」ですから。

しかし、はたして敵はお金持ちなんでしょうか。お金持ちがいなくなれば、屋敷林はほとんど姿を消します。一部の地主は、その思いは分かりませんが、確かに巨木の守護者という側面があるのです。

http://ameblo.jp/takeyan/entry-10009300179.html

たしかにそのように言われると、そのとおりのような気もする。しかし、だからと言って、地主などの金持ちから多額の税を取ってはならない、というふうになるかというと、そのあたりが考えどころだろう。

一方において、屋敷の庭で立派なケヤキを(結果的に)保全してくれている金持ちがいて、他方において、寝る家のない人や金がなくて病院に入院できない人がいる、というこの状態をどうすればいいのか。

一方から他方に財を再配分し、後者の人々を助けると同時に、ケヤキを都心から消滅させるほうが、弱者に優しい政治だ、ということになるのだろうか。もちろん両方守れればいちばんいいが、どうすればそれができるのか。そもそも都心の緑の話は、松本さんの言うような視点で捉えられるのか。

例によって、私にはいまのところ答えなし。

2007-06-07

[][]バージニア工科大学事件と「移民

現代思想』2007年6月号に、山本薫子さんの「ディアスポラの子どもたち」が掲載されている。テーマは日本にいるブラジル移民だが、枕として、バージニア工科大学事件の容疑者のことが書かれている。彼は、韓国からの移民だったのだが、その点は、事件発生時以降は、米国メディアでは強調されなくなった。

32人を銃で射殺した殺人犯はたまたま移民の子どもだっただけであり、ただそれだけだ。(240頁)

しかしその結果として、彼は米国において居場所を奪われることになったと山本さんは言う。

結局、「彼」は誰だったのか。何者として死んでいったのだろうか。

皮肉なことに、アメリカン・ドリームと「今よりもよい暮らし」を願って少年時代に後にした母国からは「同じ韓国人」と見なされるいっぽうで、人生の半分以上を過ごした米国では、同胞から切り捨てられ、アメリカのメディア報道では国籍や民族に関する詳細が省かれた、所属のない個人、モンスターとして扱われた。生前の「彼」は友人も少なく、韓国人コミュニティとも距離を置き、居場所のない学生生活を送っていたが、結局、「彼」はその死後もついに居場所を得ることはできなかった。(241頁)

PCが強調されたが故にエスニシティが剥奪され、のっぺらぼうの、特性のない男として処理され切ってしまったということか。米国での議論を私はフォローしてないので、山本さんのまとめで良いのかどうか、いまいちよく分からない。が、問題提起としては、考えさせられるものがあった。『タクシー・ドライバー』のトラヴィスを再度、思い起こしてしまった。

2007-06-06

[][][]イビチャ・オシムさんの宗教観

 サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさんのインタビュー記録『オシムが語る』を読んだ。原著のタイトルは Ivica Osim: Die Welt ist alles was der Ball ist, 2002(『イビチャ・オシム ボールの中に世界はある』)。ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』の命題 "Die Welt ist alles was der Fall ist." の変奏だ。

 原著の刊行時にオーストリアのシュトルム・グラーツを率いていたオシムさんは、二人のオーストリア人ジャーナリストに、政治、経済、監督業、サッカージャーナリズムについて縦横無尽に語っている。発言のなかで興味を引かれたのは、みずからの宗教観に言及した第五章「オシム、宗教とテロを語る」だ。

信仰のない人生のほうが辛い道になることは間違いない。でも、実をいえば、私は無神論者だ。生まれはムスリムだが、うちの家族は信心深くなかったからね。父はムスリムだったが、それ以上にパルチザンだった。母は主婦だったけれど、それ以上に社会主義者だった。だから、私は実質的には、無神論者の家に生まれついたということなのだろう」(122頁)

 オシムさんは「無神論者」を自称している。

「みんな平穏に肩を寄せ合って暮らしていた。子どもの頃をよく覚えているよ。どの宗教の祭りも一緒に祝ったものだ。何か宗教の祝い事があれば、必ずクッキーを焼いてもらえる。同じ日に祭りが重なることはないというのがラッキーだったな」(122−3頁)

 オシムさんが1941年に生まれたサラエボは、主としてセルビア系(セルビア正教会)、クロアチア系(ローマ・カトリック)、ボシャニャク系(イスラム教)の住民からなる都市である。

 サラエボ市民はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に激しい民族対立を経験したが、オシムさんが子供の頃には、異なる宗教を持つ住民は平和に共存していたらしい。「同じ日に祭りが重なることはない」というのは、教会歴が違うということだろう。セルビア正教とカトリックでは、クリスマスの日が違う(セルビア正教はユリウス歴を採用している。クリスマスは1月7日)。

 多文化、多宗教の故郷さ。何を信仰しようと問題はなかった。セルビア正教、カトリックユダヤ教イスラム教。どんな宗教だろうと、民族がどうあろうと、みんなうまくやっていた。多様な文化を持つさまざまな人々がこぢんまりと我が家を構えて暮らしていたんだ。言うなればコロニーだ。今は昔の話だがね。私たち子どもは通りで遊んだ。あの地域には社会的格差なんていうものもなかった。貧しいのは皆同じ、というわけだ。(19頁)

 無神論者だからと言って、オシムさんは宗教全般に敵意を持っているわけではない。ムスリムの生まれであるあなたはイスラム教に共感しているのではないかという問いに、こう答えている。

「私の場合、正直、社交術の域を出ないね。

ボスニアのイスラムについては、チロル人がカトリックを、アメリカ人がモルモン教を知っている程度には承知している。それに、イスラムには、ルールを作りたがる非民主的な首脳部がない。それもまた、この宗教にそれほど共感を抱けずにいる理由かもしれない。

 カトリックプロパガンダは、もともと裕福な世界の人々から発せられている。もともと人生を楽しんでいる身分でいながら、天国はもっとすばらしいところだと説く。キリスト教徒にはとても立派な教会があるし、クリスマスには何百万ユーロも、何百万ドルもプレゼントを買うわけだからね。

 もちろんカトリックにも恵まれていない人たちはいる。しかし、そういう人たちにも宗教はちゃんと、希望と逃げ道を与えてくれる。希望も逃げ道もなしで人生を送るのは、とても辛いことだ。

 しかし、無神論者は、人生のこの辛い方の道を行こうと決心したリアリストだ。」(127頁)

 宗教に対する距離の取り方、醒めた見方が印象的だ。

「もうひとつ宗教のことで言いたいことがある。

宗教には例外なく限界がある。そこを政治がうまく利用する。これは何も過去の話ではなく、現代でもそうだ。

 政治家が教会を必要とするのは宗教を利用したいからだ。一方、教会は教会で信者を操作してはいるがね。たぶん、彼らには政教分離の理念なんて、どうでもいいんだろう。トマス・ホッブスからシャルル・モンテスキューに至るまで、啓蒙運動は近代国家論に繋がる重要なステップのひとつだったのに……。

 今でも、政治と教会の間には、旧態依然として、ゆがんだ協力関係がある。宗教がみな、社会と政治に大きな影響力を持っているというのは厳然たる事実だ。カトリックは政教分離の原則を公的には採用しているが、イスラムにはそもそも政教分離という考え方がない。福音教会でも政治と宗教の境はあまりはっきりしていない。最近ではイスラムでも分離しようという動きはあるけれど、だからといって、日々、肌で感じられるような大きな違いが出てくるとは思えない」(127−8頁)

 過度に政治化した宗教は、人々の対立や闘争を煽り、人々を分断させる道具になる。ボスニア紛争の時には、セルビア正教、カトリックイスラム教という宗教の違いが対立をこじらせる原因になった。そうした歴史の証人であるオシムさんは、政治化した宗教のあり方に批判的であるようだ。

2007-06-05

[][]ネットカフェ難民2 雇用が破壊されている

 1月28に放映された「ネットカフェ難民 漂流する貧困者たち」の続編が放映されるそうです。日本テレビ系列、6月24日(日曜日)です。

http://www.ntv.co.jp/document/

2007年6月24日(日)/30分枠

ネットカフェ難民2 雇用が破壊されている (仮)

 家賃を払えずネットカフェで寝泊まりするネットカフェ難民の実態、第2弾。その急増の背景には、働いてもまともな収入を得られない今の雇用の問題があった。特に登録制の日雇い派遣は雇用の調整弁のような役割を強いられている。大手日雇い派遣会社で、仕事を得ながら労組の役員を務めるAさん(42)。孤立しがちな日雇い派遣の相談にネット上で答えるのが日課だが、彼自身仕事がなく、ネットカフェさえ泊まれずハンバーガーショップや公園で夜を明かす。Aさんらの組合活動を追いながら細切れ雇用の問題や政府や企業の姿勢を問う。

[][][]ブランド商品と「下流」

立木信『若者を喰い物にし続ける社会』という本を読んでいる。

若者を喰い物にし続ける社会 (新書y)

若者を喰い物にし続ける社会 (新書y)

格差社会の進行によって、年長者のみが逃げ切り、そのツケをすべて若者たちがかぶらざるをえなくなっている。これは、おかしいぞ! という内容の本。著者は若者側に立つ。

ただ次のような文章をどう読むか。

そうしたなかで、知力も財力もない「下流」と烙印を押される人々も大量発生している。家族のデジタル化は、家族みんなの「幸せ」を実現する商品の必要性を失わせてしまったため、下流も上流もブランドものに走る。・・・(中略)・・・そうしたなか、家族の崩壊により、無意識の喪失感に苛まれた子ギャルや負け犬が何十万円もするブランドバッグを買うわけだ。もはや、クリスマスプレゼントは、頑張った自分や愛しいペットに「ご褒美」として買うものらしい。

なんのことはない、家族が崩壊していなければ、ブランドに注ぎ込まれるその金は家族志向の商品に回っていたかもしれないのだ。とりわけ、下流な方々は、いそいそと無意味な高級ブランドを身に付けたがる。「人並み」を意識しすぎて、「自分をだましている」と決め付けるのは残酷すぎるだろうか。(167〜168頁)

格差社会の進行と、家族の崩壊と、ブランドバックを「子ギャル」や「負け犬」が身に付けることは、ほんとうに関連してるのだろうか? そもそも「下流」の人々は高級バッグを身に付けれるほどの金を持っているのだろうか。

こういう論調はいま一般的なのかな、私はよく知らないけれど。

2007-06-04

[][]植物と帝国を中絶で結ぶ

ロンダ・シービンガーの新著『植物と帝国』を読み始めている。大航海時代、カリブの女性たちは、オウコチョウという植物を中絶薬として使っていた。ヨーロッパ人をその植物を持ち帰り、植物園で盛んに育てながら、それが「中絶薬」として使えるという知識だけは広まらなかった(広めなかった)。

ここに働いていたジェンダー・ポリティクスを科学史的に解明するのがこの本のテーマだ。シービンガーが引用している、1598年のイギリスの内科医アンドルー・ボードの言葉も意味深である。

[中絶をひきおこすという]多くの薬の処方、あるいは・・・・極度に便通をおこさせるものや薬液、他にも飲み薬の下剤などがあるが、これらについて私はここではあえて話そうとは思わない。女性のたくさんの花[子供]が意図的に中絶されるような知識に光を当てぬように」。(30頁)

これらの結果、

もっと一般的に言えば、科学の急速な発展の時代に、多産抑止薬に関するヨーロッパの知識は衰えていったのである。ジェンダー・ポリティクスは、特有の知識群ではない、この場合、特有の無知群を明確に浮き彫りにした。(314頁)

植民地主義と植物収集の研究というのはよくあるが、それに、中絶薬としての植物という観点から迫ったのが彼女の冴えてるところ。

ヨーロッパで滅んだこれらの知識は、今日でも、カリブの女たちのあいだで生き残っているという。ある女性は、裏口に生えている植物を採ってきて、「女性が妊娠を防ぐため、性行為の後、この植物で作ったお茶を飲み、それで体を洗うのだと教えてくれた」(316頁)とシービンガーは言う。

いまから20年ほど前に、スペインで開かれた国際科学史学会でシービンガーとやりとりしたことがある。私が日本の生命倫理について発表したときに、フロアから質問してくれたのがシービンガーだった。そのときは、英語で応答するのでせいいっぱいだったので、いまとなっては質問も自分の回答も一切覚えていない。

2007-06-03

[][][]最近買った本

最近買った新しい本の中からいくつか。今日は列挙するのみ。

合理的とはどういうことか (講談社選書メチエ)

合理的とはどういうことか (講談社選書メチエ)

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

最後の末木さんの本は未到着です。

2007-06-02

[][]ウェブに現われる「他者」の具体的検討

私のエントリー「ウェブに「他者」は現われるのか?」で、私はウェブのとくに掲示板には他者の他者性を消去していくシステムが備わっているという主張をした。それに対して、id:mojimojiさんが、ゲスト投稿「他者を歓待するブログについて」で、ウェブには他者は現われるし、むしろ他者とよく出会う空間であるという趣旨の主張をされた。やりとりは、それぞれのエントリーのコメント欄でさらに検討されている。私はmojimojiさんの主張に賛同する点が多い。

そのうえで、実際に、たとえば、G★RDIASで、私のエントリーはどのくらいの他者に出会っているのかを軽く検証してみることにした。

まずは、コメント欄で反響の大きかった「モテ」関連を見てみたい。

「モテとはひとりの女を大切にすることである」http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070414/1176477766

コメント欄

ajisun 他者ではない

furukatsu 他者ではない(簡単に理解可能)

ブックマークコメント欄

gamma_ut 他者ではない

SeiSaguru 他者ではない

tomo-moon 他者ではない

Mossa 他者ではない

yuuboku 他者ではない

furukatsu 他者ではない

sivad 他者ではない

activecute 他者ではない

natu3kan 他者ではない

myfoot 他者ではない(お約束)

setofuumi 他者ではない

Slob 他者ではない

tubame0604 他者ではない

QuietLife 他者ではない

TakahashiMasaki 他者ではない

umeten 他者ではない

PANZIG 他者ではない

Kusamisusa 他者ではない(お約束)

というわけで、他者はどこにも現われていない、という結論になります。

他のエントリーでも似たり寄ったりで、他者は現われていません。

このほかには、「粘着くん」の投稿を何件か削除しました。「粘着くん」は、他者でしょうか? 単に、自分の論理を拡張して粘着して対話を行なわない書き込み群は、他者か?これらは私の「不都合」な部分に食い込んでくる感じがないので、他者と呼ぶには迫力がない。mojimojiさんは「そこにあるのが「粘着的な自己確認」でしかないとしても、それはやはり、「粘着的な自己確認をする他者」なのだ」と言うが、私はその存在を「粘着的な自己確認をする他者」として総括できてしまっているという点ですでにそれは「他者」ではなくなっていると考える。

またmojimojiさんは、「不都合な他者たちを「他者」と認めておくことが、やはり必要なのである。この意味で、不快な他者たちは、私を開くための資源でもあるのだ」と書かれているが、これについても、他者と「認める」、他者が「資源である」と総括できてしまっている点ですでに「他者」ではなくなっていると私は感じる。

(以上の論点は、私もちゃんと展開できてないのでさらに究明される必要があります)

というわけで、振り返ってみれば、やはり、私の場合はほぼ他者に出会ってません。これは、(1)ウェブはやっぱり他者に会いにくい空間、なのか、あるいは(2)私が他者の他者性を無化する方向で応答して(できて)いる、かのどちらかでしょう。というわけで、私はやはり、ウェブは他者に会いやすいかもしれない空間であるというテーゼは、まだ受け入れられないかなと思います。

ただし、このブログ関連で、実は、他者に出会ったと思ってしまったことが一回だけあった。それは、id:sugitasyunsukeさんのエントリー「非モテ(続き)」に出会ったときだ。このエントリーは私にとって他者との出会いだった。私が真にうろたえたのは、このとき一度のみである。

この他者が、ウェブでありがちな「攻撃姿勢」を取っていたのではなく、「ヴァルナラブルな姿勢」を取っていたがゆえに、私をうろたえさせ、他者として食い込んできたというところに、私は驚きを感じざるを得ない。

2007-06-01

[][]修復的司法の観点からみた被害者参加制度

6月5日(火)東京にて日弁連主催による修復的司法の講演会があります。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/event/070605.html

行きたいけど、この日は行けない・・・・。

[][]ディアナチュラのCMは女性差別では?

テレビはあまり見ないので知らなかったのだが、このアサヒフードアンドヘルスケア株式会社のディアナチュラっていうサプリのCM、いったい何なのだろう???

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夫、妻、男の子の家族らしいが、なぜか妻の頭部だけがサプリのケースになっているし、それでいて「家族の健康を守る」とか言ってるし、いったい「家族」って誰? 夫と男の子だけが家族で、妻はサプリなの? あきらかに妻は人間じゃないよね、だって頭部ないんだから。

こんなCM作る会社って、将来大丈夫なのだろうか? ひとむかし前(80年代)なら、女性運動団体が不買抗議運動してたんじゃないかな。でも、いまネット見てもとくにそういう怒りの声はないし。フェミニストたちも、もうCMにおける女性差別などには興味なくなったのか、それとももうこれくらいのことは笑い飛ばせるようになったのか。でも少なくとも、男であるこの私は非常に不快である、このCMは。

商品のページ:

http://www.asahi-fh.com/dn/commercial/index.html