小谷野敦のモテ論と私

モテの関係で、ひさびさに小谷野敦もてない男』(1999年)を再読している。

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

これは、ほとぼりのさめたいまとなって読んでみれば、なかなか面白い本である。小谷野の「モテ」の定義は、意外にも、私のモテの定義に近い。諸君はこれに気づいていたか?

さりながら私は、本が出たあとで、どうも自分の念頭にある「もてない男」は、世間で言うそれとは違うらしいことに気づいた。世間で言う「もてない男」というのは、ほんとうに、救いがたく、容姿とか性格のためにまるで女性に相手にしてもらえない男のことをいうらしい。じつは私はそこまで考えていなかった。私がもっぱら考えていたのは、好きな女性から相手にしてもらえない、というような男だったのである。(8頁)

小谷野はこういうふうに書いているのだ。ということは、小谷野にとっての「モテる男」とは、「好きな女性から相手にしてもらえる」男のことだろう。これは、前エントリーにおける私の「モテる男」の定義と、かなり近い。

そういえば、この本で話題になった箇所のひとつは次の文章でしたね(懐かしい)。

さらに私が不快なのは(もうかなりやけくそになっているが)「男フェミニスト」どもである。というのは、私の妄想かもしれないが、「男フェミニスト」には、いい男、もてそうな男が多いような気がするからである。やけくそだから実名を挙げるが、森岡正博瀬地山角宮台真司伊田広行(写真を見るかぎり大したことないのだが、「いい男」という声あり)など。私は邪推するが、彼らはきっと「女にもてる」のであろう。それで、「俺は女の扱いがうまい」から「女を理解している」と幻想し、「結婚なんて制度だから」と言いつつ事実婚していて、フェミニスト的なことを言っていると女もさらに喝采してくれて、みたいな環境にいるのではないか。彼らは私のように、恋愛がうまくいかなかったりして女への怨恨を内攻させることもないし。(111〜112頁)

小谷野の妄想が爆発している箇所ですね。

この本が話題になったころ、私は『論座』の編集者をとおして、小谷野に「モテ」についての対談を打診したことがあるが、小谷野はそれを断わってきた。そんなに私のことが不快なのかなあ、と思ったものである。

まあ、そのときは小谷野が愛煙者だとは知らなかった(もっとも本書の写真で小谷野はタバコをくわえているから、気づかなかった私が注意散漫だったということだ)。仮にいま対談の話がきたとしても、目の前でタバコを吸われてはかなわないから、私はそれを理由として丁重にご辞退申し上げるだろう。