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2007-08-31

[][]ロボットに人間を感じるとき〜知能ロボット学

 今晩の夜11時からの放映です。

http://www.nhk.or.jp/bakumon/nexttime/

 石黒浩(知能ロボット学)

 ロボットは人にどこまで近づけるか?ロボットに心はあるのか?マンガやSF映画などでよく見られるこの空想の世界を、研究しているのが、大阪大学教授の石黒浩だ。触覚、視覚、聴覚、などの人の感覚をアンドロイドに再現する技術で世界に名を知られている。これまでに、自分の娘のロボット、自分そっくりのコピーロボットを作成。さらに今年6月には、世界一複雑な動きをするという赤ちゃんロボットを開発。皮膚もやわらかく、音や動きにも反応。また、人間の微妙なゆれなどを忠実に再現している。まるでロボットに意志があると錯覚するほどの出来栄えだ。

 「 ロボットはヒトを映す鏡である」という信念を持つ石黒は、ロボットを作ることで「人間とは何か?」という大きなテーマを追い続けている。最新のロボットと触れ合った爆笑問題はどう反応するのか?工学から見た人間の本質に迫る。

2007-08-30

[][]大塚信一『山口昌男の手紙』に見る知識人の肖像

山口昌男の手紙 文化人類学者と編集者の四十年

山口昌男の手紙 文化人類学者と編集者の四十年

岩波書店にて山口昌男の編集者を長く勤め、岩波書店の社長であった著者が、山口からの私信を公開しつつ、彼との知的交流を綴った本。山口昌男と言えば、中心と周縁、トリックスターなどのきらびやかな言語で、一時期の思想界を席巻した異彩の研究者である。だが、いまの若い人はもうぴんと来ないのではないか。このようなタイプの人が、今後、どのように受容されていくのか、あるいはいかないのか、予想がつかない。本書の内容を読んでも、山口が、日本を離れて海外で走り回って、たくさんの著名人たちと交流している様は、どこか岡本太郎に似ている。ただし、海外の著名人と言っても、だいたいが欧州の同時代の有名人だから、時代が変わったらほとんど忘れ去られるかもしれない。

著者は、山口に惚れ込んでいるが、1990年代以降は疎遠になったという。そのあたりのいきさつもおもしろい。たとえばこういうエピソードとか。

八〇年代の最後の頃だと思うが、ある時山口氏から電話がかかってきた。「フランス大使から食事に招待されて、女房と一緒にフランス大使館に行かなければならない。ついては、ハイヤーを一台回してもらえないだろうか」という内容だった。それに対して、私は拒絶した。・・・(中略)・・・

 私は、山口氏から右のような電話をもらったことが、情けなくて仕方なかったのである。山口氏は、今や押しも押されもせぬ、日本を代表する知識人になった。そして数多くの著作を発表している。言うならば、知の世界の帝王である。その無冠の帝王ともあろう人が、なんと俗世間の見栄そのままに、大使館に呼ばれたからタクシーではなくハイヤーで行かねばならない、と言う。無冠の帝王ならば、大使館であろうとどこであろうと、堂々と歩いて乗り込んでこそ格好いいのでは、とさえ思ったことを鮮明に記憶している。(353頁)

若い読者は、「タクシー」と「ハイヤー」の違いが分からないかもしれないから注釈しておくと、「ハイヤー」というのは、道を流していて、手を挙げると止まってくれる、あのタクシーではない。「ハイヤー」というのは基本的に黒塗りの中型車(大臣とか社長とかが乗っているタイプの車種?よく知らないが)ですごく座り心地のよい座席で白いレースのシーツが敷いてあったりして、たとえば朝日新聞社とか岩波書店とかが会社単位で契約していて、顧客の送り迎えに使用するのである。

山口が、大使館に呼ばれたから、岩波書店ハイヤーを頼んだというのは、そういうことである。

著者の、このあたりの筆致はなかなか読ませる。京都の女将の話なども、なかなかよい。こういう山口でありながら、著者は、山口を愛しているのである。そのことがよく分かる本であった。

2007-08-29

[][]無実の“死刑囚"124人の衝撃

 今晩のクローズアップ現代です。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

無実の“死刑囚”124人の衝撃

〜えん罪に揺れるアメリカ〜

 先進国で死刑制度を持つ数少ない国、日本とアメリカ─── 。今その一角アメリカで、死刑宣告を受け服役していた受刑者の無実が相次いで判明し、大きな衝撃が走っている。えん罪を見つけ出しているのは、進化を続けるDNA鑑定の技術。残された微量の証拠品から、事件の真相に迫り始めている。一方、えん罪のない司法制度への模索も進められている。自白の強要など捜査の誤りを無くすため、取調室の一部始終を録画する手法が全米各地の警察に広がり始めている。失墜した司法制度への信頼は取り戻せるか。死刑えん罪に揺れるアメリカの今を見つめる。

(NO.2456)

 それにしても、無実が判明した受刑者の数が異常に多い。日本は大丈夫なのだろうか。

2007-08-28

[][]無限のキャンディーに隠された秘密

無限のスーパーレッスン

無限のスーパーレッスン

木村俊一『無限のスーパーレッスン』を読んだ。非常に面白い本である。内容は、大学の数学で学習する無限集合の話であるが、これをひょうきんな対話編にしてやさしく解説しており、それが成功している。入門書であるが、数学的な思考のツボが押さえられていて好著である。

その中にあるアリスとキャンディーの話が面白い。

アリスが遊んでいると、手品師がやってきた。手品師は、1から10まで番号のついたキャンディーを出した。アリスが、1番のキャンディーを食べると、手品師は今度は、11番から20番までのキャンディーを出した。アリスが、2番のキャンディーを食べると、手品師は21番から30番までのキャンディーを出す。こうやって、アリスはキャンディーを1個ずつ食べていき、手品師はそのたびごとに10個のキャンディーを出す。

さて、問題です。二人がこれを無限に続けると、キャンディーはいくつ残ることになるでしょう? (212頁)

みなさんは、どう思いますか? ぜひ答えをコメント欄かブックマークコメントに書いてみましょう。きっと怖がって誰も書かないとは思いますが・・・(笑)。

2007-08-27

[][]戦争を待ちながら

 赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい」に言及しようかと迷いながら半年が過ぎた。赤城さんは、もうこんな日本は最悪だから、戦争するしかない、みたいなことを綴っている。しかし、最後の部分はこうしめられている。

 しかし、それでも、と思う。

 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。

 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。

赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい」『論座 2007年1月号』朝日新聞社

私は、この部分を読んでこけそうになってしまった。甘ったるいやさしさ。なんだかんだ言って、他者を尊重してしまう。そして、この甘ったるいやさしさこそが、私も共有する世代感覚かもしれないと思った。*1

 「戦争を知らないから、こんなことが言えるのだ」という批判をした年長者も多かったようだ。しかし、戦争を知っている人、などいるのだろうか。この国では、「戦争=1945年8月15日に終わった日本の戦争」ということになることが多い。言うまでもなく、戦争は時代と場所により、多くの顔を見せる。この先、日本で戦争が起きるかもしれないような戦争が、「さきの戦争」と同じだとは、誰にもいえないはずだ。そういう意味では、赤木さんも「戦争するしかない」といいながら、「さきの戦争」の再現として、未来の戦争を構想している。ここで語られているのは、戦争そのものではなく、「さきの戦争」という、この国で前提として共有されている(と言えるだろう)記憶の中の戦争である。

 私は戦争を肯定する気はないし、悲惨さは語られなければならないと考えている。そして、この国では「さきの戦争」についてそこそこ語られてきたと感じる。*2一部のバックラッシュの中では「戦争賛美」も見受けられるが、その多くは戦争の悲惨さをも含めて美化しようとする。戦争が始まっても、自分だけは安全で、暴力や生命の危機から逃れられる、というような楽観視をする人はあまりいないだろう。だから、赤木さんもこう書く。

 戦争は悲惨だ。

 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。

 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国 国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

  (同上)

赤木さんは、少なくとも「さきの戦争」の記憶の伝承は引継ぎ、悲惨さは伝えられている。むしろ、赤木さんは「さきの戦争」を知っているからこそ、戦争を求めているようにみえる。悲惨さを知らないからではなく、悲惨だからこそ、戦争を求めるのだ。平和憲法によって、日本は守られている、戦争はない、といくら念仏のように唱えてみても、「戦争は、きっと起きる」という予期不安はなくならない。「今日は、戦争は起こりません」と言われたところで、明日は起こるのかもしれない。その日を待ち続けているうちに、待ちきれない人たちが出てくる。不安に耐え切れず、逆に自ら戦争へ突っ込んでいくのだ。

 赤木さんは、一番そのことを恐れている。私の世代の甘ったるさはここにある。もうすでに、そのような行為は「顕在化した」のだ。ただ毎日通勤していた人たちが、地下鉄にまかれたサリンで死んだ。仕事を懸命にしてる人たちが、貿易センタービルに突っ込んでくる飛行機によって死んだ。道に倒れるスーツ姿のサラリーマン。ビルの窓から飛び降りるアメリカ人。悲惨だということは知っている。

 しかし、待ちきれなくなれば、自分が暴走し、戦争に突っ込むかもしれない。すでに、飛び込んでテロリストを見ているからこそ、そこに自分を重ね恐れる。「わたしは人を殺すかもしれない」だからこそ、やさしくならなければならないのだ。自分の中に戦争を求めるおぞましい欲望があるからこそ、そうではない、やさしい自分になりたい。破壊衝動をコントロールしたい。しかし、こんなルサンチマンに押しつぶされる毎日の中では、やさしくありたいと望むことすら放棄しそうだ。この論文は、「その状況をなんとかしてくれ」「わたしに人を殺させないでくれ」という、うめきである。

 だから、「共に闘おう」という左派からの応答は頓珍漢なものだ。赤木さんはすでに闘っている。自分の戦争を求める欲望と、その欲望を刺激する社会と闘っているのだ。

  私は、赤木さんの主張には、ほぼ賛同するところはない。だが、甘ったるいやさしさと、以下の決意表明は共有する。

「社会と戦え!」「もっと考えろ!」と言われるが、私は社会から逃げているつもりはないし、考えを放棄するつもりもない。私は社会と戦いたいし、もっと考えたい。

 しかし、いまのままでは、問題を考えようにも単純労働や社会の無理解に疲れ果て、酒やテレビなどの一時的な娯楽に身をゆだねるしかない。

 考える時間を得るためには、生活に対する精神的な余裕や、生活のためのお金がなによりも必要不可欠であり、それを十分に得られて初めて「考える」という行為をすることができる。

 そうした人間が、考えて活動するための「土台」を整備することこそ、私に反論する方々の「責任」ではないだろうか。

赤木智弘「結局、自己責任ですか」『論座 2007年6月』朝日新聞社

ただ、こっから先が大変なわけで。言っちゃったからには、やんなきゃいけないからね。「当事者です!」と声をあげることは、大事だけれど、そっから先に、「だからこういう社会を構想します」といったときに、そのプランがしょぼいと「当事者なだけじゃん」と言われてしまう。赤木さんは「当事者なだけ」で終わるつもりはないみたいなので、大変ねえーと、思いました。*3

[][]香西豊子『流通する人体』と膨大な言葉

流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史

流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史

訳あって、この本を読んだ。著者は、1973年生まれだから若い世代の研究者である。この本では、献体や、献血や、臓器提供や、人体標本展などを例にとって、人体(の一部)のドネーションという社会行為が、明治期以降、日本でどのように変遷してきたのか、そしてそれをめぐる言説配置がどのようにシフトしてきたのかを、文献を丹念に読んで調べたものだ。その労力には拍手を送りたいし、著者の今後の研究活動にも期待したい。

そのうえで、言いたいことがあるのだが、著者は、この歴史を「本人の意志」というキーワードを使って再編成してみせている。だが私から見ればそれは中途半端だ。なぜなら、「本人の意志(意思)」をめぐるこのダイナミックな言説史の終着点とも言える、1983年から1997年までの臓器移植法の成立について、著者は触れるのを避けているからである。まさに臓器移植法こそ、世界にもまれに見る、人体のドネーションにおける「本人の意志原則」が重視された法律であり、著者のアプローチを取るとすれば、ここにこそ、いちばん「おいしい素材」がごろごろしているはずだからである。その素材を、著者も触れているような角膜移植法とか、角腎法とか、献体法とかとの接続で見ていくというのが、グルメではないだろうか。

著者曰く、

 この角膜移植法の下で整備された諸制度が、1990年代後半には、臓器移植一般に対応するものへと組み替えられていったのは、周知の通りである。そして、その際には、角膜移植法の制定時から長く保留にされてきた、「死」の判定の問題、および提供を決定づける「意志」の問題に決着が迫られ、膨大な言葉が繰り出された。

 これに関しては、それこそまた膨大な研究報告があるため、本書では立ち入るのを差し控えることにする。(197頁)

そこ、差し控えたら、あかんって。そこがいちばんおいしいんやから。研究者やったら、その「膨大な言葉」に萌えなあかんって。

*1:私は赤木さんと10才近く離れているので、コーホートとまではいえない部分もありますが。

*2:もちろん、意図的/非意図的に語りを避けられてきた部分への批判も重要である。ここではそこには触れない。

*3:そして、そのあとの赤木さんの構想はもひとつですね。

2007-08-26

[][][]プレッシャー世代

 1982年〜87年に生まれた人を「プレッシャー世代」と呼ぼう、という呼びかけをしている記事が話題になっているようだ。

 世の中の事象や現象を一言で訳してしまおうというサイトがある。

 今回訳されたのは「1982〜87年生まれの世代」を表す言葉。他の世代には「ポスト団塊ジュニア」「氷河期世代」、最近では「ゆとり世代」など様々な呼称があるのに対し、何故かこの年代には呼称がないので無理矢理作ってしまおうということらしい。

 結果的に命名されたのが「プレッシャー世代」だという。「傾いていく日本を託されるプレッシャーに耐え、世知辛い世の中に耐え、大舞台のプレッシャーにも強い世代」という意味らしい。ちなみに代表的なキャラクターとしては水泳の北島康介選手などがあげられている。

 この話題に関してブログでは「ダルビッシュもこの世代だな」「私はこの世代だけどプレッシャーに弱い(泣)」など様々なコメントが寄せられている。

ネタりか(http://netallica.yahoo.co.jp/news/8181

元ネタの記事はこちら:http://d.hatena.ne.jp/sugio/20070821

 私はこの世代ですね。私としては「自己完結世代」とでも言ったほうがいいような気分ですが。阪神・淡路大震災で街は崩壊し、オウム事件で通勤してるだけで大量殺人に巻き込まれ、挙句に貿易センタービルが崩壊する様子を、多感な思春期に目撃し続けた世代です。ものごとが一瞬で崩れ去る様子をリアルタイムで経験してきました。学歴社会の価値が下がり、頑張って大学に入っても就職はなく、就職しても過重労働で体や心を壊し、転職活動するも空白期間をニートと罵られ、自己評価は下がる一方。

 そんな世の中を生き延びる口癖は「しょうがない」「自分のせい」「甘えるな」。他人を責めても、どうにもならないことはわからないので、自分の殻に閉じこもって自己責任ばっかり追及している。好きな言葉は自己分析とキャリアアップ。嫌いな言葉は「社会が悪い」。

 自虐ネタっぽくなってしまいました。

[][]コウノトリはどこに

 熊本市慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」についての番組が放映されるようです。

 今日の夜、日本テレビ系、深夜 25:15〜25:45 です。

http://www.ntv.co.jp/document/

2007-08-25

[][]理論社のウェブサイト

http://www.rironsha.co.jp/index.html

 理論社のサイトは、なかなか充実している。「よりみちパンセ」のシリーズは何冊か買っているが、ふと気づくと、社会学者の立岩真也さんが「人間の条件」という連載をされていた。近日中に、著書として出版されるのであろう。

 立岩さんと一緒に、千木良悠子さんが「正しい処女の失い方」という興味深い連載をされている。連載の第一回だけを拝読したが、ご自身のお母さんにインタビューを敢行するという刮目の内容である。

2007-08-24

[][]ナノエシックスというものが提唱されている

ユネスコ(UNESCO)から、ナノテクノロジーが生み出す倫理問題についてのハンドブック(勧告)が刊行されたようだ。この分野は、ドレクスラーがナノテクノロジーの概念を提唱したときから、すでに予見されていた。たとえば、空気中に普通にある原子からある種の分子を自動的に作り出すナノロボットがもし暴走したら、地球上が単一分子のかたまりになってしまう、などの問題である。今回のユネスコのハンドブックは、もっと実際的な問題について議論されているようだ。

"Nanotechnologies and Ethics: COMEST Policy Recommendations" (2007)

Public opinion about nanotechnologies is already divided between the hopes nourished by their potential benefits and the fear of their possible harmful effects on the environment and humankind. Question often raised are: What health and environmental issues arise with the use of new materials produced by nanoscale technologies? How might nanoscale devices be controlled, and what concerns attend military and biomedical applications of nanotechnologies? What opportunities might these bring for international cooperation addressing the most pressing needs of developing countries?

全文はPDFで無料ダウンロードできる

http://unesdoc.unesco.org/images/0015/001521/152146e.pdf

しかし、ニューロエシックスが言われはじめたと思ったら、もうナノエシックスですか・・・。バイオエシックスは、もう古典的なパラダイムになってしまいましたね。実際のところ、ナノテクノロジーが、従来の工学倫理の枠を大きく超えるような問題を生み出すかどうか、いまいちわからんのですが、はやめに考えておいたほうがよいのは間違いない。たぶん、資源問題へのインパクトというのは、不思議な形であり得るだろうと思う。

2007-08-23

[][]英国の少年犯罪:11歳射殺される

以前のエントリーで、英国の少年犯罪がひどいことになっているという紹介をしたが、本日のBBCで、また新たな事件が起きたことが報道されている。それによると、リバプールで、サッカー練習から帰宅途中だった11歳の男の子が、自転車に乗って近づいてきた少年によって3発の銃弾を浴びせられ、一発が当たって死亡した。警察は、14歳と18歳の容疑者少年を確保したが、犯人と確定したわけではないようだ。マンチェスターだけではなく、ロンドン、リバプールもこういう状況になってきているわけだ。子どもが子どもを銃で殺すということが「流行」しはじめている英国というのは、どうなってしまったのだろう。

"Two held in hunt for boy's killer"

Two teenagers have been arrested on suspicion of the murder of an 11-year-old boy who was shot dead on his way home from playing football.

He was on his way home from football training, still wearing his kit, when he was shot at about 1930 BST. A witness said three shots were fired by a youth, with his face covered by a hood, who rode past on a BMX bicycle.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/merseyside/6959761.stm

しかし、「自転車」に乗って銃を発砲するって・・・・。

2007-08-22

[][]障害者、フリーター、ホームレスの排除

下記のようなイベントがあるのでお知らせします。大阪府立大学にて。

公開講座「地域における「社会的排除」と、その対応策」

 知的障害者、ホームレス、若者たちのなかには、厳しい状況での暮らしを強いられている人々がいます。本講座では、これらを「社会的排除」の問題ととらえ、本学の教員4名が、それらの実態と、対応策についてお話しします。

10/6(土) <地域福祉「地域で暮らす、暮らし続ける」を創り出す>

(1)「知的障害者の施設から地域への移行」

社会福祉学科 准教授 三田優子)

(2)「地域福祉計画策定後の実践のすすめ方(動向)」

社会福祉学科 准教授 小野達也)

10/27(土) <社会的排除と貧困「若者と生活困窮者の社会的排除」>

(1)「フリーター問題の背景と若者支援の方策−社会的排除の視点から」

社会福祉学科 准教授 西田芳正)

(2)「社会的排除とホームレス−大阪府におけるホームレス問題」

社会福祉学科 教授 中山 徹)

申込先はこちら:

http://www.osakafu-u.ac.jp/lifelong/extension/h19/hum01.html

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[][]チャベス大統領続報

ベネズエラのチャベス大統領が提出している憲法改正案については、前のエントリーで紹介したが、どうも国会でそれが全会一致で承認されたようである。なぜ全会一致かというと、野党が選挙ボイコットしたので、国会はオール与党だからだ。あとは、数ヶ月後の国民投票を残すのみとなった。社会主義的な改革それ自体は意義ある実験だと思うが、独裁者の誕生と、石油資源に依存した改革というのは、ダメだと思う。チャベス大統領よ、戦争だけはしないでほしい。あと、謎の暗殺とかも見たくない。

"Venezuela Congress OKs Chavez's reforms"

http://news.yahoo.com/s/ap/20070822/ap_on_re_la_am_ca/venezuela_constitution;_ylt=AhubcxngYb02fkzwYtATaoQQr7sF

[][]池田晶子『リマーク』について

以前のエントリー池田晶子の新刊を面白くないと評した。その後、この本『リマーク』を入手できたのでパラパラと読んでみた。

リマーク 1997-2007

リマーク 1997-2007

この本は、いままで読んだ池田晶子の本の中ではいちばん面白い。断章(メモ)の連続で、一貫性はないのだが、たしかにこの人は哲学をしていたのだなという気はする。ただしヴィトゲンシュタインの影響が大きすぎるし、その手のひらを出ていない。

断章は、こんな感じ。

「愛」

または

「共感」

とは、これコイツであると同時に、げんに他の誰かでもあるということである

共感の原理とは、つまり、そういうことである

私が、彼に、共感するのではない

これが、彼で、げんにある、すなわち

彼は私である

というこのことが、共感するというそのことなのである

事態において、<x>という主語は、置き場所がない

(84〜85頁)

これはたしかに哲学的思索であるが、このことはヴィトゲンシュタインによって十全に語られている。この本の全体が、ある意味、この断章の変奏であると言える。ちなみに本書のタイトル「リマーク」は、ヴィトゲンシュタインの著書 Philosophical Remarks から取ったものと思われる。

私は池田晶子に対して、きびしすぎるのかもしれないが、池田の最大の難点はオリジナリティがないということであろう。(少なくとも私にはそう思える)。

2007-08-21

[][]命の神秘によりそって

http://www.nhk.or.jp/professional/schedule/index.html

 来週、8月28日になりますが、助産師・神谷整子さんの仕事のようすがリポートされるそうです。

2007-08-20

[][][]お前ごときがサバルタンなものか!

 今年の6月末にガヤトリ・スピヴァクが来日する件で、私はこのブログでぐちゃぐちゃ言っていました。そこから、サバルタン研究者についての議論が始まりました。

[font-da][集会][海外]ガヤトリ・スピヴァク来日

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070614/1181823313

[kanjinai][雑記]「ここにサバルタンがいる」と言えるのか?

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070615/1181886496

[font-da][雑記]「サバルタン」って言うな!

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070615/1181917951

それでですね、結局、スピヴァクの話は聞けずじまいだったのですが、web上で沖縄講演会の報告をアップしている方がいらっしゃいました。実は、沖縄講演会は、スピヴァクの体調不良で中止。また、スピヴァク剽窃疑惑が持ち上がり、スピヴァク抜きのスピヴァクの会は紛糾したようです。

 報告しているのは、社会理論・動態研究所研究員の打越正行さん。確認作業を、メモを参考に琉球大の上間先生さんと行ったということです。和文と英文で連載形式のブログを書かれています。公式な報告ではありませんが、実名を出し、この講演会について日本だけでなく、世界に発信するという強い意志が感じられます。*1

 その中で、私がショックを受けたのは次の部分です。

以下は,その後のフロアとのやり取りです.

佐喜眞美術館長「最初にスピヴァクさんを招くことができなかったことについて本当に申し訳ありませんでした.多くの参加者は,スピヴァクさんの思想が今の沖縄の抵抗運動において,いかにヒントとなるのかを聞きにきたと思うので,学者の業績の話ではなく,現在の沖縄でスピヴァクを読む意義について話し合いたい.」

(英文略)

参加者A「【前半部分省略】失礼な言い方だが,研究者の世界の業績などは,言い方は悪いんですけど学者のエゴだと思います.私はそのような議論には興味はなく,この沖縄でスピヴァクを読む意義を参加者とともに検討したい.」

打越「スピヴァク講演会06」『討論の広場』(http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/9b1f64a70c4500903240e808e344a2aa

これに対して、本橋哲也さんが会場から煽りがあったと発言します。さらに、このように言います。

本橋「あなたがた(コメンテーター)はスピヴァバクをよんだのか.あなた方はサバルタンなのか.ちがうでしょう.サバルタンとは,ベンガルで,強制労働に従事させられ,自らのおかれている状況を言語化できずに,本という概念すらしらない,そのような子どもたちのことでしょう.彼女はその子どもたちに学校をつくり,そして,そこを毎年訪問しているのです.そのような研究者はいますか.この会場にはサバルタンはいない」

打越「スピヴァク講演会14」(http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/12bc3137e8343d3c123160b19cad20c1

この発言に対し、打越さんはこうコメントします。

 沖縄人はサバルタンじゃないか・・.確かに第三世界の女性や子どもたちに比べれば,多くの沖縄の方は文字も書けますし,本も読めます.私は『サバルタンに語ることはできるか?』しか読んでいませんが,彼女がいいたかったことは,更なるマイノリティ探しではなく,声の固有性を消すなということではなかったのではないでしょうか?その固有の関係性,場所性を消すな,ということであって,文字が書けるのだからサバルタンじゃないなんで彼女が言うはずないと思います.

(同ページ)

これは「誰がサバルタンなのか?」という問いと、「お前なんかサバルタンじゃない!」という対立図式にみえます。また、ここには、打越さんによって、新城さんという沖縄人研究者という、「沖縄エリート」(打越)が、剽窃された可能性があるときに、「お前はすでにサバルタンじゃない」として発言が封じられる構図も描かれています。

 いつもどおりになりますが、この報告の信憑性は個人で検討してください。そして、この件についても、公式の報告があると、ことははっきりすると考えれます。これが、本当にあったことだとすれば、大変問題です。本橋さんの、この件に関する意見はぜひ聞きたいです。誤解なら、誤解で解いたほうがいいと思います。

追記:コメント欄で紹介いただいた、秀逸なまとめと批評。

http://d.hatena.ne.jp/pilate/20070808

追記2:コメント欄で本橋哲也さんのお名前を誤表記しているのをご指摘いただいたのに、私は修正していませんでした。その点について以下のご批判をいただきました。

些細な、とおっしゃるかもしれませんが(私には徴候的な誤認に見えますが)、基本的な「事実」でもあります。「サバルタン研究者が」ではなく、誰もがサバルタンを作る可能性があることを自戒を込めて銘記しておきますね。

肝に銘じておきたいと思います。

(現時点では、本橋さんのお名前は修正してあります)

[][]英国の少年犯罪がひどいことになっている

Observer紙によれば、英国の少年犯罪の状況がここのところかなりひどいことになっているらしい。マンチェスター市とかはとくにひどくて、少年ギャングたちが銃でがんがん人を撃って、市民を巻き添えにしているとのこと。少年ギャング間の抗争はむかしからあったが、いまのはそれどころじゃなくて、無関係な市民や子どもたちを白昼から無感情に巻き添えにして殺しているらしい。少年たちの暴走は、年長青年のギャングたちも止められない状況だという。少女たちもサポーターとして関与しているが、みんなこのことは認めたがらない。少年たちが、犯罪しかすることがないという社会状況や、銃がステイタスになっているなどの状況があるとのこと。映画「トレイン・スポッティング」とか、日本ではおしゃれなファッションとして見ているが、こういう状況下では、そんなのんきなことは言ってられないのではないだろうか。日本でも銃が増えたら、将来、同じようなことになるかもしれない。

"Gangs want respect, so the innocent die"

http://observer.guardian.co.uk/focus/story/0,,2147116,00.html

________________________________

追記:続報を書いた。(8月23日)

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070823/1187857512

*1:実際的に世界に発信できている/できていない、は別として、これは覚悟が必要な行為だと思います。

2007-08-19

[][]Mark S. Stein Distributive Justice & Disability

アマゾンの検索をうろついていたら、こんな本を発見。ハードカバーだけど、大学図書館にも11校しか入っていないし、注文してしまった*1

こちらでイントロダクションが無料ダウンロードできる模様。功利主義こそが、障害者の福利を達成できるという論調。気になるのは、癌と視覚障害を同じく「障害」とくくる感性というか、どこかでこういう大づかみな議論にはまっているのではないかと思ってしまった。手元に届いていないから、何とも言えないのだが…。シンガーを同じ功利主義の立場から批判しようとしているのは興味深い。

[][][]「正しく生きたい」ということと、「正しくなくても生きられる」ということ。

 eireneさんが前に取り上げているWeb評論誌コーラに載っている、野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」を読んだ。何度かこのブログでも取り上げたけれど、以下の部分がまだスッキリ納得いかない。

 倫理的に「よく生きる」というのは、私たちが通常行うような行為のよし悪しの判断とは次元を異にする。「私はどう生きればよいのか」を問う人は、すでにその人自身の「生の形式」を生きてしまっている。その問いの次元と、「いまここで私は何をなすべきか」という問いとは、区別される必要がある。「いまここで私は何をなすべきか」という問いは、すなわち、現在の状況下での行為の正当性を問題にすることは、現状を「すでに与えられたもの」として不問にしてしまう。さらには、「正当な行為を行うものこそが生きるに値する」という、生に資格や制限を付してしまうのである。こうした混同が、「よく生きる」という主題を、単に「生きてよいのか、悪いのか」という問いへと変換させてしまうのである。

野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」『Web評論誌 コーラ』(http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index1.html

私は倫理とは、「正当に生きたい」という欲望の貫徹だと考えている。しかし、その欲望に正当性はない。よって、「正当に生きる」ことで生が保証されるわけではない。にも関わらず、「正当に生きる」ことを望み、行為することが倫理である。生の保証は「正当に生きる」ことに付与されない。だから、「正当に生きる」ことは(たいてい大変だから)損をするだけだけれども、その損なことになぜか走ってしまう人間の不思議が、私の言うところの倫理である。*2この「正しく生きたいー!」という欲望*3は、それこそ無根拠で、<空っぽである私>という存在から湧き上がってくる。それが事後的に見て、正しい行いにつなげられたかどうかという結果、ではなく、欲望を追い続けるという行為を持って、倫理となす。

 倫理を目指す人が求めるのは「他者の承認」かもしれないが、倫理がもたらすものは「他者の承認」ではなく行為とその痕跡である。何をしたら正しく生きられるのかはわからないが、正しく生きたいという欲望に忠実に走り、正しく生きたところで省みられることもない、というのが倫理である。*4

 野崎さんは、倫理における「無根拠性」を主張していて、私はそこは共有できる部分もあると思うが、私の場合、無根拠であるが、人はそれを望むということに重点をおいている。では、無条件の生の肯定が必要でないか、というとそんなわけではない。「『よく生きる』という倫理学における一つの主題とは、『誰かの生はよくないから生きるに値しない』ということ、およびその正当化を含意するものではない」(同頁からの引用)ことと、「正当に生きたい」という欲望は両立するはずである。「正しく生きたい」人が、行為の結果、「正しくなくても生きられる」ことを保障すればよい。現状において何をすべきかを選択しつつ、現状を変えていけばよいはずだ。

*1:値段が高いし、かさばるから嫌なんですが。

*2:控えめに書いてるけれど、気持ち的には、「これを倫理と呼ばずして、なんと呼ぶのだ!」という感じ。

*3:逆に「悪いことをしてやるー!」という欲望、という問題にも興味はあるけれど、そこのところはまだ整理できてません。

*4:ここの部分は森岡正博無痛文明論』と同じ事を言おうとしてるんじゃないの、私?と思うこともあります。

2007-08-18

[][][][]非物質的労働

アントニオ・ネグリの新訳。講演録をもとにしているので、ある程度知識があれば読みやすい(が、わからなかったら舌足らずで読みにくいかも)。

私は、ネグリがずっと言ってきている「非物質的労働」(lavoro immateriale)の概念がすごく気になっている。たとえば、上記の本においても述べられている。ネグリによればそれは、「知識、情報、コミュニケーション、言語的あるいは情動的な人間関係など、非物質的な生産物をつくり出す労働」である(『アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)』p.151)。

社会思想関連では「ポスト・フォーディズム」が言われていたりもする。そんな中で思うのは、本当に物質的労働/非物質的労働という二分法が、ここ100年あたりの労働、あるいは労働の社会思想の歴史を通覧するにあたり、有効なものであるかどうかである。同じ非物質的労働といっても、医療や介護、看護、教育などは、どれを比べても違うはずだ。私などは、労働の指標をもし作るのであれば、「ひとの生存にどのくらい直接に関連するか」を見たほうがよいのではという案があるが、どうだろう。もちろん、「直接かかわる労働こそがよい労働」であることを意味するものではまったくない。教育などは、直接生存にかかわるわけではないが、生きることの指針を決定するに重要な役割を果たし得ると私は考えている*1

ところで、「ベーシック・インカム」に関するWikipediaの記事は面白い。その「思想的系譜」には、以下のように書かれてある。

ベーシック・インカムの思想的起源は古い。「国家が生活を保障する」構想として考えた場合、欧米ではその起源は16世紀ヨーロッパにあるとされる。以後、18世紀末にはイギリスにおけるトマス・ペインの『Agrarian Justice』、トマス・スペンスによる土地の共有化構想、1930年代大恐慌後のアメリカで提起されたソーシャル・クレジットなどが挙げられる。「1968年」前後にはイタリアを中心としたアウトノミア運動が提唱した「社会賃金」、マリア・ローザ・ダラコスタ(Mariarosa Dalla Costa)らイタリア・フェミニズムの論者による「家事労働に賃金を」、イギリス要求者組合による「保証所得」、日本の「青い芝の会」の活動、フランスのリオネル・ジョスパン政権下での「普遍給付」構想などがBIの系譜に連なる思想・運動として挙げられる。

イギリス要求者組合とは、確かおぼろげな記憶によると、性労働者の組合で、「性労働を否定するが、性労働者を肯定する」というスローガンで、性労働に関わる労働条件の向上を求めながら、他方で性労働を強いる社会構造をも問題にしていった(間違いがあればご指摘ください)。青い芝の会の思想と、ネグリらの思想のもとになったアウトノミア運動の思想との共通点は、昨今指摘されている。kanjinaiさんが書かれた『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』では、青い芝の会と優生思想との関連が述べられているが、もうひとつの軸はやはり、障害者の生活保障・所得保障を思想的にどう考え、実際にどう政策に結び付けるかが重要な問いとして横たわる。彼らは生活保護では旅行に行くことができないと、「障害者にも旅行させろ」と駅前でカンパ活動を行った。また、介護の現場においては、「障害者が糞したり、介護者に尻拭いさせるために腰を上げたりすることも労働である」と述べた。これらの発言の当否はともかく、「労働とは何か、働いて賃金を得ることは何を意味するか」は、巨大な問いのような気がしている。たとえば、ネグリの思想から、介助/介護をどう考えるのか。労働政策の方向性を見誤らないためにも、規範的労働論というか、労働の社会思想論はこれから現実的な話として求められていると思う。

*1:そのことはサイードも『ペンと剣 (ちくま学芸文庫)』などで力説している。

2007-08-17

[][][]男化するweb世界

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 kanjinaiさんも紹介していた、梅田望夫「ウェブ進化論」を読んだ。これから先、もっとwebによって社会変革が起きていくらしい。と、どうも他人事で読んでしまった。

 私はこっちの記事のほうが、肌身感覚にはあっている。

 べつに「はてな」に限らず、個人的には「ブログ」というツール(ネットの遊び場)に手詰まり感を感じているわけです。自己表現として何かを世の中に出したいと思っている人間より、仲間と楽しく特定のサービスを使いたいと思っている人間のほうが圧倒的に多いわけで、そういう人はケータイコミュニケーションとかmixi(18歳以上)に行っている、ということでしょう。

lovelovedog「『はてなダイアリー』の住民は5万人固定でもう増えない」『愛・蔵太の少し調べて書く日記』(http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070619/juunin

私の周りの、長くWEBサイトをやっていたお友達は、続々とmixiに移住していった。WEB日記→ブログ→mixiという感じで、ブログは通過点に過ぎない。そして、すでにmixiに飽きた友人も多く、結局、「webで一番使えるのってメールだよね」という結論に落ち着く雰囲気だ。

 私がインターネットに始めて接続したのは99年くらいで、初めて使ったサービスはジオシティーズ。どっぷりWeb1.0に親しんでいる世代にあたる。もちろん、私の書いたテキストをネット上で全世界に公開しても、学校で友人に手書きのURLのメモを渡さないと、誰も見てくれなかった。そして、学校から帰って、宿題をすませて、空いた時間に日記を書くという、「プライベートな遊び」という感覚でwebに接してきた。私と同世代の多くの友人が、同じく中高生時代からwebで、好きに日記を書き散らしてきた。

 それぞれが好きなものを書き始めると、膨大な玉石混交の文章がweb上に溜まることになる。つまらない石ばかりが溢れることになるのだ。その状況を梅田さんはITの成熟が乗り越えたという。

 そしてブログが社会現象化した第二の理由とは、ネット上のコンテンツの本質ともいうべきこの玉石混交問題を解決する糸口が、ITの成熟によってもたらされつつとあるという予感なのである。この本質的問題が解決されるのなら、潜在的書き手の意識も「書いてもどうせ誰の目にも触れないだろう」から「書けばきっと誰かにメッセージが届くはず」に変わる。そんな意識の変化がさらにブログの増殖をもたらす好循環を生み出している。

 ではその原因となるITの成熟とは何か。一つはグーグルによって達成された検索エンジンの圧倒的進歩。もう一つはブログ周辺で生まれた自動編集技術である。(139ページ)

世界的にみれば、そのようなweb進化の潮流となるのかもしれない。しかし、日本の場合、少なくとも文章をたくさん書いてコンテンツとしたいと思っている人が、影響を受けてきたのは、「2ちゃんねる」と「READ ME!」だったと、私は考えている。

 今は「2ちゃんねる」も、あまりにも情報が多くなりすぎて、状況は変わったが「2ちゃんねるに晒される」ということが、意味を持っていた時期は確実にあった。それまで「書いてもどうせ誰の目にも触れないだろう」と思っていたプライベートな日記が、ちょっとした悪意で「2ちゃんねる」に紹介されただけで、アクセス数が跳ね上がり、攻撃的なメッセージや嘲笑を浴びることになる。だから、そうならないように防衛線を貼る=他者の視線を意識する工夫が必要になった。それも、「2ちゃんねらー」という誰か知らない匿名の他者の視線を意識し始める。これが、公共化の第一歩だったのではないか。

 「READ ME!」は登録制の、ランキングサイトだった。もちろん、アクセス数をあげると、上位にランキングされ、さらにアクセス数が増えるというよくあるシステムだが、これを支えていたのは、先ほど引用したブログの書き手、愛・蔵太である。愛・蔵太は新着サイトを全て読み、気に入ったものにコメントをつけ、「おすすめ」していた。この「おすすめ」に入ると、それまで「書いてもどうせ誰の目にも触れないだろう」自分の文章は、誰かに届いてしまう。そんな窓口が設定されたことで、一気に文章は他者の視線を引きつけるものへと、工夫が求められ始める。

 一方で他者の視線への防衛があり、一方で他者の視線へのアピールがあるような、webで文章を書くことの公共化は始まったように思う。叩かれないように常識を持って、しかしある程度目立つ文章。そうなってくると、日常的な感情の垂れ流しよりも、論理的主張を好む層が増えてくる。この展開自体は梅田さんの述べるとおりなのだが、問題は、「2ちゃんねる」にしろ「READ ME!」にしろ、人間の介在が著しく大きいことである。梅田さんは、検索エンジンにしろ、RSSにしろ、アルゴリズムが自動的にコンテンツを選別していくことを、Web2.0の特徴としている。しかし、私の目から見ると、日本のwebの状況は、人間の目によって、人間の手で、公共化している。

 だいたい、リアルでの権威がweb上では関係ない、というのは、言いすぎだ。たとえば、このブログを読んでいる何人かの人は、リアルでのkanjinaiさんの権威を意識しているはずだ。*1もちろん、権威とブログの影響力は直結しないが、ある程度の相関関係はあるだろう。*2アルゴリズムが「誰の目にも触れないだろう」プライベートな日記を放逐したわけではない。悪意や、特定の個人の価値観や、権威指向が、現在の公共化しつつあるブログの状況を生んだのだ。

 そして、誰が増えて、誰がいなくなったのか。私は「論理的で自己主張が出来、常識をよく心得ている」大人の男を、ブログは求めていると感じている。そして、ヒステリックに感情を垂れ流す女子どもはmixiに出て行き、そしてmixiでさえ公共性を求められ、メールに返り咲いているのだ。もちろん、ここで私がいう「大人の男」とは、生物学的性差をさしていない。よりよい社会を運営し、意義ある生産物をうみだす「市民」をさしている。

 この傾向のよしあしを言いたいわけではない。むしろ、私こそが「女子ども」から「大人の男」へとシフトしている一人である。相対的に、意義ある生産物をうみだすように努力を心がけるようになった。それが楽しくないとも思わないし、社会を維持するための営みであるだろうし、そうすることによって自分の価値が認められるのもうれしい。

 一方で、私はこれからブログは特定の人たちが集う場所になるだろうと考えている。おそらく中心になるのは、リタイアした団塊の世代。若い世代や、「『これまでは言葉を発信してこなかった』面白い人」(137ページ)ではなく、これまで発信してきたから、もっと発信したい人の集まりになるだろう。たぶん、ガリ刷りでたくさん書いてきた人たちの。ビジネスとしては良いマーケットになると思う。

 たぶん、梅田さんがこういう話をみると、webはさらにブログを超えた形で進化するというような気がする。それならそれでもいいけど、とにかく私はwebを取り巻くねちゃねちゃした人間関係を抜きにして、アルゴリズムによる秩序の再編というのは、夢はあるけど実感は持てなかった。少なくとも、今は進行の兆しは小さいように思う。大きく感じたら、また書きます。

*1:少なくとも、私はすんごく意識する。

*2:だって、有名な人のつまらないブログの、アクセス数が膨大だったりするではないですか。

2007-08-16

[][]井出草平『ひきこもりの社会学

注目の新刊。

ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

著者のサイト…井出草平の研究室

著者のブログ…sociologically@はてな

著者の井出さんとは2度ほどお会いして話したことがある。1度目はあるイベントの懇親会、その後の2次会。2度目は、「自殺の自由はあるか」という濃いテーマで数人で議論した。この本は井出さんの修士論文をもとにしてできあがったとか。若手の社会学者の中でも注目すべき存在だ。

[][]ベネズエラのチャベス大統領やばいのでは?

ここのところの外電を読んでいるかぎり、ベネズエラのチャベス大統領のやっていることは、かなりやばいところまで来ているような気がする。豊富な石油・ガス資源を背景に、社会主義化を進め、国連での反ブッシュ演説などで、世界の左翼や労働層から支持を得てきたが、その後、今年になって、自身に批判的な放送局の強制的閉鎖、自身を批判する外国人の強制的国外追放などを宣言。このまま行くと、独裁国家になるんじゃないかと思われていたが、今日のAP記事によると、大統領任期の無期限延長を含む憲法改正案を提案したとのことだ。中央銀行の金を大統領が動かせるとかの案も。米国が攻めて来たときのために、民兵を再編するとかも。

http://news.yahoo.com/s/ap/20070816/ap_on_re_la_am_ca/venezuela_constitutional_reform;_ylt=ArFOmwjDG1xiIBeBwuXlQkYQr7sF

米国の覇権主義は、イスラム・テロリストを生み出したが、と同時に、こういう独裁者を新たに生み出しつつあるということなのだろう。中南米の火薬庫とならないことを望むしかない。ちなみにチャベスは53歳。安倍晋三と同い年。若いです。

[][]WEB 評論誌「コーラ」2号

 1号に続き、2号が刊行されたようです。読ませていただきます。

no title

 黒猫房主さんによる刊行案内。

Web評論誌『コーラ』2号のご案内 - シャ ノワール カフェ別館

2007-08-15

[][][][]桐野夏生残虐記

残虐記 (新潮文庫)

残虐記 (新潮文庫)

 文庫化されていたので、読んでみた。30代の女性小説家が、失踪の際に残した原稿という形で物語が綴られる。主人公は、10歳のときに、1年間も青年に誘拐・監禁されていた被害者である。そして、主人公のもとに加害者の手紙が届く。物語では、主人公が事件の真相と、事件後の展開を告白し、考察が進んでいく。綴られている内容は、私にとって異様であったし、こういう事件に興味がある人が読むと良いのではないか、と思った。

(以下、ネタバレを含むので閉じときます。)

続きを読む

2007-08-14

[][][]サバイバル・ロッタリー擁護論

新着のBioethics誌に、ハリスのサバイバル・ロッタリーの改良案の擁護論が掲載されている。Gerhard Overland, "Survival Lotteries Reconsidered", Bioethics 21:7, pp.355-363, (2007)。オーバーランドは、サバイバル・ロッタリーの概念を、national lotteryとgroup specific lotteryとlocal lotteryの3種類に分類する。そのうえで、local lottery は擁護できると結論する。

では、local lotteryとは何かというと、世界中の病院には、臓器移植をしないともう死んでしまう人間がたくさんいるが、それらの人々は、ある人は心臓がほしいと思っているし、ある人は肝臓がほしいと思っているし、ある人は腎臓がほしいと思っているだろう。このときに、ランダムに誰か一人を殺して、その人から使える臓器を全部取り出していろんな人に移植すればいいということなのだが、ここでのポイントは、<もしそういうロッタリー(くじ)をしなければ>全員死んでしまうということ、そして、彼らはそのロッタリーに世界中から自発的に参加しているということである(後者に関しては種々議論されている)。

まさに生存宝くじである。なにもしないのなら全員死んでしまうのだから、なにかしたほうがいいでしょう?というわけである。そのときにフェアネスを確保するために、くじ引きにする。健康な人や、イヤな人は参加しなければいい。参加者を増やすためには、情報ネットワークを駆使して、世界規模でやるのがよい。と、著者は主張している。著者は(たぶん)指摘してないが、この議論のキモは、こういう設定にしたときに、それは現行の脳死身体からの臓器移植ネットワークに、限りなく近づいたものに見えるという点である。

Bioethics誌、今号の、巻頭論文である。

[][]鼻をすする日本人

終戦記念日を前にふと思い出したこと。ヨーロッパの人と話をしていたときに、その人は、日本人が鼻をすする(ズズーっとか)のは欧州では非常にはしたないことだと思われているというふうに教えてくれた。へー、そうなんだと思ったのだが、日本に帰ってきてみると、たしかに、電車でも、図書館でも、大人が鼻をズズーっとすすっている。たまに、ブヒッとか鼻を鳴らす人もいる。いままでは気にならなかったが、指摘されてからすごく気になるようになった。もちろん、ヨーロッパ人だって、ハンカチで鼻をブヒーってかんで、ポケットに突っ込んで、何度もハンカチを裏返して使ってるわけだから、人のことは言えないだろうとは思う。ただ、事実問題として、こういうところから欧州の黄色人差別というのは発生するのかも、という気はした。ヘンな話でごめんなさい。

[][][]輸入学問の功罪

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

 

 先日のエントリーに関連して。ちくま新書から年頭に、このような本が刊行されていました。近日中に、チェックしてみたいと思います。、

2007-08-13

[][][]翻訳通信

 山岡洋一さんが発行している『翻訳通信』のウェブサイトがあります。

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 充実した内容です。全部は読めていませんが、光文社古典新訳文庫の刊行理念についての解説文もあります。

no title

 とりあえず、サイトの紹介まで。

[][][]中国における「死ぬ権利」

China Dailyによると、香港の38歳の男性が、自分の死ぬ権利を主張して大きな話題になっているらしい。この男性は脊髄を損傷して、16年間病院の天井を眺めているだけの人生だとのこと。自分の死ぬ権利を訴えているが、認められていない。ホーキング博士が香港に来たときに、博士は彼に「生があれば希望がある When there is life, there is hope」と言った。だが、彼はむなしく感じるという。ホーキングのような選ばれた人は少数であって、大多数の彼のような患者はそうは思えないという。

このテーマについて、中国メディアが報道するのは珍しいと思うので、紹介してみた。

"The right to die remains a thorny issue"

http://www.chinadaily.com.cn/opinion/2007-08/10/content_6020319.htm

2007-08-12

[][]光文社古典新訳文庫(9月)

 書店に行くと、光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』が平積みになっていた。全5巻合計で26万5000部を突破したということで、外国の古典文学としては異例の売れ行きらしい。

 9月の新刊情報が出た。スタンダールカフカフロイトは、ぜひ買いたい。

http://www.kotensinyaku.jp/nextnumber/index.html

2007-08-11

[][]プロアナビデオとは

8月9日のエントリーで、拒食症サイトが英語圏SNSで流行しているということを紹介した。本日の別の新聞にも同様の記事が出ている。’Social websites like MySpace encourage anorexia’, warn charities。この記事を読んでいただくと分かるが、それらSNSの若者たちは、"thinspiration"という言葉を造語して、超スキニーなモデルや拒食症の女性の写真ビデオを見て、自分もやってみようと思ったり、あるいは持続するための勇気づけにしているとのことだ。記事中では、これを否定する慈善団体のコメントが載っている。だが、記事に出てくる若い女性たちは、そんな言葉は聞き入れそうにない雰囲気である。

そのようなビデオというのは、どんなものなのだろうと思って探したら、すぐにあった。みなさんもご自分で見てみて、ご自分で判断してみてはいかがだろうか。英語字幕に注意してください。こういう映像がダメな方は、見ないこと。

続きを読む

2007-08-10

[][]筑摩書房の新刊(9月)

 9月の新刊案内です。哲学書では、ラッセルの『論理的原子論の哲学』が邦訳されますね。

http://www.chikumashobo.co.jp/comingbook/

2007-08-09

[][][]ポストコロニアルって

現代思想』8月号に、磯前順一「外部とは何か?− 柄谷行人と酒井直樹、そしてクリスチャン・ボルタンスキー」という論文が掲載されている。冒頭から、柄谷の「探求1」の議論が引用されていて、なんか懐かしい。

ポストコロニアル研究について、磯前はこう書く。

かつて、タラル・アサドは私にこう言った。「なぜ日本人はアラブ人やインド人と同じようなかたちで、ポストコロニアルの問題を語ろうとするのだ。植民地を経験していない日本人は、西洋的近代化の受容の固有性においてこそ、私たちには出来ない問題提起が可能になるのではないか」。(182頁)

このアサドの指摘は、まったく正しいように思える。ポスコロ研究者が、サイードやらバーバやらに群がって超絶的批評をして悦に入っているのを見ると、ことさらそう思う。ふと思い出したのは、私が米国にいたときに、東アジア研究の学生が、福沢諭吉についての研究発表を英語でしていて、それを聞いたある教員が、「福沢は日本の近代化においては意味があるかもしれないが、国際的に見たときにどういう意味があるのだ」と質問して、それに学生は答えられず、「ほとんど意味ないです」みたいなことを答えて、教員も「そうだろう」みたいな感じになったことがあった。サッカー用語で言えば、「ドメスティックには通用しても、インターナショナルには通用しない」みたいな、そういうくくりかたで、いいのか、という思いがそれ以来ずっと頭の中を去来している。

ちなみに磯前さんの論文は力作である。

[][][]拒食症のSNSがはやっているらしい

BBCサイトによれば、英語圏のSNSで、拒食症のコミュニティが流行しているらしい。もちろん以前からこの種のものはあったが、実名で輪を広げる拒食症コミュニティは、SNSならではであって、注目を集めているとのこと。

問題はそのやりとりの内容で、拒食症・摂食障害の当事者たちのセルフヘルプグループ的なものと、拒食症を賛美してお互いにテクや情報を交換するものとが、混ざり合っているとのことだ。

Members of such groups post pictures of painfully skinny girls for "thinspiration", compare dangerously low goal weights and measurements, and team up to "keep each other strong" in their quest to lose weight.

They swap stories on how they vomit until they cough blood, are often too weak to get out of bed and how they're scared family or friends will find out and force them into recovery.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/6935768.stm(写真あり)

などというのを読むと、なんとも言えなくなる。でも、賛美とセルフヘルプの境界線というのもなかなか引きがたいのではないだろうか。

日本でもmixiとかに、きっと似たようなものがあるのだろう。

2007-08-08

[][][]『リベラルナショナリズムとは』

著者はイスラエル女性学者、平和運動家。分配的正義論と、文化帰属論とを接合しようとする野心的な試みである。

彼女の持論は、リベラルな選択の自由の思想と、ひとのアイデンティティに基づく連帯感とは矛盾せず、歩み寄れるのであるというものである。リベラルがもっと文化に敏感であり、ナショナリズムが地と血にこだわらずにあるべきだと言うのである。そして、「複数のネーション」を元にした世界の新しい秩序を開拓していこうとする。

だが、それほど事態は簡単であろうか。1つには、彼女が「国境を超える分配」をどう考えるのか、あまり明らかではない。現に、サハラ以南のアフリカでは、エイズ治療薬にいわゆる「先進国」の知的所有権が邪魔をして、「薬はあるのに薬にアクセスできない」状況である。

彼女は「リベラルナショナリズムでよい」と結論づけるのだが、どうしてもそこで「他者」という問題が抜け落ちてしまう。私自身はこれまでの主流の分配論では「他者」のたちあらわれが理論的に最初から抜け落ちている構造になっていると考えている。それを踏まえたうえで言えば、リベラリズムナショナリズムももともと「他者の排除」という意味においては、対立しないと考えるのである。著者は「他者」の問題を見ないことによって、リベラリズムナショナリズムがあたかも対立するように見せかけるが、これは管見では偽の問いに答えている、あるいは偽の答えであるように思われるのである。「複数のネーション」を元にしても、最後にはネーション同士の関係性の問題が残るはずである。

選択の自由や文化的な帰属が当人にとって大切なものとして位置づくにせよ、そのことは「それをもとに社会を構成する」ことにはならない。選択の自由の名のもとに、いま当人の手元にあるべき選択肢が奪われていることが捨象されるなら、それは問題である。また、文化的帰属では語ることのできない、掬わざる部分が当人にとって大切な時もある。著者の野心は野心として尊重されるべきと考えるが、その野心は「他者」という問題系を見逃してしまったことによって、大きく達成されないものになってしまったと私は考える。

【参照】教えていただきました。ありがとうございます。

シオニズムはリベラルになりうるのか――ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』をめぐる勘違い」@パレスチナ情報センター

2007-08-07

[][][]経済財政白書、「負の所得税」構想を提案

格差是正へ支援、経済財政白書が「負の所得税」など提言

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070807it03.htm

 内閣府が7日公表した2007年度の年次経済財政報告(経済財政白書)は、格差是正のため低所得者層を支援する新たな制度が必要だと提言した。

 日本経済が成長し、所得水準が上がっても、格差は拡大傾向にあると分析し、具体策として、所得税を直接減額する「税額控除」と社会保障給付制度を組み合わせた「負の所得税」と呼ばれる仕組みを挙げた。税と社会保障を合わせ、高所得層から低所得層に所得を移していく必要性も指摘した。

(記事は一部のみ転載)

負の所得税とは、公的扶助政策と課税政策とを合わせた構想で、簡単に言えば、所得が低く税金が取れない者に対し、課税額まで一定割合で給付を行うものである。給付のことを「負の所得税」と呼んでいる。

これは、いわゆる小さな政府を志向したとされる経済学者のミルトン・フリードマンらの学派が考えたものであり、大きい政府を志向するとされる左派には受けが悪い*1。しかし、私自身は、問題点はいくつかあるとはいえ、フリードマンやハイエクからは自由に関して学ぶべきところが多々あると思っている。ネオ・リベラリズムに行かないフリードマンらの「使い方」は、考えられてよい。

[][][]オバサンの性的欲望は少年へと向かう

論座』2007年9月号で、信田さよ子が「ホントはこわい?王子ブーム」というエッセイを書いている。

まず、ペ・ヨンジュンファンの一部が、斎藤佑樹(ハンカチ王子)に流れたが、信田自身がその典型だと告白する。まずは斎藤が、安定した愛情溢れる家族によって麗しく育てられてきたことが魅力であると言う。「すくすく育ち、イケメンでクレバー、ピッチャーとして豪腕」の斎藤は「無垢で光に満ちて」おり、彼を見ることで(自己)肯定への渇望を満たされるという。

と同時に、斎藤を追っかける男性カメラマンたちが、斎藤への同性愛的視線によって撮影していることに注意をうながす。そのホモセクシャルな視線をとおして、オバサン(信田の用語)は斎藤に性的欲望をかぶせているというのである。

さらに、甲子園での斎藤と田中奨大(元駒大苫小牧高投手)のカップルに、腐女子とオバサンは「ホモセクシュアルな性幻想を見て「萌えた」」だろうと指摘する。

信田は書く。

[オバサンは]男から見られ、性的欲望の対象たれという強迫から解放されるので、今度は見る主体になれる。どうせオバサンだからと開き直ることもできる。

 とはいえ、子育てを終え、生活時間の余裕と体力を持った彼女たちは、いつまでもなまなましくセクシュアルでもある。これらが相まって、−−男性がそうであるように−−若くみずみずしい異性に性的欲望が向かうことに何の不思議もない。ただそれは、侵襲的で支配的な男には向かわない。抑圧的な男らしさにはもう辟易しているのだ。

 安心して見下ろしたい、支配されることなく相手を享受したい、そんな立ち位置をとるのに絶好の対象がペ・ヨンジュンであった。そこを突破口としたオバサンたちの欲望の回路は、社会現象といわれるまでに韓流ブームを盛り立て、そして王子ブームに至る。(122頁)

いつの日か王子ブームも終わるときが来るだろうが、性的主体となった彼女たちの欲望の回路は、それを満たすべく新たな表象を求め続けるだろう。(123頁)

というわけである。非常に納得できる論旨であった。思うのは、これもまた、「女・エロス」を合い言葉とした70年代リブのひとつの帰結であり、勝利であるということである。またこれは既婚婦人や後家が美少年のイメージを求めた江戸のエロスへの回帰でもあるのだろう。

これからの時代、性的主体となったオバサンと腐女子の数はますます増大するばかりである。それに比して、麗しき男子の数は相対的に減るばかりであろう。ちょうど企業におけるオジサンの群れと、希少未婚女子、という図の、まったく逆転した光景が、社会のあちこちで形成されていくのだろう。その結果として、男子は中学・高校に入ったと同時に、母親くらいの年齢の女性も含むあらゆる年齢の女性たちから、シャワーのように性的欲望の視線を浴びるという状況に直面しながら、自我を形成しないといけなくなるであろう。つまり、いまの10代女子が置かれているのと類似したような環境に、男子もまた置かれるようになっていくということだ。もちろん現在でもこのような側面はあるが、今後はこれがさらに一般化し、顕在化し、露骨化していくようになるだろう。人間である前に、性的男であるということを外部からの性的視線によって自覚せざるを得ない、という時代を生きなければならない将来の男子たちは、いったいどのような性的主体形成をしていくことになるのだろうか。彼らもまた自分の性的身体を自傷し、援助交際への渇望を見せるのであろうか。

*1:この「小さな政府/大きい政府」という二項対立じたい、どうしたものかと常々思うが。

2007-08-06

[][]フランスの哲学教育

 BS1 ですが、フランス高校の哲学教育のリポートがあります。

 思考力で大学受験を突破せよ〜フランス

 8月11日(土)18:10〜18:30 放送予定

http://www.nhk.or.jp/eurkodawari/

パリ郊外にあるイル・ド・フランス高校の哲学教師ロミュアルド・トリボア(34)さんは、教員暦10年。

 彼は、バカロレア(日本の大学受験に匹敵)に受験生を合格させるために、自分で考える思考力の大切さを教えています。番組では、試験直前の授業から、6月12日の試験当日、合格発表の7月3日までトリボア先生とその生徒に密着し、「自分で考える、生徒に考えさせる教育」をどのような実を結ぶのかを追います。

2007-08-05

[][][]『思想』1000号記念・続き

『思想』1000号記念特集の座談会「思想の100年をたどる(1)」で、佐藤卓己苅部直、米谷匡が鼎談している。そのなかで戦前戦中の時期の『思想』や隣接雑誌について語っているところがおもしろい。

林達夫は、読み手に「哲学的公衆」が登場し、哲学者が現実の諸問題について発言するようになったことを評価していたが、すぐに、その哲学的公衆に愛想をつかしたという。

以下、苅部直の発言。

小林[秀雄]と林[達夫]は、対立していたと同時に、同じような批判を哲学者たちに向けてもいた。小林も「学者と官僚」の中で、「確実に実証的な材料を研究してゐる学者」と「言葉によって広く人生を論じたり研究したりする学者」とを区別して、問題は後者にあると言っています。彼らが「学会を出て、世間の風に吹かれたいと思つて」、『思想』も含む一般人向けの雑誌で、やたらに活躍したがるところがいけない。

 つまり、林と小林が見ていたのは、大衆化の進行とともに、知識人の側もまた、その言説の質が浅薄になってゆくという病理です。(33〜34頁)

何だか、言論統制の有無のちがいはあれ、いまのジャーナリズムでの、「格差」論とか憲法改正論議についても言えそうですが(笑)、いわゆる知識人の戦争協力には、そういう要因も確実になったでしょう。(34頁)

いわゆる「知識人」は1970年代で退場した。その後、ニューアカという潮流が来て、学者が一般雑誌でふつうに発言するようになり、学者の権威はガタ落ちになって、現在に至る。アカデミズムか、大衆への迎合かというのは、意味のある二項対立ではない、というのが正しい考え方なんだろうけど、たしかにそういう分裂を自分の中にもかかえている実感が私にはある。小林秀雄マックス・ウェーバーを参照していたのだろうけど、この問題は永遠の課題だと思う。しかし、引用部分の「(笑)」は、何?

2007-08-04

[][][]妥協するということ

 x0000000000さんの貴戸理恵批判を読んでいて、考え込んでしまった。貴戸さんの『フリーターズフリー vol.1 (1)』pp.139-149所収の論文を引用しながら、x0000000000さんはこう批判する。

さらに、水商売をする貴戸に向けた院生の「私にはできない」、あるいは「フェミニズムをやってるならどうしてそんなことをするのか」といった言葉に対して、貴戸は次のように反論する。

そういう彼ら・彼女らは、塾講師だの家庭教師だののバイトをしていた。私は心の中でため息をついた。おやじに尻撫でられるのくらい何でもないんだよ。子どもの尻を叩いて受験勉強をさせるのなんかに比べれば。私は馬鹿にされている方がマシだ。(p.145)

どうしてこんなにニヒリスティックになるのだろう。確かに「フーコーとか読んだ後に教師のバイトをやること」は、必ずしも整合的であるとは言えないだろう。しかし、言い方や問い方があるはずだ。そのことと、「フェミニズムをやった後に水商売をやる」こととを、比較すべきではない、そう言っているのだ。「おやじに尻撫でられるの」も、「子どもの尻を叩いて受験勉強をさせる」のもどちらも嫌なら嫌だと、言うべきではないのか。

x0000000000「貴戸理恵「「不登校の“その後”を生きる女性の語り」に向けて」を読んで」『世界、障害、ジェンダー、倫理☆』(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070726/p1#seemore

読んでいて、「x0000000000さんは正しいなあ」と思いつつ、私の気持ちは「貴戸さん、わかる、わかる〜」というように傾いていた。私が頷いたのは、貴戸さんが、不登校当事者として、塾講師や家庭教師のバイトを嫌悪することではない。私が頷いたのは、フェミニズムやってたって、「おじさんに無能扱いされるほうが○○よりはマシ」といってしまう思考回路である。(○○はお好きなものを。)

 x0000000000さんの主張は正しいし、どちらの差別も問題化すればよい。ただ、私が思うのは、女性がなんらかの差別を問題化しようとしたときに、「女性差別」を最優先しなければならない雰囲気に対する苛立ちを、貴戸さんから感じたし、そこは共感する。女だからって、常に性差別ばっかり取り組んでるわけにはいかないし、性差別以上に<私>を抑圧する問題がある、という状況は、もっと言われて良いと思う。

 たまに、最近の若い女の子が、未だはびこる男尊女卑構造に抵抗しないのは、フェミニズムがいきわたっていないせい*1だという人がいるが、私にはわからなくなる。当たり前だが、労働するためには、なんらかの権力関係に入ることになる。上に入ることも、下に入ることもある。その権力関係自体を肯定しようがしまいが、お給料をもらうためには、妥協せざるをえない。権力関係に目をつぶらなければならない。学歴というヒエラルキーを生かして、権力構造の上に入って抑圧する側にまわるのと、男尊女卑と言うヒエラルキーに入って、権力構造の下に入って抑圧される側にまわるのと、どっちがマシかといわれると、貴戸さんが「後者のほうがマシ!」という思考回路に入ったんだろうな、と私は理解した。

 その妥協を正当化する理屈はいらない。それでも、「水商売よりは塾講師、家庭教師がマシ」だという性差別最優先主義の高学歴同級生*2へ、何か言いたい気持ちはわかる。ジェンダー・センシティブという価値観以上に、学歴にセンシティブになってしまった、感じやすい当事者がどう生きるのかを考えるのは大事だと思う。もう少し言えば、「女性差別にばっかり興味のある女たち(に見える人たち)」の中で、別の差別問題に取り組む女性がどう共闘するのかは、大事だと思う。

 「フリーターズフリー」を買ってみようと思いました。

*1:「目覚めていない」とか言う人もいる。

*2:勝手にカテゴリー名をつけました。

2007-08-03

[][][]人工呼吸器を利用して生きる

また、悲しい事件が起こった。

京都府長岡京市の開業医がALSの義母に告知をせず、死に至らしめた件

告知したかどうか、インフォームド・コンセントが十全に行われていたかどうかだけを問題にするのは、問題の一側面だけの指摘である。より大切なのは、呼吸器をつけていれば生きられる人を、「本人の自己決定」を根拠にしてであっても生きられないようにするという問題であり、私はそのことをも問題であると考えている。本人には、死にたいという欲望はあるにせよ、欲望は一枚岩ではないはずだ。さらに、もっと問うべきは、呼吸器をつけながら生きることを否定的に考えてしまう私たちの価値観ではないだろうか。

私は昨日、メガネのフレームを壊してしまった*1。私はメガネがないと生活できない。「メガネがなく、見えないから私は死にたい」と言ったら、きっと周りの人は私を変な目で見るだろう。そのときほとんどの人はメガネや、壊れたフレームを修理したり新調したりすることを薦めるだろう。だが、人工呼吸器がないと生きられない人の「死の自己決定」は現実的にはかくも簡単に受け入れられたりする。この差異を考えてみることは、非常に重要である。

とりわけ、倫理問題を考えるとき、私たちはその現場についてよく知らないで、思い込みで何か言ってみたりする。「現場至上主義」に陥らずに、しかし現場で起きていることを元に思考することは、非常に大切だと私は考えている。そのためにこそ、以下のような集会が開かれてよいし、多くの人に関心を持たれてよい。

個人的には、幼少のころから知っている(同郷の)平本歩ちゃん(もう「ちゃん」づけする年でもないか…)が出るということで、関心がある。

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[][]祝婚歌

 友人が結婚式の披露宴で、何か出し物をして欲しいというので、「歌でも歌うか」とネットで検索した。出来る限り、女性蔑視や強制異性愛っぽいものを避けようとすると、ほとんど何も残らない。そして、私の好きな歌はたいてい凶事の最中をうたったもので、「辛いときこそ頑張ろう」みたいな歌詞で使えたものではない。

 参考までに調べていると、吉野弘の「祝婚歌」にあたった。

祝婚歌

二人が睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派すぎないほうがいい/立派すぎることは/長持ちしないことだと気付いているほうがいい/完璧をめざさないほうがいい/完璧なんて不自然なことだとうそぶいているほうがいい/二人のうちどちらかが/ふざけているほうがいい/ずっこけているほうがいい/互いに非難することがあっても/非難できる資格が自分にあったかどうか/あとで/疑わしくなるほうがいい/正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つきやすいものだと/気付いているほうがいい/立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には/色目を使わず/ゆったり ゆたかに/光を浴びているほうがいい/健康で 風に吹かれながら/生きていることのなつかしさに/ふと 胸が熱くなる/そんな日があってもいい/そして/なぜ胸が熱くなるのか/黙っていても/二人にはわかるのであってほしい

吉野弘『贈るうた』(10〜12頁)

これはどうなのだろう?私は読んでいて、ぐったりしたけれど、世の新郎新婦は詠まれてうれしい内容なんだろうか?

 私は、結婚相手には無理な緊張に色目を使いまくって、立派で正しくあろうと空回りして欲しいと、心底思う。そして、私もそうありたいと思う。さらに、胸が熱くなったなら、ちゃんと言葉で伝えて欲しいし、黙っていて伝わったはずと思い込まないで欲しい。光ばっかり浴びてたら干からびるので、たまには冷水も浴びせて欲しい。それで長持ちしないのなら、それだけの縁だと思う。

 結婚式は本当に難しい。自分が理想とする結婚生活ではなく、結婚する当事者の理想とする結婚生活を推察しつつ、自分のポリシーに反しない出し物なんて、できるのだろうか…なんとか友人の結婚を祝いたいと思っています。

 

 

贈るうた

贈るうた

*1:いまは代用のメガネをかけている。

2007-08-02

[][][]大東亜戦争と「思想」

『思想』8月号は、「思想第1000号記念特集」を組んでいる。総目次がすごい分量だが、これは思想史家にとっては役立つ資料となるだろう。

谷川徹三による回想的エッセイ「『思想』の一七年 −昭和四年から昭和二〇年まで」が資料として採録されている。読んでいると、昭和一七年六月が「大東亜戦争」特輯を組んでいるらしい。

一七年六月には特輯「大東亜戦争」を出した。これは僅かに六十二頁のもので、その目次は次の如くである。

高坂正顕 大東亜戦と世界観

飯倉亀太郎 国家と戦争

平野義太郎 諸民族統治・指導の原理

班目文雄 大東亜の国境理論

岩村忍 亜欧大陸諸民族活動の方向についての史的考察

江澤譲爾 生活空間と国防空間

大熊信行 われわれの問題

(66頁)

内容は一切論評されていない。この特輯は、ちょっと読んでみたい気がする。谷川徹三哲学者京大哲学科卒、法政大学総長。宮沢賢治研究者。長男は俊太郎である。

[][]参院選総括

 政治学徒のかみぽこさんのサイトは、時々訪問させていただいている。参院選の総括がアップされました。

参院選総括(前編):自民党を崩した史上最強の野党。 | かみぽこぽこ。 - 楽天ブログ

2007-08-01

[][]岩波書店の新刊(8月)

 新刊情報が出ています。哲学関連では、マーティン・ジェイ『アドルノ』が現代文庫に収録されてます。

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