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2007-09-30

[][][]『クィアって何?ー学会立ち上げプレトークー』

 東京で、クィア学会設立前に、イベントがあるそうです。場所は新宿のパフスペース(http://www.pafspace.com/pafspace/index.html)です。(追記:イベント情報を修正しました。2007/10/01)

クィアって何?ー学会立ち上げプレトークー』

10月27日のクィア学会の設立大会にあわせ、プレイベントを行います!

90年代のLG/クィア・スタディーズ「ブーム」から現在にいたる歴史を振り返りながら、

学会設立の呼びかけ人でもあるクレア・マリィ、堀江有里、石田仁が、

それぞれにとって「クィア」って何なのか、なぜ今「クィア学会」を立ち上げようとしているのか、

その背景と心境とを語ります。

クィア学会立ち上げって言うけど、

クィアってそもそも何よ?と思っている方、

今更クィア?と思っている方、

セクマイ学会ってこと?と思っている方、

そもそもなんで学会?と思っている方、

学会に言いたいこと、聞きたいことはあるけれど、

いきなり大会で言うのはちょっとね、という方、

トークの後はフロアの皆さんと御一緒に

ディスカッションもあります。

どうぞお友達とお誘いあわせの上、

気軽に御参加ください。

[日時]10月14日(日) 13:00-16:00

[場所]PA/F スペース

地下鉄東西線早稲田駅下車、馬場下口(2or3b)より2分

馬場下町交差点を文学部の方向(左)に曲がり3軒目のビル

場所:http://www.pafspace.com/pafspace/riyou/riyou-3.html

[スピーカー]

クレア・マリィ、堀江有里、石田仁

清水晶子(司会)

[入場料]

1000円(w/1d)

[お問い合わせ]

pafspace@pafspace.com

03-3207-0856

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[][][]こういうのをバックラッシュと呼ぶのだろうか

 私は、あまりバックラッシュ陣営とは絡むつもりはなかったのだけれど、ちょっと、「あんまりだ」と思ったので書いておく。(でも、すさまじくどうでもいいことなので、閉じておく)

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[][]町田宗鳳・島薗進編『人間改造論』

ここのところkanjinaiさんも論文を書かれているが、「人間の能力や寿命を押し広げる技術をどのように評価すべきか」といういわゆるエンハンスメントの問題がある。これは、このところのエンハンスメントに関する議論について、書籍の形で日本人研究者がこのテーマを扱う、恐らくは最初に近い本であろう。

出版社のページ

興味深いのは、こうした本が生命倫理からではなく、宗教学文化人類学からアプローチされていることである。私自身、各論者の意見にそれぞれ全く賛成というわけでもないし、論理的に飛躍していると感じた論文もある。しかし、生命のありようを文明論的視座で語った、研究の第一歩としてこの出版を喜びたい。議論はここから始まる、そのような感じの本である。

[][]加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』と日本の生命倫理

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

明治学院大学の社会学者である加藤秀一の新刊が出た。「生命倫理」というパラダイムを脱出することを目指そうとしているように見える重要書である。タイトルの「個からはじめる」というのは、加藤によれば、「個人」や「自己決定」を不動の真理とするのではなく、かといって「自他合一」「関係性」に淫するのでもない道のことを言う。

そうではなくて、「個」にあくまでも定位しながら同時にそれを疑うこと、たとえば「自己決定権」という概念に「他者」や「関係性」を対置するのではなく、その射程を内在的に考察することを通じてその限界を明らかにすることである。(5頁)

内容は、脳死、パーソン論、中絶、ロングフル・ライフ訴訟などなど。これからきちんと読みたいが、パラパラっと見た印象では、私の『生命学に何ができるか』の議論射程とかなり重なったところを論じているという感じ。それにしては、↑の本への言及や引用が見当たらないのが不思議ではあった。と思ってパラパラ見ていたら、註のところに、「なお、森岡のこの本は、本書で言及する諸問題にかんする参考文献として最上位に置かれるべき必読書である」(227頁)と書かれてあった。だったら、大庭氏や井上氏のように本文にがんがん引用して批判してくれー、と言いそうになったのであった。

いずれにせよ、日本の生命倫理は、加藤の本も含めて、英語圏にはない独自の路線を歩み始めていることは明らかなように見える。それは、一部の人たちが切望するような、「東アジア独自の倫理を!」というようなものとは違ったものとして姿を現わしつつあるように私には見える。

2007-09-29

[][][]加害者の家族・被害者の家族

 死刑に関する本が紹介されているので、私は次を挙げておく。

癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち

癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち

注目される機会も増えているので、ご存知の方も多いかもしれない。

 坂上さんが取材しているのは、アメリカの死刑囚の家族と、犯罪被害者が、同じバスに乗って死刑廃止運動をする、という団体である。詳しい内容は、ぜひ読んでいただきたいが、必ずしも上手くいっていることばかり書かれているわけではない。また、この取り組みを美化して、犯罪被害者の家族に、これを理想像として押し付けてはならない。その上で、ときに、「被害者の気持ちを考えろ」「遺族の気持ちを考えろ」と言いたい気持ちに駆られる、第三者の私たちは読むべき本である。

 犯罪被害者の家族が、「加害者を殺してくれ」という気持ちは、素朴に私たちに理解しやすい感情かもしれない。「私も、そう思うんじゃないなろうか」と想像できそうだ。しかし、直接の加害者ではないとはいえ、死刑に値する犯罪をおかした加害者の家族と、抱き合って気持ちをわかちあい、共に死刑廃止運動を推進していく犯罪被害者の家族の気持ちは、想像しにくい。

 さまざまな犯罪被害者の家族がいるだろう。「あなたなんて本当の犯罪被害者の家族ではない!」と言いたくなる家族もいるかもしれない。「こんな犯罪被害者の家族は、レアケースだから除外すべきだ」と言いたくなる家族もいるかもしれない。でも、丁寧に追っていったほうが良い。その中で、私たちは、自分が犯罪被害者の家族に、あって欲しい理想像を押し付けている自分を発見するかもしれない。

 せいぜい、私たちにわかるのは、犯罪被害者の家族というのは、驚くほど多様でひとくくりにはできない、ということだろう。しかし、それでも私たちは、犯罪被害者の家族について、論じていくことになるだろう。それは、「犯罪被害者の家族として」、ではなく、「社会を運営する一員の一人として」*1第三者が死刑や司法制度について考えるときに、念頭においておくべき問題である。どんなにインタビューや、書籍を読もうとも、私たちは犯罪被害者の家族(当事者)にはなれないし、なる必要もない。そして、当事者の気持ちを代弁することもできない。まず、そこからだろう。

 坂上さんは「ライファーズ」という映画もとっている。こちらは修復的司法の要素を取り入れた、アメリカの刑務所内でのプログラムなどを紹介した作品である。DVDが出ていないようで、残念だ。こちらも賛否両論だが、もう少し広く知られて良いように思う。

*1:簡潔に言えば「市民として」ということである。

2007-09-28

[][]死刑執行人の苦悩

 kanjinai さんのエントリーを読んで、いくつか気づいたことがある。

 引用されているヤフーのアンケートサイトであるが、

 鳩山邦夫氏が法相退任会見の中で、「法相が絡まなくても、死刑執行が自動的に進む方法があれば」と発言。この案に賛成? 反対?

http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=1304&wv=1&typeFlag=1

 この設問にはひっかかりを感じる。

 「死刑執行が自動的に進む方法」というが、鳩山さんが問題視する刑事訴訟法・第475条を改正したとしても、決して死刑執行は「自動的」には進まないと思われるからだ。

 死刑制度は、刑務所で死刑囚の絶命に関わる人、つまり、死刑執行を業務とする刑務官を必要とする。死刑にどのような手法を用いるにせよ、他者の絶命に直接に手をくだす人間の意志が介在しなければ、死刑制度は成り立たない。その意味で、死刑が自動的に進むことはない。

死刑執行人の苦悩 (角川文庫)

死刑執行人の苦悩 (角川文庫)

死刑執行人の苦悩

死刑執行人の苦悩

 本書は、死刑執行の業務に携わる刑務官に取材した本である。法が正当化するとはいえ、死刑執行は刑務官とその家族に心の傷を与える。死刑制度には、誰かに死刑執行という役回りを押しつける側面がある。鳩山さんもアンケートの設問者も、その点を忘れているのではないかという疑問を抱いた。

参考

死刑の現場とは : A Tree at ease

死刑を執行したら、執行する人は「人を殺してしまった」という... - Yahoo!知恵袋

愚慫空論 理由なき殺人

2007-09-27

[][]死刑・戦争・差別

kanjinaiさんの死刑廃止のアンケート調査に関する投稿に関連して、いまアムネスティ・インターナショナル日本よりイベントの通知のハガキがきていた。私は所用があって行けないが、いちおうご紹介。

同じ内容のPDF形式ファイルがウェブに出ています。→こちら

2007年 世界死刑廃止デー 特別企画

「日本はなぜ死刑を廃止できないのか?死刑・戦争・差別、その根底にあるもの」

日 時:2007 年10月14日(日)午後6時〜8時(予定)

  (午後5時40分開場)

場 所:アピオ大阪 3階 301号室

大阪市中央区森ノ宮中央1−17−5

TEL:06-6941-6331

■交通/JR 環状線又は地下鉄中央線・長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」下車すぐ。

日生球場跡東側。

参加費:1000円

申込み:不要

問合せ:アムネスティ大阪事務所(TEL:06-4395-1313)

E メール:shihaiamnesty@yahoo.co.jp

URL:http://www.amnesty.or.jp/

2007-09-26

[][][]浅野素女「フランス父親事情」

フランス父親事情

フランス父親事情

 フランスに住む女性が、フランスの男性にインタビューを行い、それをエッセイ風にまとめている本である。浅野さんは、父親について考える事は、母親について考える事でもある、という。浅野さんは、母親だけの育児が、閉じた母子関係につながっていくことに警鐘を鳴らしている。母親の愛情が深いだけに、愛情は自己愛に変質しやすく、ときに子どもを支配する暴力になることを指摘する。その母子関係へ介入する他者として、父親が求められているのだ、と浅野さんはいう。

 この本では、なにより、フランスの父親たちのエピソードが面白い。ある産院では、父親学級が開かれる。その中には、男性のみのグループミーティングのプログラムが準備されている。男性の産科医のファシリテートのもとで、率直に「血を見るのが怖い」「妻の苦しむ声を聞くのが怖い」と不安が語られる。ミーティングの最後には、出産のときの、女性の体が経験する痛みは避けられないだろうが、男性はそれを共に乗り越えていけるのだ、というビジョンが提供される。浅野さんは次のように考察する。

 出産が女性にとってたいへんなのはもちろんだが、大部分の父親にとっても、出産は女性とちがった意味で痛みを伴う残酷な経験なのだ。出産に立ち会って、気分が悪くなり、別室で寝かされることになる男性は意外と多い。女性の苦しみを前にして、自分はその苦しみを分かち合えないという罪悪感から、二番目の子どもはいらないと思ってしまう男性もいる。出産の時、なるべくなら下半身麻酔をしないで産みたいと思っている場合でも、女性が求める前に、つき添っている男性の方が麻酔医にSOSを出しに走るケースも多いそうだ。下半身麻酔をしたところで、痛みが魔法のように完全に消えるわけではないし、いずれ、多少の痛みは避けられない。会陰切開の痛み、初めての授乳の痛み……出産は、その前にも後にも、たくさんの痛みを伴う。

 「妻は痛い思いをし、ぼくは苦しんだ」

 ストルック医師の著書の中に登場するある男性の端的な言葉だ。

(38ページ)

 また、妻から妊娠の報せを聞いた男性の語りはこう描かれる。

 会社帰り、すらりとした長身をスーツに包んだパスカルは、なるほど、どことなくダンサーのエレガントな雰囲気を漂わせている。パリの東、ナシオン広場に面したカフェのテーブルの向こうで、彼は頬を少し紅潮させて言い淀んだ。

「マリから妊娠したと聞いた瞬間、なんていうか……、男の本能のエネルギーみたいなものが、わーっと腹の底から湧き上がってきたんだ。自分を男だって、あれほど強く感じた瞬間はなかった。自分の反応に、自分で驚いたくらいだよ。」

 パスカルの真摯な証言には心を打つものがあった。おそらくパスカルは、妻の妊娠を知らされて、ほとんど性的な興奮を覚えたのだろう。それは雄叫びにも似た、男という性を持つものが究極の目的を達成した瞬間の、ほとんど肉体的な反応だったようだ。これに似た証言は、パスカル以外の男性からも幾度か耳にした。

 子どもを持ちたいと望んでいた場合、パートナーの妊娠は、男性にとってひとつの到達点である。男は男の性器を持つから男なのであって、男性性器が勃起する、またはそのような性的興奮がある、そういう反応があるからこそ、男は迷いなく自分を男だと認識することができる。

(164〜165ページ)

浅野さんが探っていくのは、女性と同一化した男性、すなわち、「男性の中の母性愛」ではない。大胆すぎるくらい、浅野さんは男女の性差を区別していく。男性には、女性とは違うかたちでの、子どもを産み育てる事への本能があることを示そうとする。

 浅野さんは、現代フランスが女性優位社会になっている状況に、批判的である。男性が、女性のご機嫌伺いをし、女友達のような恋人役を務めようとする中で、本来の男性性が抑圧されていることを問題にする。浅野さんは、女性と男性が対等な関係を目指す事を当然としながら、それは男性が女性化し、女性が男性化することではない、とする。浅野さんは、次のような女性への批判もしている。

 ある意味では、女性たちも袋小路に入り込んでいるのだ。

「ゲイの友だちといる時が一番ほっとするわ」

モルガン(二七歳、病院勤務)は言う。

 ゲイの男性は、女性の感性に寄り添って話を聞いてくれるからだそうだ。恋愛の対象外だから、気取る必要も飾る必要もない。女にとって、ゲイの友人ほど楽なものはないのだ。でもこれもひとつの逃げではないだろうか。男と女はちがう。そうしたちがいを認め合わずに、ちがいをただ障害と捉え、自分の価値観や世界観に寄り添ってくれる相手しか受け入れないのでは、出口なしの迷路にはまり込むだけ。ちがいを楽しんで手なずけなければ、男女の闘いはどこまでも続くことになるだろう。

(177ページ)

 このような男女の二分化は、批判されることも多いだろう。それを見越しての執筆だったと、浅野さんは、「あとがき」でこう語る。

 ひところジェンダー論議が盛り上がったが、「ちがい」を扱うにはかなりのエネルギーがいる。男と女はもとからちがうなどと言えば、反動的と捉えられかねない。私は進歩的とか反動的とかいう世界の区切り方にはついていけない、あまり政治的ではない人間だ。進歩的名言説をまき散らす人が、実は深いところで反動的だったり、反動的と呼ばれる人の中に、新しい思考法を恐れぬ勇気が見られる場合もある。だから、そうした見方と距離を取る癖が身についてしまっている。そんな私が果たして「ちがい」についてうまく語れるのだろうか。そのあたりが、私に足踏みさせていた原因だったかもしれない。

 おそらく、うまくは語れないし、失敗に終わるかもしれない。だが、うまく語ろうとすること自体が邪道なのだ。私にできる唯一のことは、人々に寄り添い、その日々の逡巡や哀しみ、人間の波の中から立ち上がってくる泡粒のような囁きやため息を掬い取り、そこに時代の流れを感じ取ることなのだろう。それだけでいいとは思わないが、そこからしか始まらない。そう思い切ることで、ようよう書き出すことができた。(226ページ)

私は、この本は非常に勇気のある本と感じた。私にとって、女性が男性に要求するものについての批判は、耳の痛い指摘もあった。子どもは、男と女の間にしか生まれない。その事実から目をそらさない、という姿勢は単純なようで、(特に女性にとって)出産について考えるときには難しいものだ。

 しかし、やはり違和感も残った。精神分析を援用し、父親を「他者」として捉えている。おそらく浅野さんは(男性にあるとされる)「父性」を、母親として振舞う女性の「母性」と対にして、他者の条件にあげているのだろう。しかし、浅野さんは「父性」が男性にしかない、ということは説明していない。この問題ともつながってくるのだが、浅野さんは徹底してトランスジェンダー(さらに言えばインターセクシュアル)についての議論を避けている。意図的か非意図的であるのかは、わからないが、男女は真っ二つに分けられるわけではない、という点を無視したのは、この本の大きな問題だろう。

 ただし、浅野さん自身も、この本で全てが語れるとは言っていない。とにかく私たちは「男と女は違う」と思いがちな世の中を生きており、男と女の間からしか子どもは生まれない。その現実を、もう一度見つめるためには、よい叩き台になる本だと思う。面白かったです。*1

[][][][]日本における修復的司法の導入開始

 web上で、以下のニュースが流れている。

補導少年、被害者と対話 警察庁が来月新制度 反省促す

 警察庁は、万引きや傷害などで補導された少年が、被害者と対面し、自分が犯した行為や動機などについて説明する場を設ける新たな立ち直り支援策を導入する。加害者と被害者が向かい合うことで関係の回復や更生を図る手法は「修復的司法」と呼ばれ、家庭裁判所や少年事件に熱心な弁護士などが採り入れている。警察が正式に導入するのは初めてで、補導された少年に、自らの行為を自覚してもらい、反省と再起を促すのが狙いだ。

http://www.asahi.com/national/update/0926/TKY200709260213.html

前情報を手に入れていなかったので、どういう経緯で導入が決まったのか、全く知らない。修復的司法の本来的性質は、少年事件に絞って導入されるようなものではない。しかし、日本においては、家庭裁判所の調査官や、少年院の関係者、少年事件を扱う弁護士が中心に、修復的司法を紹介していたので、私はこの展開は予想していた。

 それにしても、この新制度は、比較的軽微な犯罪をおかした、加害少年と被害者本人を対面させるもののようだ。もちろん、加害者が罪の意識をもつ、というのは修復的司法でも重要な成果とみなされている。だが、修復的司法に期待される役割は、それだけではないはずだ。

 修復的司法では、二つの成果が目指される。一つは、事件によってもたらされた、肉体的・精神的・経済的なダメージの修復を、修復的司法を通じて模索することである。もう一つは、事件によって混乱した、被害者・加害者とその周辺のコミュニティーの関係性の修復することである。そして、この二つを遂行するプロセスで、当事者の納得のもとに、事件を終結させていく。

 加害者の更正はもちろん目指されるべきではあるが、それだけを成果にかかげるには、修復的司法をあまりにも矮小化させている。また、更正した加害者をいかにコミュニティーが再度受け入れるのか、をさぐることも、修復的司法の中では重要な問題とされている。

 もちろん、新制度が修復的司法の先駆けとして導入される事自体が、悪いわけではないが、これが修復的司法の全てではないことは、改めて確認しておきたい。また、新制度には、修復的司法の根幹である、「赦し」というコンセプトが無視されている。このイデオロギーを抜きに、修復的司法はありえるのだろうか。この新制度については、注意を払っていきたいと思う。

 ついでに、web上で、宮台真司の修復的司法批判を目にした。

1)今時、重罰化を含む応報刑的措置に対抗してコミュニケーションによる回復(修復的司法)を賞揚することが国家権力への対抗(による社会の擁護や弱者の擁護)になるとする勘違いには、仰天しました。アナクロニズム時代錯誤)です。

 むしろ昨今では反動的司法学者が修復的司法を通じた国家の「内面的介入」を擁護し得ることが重大です。被害者が許していないことを理由に罪刑法定主義に違背して永久に閉じ込めておくことを可能にしようとするわけです。教育刑ファシズムの思考伝統に連なります。

 今や素朴な修復的司法の賞揚は反動的であり得ます。因みにフリーター批判からニート批判への変化もまた単なる振舞い批判から内面批判への弧を描き、国家が内面改造に予算と人員を配置することも付言しておきましょう。

宮台真司「明日の思想塾公開講座の参加者に参考資料を緊急にお知らせします」『MIYADAI.con Blog』(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=345

宮台さんが、批判する上野千鶴子の本が、手元に無いので文脈が確認できない。確かに、修復的司法を国家として導入しているケースは、いくつかある。たとえば、ニュージーランドでは、日本と似た形で、少年の更生を目指す趣が強いようだ。しかし、修復的司法は、必ずしも、国家主導で行う必要はない。アメリカのミネソタ大学を拠点にした、アンブライト(有名な修復的司法の実践家)のセンターも、民営だったはずだ。また、フィンランドのように、国家が出資し、あくまでも市民が運営するスタイルをとる場合もある。(ただし、フィンランドの場合は、体制化したという批判が出ている)

 何がともあれ、修復的司法を推進することと、国家の内面的介入を直結させるのは早計だろう。危惧は大事だし、私自身、新制度に対しては不安をもっている。また、多くの国家で内面的介入に結果的になっていることも、予感している。それでも、修復的司法をアナクロニズムと切り捨てるのは、ナンセンスだと思う。

[][]死刑・・私は少数派

鳩山邦夫法相が、死刑法相がサインしなくても自動的に執行されていくようにならないかと述べたとのことだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070925-00000030-mai-soci

発言を読んで、なんとも言えない不快感が・・・。どこが不快とは言えないが、いやーな気持ちになる。私は死刑反対論者である。根拠は「生命学とは何か」でも書いた。

ところで、日本では、死刑賛成が大多数の世論となっている。山口の事件のいきさつもあって、最近はとくに賛成派が増えているようだ。その中で反対を明言するのは完全な少数派であろう。Yahoo!で、杉浦正健法相死刑執行をしなかったことに対するアンケート結果が載っているが、8割が理解できないという判断をしている。

http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=32&wv=1&typeFlag=1

今回の鳩山発言に対してもyahoo!はアンケートをしている。

http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=1304&wv=1&typeFlag=1

一般の世論調査でも、約8割が死刑賛成なので、これが日本人の判断傾向であることは間違いないであろう。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/sikei.htm#死刑についての世論調査

上のアンケート結果にも、無期懲役でもすぐに娑婆に出てくるという意見があるが、それが誤解であることはすでに指摘されている。日本の無期懲役は、ほとんど終身刑に近い。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070526/1180155267

hatena村でも8割が死刑賛成かな。だったら、コメントやブクマも感情的短絡的煽りが8割になるのかな。

いくら少数派であれ、私は死刑反対である。

*1:「父親の復権」が語られるが、林ナントカさんの本とかとは、全然ちがいます。

2007-09-25

[][]身近に迫る地球温暖化

 明日・水曜日のクローズアップ現代です。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

 沖縄・石垣島の大規模なサンゴの白化現象、富士山山頂付近の永久凍土の減少…。地球温暖化の影響が身近に迫っていることをうかがわせる現象が相次いでいる。この夏の猛暑は、温暖化が進んだ時に現れるとされる気象メカニズムによって起きたことも明らかとなった。こうした変化を受け、コメなどの生産者や流通業者では、今後の気温上昇を前提に、新品種の開発や仕入れ先の大幅な見直しなどの対応策をとり始めている。進行する地球温暖化にどう向き合えばよいのか、最新の研究データをもとに考える。

(NO.2467)

2007-09-24

[][]愛すべき右翼

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。

フリーターズフリー』をパラパラと読む。栗田隆子の連載「"ないものとされたもの"これくしょん」を読んでいると、以下のような文章があった。

頭上から聞こえるスピーカーの声。日の丸が車に描かれているから一応右翼といっていいと思う。

「今の世の中、もっと子どもに辛いことを経験させなければいけないんです」

「・・・・・」

「今の世の中はまちがっとるんです」

「・・・・・」

「私も間違っとるかもしれませんが」

「!?」

(298頁)

愛すべき右翼である。

2007-09-23

[][]ビューティー☆ウォーズ

 明日・月曜日のNHKスペシャルです。

NHKスペシャル

2007-09-22

[][]甘い泥

 明日の夜ですが、NHK衛星ハイヴィジョンで、イスラエルのキブツを舞台にした映画が放映されるようです。現代イスラエル映画の放映は珍しいので、紹介しておきます。

http://www.nhk.or.jp/bs/genre/movie.html

2007-09-21

[][]仏教→キリスト教→仏教

畏友、平山朝治氏(筑波大学)から、新しい論文大乗仏教の誕生とキリスト教」(筑波大学経済学論集』第57号(2007年3月)139〜185頁)を送っていただいた。いつもながら破天荒で面白い。

世間の常識では、仏教とキリスト教は、東西の代表的世界宗教で、まったく独立に発展してから、最近、交流もしはじめているらしいということになっているのだろう。だが、宗教学の世界では、もうずいぶん前から、大乗仏教(日本に伝わってきた仏教)の成立に当たって、キリスト教からの多大な影響があったのではないかという学説が現われている。歴史的・地理的に見て、かなり信憑性のある説であり(「ミリンダ王の問い」はギリシア世界とインド世界が交流していた証。福音書ギリシア語で書かれた)、また、大乗仏教キリスト教がけっこう似ているという内容的な面からも、信憑性は高いと思われる。(大乗仏教と原始仏教・南方仏教は、別の宗教かと思われるくらい違っているという見方もできる)。

平山の論文は、いろんな関連資料を駆使しながら、そのセオリーをさらに進めたうえで、そもそもキリスト教の成立それ自体に、原始仏教の影響があったのだと主張するものである。すなわち、キリスト教新約聖書に現われる「言葉logos」は、原始仏教で言う「般若(智恵)」である、と。そして時系列で言えば、

ゴータマ・ブッダの死 400〜500BC

 ↓

イエスの死 30AD頃

 ↓

12使徒の伝道 30AD〜

 ↓

インドへの到来

 ↓

インド仏教からの影響

 ↓

中東世界への逆影響

 ↓

福音書新約聖書)の成立 60〜90AD

 ↓

福音書新約聖書)からの影響による大乗仏教の成立 100AD頃

というわけである。

ほんとうに、このような相互影響のダイナミズムがあったとしたら、それはそれですごく夢のあるすばらしい話だと私は思った。もっとも、仏教、キリスト教、のがちがちの人たちは、すごく嫌がる話だと思うけど・・・。いずれにしても、われわれは、古代世界の思想のダイナミズムをあまりにも知らなすぎるということだろう。

2007-09-20

[][][][]謝罪を受け入れるということ

上祐前代表、河野さんに謝罪 松本サリン事件

 94年にオウム真理教(アーレフに改称)が起こした松本サリン事件をめぐり、教団の上祐史浩前代表らが19日、被害者で第一通報者の河野義行さん(57)と長野県内で初めて面会し、上祐氏が「事件について、教団の外報部長時代にうそを話した。麻原(松本智津夫死刑囚)の教義で迷惑をかけた」などと謝罪したことがわかった。河野さんが20日、報道陣に明らかにした。

http://www.asahi.com/national/update/0920/TKY200709200113.html

詳しい情報がないし、これだけではなんとも言えない部分が多い。

 河野さんは森達也の映画の中でも、謝罪の受け入れを試みてきた。*1今回の謝罪の件では、河野さんは「『謝罪については好意的に受け止めた。私や妻に謝罪することで、気持ちが落ち着くのであればそれでいい』と話した。」と記事(asahi.com)に書かれている。

 私は、謝罪とは、被害者の為にではなく、加害者の為に行われるものだと思っている。河野さんは、「謝罪すること」を許した。このような問題には、慎重になりたい。しかし、看過できないひとつの出来事のように思う。いまだ、オウム真理教の事件は終結していない。*2

*追記:

トラックバック先で、以下のコメントがありました。

加害者に謝罪すること許す、とは、加害者の贖罪を承認すること。しかし、神以外の誰が贖罪を承認できるのか?

shu1「謝罪を受け入れる、ということ」『音楽(だけじゃない)漂流記:日記』(http://d.hatena.ne.jp/shu1/20070921#p2

この点は、私も非常に興味があります。が、私は、「ゆるし」という言葉を「許し」(permission)と「赦し」(forgiveness)にわけて考えています。今回は「許可する」という意味で「許し」という言葉を使いました。よって、私はこの記事から、「和解が遂行された」とは類推していません。(もちろん、二つの両者の「ゆるし」の連関については、丁寧に論じる必要があると思っています。)

 以上、補足でした。

*1:「A」らしいのですが、私は見逃しています。

*2:そして、多くの事件が、「何をもって終結とするのか」という困難な問題を抱えている。

2007-09-19

[][][]「わたしは裁判員!!こうして選ばれるよ\(^o^)/」

 大阪弁護士会が、裁判員制度についてのイベントを行うようです。

法の日記念行事

「わたしは裁判員!!こうして選ばれるよ\(^o^)/」

日  時 2007年10月6日(土)午後1時〜午後5時

場  所 大阪弁護士会館(大阪市北区西天満1−12−5)

入 場 料 無 料

主  催 大阪弁護士会・大阪地方裁判所・大阪地方検察庁

後  援 大阪府、大阪市、堺市、大阪府市長会、大阪府町村長会

お問い合わせ先 大阪弁護士会(TEL 06−6364−1227)

http://www.osakaben.or.jp/web/event/2007/070914.php

「なんだ、このテンション高い顔文字は?」と思い、チラシを手にとりました。「裁判員制度とはどのようなものか」を、模擬裁判を通して紹介するイベントのようです。当日参加者の中から20名が、「裁判員候補者」役に選ばれ、「(模擬)裁判員選任手続き」を行う、とのことです。

 チラシの裏側には、当日、扱う事件がこう書かれています。

老母の介護に疲れた主婦が、こしひもで老母に手をかけ・・・・あなたなら、どう判断する?

横には「今回の事件は介護殺人」と見出しが出ていました。

 少なくとも、このチラシを作った人は、自分が加害者になるとも、被害者になるとも思ったことのない人なのだろうと感じました。そして、「このようなイベントに、切実に興味を持つのは、誰なのか」ということは、考えたことがないのだろうとも。さらに、「このチラシに疑問を持たないのが、大阪弁護士会なのか?」と疑ってしまうほど、軽薄な見出しが多いです。例えば、チラシの右上には、

先着50名様には、中村雅俊監督・主演の裁判員ドラマ「裁判員制度(もしあなたが選ばれたら)」DVDをプレゼント!

と書いてあります。スーパーの卵の特売じゃないんだからさ。

[][][]ヘーゲル『精神現象学

雑誌『理想』679号が、「ヘーゲル『精神現象学』」という特集を組んでいる。『現代思想』も同じ特集を組んでいたし、やっぱりヘーゲルと言えば、この本でしょうというわけか。冒頭にまたしても加藤尚武論文がある。「実体−主体説と実体−主語説」。そのなかに、こういうことが書いてあった。

ヘーゲルのテキストについて、私は次のような特徴を指摘しておいた方がよいのではないかと思う。

 公開を想定していないノートでは、比較的無理のすくない叙述がされている。公刊した書物では、故意に難解な記述をして、意味深長な名文句を残そうとしたり、非常にドラマティックな場面設定をしたりするが、そこで示されたモチーフを持続的に展開していくということをしない。(9頁)

ちょっと面白かったので紹介。これはヘーゲル研究者の共通認識なのかな?

2007-09-18

[][]『世界の貧困問題をいかに解決できるか』

千葉大学と「ほっとけない世界のまずしさ」キャンペーンとホワイトバンドプロジェクトが合同で行なった千葉大学の教養部の講義を、テープ起こししたもの。もうみなさんはホワイトバンドのことはすっかり忘れているかもしれませんね。それをめぐって日本では一悶着あったことも。

この講義録で言われている内容は、とても正しいように思われる。善意と正義に満ちている。と同時に思うのは、こういうメッセージは、こういう運動を「ケッ」とか思っていらいらする人々には、なかなか届かないということかな。「それでもいい、正しいこと、必要なことは続けていくのだ」という態度それ自体に、いらいらする人はけっこういると思う。

最後に大黒摩季のライブがあって、大拍手で終わっている。

この講義を受けたからと言って、学生の行動が大きく変わるわけではないし、世界が変わるわけでもないだろう。ただ、行動が変わってしまう学生がひとりふたり出るかもしれない。10年後にふと影響が現われる学生がいるかもしれない。それらの学生たちが日々の暮らしや社会の活動のなかで、世界全体の構造をちょっとでも変えるために、これから長い時間をかけて何をすることができるかが問われているのだろう。と同時に、この講義を受けても、現状は現状でいいし、それについて偉そうな指図は受けたくないと思う学生も多くいるだろう。めんどうだから考えたくないし、身近な幸せがいちばん大事という学生もいるだろう。ホワイトバンドとか言って目立ってるセレブたち(巨額の募金をしてもそれ自体が宣伝になってまたもうけを得るだろう人たち)への反感もあるだろう。世界の貧困をなくすことよりも、世界の貧困をなくすことについての言説配置や闘争のほうに関心のある人たちもいるだろう。ブックマークを付けることしか関心のない者もいるだろう。錯綜する状況のなかで、とりあえず私はこの善意と正義に満ちた怪しげな動きに、冷めたYESを送りたい。

[][]横塚晃一『母よ!殺すな』・2

16日、17日と京都で障害学会があり、盛況のうちに終わった。以下、学会会場で購入してきた。

母よ!殺すな

母よ!殺すな

脳性マヒ者の障害者団体「青い芝の会」は、知る人ぞ知る団体である。その中でもっとも有名なことばに、「愛と正義を否定する」「問題解決の路を選ばない」というものがある。

だが私は、彼らが少なくとも正義を否定しないし、実際に問題解決しようとしている、と思ってきたし、私が出会った青い芝の会の障害者たちはそうだった*1。今回、この名著『母よ!殺すな』を読んで、強くそれを感じた。映画『さようならCP』の上映討論会で、「愛と正義を否定する」とはどういうことか、という質問を受けての横塚の回答である。

まず愛と正義とはどういうことかというと、正義というのはいわゆる勝てば官軍ということ、勝った方が正義で、正義に対して全く反対のものとして悪がある。悪とは何かといえば負けたほうが悪。それでいわゆる正義である以上勝たねばならない。これは人より強いか弱いか、あるいは生産性が大きい、あるいは小さい、それから多数者対少数者というふうに比べてみれば皆当てはまること。で、我々の存在というのは絶対的少数者である。だから我々はいわゆる正義の側には立てない。西部劇でいえば負ける方のインディアンである。西部劇の正義というのはやっぱり白人の側が正義である。これは日本の歴史ばかりでなく世界の歴史はすべてそうなっている。子供のテレビドラマに出て来る正義の味方月光仮面、あれは正義で絶対に負けたことがない。(pp.169-170)

見事に論理的かつ驚くほど明晰である。ちなみに愛についても横塚はキリスト教の「神の愛」をもちだし、「上から下へ常に一方通行である」ことを批判する。つまり、青い芝の会が言う、健全者の論理としての「正義」というのは、端的に言って「勝った方」なのである。また、少し解釈を入れれば、「勝つことを宿命づけられているとされる側」ともなろうか。私はこの部分を再読し、改めて思ったことは、青い芝の会が批判し糾弾する「正義」なるものは、「9・11以降のアメリカ」に特徴づけられる「正義」だということである。それを、青い芝の会は極めてレトリカルに、逆説的に主張した、と私は考えている。なぜなら、そんなふうに主張せざるを得ないような社会であったし、現在もそのような社会であるからだと私は思っている。

解説を書く立岩真也の文章も一読に値する。「例えばイタリアやフランスの哲学者たちでそんなこと(引用者註・政治哲学や倫理学で「価値」を扱うこと)を主張したいように見える人たちの主張さえもが、どこか中途半端な感じがするのに比べて、単純だが、はっきりしている」(p.419)と述べる*2。青い芝の会の残した思想は、闘いながら(余儀なく闘わざるを得なかったということは忘れるな!)得られたいわば「血まみれの原石」である。ここを拠点にして、1つの思想のストーリーは紡がれていくだろう。

最後に、立岩の以下の言葉を引用して締めよう。

この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時は来ないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、決して悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している。(p.425)

[][]『中学総合的研究英語』はすばらしい本です

中学総合的研究英語

中学総合的研究英語

とある用事で、英会話の基本を勉強するための本を探すことになり、それなら中学校の英語の参考書がいいのではと思って、ジュンク堂に行っていろいろ調べてみたら、この本がダントツによいことがわかりました。発行は2006年だから、新しい本。執筆陣にはネイティヴも参加していて、例文にもヘンなのは見あたらない。かゆいところに手が届くとはこのことで、この本をマスターして、あとは英単語を覚えれば、もう英語での会話に苦労することはないのではないか、と思われるくらいの良書です。しかし、いまの中学生はいいなあ、こんな本で英語を勉強することができて。われわれの頃はひどい参考書しかなかったしね、誰もしゃべってない英語例文ばっかの参考書とか。

今までの学習事典とは一味違う説明で、無味乾燥になりがちな学習を、豊かで知的興奮がかきたてられるものに変えます。(4頁)

と書かれているが、実際、日本語による文法の説明はツボを押さえていて、面白いです。中学生向けというよりも、むしろ、大人向けじゃないかという感もある。

この本、海外旅行を控えた大人や、大学院受験を控えた学生が、もういちど英語を復習するにも最適じゃないだろうか。英会話本を買って勉強し直すよりも、こっちのほうが断然良いと思います。当然ながら、書店では中学参考書の棚に並んでますが、これは一般の英語学習コーナーにも並べるべきです。このブログ見ている書店員さんがいたら、ぜひ、試みてみてください。的確なポップ付けたら、きっと売れるよ。

*1:私が出会ったのは90年代はじめだから、時代の違いはあるかもしれない。

*2:立岩は明示していないが、アントニオ・ネグリやヴァン・パレイスを念頭に置いているように思える。

2007-09-17

[][]ネグリ・ハート『帝国』無料PDF

ネグリとハートの『帝国』(Michael Hardt and Antonio Negri, Empire, Harvard University Press, 2000)の、無料PDFがネットにアップされている。

http://www.infoshop.org/texts/empire.pdf

ダウンロードしてみたが、ハーバード大学出版のものと同一の版下のように見える。誰がどういう権限でアップしたのか分からないが、これもマルティテュード運動のための仕掛けということなのだろうか?(親サイトは、アナーキズムのサイトらしい)。いずれにせよ、ただで読めるというのはよいことである。刊行して一定期間がすぎたら、ただでPDF公開という慣習ができあがっていくとよいなと思う。

2007-09-16

[][][]フェミニズムのパフォーマンス

 「館長雇止め」裁判の判決が出たようだ。「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷ」で館長を務めていた三井マリ子が、原告となっている。提訴の内容は、原告によれば次のものである。

 三井さんは、2000年に、「すてっぷ」の初代館長募集に応募した。採用され、非常勤で館長として週22.5時間働いていた。ところが、2004年、とよなか市が組織強化の理由に、館長を常勤職とするために、再び採用試験をおこなうと決めた。三井さんは応募を認められたものの、不合格となった。しかし、三井さんが試験を受ける2ヶ月前に、次期館長はうちうちに決定されていた。その結果、三井さんは館長の職を追われた。三井さんは、自分の処遇には、二つの理由があるという。一つは、「すてっぷ」や三井さん個人への、一部勢力の嫌がらせ行為が増えており、それらに対して、市側が対峙するのではなく、三井さんを排除することで解決しようとしたため。もう一つは、女性の嘱託職員の雇用条件変更に対し、三井さんが抵抗することを嫌がったため。三井さんは、これらはバックラッシュである、とした。

*原告の第一回口頭弁論原稿より、私(font-da)がまとめた(http://fightback.fem.jp/genkokukara_teiso.html

 多くのフェミニストが「バックラッシュと闘う」というスローガンのもと、裁判支援を行っていた。三井さんの後に館長に就任した桂容子を、証人として呼ぶための行動など、積極的に動いていたようだ。(実現された)私も、フェミニズム系の団体の通信ペーパーを通して、目にすることがあった。判決は、請求棄却と、訴訟費用は原告側の負担とされた。三井さんを支援する「ファイトバックの会」は、不当判決と声明を出している。(この裁判の支援活動に対しては、macskaさんが痛烈に批判している。http://macska.org/article/200

 どう考えたらよいのだろうか、と思ったら衝撃の映像を見てしまった。chikiさんが、記事で紹介している。(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070915/p2

 じ、時代が止まっている!!確かに、リブの人たち(田中美津とか)は替え歌が大好きだ。*1演説ではなく、もっとパフォーマンスを取り入れよう、というのはリブのいいところではあった。「ミューズカル(女の解放)」のビデオ上映会にいっても、「よく、こんなのやったもんだ」と思うくらい、面白い。(寺山修司が、小屋を提供したのもわかる。)ただし、それは、当時の時代情勢を考えると、という話である。パフォーマンスは、「いま・ここ」でしか生み出せないものがあることが重要なのだ。その場限りである、ということを考慮に入れると、何をするかは難しい。

 上の映像をみて、揶揄するのは簡単である。私も、正直、ドン引きする。しかし、なにであれば、有効なパフォーマンスとなりえるのだろうか?*2迎合することもなく、新しいパフォーマンスを生み出すのは本当に難しい。フェミニズムに限った話ではない。小泉元首相はパフォーマンス政治と呼ばれながらも、高い支持率を維持した。小泉さんと阿部さんの違いは、パフォーマンスの上手い下手なのだろうか。*3こう考えてくると、現代の私たちが、パフォーマンスをどう捉えているのかみえてきて面白い。

*1:そういえば、「サバイバーフェミニズム」の高橋りりすも講演会で歌っていた。でも、高橋さんはパフォーマーなので、歌も上手いし、歌詞の作りも気が利いているので、本当に面白かった

*2:ニコニコ動画で、組曲の替え歌でもやれば良かったか?

*3:阿部さんのしゃべり方の覇気のなさを、支持しない理由に挙げる人は、ワイドショーなんかでよく出てくる

2007-09-15

[][]エヴァンゲリオンはつまらん映画でした

昨日、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」を映画館で見てきました。以下、個人的見解。

結論から言うと、とてもつまらない映画でした。思わせぶりな冒頭シーンから、テレビ版のつぎはぎが延々続くという話で、ところどころ新たなシーンがこれまた思わせぶりに入っているだけ。ヤシマ作戦が、装備など細かく描き直されてはいるものの、ゴジラのパクリという枠を超えることはできず、それが終わったら、「つづく」ってなんなのか。次回が「破」だそうで、そのあとがきっと「急」なんでしょう。はあ・・・。テレビ版およびこれまでの劇場版ではあったドラマツルギーが存在せず、映画っぽいものはあっても、「映画」がないという、見せ物でした。「まごころを、君に」では、映画館に集まったオタク客たちに向かって、現実に戻れというお説教をしたはずなのに、それから10年後の庵野は自分がふたたびアニメ世界に戻って、ファンダムにしか通用しない映画もどきを作ったということを、どう考えればいい?っていう話だろう。

あと、続編を作るとき(とくに10年後に、とか)に、こうなってはいけないという他山の石として、心に刻むという意味では、観る価値があったと思われました。

2007-09-14

[][][]医療社会学専門家の権力

font-daさんの「定塚 甫「医者になる前に読む本――『診る人・診られる人へ』」」に関連して。kanjinaiさんの「トランスヒューマニズムの生命倫理」にもすこしだけ関連。

医療専門職が、医学という知識を持ち、医療者集団としての医師会を構成することによって、医師―患者間の権力性を保持してきたというのは、医療社会学の基礎である。次の本に詳しい。

医療と専門家支配

医療と専門家支配

原著はこちら。

ただ、フリードソンは、この本が邦訳された以前、すなわち80年代以降から、その主張を変えてきている。

Profession of Medicine: A Study of the Sociology of Applied Knowledge

Profession of Medicine: A Study of the Sociology of Applied Knowledge

Professionalism Reborn: Theory, Prophecy and Policy

Professionalism Reborn: Theory, Prophecy and Policy

Professionalism: The 3rd Logic

Professionalism: The 3rd Logic

フリードソンは、専門職批判から、「専門職はいかなる倫理性を有すべきか」という具合にトーンを変えてきている。これは、私には妥当なように思える。すなわち、専門性という権力の廃棄ではなく、専門家として行使すべき権力とは何か、を考えているように思うのである。

これまた大風呂敷な話で恐縮だが、言語実践や異なった身体がうごめく中にあって、権力は不可避なものである。それをなるべく極小にしようとすることは意味があるが、かといって全廃することは困難である。だとすれば、医療者の権力を、いかに患者側につけるのかということもまた目指されてよいはずだ。そして、その責任は、患者にあるわけでもない。私たちそれぞれが、考えるべきことではないのか。

[][]効率性の位置

eireneさんご紹介の「金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット(四夜連続)」を(3回目、4回目と)見た。金子さんのフィールドワークが(こういう言い方をするのはよくないかもしれない、不謹慎かもしれないが)面白かった。

ただ、4回目を見ていると、どうも金子さん自身が、効率性の置かれるべき位置について、揺らいでいるかなという印象を持った。番組の前半では「病院を閉鎖することは効率的だ」と言いながらも、後半では「病院経営の中で効率性というものは考えられてよい」と言っていた。

金子さん自身、「人が大切にされるための経済」を考えておられ、私もそれに異論はまったくない。ただし、番組を見ていると、どうもそのことと、「効率性」の概念とが、敵対しているような印象受けた人もいるのではないか。そういう構成だったように思う。

「効率性」というものは、それ自身価値判断ができないものとしてある。いわば「触媒」や「潤滑油」のようなものである。価値判断の問題としてあるのは、「人が大切にされる経済」を選ぶのか、「人をぞんざいにする経済」を選ぶのか、にある。そのそれぞれに対して、効率/非効率ということが考えられるのである。その限りにおいて、効率性の問題と、価値判断の問題とは分けられるべきなのである。だから、よく言われるように、「効率か公正か」というのは、問題の立て方が間違っている。「小さな政府か、大きな政府か」というのも然り、である。

「人を大切にする経済」において、地域の病院を閉鎖することは非効率なことであり、「人をぞんざいにする経済」においては、それは効率的なことである、それだけである。大切なことは、効率性を「いかなる目標に向かって」使うかということであり、効率性を棄却することではない。

[][]筑摩書房の新刊(10月)

 10月の新刊案内です。哲学書では、廣松渉『事的世界観への前哨』が文庫化されます。

http://www.chikumashobo.co.jp/comingbook/

2007-09-13

[][]不毛なセックス

 先日、ある議論の場*1でセックスの話になった。ヘテロ女子同士の会話で、「セックスって、不毛じゃない?」という話になった。

 付き合い始めたときには、新鮮でセックスにのめりこむこともできる。しかし、長く同じ相手とセックスしていると、セックスの間中、意識を集中することができなくなる。そこで、想像力をめいいっぱい働かせて、「今、私はこういう状況にある」と妄想することによって欲情する。要するに、目の前の男のことは、見ないようにしながら、刺激だけを受け取ろうとする。そうすると、いちいち注文をつけないといけない生身の男よりは、自分で刺激を調整するほうが楽でいい。よって、オナニーのほうが楽でいい。でも、お付き合いがあるので、セックスするんだけど、「なんか、そのときのセックスって、不毛だよね」という話になった。

 でも、こういうことを言うと、「本当のセックスの良さを知らないからだ」「慣れてないからだ」「トラウマがあるんじゃないの?」…そして「女性として未成熟」「俺が教えてやる」*2とか書いてるだけで凹む言葉を、真顔で言われがちなので、普段は黙っている。だから、以下の記事には大きく頷いた。

 一般論としても「セックスしなくて何が悪いの?」って思うんです、わたしは。それは別段Aセクシュアルの人たちだけを想定しているわけではなくて(もちろん想定してはいるけれども)、より広く、「したくないときに/したくない相手とはしなくていい」っていうのは、性別や性的指向を問わず、すべての人にあてはまる、っていうことなんだけれども。まあこれが「純潔教育」とか言ってる人たちと共振してしまうのは違うと思うし*1、だからそこでは「したいときに/したい相手とセックスする自由」とセットなんだ*2ということは常に強調したほうがいいとは思うのだけれど、でもとにかく「してない」ことがことさらに異常みたいに語られるっていうのは絶対に違うだろうと思います。

mimi246「セックスしなくて何が悪い、という話 」『mimi246の人生七転び八起き』(http://d.hatena.ne.jp/mimi246/20070911#1189501599

以前にも書いたけれど、女子がセックスしたい、ということを貶める文言にはもちろん抵抗する。同時に、「しない/してない」ことを貶める文言にもやっぱり抵抗する。それは、何も言うな、というわけではなく、「あなたの知ってるセックスの範囲なんて、たいして広くないのよ」ということ。何人とセックスしようと、個別のセックスの経験から、セックス全体を直結することなんてできない。でも、セックスが(多くの場合)あまりにも少数の人間の、閉じられた場所で行われるから、そのほかの多数の人と共有することが難しい。

 では、セックスについて、私たちは何を語るべきなんだろうか。私は、とりあえずは、セックスと、セックス以外の行為のどこが違うのかを語ればいいのではないか、と思う。他者とのコミュニケーションについての議論の集積は山のようにある。それは、セックスを語るときに役に立つのだろうか。

 あまり大掛かりな議論はできないので、ちょっとした話を考えてみた。冒頭に書いた、「不毛なセックス」の話だ。mojimojiさんが「不毛さについて」とぴったりな記事を書いている。

 体験的に思うことはある。一つ。不毛なやり取りから学びうることは、建設的だといわれるようなやり取りの中では大抵発見できない。一つ。そのようなところから学びえたことからすれば、一体僕たちが何を建設的だと考えているのかは一層反省的に考え直されるべきことだと思えるようになる。

mojimoji「不毛さについて」『モジモジ君の日記。みたいな。』(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070910/p1#seemore)

これは、セックスにも当てはまるだろう。「不毛なセックス」だから、「もう、やめたい」と思う私や、話をしていた女子は、目の前の相手とセックスがしたいと思っている。想像の中の、妄想に欲情するのではなく、「この男」とセックスすることを望んでいる。「不毛なセックス」は、それらの「このセックスより、あのセックスがいい」という価値観がどこから来ているのかを吟味するきっかけにはなるだろう。そして、mojimojiさんが記事の中で論じている、「不毛/不毛でない」の境界線の引くことは、できないという結論に落ち着くかもしれない。しかし、問題はmojimojiさんが続けて述べていることである。

 言うまでもなく、人生は短く、時間は限られているから、すべての可能なやり取りを実際に行なうことはできない。取捨選択はする。できるだけ不毛ではないやり取りを、できるだけ建設的なやり取りを、できるだけ目標達成につながるやり取りを、ということを考えないではいられないし、考えるべきだ。しかし、それは基準のすべてではない。根源的なところで、そのやり取りは不毛ではありえないことは確認されていい。その人とやり取りを行なえば、不毛なやり取りにならざるをえない、そのような相手が存在している。そのことを知ることは、そこから考えはじめることは、決して不毛ではなく、むしろ大事な問いである。

(同上)

これは、不毛でないやりとりを経験したあとに、初めて言えることである。おそらく、多くの人々は、セックス以外のコミュニケーションでは、不毛でないやりとりを経験するだろう。ところが、セックスの場合、「不毛でないセックス」を経験できないことが、少なくない。特に、長く付き合う相手と「不毛でないセックス」を経験できない可能性は、(私が最初に見積もっていたより)断然多いようだ。

 なぜなら、(私からみて)「不毛でない」と思うセックスを、他人がしているところに立ち会うことが少ないからだ。セックスを学ぶ場はあまりにも少ない。だから、ポルノをみてセックスの規範を学ぶ。しかし、「ポルノ=良いセックス」だと思い込んだ男子による、性暴力が起きていることも確かである。また、ポルノ女優が「不毛でない」とセックスしながら感じている、と考える女子は少なくなってきているように思う。*3だから、私が「不毛でない」セックスを自力で経験しない限り、そんなものが存在するかどうかも判断できない。他人の「不毛でないやり取り」をみて、真似することで学習することが、難しいのだ。

 セックスが難しいのは、あまりにもそれが個人的な経験であり、そうやって個人的な経験として守りたい、と思う人が多いからである。そして、その個人的な経験にとどめたいと思う価値観も、尊重されなければならないからだ。セックスについて論じることは、考えれば考えるほど、いったい、どこから攻めればよいのか、わからなくなることが多い。

→関連して、「ショートバス」の感想を個人ブログ(http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070913/1189667653)に書きました。

[][][]トランスヒューマニズム生命倫理

Bioethics誌の最新号に、James Wilson, "Transhumanism and Moral Equality," Bioethics 21-8(2007)pp.419-425という論文が掲載されている。「エンハンスメントによってがんがん個人の能力を増強できるようになったら、非常に不正な社会がくる」というフランシス・フクヤマらの批判があるがそれは間違っている、という主張をしている。いくら誰かの能力が増強されるようになっても、非増強人間の基本的平等性は守られるようにできるのだから、その意味での道徳的な問題はないのである、という論調のようだ。

If the argument of this paper is correct, no enhancements we coild make to human beings could do anything to undermine the moral status of the unenhanced. Hence, if the project of human enhancement presents us with a moral problem, it cannot be that it will undermine our status as moral equals. (pp.419-420)

著者は、英国の倫理学者。斜め読みの感想だが、えらい浅い議論のように見える。権力とか支配とかの視点はこの種の生命倫理学には入ってこないんでしょうかねえ・・・・。

[][]タイムマシンは宇宙の扉を開く

 NHK総合、明日の夜11時からの放映です。

エラー|NHKオンライン

*1:わりと、ルールがきっちりき決まった場でした。突っ込んだセックスの話は、自慢話や笑い話になりやすいので、ある程度場の設定が必要です。最低限、セクハラを防ぐための話し合いが大事。

*2:「そんなのお互いの努力が足りない」「そのうちなんとかなるよ」とか、まだまだ続く。

*3:「AVなんてファンタジー」というリテラシーは広まりつつある。

2007-09-12

[][]定塚 甫「医者になる前に読む本――『診る人・診られる人へ』」

 一念発起して、歯医者に行った。インフォームドはあったけれどコンセントはなかった。一方的に情報を並べられて、「じゃあ、こうしますから」っていうのは、インフォームド・コンセントでないんでは??しかし、医者―患者関係では、何もいえず、「はあはあ」と頷いて帰ってきた。

 落ち込んでいたので、医療批判の本を読んでみた。

医者になる前に読む本

医者になる前に読む本

「欧米の先進医療に比べて日本は遅れている」「ゆとり教育に甘やかされた医学生・研修医はダメだ」という主張が中心だった。そして、ご自身が若かりし医学生のころの、思い出話。

 確かに、先端技術至上主義で、機械に頼る医療を批判することは大事だ。人と人との触れ合いも、医療では大事だろう。しかし、「え…」と思うエピソードも多かった。いきなり研修医8人の前で、若い女性患者に全裸になることを命じる医学教授や、診察中に著者の股間をさわる女性患者の話は、読んでいて「もしかして、著者は美談だとして書いてるの??」とついていけなかった。*1くわしく論じるのもなんだが、著者は「医者は男だ」というお気持ちが強い人だということは、よくわかった。

 また、著者は団塊の世代で、学生運動をすばらしき青春時代として振り返る。学生運動家たちは、教官と真剣に議論しあった。ときに正当な主張は、当局を動かすに至った。そして、現在も彼らは著作業や講演会などで、消息を知ることができる。それに比べて、教官に擦り寄ったノンポリ学生は、みんな金儲け主義や、机にかじりついたダメ医者になり、行方知れずだという。*2

 私も、この世代の人に「昔の学生は云々、今の学生はダメだ」というお話をいただくことがある。「では、今のあなたはどうなんですか?」と聞きたくなるけれど、なかなか聞ける状況はない。私は、過去の栄光よりも、そこから転向して今にいたるおじさんたちの魂の遍歴を聞きたい。

 そして、学生運動ではなく、本気運動家な医者もいたなあ、という本を。

精神医療と社会―こころ病む人びとと共に

精神医療と社会―こころ病む人びとと共に


定塚さんが、教官と学費の値上げ闘争をやっていたころ、生存のための闘いをしていた医者もいる。学生運動を否定するつもりはない。むしろ、私は「1968年」を、サブカルのカテゴリーとして愛好している。ただ、同じ医療批判でも、あまりにも意味合いが違う。

 私は、今、必要とされているのは、定塚さんが思い描く医学生ではなく、藤沢さんのような医療システムに疑問を持ち、「既存のあらゆるシステムを超えていこうとする意志」を持つ若者だと思う。つまり、定塚さん(や藤沢さん)を糾弾するような医学生である。医療に限った話ではなく。

 人生いろいろ、医者もいろいろ。患者だーっていろいろ、咲き乱れるわ。

[][][]ドーンセンターで映画の上映会

 関西の、女性センター本拠地といえば「ドーンセンター」。大阪市内にあり、新しい建物で、毎日様々な催し物をやっている。

 今月末に、ニキ・ド・サンファルをテーマにした映画の上映があるようだ。

無料ビデオ上映会「わたしのニキ」

○9/27(木)・29(土)両日とも

  第1回  10:00〜11:30

  第2回  14:00〜15:30

 (※各回の定員15名、先着順の予約制。保育は木曜日のみです)

●上映ビデオ内容

制作:稲邑恭子/ドキュメンタリー/2007年/90分/日本

 造形作家ニキ・ド・サンファルの作品に魅せられた増田静江さんが1994年、栃木県の那須高原にニキ美術館をオープン。ニキの作品だけを集めた世界で唯一の美術館として彼女の名を高めた<射撃絵画>や、友人が妊娠し日々豊満になっていく姿にインスピレーションを得て造られた、豊満で陽気な女像<ナナ>シリーズなどの作品を紹介・所蔵しています。館長である増田静江さんとニキの人生が、映像の中で作品と那須の美しい景色とともに交錯していきます。

http://www.dawncenter.or.jp/kozent/servlet/kouzalst?no=00335

ニキは、フェミニストの中では人気ナンバーワン芸術家なんじゃなかろうか。*3

 他にも「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の女性作品を集めた上映会も企画されている。

女性映像フェスティバル 2007 Part2

山形国際ドキュメンタリー映画祭 女性作品コレクション〜

講座内容 女性映像フェスティバルは、女性監督や女性を描いた作品の上映を通して、女性の視点による映像文化の発展と映像分野への女性の参画を目的として開催しています。

今回は山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)より、中国・インド・台湾・ドイツ・シリアなど、海外の様々な作品を上映します。

●と  き 2007年10月13日(土)・14(日)・16(火)・17(水)

●会  場 ドーンセンター 視聴覚スタジオ(5F)

http://www.dawncenter.or.jp/kozent/servlet/kouzalst?no=00338

もちろん、女性でない人も参加可能。

[][]フィラデルフィア美術館展、ドガ

京都市美術館でやっている「フィラデルフィア美術館展:印象派と20世紀の美術」を見てきました。

http://www.phila2007.jp/

ヨーロッパの印象派から、キュビスム、アメリカ美術まで、教科書に載っているような有名作品がぞろぞろ目の前に展示されていて、あっけにとられるような内容。もしこの美術館に誤爆があったりしたら、ヨーロッパ近代絵画の遺産たちが一瞬にして消滅する。面白かったのは、ルノワールの超名作数点の前は、けっこうみなさん素通りしていたということかな。おそらく日本の美術好きにとって、ルノワールは来日しすぎで、飽きている、ということなのだろうと思う。

個人的にいちばん興味を惹かれたのは、ドガの踊り子の立像をはじめて生で見たこと。Google画像検索で「ドガ 彫刻」を引くとすぐに出てくるので見てほしいが、これはけっこうめずらしい作品だと思う。ブロンズの立像に、布のチュチュを実際に着せていて、髪にも布のリボンを結んでいる。非常にフェティッシュな作品で、オタクの方々には受けるのではないだろうか。顔も東洋人っぽい。ドガの別の面を見たような気がした。タイトルは「14歳の小さな踊り子」。

[][][]坂東眞理子「女性の品格」

 発売直後に、猫殺しの人*4が書いたのかと思ったけれど、別人だったので、印象に残っている。随分売れているようなので、ぱらぱら読んでみた。

いわゆる礼儀・マナーについて説いた本なのだけれど「無料のものをもらわない」という一説があってびっくりした。無駄なものは、溜め込まないようにすべきらしい。私は試供品*5が大好きだ。特に、化粧水やクリームのサンプルは、タンスに入れておいて、旅行の時に持っていく。「もったいない」精神派の人からみると、どうなのでしょうか。

 それから、真面目に批判したい点もある。最後のほうに「権利を振りかざすことは品格に欠ける」というような内容があった。女性の育児休暇や男女雇用機会均等法などは、さまざまな人たちによって作っていただいたものだから、「使って当たり前」ではなく感謝の念をもって、頭を下げて使いましょう、というような内容。社会的にどうこうではなく、個人ではそうしたほうが、スムーズにいきます、というアドバイスになっていた。

 私はこれは、かなり品格に欠ける態度だと思った。育児休暇も男女雇用機会均等法も女たち(ていうかフェミニスト)が、「権利である!」とまさに「権利を振りかざして」勝ち取ってきた。*6それをぬけぬけと使っておいて、自分はスムーズに行くからと、「権利を振りかざす」人を貶めるのは、結果の掠め取りではないか。

 「権利を振りかざす」ことが大切なのは、そうしておかないと、権利なんてすぐに剥奪されてしまうからだ。「正当な権利を行使する」ことは、その権利がその人にとって必要で、保証されるべきだということを、それ以外の人に知らしめる好機になる。そうやって、先人の勝ち取った権利を維持することは大事だ。

 常に、そうやって「権利を振りかざす」ような余裕はない、というのも現実だ。だから、頭を下げて、感謝している素振りでなんとか権利を使うこともあるだろう。しかし、だからといって、「権利を振りかざす」人たちを貶める必要はない。それこそ、自らの好況が、「権利を振りかざす人」によって支えられていることをかえりみるような品格が必要ではないか。

*1:もちろん、文脈があるので、興味がある方は読んでみてください。

*2:素朴に考えれば、人は本質的には変わらないということだろうが。地道に勉強していたノンポリ学生は、今も目立ちはしないが、地道な医療に貢献しているのではないのか?調査に基づく話じゃないので、よくわからんが。

*3:私も大好きです。

*4:こちらは坂東真砂子。猫の不妊手術をめぐる論争の発端となるエッセイを書いた人。私は、これがきっかけで、猫の不妊手術の手技ビデオをみました。結構、衝撃でした。

*5:そういえば、私が東京に行くたびに驚くのは、試供品をたくさんくれることだ。もちろん、関西でも大阪・京都・神戸では配っているのだけれど、東京のほうが断然高いものをくれる。

*6:ただし、男女雇用機会均等法は、フェミニストが望んだとは言い切れない政策。むしろ、均等法は「行政のまやかし」という批判をするフェミニストが多いのだけれど。

2007-09-11

[][]光文社古典新訳文庫(10月)

http://www.kotensinyaku.jp/nextnumber/index.html

O・ヘンリーの短編集と、修道女フアナの手紙だそうです。ヘンリーの短編は、英語の教科書で採り上げられていた記憶があります。ソル・フアナは、オクタビオ・パスの著書が出ていますね。

2007-09-10

[][][]価値判断と学問

この共同ブログを開始してもうすぐ半年経とうとするが(早いなぁ…)、改めてこのブログの趣旨を確認すると、「現代社会における正義・テクノロジー・宗教・性などの「解けにくい結び目」を解きほぐすための情報と議論を提供するものである」。つまり、扱うテーマとしては、主に、正義の問題、科学技術の問題、宗教(性)の問題、性や障害など「異なる身体/精神」を生きる者たちに対する考察、などである。

節操がない、と思われる向きもあるかもしれない。しかし、これらのテーマたちじたいが、私の中ではつながっている。

それは、「私たちが学問をすること」と、「私たちが価値判断をすること」との間のスタンスをどうとるか、という問いに、すでに答えてしまうようなテーマ群であろう、ということである。eireneさん、font-daさん、kanjinaiさんに直接聞いたことはないが、この半年のエントリを見ていると、個々人の中で別様ではあるが、それら二者はつながっている、と見てよいだろう。私もそうである。それがよいかどうか別にして、ブログ主である私たちが「学問をする」すなわち「科学的・整合的であろうとする」とき、それ以前に「ある価値判断をしている」のではないか。

ところで、価値判断、とりわけ政策におけるそれと、学問とを分離しようとした学者がいる。ご存じのとおり、それはマックス・ウェーバーである。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

ウェーバーは、自己の政治的な立場を、学問として教えることに反対する。彼の活躍した時代が、ナチスの勃興してくるワイマール福祉国家だったという制約はあるかもしれない。だが、正確に言えば、彼も政治的立場を持つこと自体に反対しているわけではない。それを教師という特別な位置から生徒に教え込もうとすることに反対している、つまりは、意見の言い合いがほとんど不可能な権力性の磁場の下で、一方的に権力あるものが教え込もうとしていることを批判している、と私は解釈している。

自己の信ずる立場を、遡及的に還元していくと、もうこれ以上還元し得ないところに行きつく。私はそれこそが、「私の宗教性」のようなものだと考えている。そして、そこにこそ超越論的視点がかかわらざるを得ない。そこにおいて、整合的・科学的な体系を構築するのが、理論系の研究者の1つの仕事であると考える。

ただし、「私の宗教性」なるものも、決して不動ではないという直感もある。それは、私の個人的な経験からは、「他者との出会い」によって揺れ動かされてきた。それはもう、「自分で選び取る」というよりは、「否が応にも選び取らされる」という感覚である。ただし、私の中では、そのように可変であるところの、しかし現在は1つであるとしか言いようがない「私の宗教性」のもとで価値判断を行い、それによって整合的・科学的な学問体系を切り開こうとしている。少なくとも私の中では、価値判断と学問、あるいは宗教性と科学は、このように結び付いている。

[][]クィア学会設立大会・東京

クィア学会設立大会が、10月27日(土)に東京で開催されるとのことです。

シンポジウム 「日本におけるクィア・スタディーズの可能性」のお知らせ

日時: 2007年10月27日(土)午後1:30〜4:30

場所: 東京大学駒場キャンパス 18号館

シンポジスト: 沢部ひとみ、砂川秀樹、野宮亜紀、伏見憲明、清水晶子 (敬称略)

司会:河口和也、堀江有里

http://queerjp.org/conf.html

注目ですね。クィアちゃんがサイトの壁紙になってます。クィアちゃん・・・・。

そういえば、以前にこのブログでも話題になった映画『まんこ独り語り(初級編)』を観てきました。予想したよりずいぶん面白かったです。関西のクィア・トランス(っぽい)人たちが多く出演していました。関西ノリだからできたのかなとも思ったり。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070707/1183820839

[][][][]科学と宗教は対立するのか

 日経サイエンス10月号に、大物科学者二人の対談が掲載されているようです。

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 原テキスト(Scientific American 2007.7)

Should Science Speak to Faith? - Scientific American

 まだ未読ですが、ドーキンスの『神は妄想である』は今年邦訳されています。

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

[][]金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット(四夜連続)

 NHK教育・「福祉ネットワーク」では、日本の医療制度の問題点について検証するそうです。

http://www.nhk.or.jp/heart-net/fnet/

[][]シリーズ 911 テロから6年

NHK・BS「世界のドキュメンタリー」の番組枠で、特集があるようです。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/

2007-09-09

[][][]スピリチュアルはなぜ流行るのか

<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)

<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)

 「スピリチュアルスピリチュアリティ」という言葉は、元来は宗教と切り離せない。宗教の教えを学んだり、さまざまな儀礼に参加することで、人間は聖なるものを経験し、他者との絆を確認した。

 ところが、現代の先進各国では、宗教の枠を離れて「スピリチュアル」な事柄を個人の立場で追求する動きが目立ってきた。ジャーナリストの著者は、各種の事例を取材し、ブームの背景に潜む現代日本人の心性を探っていく。

 著者は島薗進さんの『精神世界のゆくえ』など、宗教社会学スピリチュアリティ研究を参照している。考察の視点は次の文章に明らかである。

 スピリチュアル文化が展開した背景には、近代をささえていた「大きな物語」が一九六〇年〜七〇年代から後退していったことがある。それと入れ替わるように、欧米のニューエイジ・日本の精神世界が登場した。一人ひとりにとっての「小さな物語」たちが必要とされる時代が始まったのだ。「宗教」には違和感をもつが、近代合理主義だけを信奉する気にもなれない。そのような人々は、二つのあいだに広がるグレーゾーン、つまりスピリチュアルな世界観にひかれている――。そんな話をした。(p.186)

 伝統的宗教の衰退と〈スピリチュアル〉の流行は、ポストモダン社会の現象とみなされている。

 一例を挙げると、江原啓之ブームへの言及がある。江原さんの著書の発行部数は700万部に及ぶという。私は江原さんについては知識がないが、彼が行うスピリチュアルカウンセリングについては、次のような考察がある。

 この江原ブームも、じつはセラピー文化のなかの一つと位置づけることができるので、ここで見ておこう。……

 「スピリチュアルカウンセリング」には通常のカウンセリングと多くの共通点があると指摘されている(堀江宗正、メディアのなかの「スピリチュアル」『世界』二〇〇六年十二月号、岩波書店)。やや簡単にまとめると、このようになる(括弧内は臨床心理学での用語)。

一、霊視により、相談者は江原氏に急速に信頼をよせる(ラポール=信頼関係の形成)

二、問題の遠因を過去の失敗・喪失・被害にもとめる(トラウマ理論)

三、問題を問題として感じている「ものの見方」そのものを変える(リフレーミング)

四、守護霊を引き合いに出すことで、相談者が孤独ではなく、解決能力を潜在的にもっていることを示す(エンパワーメント

 この章で見てきたように、セラピー文化はかつて「宗教」が果たした役割をしだいに担うようになっている。情報の消費者側から江原現象を考えると、セラピー文化というウェーブ(うねり)があってのブームと位置づけできる。その逆ではない。消費者はメディア(テレビ、本や雑誌、ネット)を通じて語られる江原氏のことばを自分に向けられた個別のものとして引きよせ、読み込んでいく。不特定多数へのメッセージを受けとったあと、思い当たることがらを自分の「小さな物語」に変換するのだ。(p.134-5)

 伝統的な宗教が強力に機能していた時代に「霊的指導者」としての教会の神父・牧師や、お寺の和尚さんが果たしていた役割を、江原さんは担っているということなのだろう。

2007-09-08

[][]一人で産む女たち 生殖ビジネスで母になる

 明日、日曜日の深夜、日本テレビ系列です。

http://www.ntv.co.jp/document/

家族の形が変わろうとしている。受精卵バンク精子バンク卵子提供…生殖医療の進歩により金さえ払えば一人で子供を産める時代がやってきた。東京では30代前半女性の37.6%が未婚。理由は必要性を感じない自由や気楽さを失いたくないなど。けれど40を目前にふと立ち止まる。やっぱり子供は欲しい…その時、結婚ではなく生殖医療を選ぶ女性がいた。精子バンク・卵子提供を利用し、一人で子供を産もうとするアメリカ人と日本人女性に密着した。

2007-09-07

[][]社会学社会福祉学/倫理学

三島亜紀子による書評論文「日本の児童虐待問題に関する研究の10年――社会福祉学の研究者v.s.社会学研究者?」を読んだ。以下の本に所収。

福祉社会学研究〈4〉

福祉社会学研究〈4〉

福祉社会学会という、設立5〜6年の新しい学会がある。三島は、設立趣旨は理解できるとしながら、次のように述べている。

社会学の人」と「社会福祉学の人」との間には深い亀裂があるような印象をもっていた(p.189)

それが端的に現われているのは、児童虐待に関する問題だとしながら、三島はこの「深い亀裂」について次のように述べる。

社会学の人」たちの一部は、児童虐待問題が社会的に構築されたため増加したものと断言する。また何らかの社会変動があったものとし、人々の心性や社会の分析をはじめるかもしれない。いっぽう、「社会福祉学の人」たちの一部は、「社会学の人」たちのそんな客観的な態度が許せない。かわいそうな子どもを見殺しにするのか。そしてより実戦に即した虐待にかかわる調査や、虐待を発見・予防するためのツールの作成、被虐待児や虐待をする親に対するカウンセリングセラピーの手法の確立などに精を出した。(pp.189-190)

以下三島は、本の紹介をしながら、「この10年間で両者は歩み寄ったと表現できるかもしれない」としながらも、やはり「社会福祉学と社会学の「文化」の違いは依然存在するように思えるのも事実だ」と言う(p.195)。そこで三島はこの両者の「異文化」交流による研究の可能性を示唆しながら稿を閉じる。

私見では、この二者の「対立」は、価値判断をどう考えるのかという問題と直結している。すなわち、あらゆる価値判断を学問研究の外におくいわゆる「価値自由」に関わる問題である。つまり、価値の問題を、学問外在的なものととらえるのか、それとも価値の問題込みで内在的な学問を志向しようとするのか、である。ただ、一点だけ指摘しておけば、「価値自由」も、それを選択するという意味においては価値(メタ価値)である。また、価値抜きの学問を志向するとしても、「なぜ児童虐待研究をしようと思ったのか」という動機の部分においては、明らかに「その人の人生においては」価値づけ可能であろう*1

私は実は、両方が可能であると思っている。児童虐待「問題」が、人々の言説実践によって社会的に構築されているのは、新聞報道などで明らかである。他方、その問題の当事者にとっては、「現に肉体的/精神的苦痛がある」わけで、それにコミットしようと思えば、「苦痛を和らげていくための方策」を考究する学問的基盤も必要になってくるだろう。

倫理学もまた、こうした社会福祉学の哲学的部分を担ってきたと言えよう。だから、社会学のこうした構築主義的部分とは、相性が悪かったのではなかろうか。構築主義が明らかにしてきた知見と、その限界を見据えたうえでの社会学社会福祉学/倫理学の結節点の構築が、現在人文系・社会科学系の「最先端」の議論なのかもしれない。

(ちなみに三島さんは、次のような「変な」著書を出しておられる。面白い。「変な」と言ったのは、ほめ言葉です)

児童虐待と動物虐待 (青弓社ライブラリー)

児童虐待と動物虐待 (青弓社ライブラリー)

*1:そして「生命学」はその部分を学問として提示しようとしているところに、そのユニークさがあると私は思っている。

2007-09-06

[][][][]介護におけるジェンダーの問題

 今朝のテレビ番組*1で、男性介護士の問題が取り上げられていた。途中から見たので、詳しい事情はわからないが、50〜60代の女性が、自分の母親が男性介護士に排泄の介助をされていることを、不満として訴えていた。*2母親は老人介護施設に入居中である。施設側への希望を申し入れたところ、人員不足を理由に断られた。*3

 番組では、スタジオのコメンテーターが、自身の親の介護を引き合いに出しながら話し合っていた。「若い男性にしてもらうなんて、申し訳ない」「男性のほうが力があるから、できる仕事もある」「わがままを言ってはいけない」「受けた教育の違いで、恥ずかしさには差がある」「正直、最初は(男性介護士に)抵抗があっても、介助を受けるうちに慣れてしまう」などなど。

 そういえば、男性の介護士についての論文があったと思い、再読した。山根純佳「男性ホームヘルパーの生存戦略 ――社会化されたケアにおけるジェンダー――」(『ソシオロジ』52巻、2007年、91ページ〜106ページ)である。

 山根さんは、男性ヘルパーが、雇用者の偏見により排除されている状況を指摘する。その上で、男性ヘルパーの参入を好意的に受け止めている雇用者の発言から、実際に男性ヘルパーを派遣した結果、拒否していた利用者が受け入れるようになるケースが多いことを報告する。しかし、男性ヘルパーは「少数派」として存在していることも述べられている。*4

 山根さんの論文では、男性ヘルパーを受け入れにくいのは、男性利用者の場合でもありうることを指摘する。山根さんは、男性ヘルパーに聞き取り調査をしており、その語りを紹介しながら、分析する。

 注目したいのは定年退職組の男性ヘルパーが、介護に男性にしかできない仕事があることを強調している点である。六〇代のQさんはこう述べる。「今の社会を中心になってきた年代の男性たちが体を悪くされているときにその時代のことをわかってあげ、同感してあげることは男性でなければできない。女性や若い人では無理です。」彼は企業社会の戦士として男性利用者とのホモソーシャルな関係の重要性を強調する。

 しかし企業社会をとおして獲得された男性的アイデンティティは利用者の側にもあり、それゆえ男性ヘルパーが忌避されることもある。男性利用者から「自分が職場の中で男性を使ってきたので、そういう上下関係を家の中に持ち込まれるのがいやだ」として拒否された男性ヘルパーもいたという。男性同士の関係が必ずうまくいくわけではない。

(101ページ)

これまで、男性介護士よりも、女性介護士が求められる背景には、性別分業制があげられてきた。また、ホックシールドが提起した「感情労働」の問題も、介護産業では指摘されている。しかし、男性利用者と男性介護士の間に、ホモソーシャリティの問題が存在するとは全く気づいていなかった。このことは、団塊世代が年をとっていく中で、浮き彫りになってくるかもしれない。

[][]本や論文が無料で読めるサイト

いままで知らなかったのでちょっと興奮。私的には特にG.E.ムーアの『倫理学原理』、『倫理学』あたりが全文掲載されていてうれしい。他、キャサリン・マッキノン、ヘンリー・シジウィック、J.S.ミル、ハーバート・スペンサーウィトゲンシュタインなどの著書や論文のいくつかが全文公開されている。

Fair Use Repository

http://fair-use.org/

[][][]『思想地図』(仮題)論文公募

 東浩紀北田暁大ペアが、思想誌を共編で出すそうです。

思想地図』(仮題)論文公募のお知らせ

ゼロ年代の思想界を担うのはあなただ!

閉塞する論壇に風穴を開ける、未知の才能を待つ!!

 NHK出版では、批評家の東浩紀氏と社会学者の北田暁大氏の共編で、若手論客論文・批評を収載する思想誌『思想地図』(仮題)を、NHKブックスの別巻として2008年春に創刊いたします。第一号のテーマは「日本」。創刊に際し、通常の依頼原稿のほか公募枠を設け、既成のディシプリンに囚われない清新な視点で「日本」を捉える論文を募集いたします。まずは以下の要領で、論文アブストラクト(要約)をお送りください。

http://www.nhk-book.co.jp/home_files/info/2007/oshirase_15.html

印税も入るし、優秀な論文は単行本化される可能性もあるようです。テーマは「日本語で思考することの意味を問う」と「日本社会論の新たなる可能性に向けて」だそうです。

*1:関西テレビ「痛快エブリデイ!」(http://www.ktv.co.jp/b/everyday/)です。関西限定なので他地方にお住まいだとご存じないかもしれません。桂南光がメインパーソナリティで毎日やっている地域密着型情報番組です。毎週木曜日は「モーレツ!怒りの相談室」という企画。視聴者(怒り主)からの投稿で、番組側が取材して解決案を探ります。関西に住んでると、企業や行政ともめると法的措置の前に、怒り主にファックスしようかなーと思ったりします。私も、近所のクリーニング店ともめたときに、送ろうかと思いました。

*2:母親自身の希望はわからなかった。番組側もそこはスルーらしい。

*3:付言だが、施設側の対応として、「お母さんも(男性介護士の介助で)喜んでますよ」との発言があったらしい。これは明らかにセクハラ。

*4:もちろん、山根さんは、介護職がパート労働化されているため、収入源となりにくい(適切な給与が支払われていない)ことが、性別分業を構造化していることも、後に指摘している。

2007-09-05

[][]仮病で何が悪い

 常野雄次郎さんのエッセイ。朝青龍関をバッシングする報道の背後には、働く者の休息の価値をあまりに低く見積もる日本社会の姿が潜んでいるのではないか、と問題提起されている。8月に書かれた文章ですが、紹介します。

http://www.allneetnippon.jp/2007/08/4_7.html

 参考

お探しのページを表示できません。 - Ameba News [アメーバニュース]

[][][]名乗ったつもりはないけれど

 x0000000000さんの以下の議論を読んだ。

また、<在りよう>の多様性には、語り得ない部分が必ず残るということも、驚くべきではあるが単純な事実である。たとえば、僕は異性愛者であり、男性であり、障害者であり、関西人であり、…*2。だが、僕は「異性愛者+男性+障害者+関西人+…」の総和では言い表せない。言いかえれば、僕はこの集合のうちどれかを代表し、アイデンティファイされ得る存在ではあるが、そうした各存在の総和ではない。必ず、そこからこぼれおちる「言語化し切れない存在」としての部分が残る。だからこそ、アイデンティティと利益/不利益を直につなげる議論は、ときに危うい(「当事者性」の議論を見よ)。

x0000000000「医学モデルか社会モデルか、ではなく」『世界、障害、ジェンダー、倫理☆』(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070904/p1

「私」は、アイデンティティの束ではなく、記述不可能な残余を含む。このような議論は、もっともだと思う。私もまた、「異性愛者+女性+フェミニスト+関西人+…」の総和では言い表せない。

 その上で、私がこだわるのは、それらの肩書きのどれかを名乗らざるを得ない場面があることだ。たとえば、「私はフェミニストです」と名乗らざるを得ない場面に遭遇することがある。私の名乗りたい/名乗りたくないの判断を超えて、気がついたら名乗ってしまうような場面だ。

 それは、たいてい、フェミニズムを否定された場面で起こる。「○○がフェミニズムの限界である」というような話をしている人に対して、「違います。それはフェミニズムの△△の側面の限界であり、□□というフェミニストによって既に指摘され、××のような解決案が提示されています。」と反論する。この状況では、私が、「私はフェミニストです」と言っても言わなくても、フェミニズムにコミットしている、と周囲は受け取るだろう。

 もし、私が男性であれば、以上のシチュエーションでも、フェミニズムに造詣が深いと周囲にみなされうる。なぜなら、多くのフェミニストが、男性のフェミニストの名乗りを否定しているからだ。フェミニズムの排他性によって、男性はフェミニストを名乗るかどうかを留保したままフェミニズムについて語ることができる。しかし、女性ジェンダーを生きる私が、フェミニズムに肯定的にコメントしながら、フェミニストでないという語りをするのは、至難の業だ。*1

 私は、フェミニズムについて肯定的にコメントすることを選んだのであって、フェミニストを名乗ることを選択したわけではない。本来、別々の二つのことがらは、ぴったりくっついてセットで扱われている。これは、フェミニズムについて語るときの立ち位置が、男と女で全然違うことの一つのあらわれである。それは、身体が違うと、同じ言説を語っても意味が異なってくることの、あらわれだともいえる。

*1:上手いやり方を会得している人はいるのでしょうが、今の私には無理です。

2007-09-04

[][]横塚晃一『母よ!殺すな』

いよいよ今月復刊の模様。生活書院から。

http://www.seikatsushoin.com/kinkan/9784903690148.html

日本における障害者解放運動、自立生活運動の内実と方向性を大きく転換させた「青い芝の会」、その実践面・理論面の支柱だった脳性マヒ者、横塚晃一が残した不朽の名著。

1981年すずさわ書店版を底本とし、未収録だった横塚の書き物や発言、映画『さようならCP』シナリオ、追悼文、年表などを大幅に補遺、解説に立岩真也氏を迎え、決定版として、ここに待望の復刊!

「泣きながらでも、親の偏愛をけっ飛ばす」と言い切って自立生活へと向かい、「あってはならない存在」とされることの不合理を身をもって糾し続けて、人々に大きな影響を与えたその思想は、自立の意味が改竄され、市場経済優先主義の中に掠め取られようとする危機にある今こそ、オルタナティブな価値意識の組み替えを目指すテキストとして、読まれなければならない!

若い人、とりわけ若い障害者たちに、青い芝の会はどれだけ知られているのだろうか…。障害者運動の思想は、ここから出発すると言っても過言ではない。福祉制度の貧困な中を戦い続け、「健全者社会」の価値観に真っ向から対抗した彼らの思想は、時代を経た今なお燦然と輝いている。障害者自立支援法や尊厳死法が議論される今だからこそ、再び読まれるべき1冊であろう。

[][]もう刑務所には戻さない〜知的障害者・再犯防止の取り組み〜

今晩のクローズアップ現代です。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

 知的な障害があるにもかかわらず、福祉の支援を受けないまま社会で孤立し、困窮の中で犯罪に走ってしまう人が少なくないことが、全国の刑務所で明らかになってきている。出所しても孤立した状況に変わりがないため、犯罪を繰り返してしまう実状も分ってきた。この春、法務省が全国15の刑務所で調査したところ、知的障害と疑われる人が400人余、調査の前まで、知的障害であると社会的に認知されてはいなく"埋もれていた人"が殆どだった。平成17年度の新規受刑者の4人に1人近くが、一般より知的レベルが低いIQ相当値が69以下、"埋もれていた人"がこの中に多く含まれているのではないかと考えられている。こうした事態を受け、法務省と厚生労働省は、刑務所を出所した知的障害者を福祉施設に紹介する新たな取り組みも試験的に始めている。どうすれば知的障害者を再び犯罪に至らせないように支援してゆけるのか。現状と新たな取り組み、その課題を検証する。

(NO.2459)

 関連記事。

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[][]岩波書店の新刊(9月)

 新刊情報が出ています。哲学関連書も何冊かあります。

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2007-09-03

[][]DAYS JAPAN 9月号

http://www.daysjapan.net/dj/index.html

 フォトジャーナリスト広河隆一さんが責任編集を行っている Days Japan 9月号を読んだ。

 本号の特集は、イラク「人質」の3年。高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんが寄稿されており、事件当時の状況をふりかえりながら、近況を報告されています。

 それから「アダルトビデオの中の犯罪」というレポートが写真つきで掲載されている。これはかなり衝撃的な内容。ネットでも話題になっているらしい(←詳細は雑誌をご覧下さい)。

[][]ヴァンパイアというサブカルチャー

History Channelを見ていると、ヴァンパイア吸血鬼)特集をやっていた。そのなかで面白かったのは、他人の生き血を吸って生き続けていると自称するヴァンパイアのサークルが、ニューヨークにたくさんあるということだ。彼らは、夜な夜なクラブに集い、SMチックなヴァンパイアの祭りを行なっている。ゴスファッションと混合して、不思議なクラブカルチャーっぽくなっている。

ヴァンパイアの人たちもインタビューされていたが、いまでは彼らは他人の血は飲まないらしい。公式には禁じられているそうである。そのかわりに彼らがやっているのは、他人の生命エネルギーを吸い取ることらしい。そういうタイプのヴァンパイアのことを、「サイキックヴァンパイア」と呼ぶそうだ。サイキックヴァンパイアと、彼らに生命エネルギーを与えるドナーが集うのが、アンダーグラウンドヴァンパイア・クラブである。生気エネルギーの測定をしてみると、バンパイアは赤いエネルギーを放出している映像が映るのに対し、ドナーは青いエネルギーが映る。赤は吸収の印だそうだ。モダンヴァンパイアもまた、社会からの中傷を畏れて、公然活動はしていない。だが、今晩もまた、街のどこかの地下室で妖しい男女の祭りが行なわれているということだ。

この報告も参考になる。

Mark Benecke "Vampire Youth Subculture in New York City"

http://www.benecke.com/poiana.html

The Manhattan vampire subculture can be subdivided into (a) psychic vampires who believe that they can transfer psychic energy from other people to themselves, (b) persons who drink (small amounts) of blood, or who suck on the unbitten skin of their donors believing that they can taste the blood anyway, and (c) lifestyles related to S/M (sadomasochistic) behavior. Intermediate forms can be found; some people in the scene may be involved into role play games.

ドイツにも似たようなのがあるらしい。日本ではないんでしょうかね。少女漫画とゲームの中に生息するだけなのか? ゴスにかぶれた人たちのあいだでは、ありそうではある。地下秘密クラブというだけなら、日本にもありそうだけど、ヴァンパイアなどの妖気をそそるアイテムが日本の場合は何になるのだろう。天狗とか?(笑)。

2007-09-02

[][][]精神世界のゆくえ

精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性

精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性

精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動

精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動

 宗教学者島薗進さんの『精神世界のゆくえ』新版(2007年7月、秋山書店刊)を読了した。私は旧版(1996年、東京堂出版刊)を図書館で借り、読み進める途中で新版を購入したが、新版には訂正・加筆がなされ、巻末に索引が追加されている。いまから読む/買うなら、新版を勧めます。

 本書における島薗さんの基本的な主張は、

「新霊性運動」が1970年頃からグローバルに展開した

 というものである。

続きを読む

2007-09-01

[][]福祉社会は自由社会よりも幸福度が高いとは言えない?

APの記事によれば、いま人々の幸福度を測定する研究が、各地で進んでいるとのこと。たとえば、GDPのかわりにGNH(gross national happiness)という指標が提唱されたりしている。

そういうのを各国別に測ってみると、驚くべきことに、福祉国家のほうが、自由主義国家よりもGNHが高い、とは言えない。

Surprisingly, however, citizens are no happier in welfare states, which strive to mitigate the distortions of capitalism than in purer free-market economies.

"In the beginning, I didn't believe my eyes," said Veenhoven of his data. "Icelanders are just as happy as Swedes, yet their country spends half what Sweden does (per capita) on social welfare," he said.

http://www.usatoday.com/news/health/2007-08-25-happiness_N.htm

アイスランドは、スウェーデンに比べて、社会福祉費を半分しか支出していないが、幸福度は両国で同じである、とのことだ。

あとは、こういうことも言えるとのこと。

U.S. researchers have found other underlying factors: married people are more content than singles, but having children does not raise happiness levels; education and IQ seem to have little impact; attractive people are only slightly happier than the unattractive; the elderly — over 65 — are more satisfied with their lives than the young; friendships are crucial.

結婚していたほうがシングルよりも幸福

子どもがいることは幸福度を上げない

教育、IQは関係ない

魅力的な人は、そうでない人より、ほんのちょっと有利なだけ

65歳以上は、若者より人生に満足している

友情(友人がいること)が決定的

だそうな。

こういう心理測定に基づいた社会心理学の話って、どこまで信じればいいんでしょう。