名乗ったつもりはないけれど

 x0000000000さんの以下の議論を読んだ。

また、<在りよう>の多様性には、語り得ない部分が必ず残るということも、驚くべきではあるが単純な事実である。たとえば、僕は異性愛者であり、男性であり、障害者であり、関西人であり、…*2。だが、僕は「異性愛者+男性+障害者+関西人+…」の総和では言い表せない。言いかえれば、僕はこの集合のうちどれかを代表し、アイデンティファイされ得る存在ではあるが、そうした各存在の総和ではない。必ず、そこからこぼれおちる「言語化し切れない存在」としての部分が残る。だからこそ、アイデンティティと利益/不利益を直につなげる議論は、ときに危うい(「当事者性」の議論を見よ)。

x0000000000「医学モデルか社会モデルか、ではなく」『世界、障害、ジェンダー、倫理☆』(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070904/p1

「私」は、アイデンティティの束ではなく、記述不可能な残余を含む。このような議論は、もっともだと思う。私もまた、「異性愛者+女性+フェミニスト+関西人+…」の総和では言い表せない。

 その上で、私がこだわるのは、それらの肩書きのどれかを名乗らざるを得ない場面があることだ。たとえば、「私はフェミニストです」と名乗らざるを得ない場面に遭遇することがある。私の名乗りたい/名乗りたくないの判断を超えて、気がついたら名乗ってしまうような場面だ。
 それは、たいてい、フェミニズムを否定された場面で起こる。「○○がフェミニズムの限界である」というような話をしている人に対して、「違います。それはフェミニズムの△△の側面の限界であり、□□というフェミニストによって既に指摘され、××のような解決案が提示されています。」と反論する。この状況では、私が、「私はフェミニストです」と言っても言わなくても、フェミニズムにコミットしている、と周囲は受け取るだろう。
 もし、私が男性であれば、以上のシチュエーションでも、フェミニズムに造詣が深いと周囲にみなされうる。なぜなら、多くのフェミニストが、男性のフェミニストの名乗りを否定しているからだ。フェミニズムの排他性によって、男性はフェミニストを名乗るかどうかを留保したままフェミニズムについて語ることができる。しかし、女性ジェンダーを生きる私が、フェミニズムに肯定的にコメントしながら、フェミニストでないという語りをするのは、至難の業だ。*1
 私は、フェミニズムについて肯定的にコメントすることを選んだのであって、フェミニストを名乗ることを選択したわけではない。本来、別々の二つのことがらは、ぴったりくっついてセットで扱われている。これは、フェミニズムについて語るときの立ち位置が、男と女で全然違うことの一つのあらわれである。それは、身体が違うと、同じ言説を語っても意味が異なってくることの、あらわれだともいえる。

*1:上手いやり方を会得している人はいるのでしょうが、今の私には無理です。

仮病で何が悪い

 常野雄次郎さんのエッセイ。朝青龍関をバッシングする報道の背後には、働く者の休息の価値をあまりに低く見積もる日本社会の姿が潜んでいるのではないか、と問題提起されている。8月に書かれた文章ですが、紹介します。

http://www.allneetnippon.jp/2007/08/4_7.html

 参考

http://news.ameba.jp/2007/08/6503.php