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2007-10-31

[][][]「働かなくていいよ」って言われてみたい

 kanjinaiさんの記事を読みながら、私の周りの女子は「働かなくていいよ」って、言われてみたい子が多いなあ、と思った。私たちの世代は、フェミ以降なので、女性が働いてもよい、という社会環境で育った。だから、結婚するまでは、腰掛だろうがなんだろうが、働くもんだと思ってきた。そして、不景気で厳しい就職戦線をくぐりぬけ、就職したものの、過重労働で心と体に絶大な負担をおっている。

 小さいときから、いい学校にいって、いい会社に行ったら「一生働ける職場に勤められるのよ」という呪文は、少なくとも私の耳には届いていた。一流企業なら、産休も育児のサポートも万全。総合職だったら、ちゃんと出世もできて、差別なく活躍できる。だから頑張ってきた。

 けれど、実際に働いていると、なかなかそういかず、転職し、派遣の職員になり、ボーナスも福利厚生もない。本当によくできる女性は、働きながら結婚も育児もできるけれど、私は無理。あれって、漫画やドラマの世界のできごとで、現実ってこんなもんよね。

 そういうぼやきを、よく聞く。結婚すれば、一生働かなくていい、なんて幻想はもう壊れているが、せめて2、3年でも専業主婦をして、休みたいという。「女はいいよな。結婚っていう逃げ道があってさ」と、よく男子に言われてきた。私も、最近よくわからなくなってきた。

 働くって、こんな辛いことなんでしたっけ?

[][]あなたの“楽しみ”かなえます〜知的障害者たちが夢見る明日〜

 今日の深夜、フジテレビ系列で放映です。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/f558.html

[][]フリーターとジェンダー

西田芳正「フリーター問題の背景と若者支援の方策−社会的排除の視点から」『2007年度大阪府立大学人間社会学部公開講座報告要旨集』より、興味深かった文章を引用する。

これは20歳、女性、高卒の方へのインタビュー

【相手がフリーターやったら?】

フリーターは(結婚は)無理。安定していないから。

【やっぱり正規の社員じゃないとダメなのね?】

別に社員とかじゃなくても、普通に鳶とか鉄筋の仕事をしている人でもいいねんけど、男でフリーターというのはイヤや。ちゃんとしてよと思う。

【女のフリーターはOKなのね?】

女の子は結婚して、一生働くわけじゃないと思っているから。男の人ってぜったに一生働かないとあかんやんか[誤植ママ]。(略)(交際相手に)サラリーマンとかはイヤや。

【何で?】

リストラとかイヤや。肉体労働をしている人の方が好き。男らしいし。

【好き!】

何か男らしいやん。大工さんとか。

・・・[以下略]・・・

(26頁)

この女性の労働者観も興味深いが、ジェンダー観も興味深い。大学に隔離されていると、このような意見がどのくらいの分布をしているのか、まったく見当がつかない。ジェンダーフェミニズム男性学に関わっている大学人は、この女性に対して、語りかけるべき言葉を持っているのだろうか。

2007-10-30

[][]『それでもつながりはつづく』

今夏に行われた世界陸上のために、長居公園に寝泊まりしていたホームレスの人々が、今年の2月5日の行政代執行によって強制立ち退きを余儀なくされた。私は以前長居公園の前に住んでいたことがあるし、現在も大阪市民としては、このような行政に、とても恥ずかしさと腹立たしさを覚え、野宿者の人々には申し訳なさを感じる。

ところで、その行政代執行をめぐって、野宿者支援を行う者たちが、記録集を出版した。200ページ以上の2段組みで、900円(税込945円)。

さまざまな人々が、さまざまな境遇を背負い、それでも「代執行に反対する」こと一点だけで「つながった」記録が、ここにある。代執行への反対の思いも、人それぞれ違う。私は体調が思わしくなく、その日は駆け付けられなかったのだが、臨場感がこちらに十分伝わってくる。

大阪府立大学酒井隆史先生も執筆されている。

(参考)

「それでもつながりはつづく――長居公園テント村 行政代執行の記録」

[][]12歳に子宮頸がんワクチン接種:英国

英国で、12歳の少女の全員に、子宮頸がんの予防ワクチンを接種させることにするようだ。2008年から始まるらしい。子宮頸がんのワクチンを打てば、100%感染が防げる。子宮頸がんの感染は、性交によってウィルスをうつされることが原因である。ワクチンの接種は、女の子だけになされる。

Starting from next September, all girls in the second year of secondary school will receive three shots of the vaccine spread over six months. Boys will not receive the vaccine. Although they transmit the virus they mostly do not suffer symptoms and health officials have decided it would not be cost effective to add them to the programme.

http://www.guardian.co.uk/society/2007/oct/27/health.uknews

予防接種は、15歳までに行なうことが重要。それ以降になると性交による感染のチャンスが増えるからとのこと。

The latest data from the Health Protection Agency showed that it was important to reach children with the vaccine before the age of 15, because that was the point at which the level of infection in girls begins to rise.

米国では、12歳の少女に性体験のお墨付きを与えるとして、反対運動も起きている。

vaccination has caused controversy, particularly in America, amongst abstinence campaigners. They say that providing it to 12-year-olds gives tacit approval to under-age sex.

日本ではどうなっているのだろうと思って調べてみたら、公明党が積極的に推進しようとしているようだ。

http://www.komei.or.jp/news/2007/1020/9892.html

ただしこのページには、12歳で接種という点は触れられていない。これから与党の議論になるときに、保守派から反発は出ないのだろうか。

なおこのワクチンの売り上げは予想を超えた動きをしているとのこと。

http://www.asahi.com/business/reuters/RTR200710230032.html

発売元のグラクソ・スミスクラインは、9月に日本でこのワクチンの承認を申請している。http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=171424&lindID=4

性教育との接続はどうするのだろうか。過激な性教育に反対している東京都とかは、ワクチン接種にも反対するのだろうか。

2007-10-29

[][][][]長岡善幸「コミック性表現・規制の現在」

 今月の『出版ニュース』(10月号)に、松文館のわいせつ裁判に関する。レポートが出ている。事件の発端は以下。

 松文館に「わいせつ図画販売」容疑で警視庁保安課と代々木署が家宅捜索に入ったのは、2002年9月19日のことだった。元警察庁キャリアの平沢勝栄衆議院議員(自民党)のもとに、「高2の息子の机を覗いたら、松文館の卑猥なマンガをみつけた。発禁処分にすべきだ。このままでは、うちの息子のみならず日本の青少年の将来はない」と訴える霞ヶ関官僚の投書(8月12日付)が届き、平沢議員がかつて防犯部長を務めていた警視庁に通報。これが捜査の端緒になった。

長岡善幸「コミック性表現・規制の現在」『出版ニュース』2007年10月、7ページ

該当のマンガを描いた漫画家、編集局長、そして松文館社長貴志元則が逮捕された。漫画家と編集局長は、略式起訴を受け入れて罰金を支払ったが、貴志さんは裁判闘争へと持ち込んだ。2005年6月に最高裁に上告していたが、2007年6月14日に棄却が決定された。貴志さんは、罰金150万円に処せられた。

 棄却決定書について、長岡さんは以下のように書く。

 <主文 本件上告を棄却する>――。その後に続く「理由」の説明はたったの16行。刑法175条は意見だとする弁護団の主張には、憲法に<違反するものでないことは><当裁判所の累次の判例により極めて明らかである>と素っ気なかった。チャタレイ裁判や悪徳の栄え裁判で示された「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが175条の目的」などとした判例を機械的に適用し、わいせつ3要件(いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する)を追認したということだ。そのうえ、<本件漫画本の頒布が刑法175条のわいせつ図画頒布に該当するとした原判断は、正当として是認できる>と突き放した。

(8ページ)

チャタレイ裁判が判例…。こういう裁判所が持ち出す判例は、時折、時空をこえていく印象を受けます。澁澤さんが死んで、何年たったっけ?とかいろいろ個人的に思うことはある。

 それはともかくとして、長岡さんのレポートで気になったのは以下の点である。

 1審、2審の審理を振り返ると、裁判でのやりとりは、ときに滑稽なものだった。子どもはおろか、大人が読むことも禁止しているのが「わいせつ罪」であるのに、検察官は「青少年に見せられますか」と、ピントの外れた発言を繰り返した。青少年に対して「有害」だというなら、刑法ではなく、せいぜい青少年条例の守備範囲のはず。論理的整合性のなさを見せつけていた。「わいせつと思うか思わないか」と検事が問う、不可思議な問答も繰り返された。ふつうの刑事事件であれば、実行行為が裁かれるのに、175条は実在の被害者が存在しないまま、心のなかで何を考えたかが罪になるという形式であることがよくわかった。「わいせつだと思う」と答えれば、略式起訴の罰金で済み、「思わない」と言えば、見せしめ的に正式裁判にかけられ、懲役刑が求刑される。1審の裁判官が「反省の態度が見られない」と思想犯のごとく扱い、難詰したのも心のなかを裁いたということだろう。

(8ページ)

5年も前の事件なので、私も記憶が薄れているが、このときマスコミでも「子どもに性的情報を流すか否か」で話題になった気がする。しかし、警察が逮捕するのは、「わいせつ罪」であり、「大人にとって害がある」ものでなければ刑法には触れない。*1「子どものことを憂いて、親が訴える」という構図であったため、事態がわかりにくくなっていた。印象操作されかねないので、注意が必要だ。

 司法において、性表現を論じるときには、「主体‐対象」の関係が、4種類に分けられる。それは、「大人‐大人」「大人‐子ども」「子ども‐大人」「子ども‐子ども」である。今回は「大人‐大人」の問題であるべきなのに、「子ども‐大人」のように見えがちだ。また「大人‐子ども」の問題がクローズアップされているため、ごっちゃになりやすい。表現の自由とは別に、考えておきたいと思う。

[][][]バトラー&スピヴァク「Who Sings the Nation-State?」

Who Sings the Nation-state?: Language, Politics, Belonging

Who Sings the Nation-state?: Language, Politics, Belonging

 とにかく、装丁がかっこよすぎです。帯がずれてるなあーと思って外すと…!!(口のところに黒い帯がくるようになっていて、はずすと「口を封じられている」ことがわかるのです。)まだ、一文字も読んでませんが。

[][][]フェミニスト生命倫理

Bioethics誌の最新号が、フェミニスト生命倫理学の特集となっている。

Bioethics Vol.21, No.9 November 2007

なかでも、Angela Thachukの"The Space in Between: Narratives of Silenced and Genetic Terminations" 511-514 が気になる。

Consider the following:

A young woman is presented with the results of prenatal screening indicating a series of fatal anomalies. Peior to conception the woman and her partner had agreed that if diagnostic testing revealed disabling conditions, she would terminate the pregnancy. After much struggle, she affirms the decision to abort. Their grief and anguish is palpable. The woman says she will tell others she has miscarried.

For this particular woman, and others like her, the decision seemingly wraps her in a shroud of silence beyond the walls of clinic. In North America, prenatal testing and selective terminations are becoming clinically normalized. Yet, despite this implied social acceptance, open discussions surrounding selective terminations remain taboo. Women are often socially isolated, their experiences kept secret, and their grief disenfranchised. (p.512)

著者はカナダの大学に勤めているらしい。このテーマがカナダ(北米)ではタブーであり、女性の経験が秘匿されているという指摘は考えさせられる。日本でも状況は同じであろう。

[][]あなたは当事者ではない

あなたは当事者ではない−〈当事者〉をめぐる質的心理学研究−

あなたは当事者ではない−〈当事者〉をめぐる質的心理学研究−

非常に刺激的な問題意識で編集された本である。研究者が、研究テーマに関して当事者でない場合(子育て経験のない研究者が母親を研究する)、研究者が当事者の場合(障害者が障害者を研究する)、当事者とそうでない状況を研究者が行き来する場合(地域を越境する研究者)、に分けて、「当事者」とは誰のことか、当事者となって研究するとは、ということを、心理学の視点から探った本だ。心理学と言っても、まあ、ふつうの研究スタンスだと言えるだろう。

当事者だから深い研究ができるというわけでもないだろうし、当事者だからという理由で、不適当な代理表象をしてしまうこともあるだろうし、当事者であるという傲慢もあるだろう。私も以前から「当事者」という位置取りの大事さを強調してきたのだが(『脳死の人』など)、その先にはこのような難問が待ち受けているわけである。

あとでちゃんと読みたいと思う。生命学の視点からしても、重要な問題提起だろう。

[][] 命の教室〜8万匹の捨て犬を処分した男の出前授業

 今日の深夜2時40分から、テレビ朝日系列で放映です。

http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/

*1:子どもにわいせつ物をみせる→青少年条例、子どもをわいせつ物にする→児童ポルノ

2007-10-28

[][]情報:全面禁煙の宿を集めた冊子

全面禁煙となっている宿泊施設のリストを載せている冊子があるということらしいです。

「全館禁煙の「空気のきれいな宿」」

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/kyousei_news/20071028-OYT8T00076.htm

[][]生命学の研究会

生命学研究会の参加者を募集しています。3年ぶりの募集となりますので、ご関心ある方はぜひリンク先をご覧になってください。

生命学研究会の参加者募集

日時 2008年3月22日(土)10:00〜17:00(確定)

場所 大阪市中心部(確定。JR新大阪駅から15分以内で到着できます)。

費用 参加費無料。会場までの交通費・宿泊費は参加者負担。

参加者 20〜40名前後予定。このうち5名〜20名前後(予定)をネットで公募。採否は後に通知します。 

参加者に求めるもの

・生命学に主体的に関わっていきたいと思っている研究者・市民(年齢・肩書その他は問わない・学生可)

・自分の研究や活動の領域に、生命学的な発想をもちこんだら、どういうことになるだろうか? ということに強い関心のある者。

人文科学社会科学のみならず、自然科学、市民活動、芸術活動などからのアプローチも歓迎。

会合で何をするのか

・いまのところ、参加者それぞれの考える「生命学的アプローチ」について、意見交換をしていく予定。

・ディスカッション主体の会合になります。

・小グループに分かれてのディスカッションも取り入れます。

締め切り

・締め切りは2007年12月31日23:59です。


詳しい情報と応募方法

>>http://www.lifestudies.org/jp/kenkyukai02.htm

以上です。

2007-10-27

[][]殺人医師と呼ばれて 取り外された人工呼吸器

明日の深夜1:00から、日本テレビ系列での放映です。

http://www.ntv.co.jp/document/

富山県の射水市民病院で「入院患者の人工呼吸器が取り外され、7人が死亡していた」と院長が警察に届け出たのは一昨年10月。外科部長の伊藤雅之医師(当時50歳)が、患者に自然な死を迎えさせてあげたいと家族の同意のもと人工呼吸器を取り外したという。伊藤医師は殺人容疑で50回近い事情聴取を受けたが、警察は今も立件するかどうかの判断を下していない。殺人医師と報道される一方、伊藤医師の職場復帰を求める1万人以上の署名が集まった。遺族にも処罰感情はない。つながれている限り例え心臓が停止しても規則的な呼吸が続けられる人工呼吸器。取り外し事件の波紋を追った。

 参考

新規サイト 共通エラーページ

2007-10-26

[][]若者を見殺しにする国

 『論座』への寄稿いらい、非正規雇用労働者の視点にもとづく評論が反響を呼んでいる赤木智弘さんの著書が刊行の運びになったそうです。まだ書店の店頭で手に取ってはいませんが、買うつもりではいます。

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

 参考(赤木さんの『論座』寄稿の文章)

「丸山眞男」をひっぱたきたい

けっきょく、「自己責任」 ですか

 赤木智弘さん、雨宮処凛さんの対談(月刊オルタ、2007年5月)

404 Not Found

 本のキャンペーンサイト

希望は、戦争?blog 〜「丸山眞男」をひっぱたきたい Returns〜

 関連書(コメント欄で教えていただきました)

 橋本健二『新しい階級社会 新しい階級闘争』(光文社

http://item.rakuten.co.jp/book/5035180/

2007-10-25

[][][]「ケアワーカーの仕事と賃金を考える!!」

 「働く女性の人権センターいこ☆る」の連続講座が開かれる。

「ケアワーカーの仕事と賃金を考える!!」

今、ケアワーカーはどんどん仕事をやめていっています。

本当は、仕事は好きだし、やめたくないのです。じゃあ、ナゼ? 

他の仕事に比べて賃金が安いからです。

将来、賃金があがっていく希望も持てないからです。

健康保険も年金も入っていません。労働条件なんて…。  

どうしたらこの仕事で食べていけるようになるのか!

一緒に考え、やれることからやってみましょう!

・11月17日(土)13:30〜(ドーンセンター5F 特別会議室)

「介護の職場は今、どうなってるん?」

講師:手束光子さん

☆長年ホームヘルパーとして働きながら、仲間たちと組合をつくり、労働者としてのケアワーカーのあり方を求めてがんばってこられた講師の話を聞きます。

・12月15日(土)13:30〜(ドーンセンター4F 大会議室3)

「ケアワーカーの仕事と賃金、こんなんでええん?」

講師:屋嘉比ふみ子さん

ヘルパーの仕事は大変です。しかし、そのしんどさに見合った賃金になっているとは言えません。正当な賃金って、いくらくらいなんでしょうか。男女の均等待遇、同一価値労働同一賃金(ペイ・エクイティ)を求めて闘ってきた講師が、ケアワーカーの職務評価について話します。

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[][]あさきゆめみし

 コメント欄で紹介していただいた。源氏物語が漫画化されていたとは知りませんでした。広く読まれているようですね。

あさきゆめみし 美麗ケース入り 全7巻文庫セット

あさきゆめみし 美麗ケース入り 全7巻文庫セット

あさきゆめみし(1) (講談社漫画文庫)

あさきゆめみし(1) (講談社漫画文庫)

[][]性暴力を越えて 〜実名公表 被害者の声を聞け〜

 27日土曜日・午後1時55分から、テレビ東京で放映されるそうです。

http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/17690_200710271355.html

事件から7年…実名で性犯罪被害を語り始めた女性がいる。ただ話すだけのことにも、理解を得ることが難しい日本の社会。なぜ…?性犯罪被害の問題を正面からえぐる。

2007-10-24

[][][]野矢茂樹大森荘蔵――哲学の見本』

いま読んでいる最中だが、すごく面白い。

大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見 日本の哲学)

大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見 日本の哲学)

実は大森の作品を、恥ずかしながら読んだことがない(著者の野矢さんの本は何冊か読んだが、野矢流大森論とも言えるかも)。「立ち現われ一元論」に至るまでの大森思想の揺れ具合が、手に取るように分かる。以前某所で、eireneさんが『物と心』を紹介されていたが、これはぜひ読まねば、と思った。

私の正直な感想は、大森哲学フッサールウィトゲンシュタインの合いの子のような感じ。もちろん、そこからこぼれおちるものも多いが、とりあえずそのように感じた。

余談だが、この講談社「再発見 日本の哲学」シリーズは面白い。岩波哲学塾より面白い*1んじゃないかな。私は以前に

廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)

廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)

を読み、最近ちくま学芸文庫から文庫化されている廣松の著作を読んだりしている。刊行予定で他に私が気になっているのは、有名どころだが、和辻哲郎西田幾多郎である。

(追記)

某所で「合いの子って差別語では」という指摘を受けた。「合いの子 差別語」でググってみましたが、放送禁止用語にはなっているようです。

http://monoroch.net/gallery/kinshi/

ここにも書いていますが、「足して2で割った」ほどの意味です。軽率な物言いをしてしまい、深謝いたします。

[][][]三村友希「浮船の<幼さ><若さ>――他者との関係構造から――」

 源氏物語占いというサイトがある。馬鹿馬鹿しいと思いつつ、生年月日を打ち込むと、「あなたは六条の御息所です」というメッセージが表示されて、ぎゃふんとなった。という、エピソードを話すと、知人に「まだよかったやん。浮舟とか言われるよりは。」と言われた。

 『源氏物語』宇治の十帖に出てくる、浮舟は、薫と匂宮の三角関係にもまれた末、出家する。三村友希はこの浮舟に焦点をあてる。

 浮舟は、母の用意した薫との庇護的な関係を裏切り、匂宮を魅了し、官能的な恋に落ちていく。三村さんによれば、それは、浮舟の母に庇護され従順な娘からの遁走と成熟の一コマだったという。一方で、浮舟には、過剰な<幼さ><若さ>が課せられていることを、三村さんは指摘する。

浮舟が<幼く><若く>振舞うことも、いつも庇護され守られている自分であるために不可欠な、無意識に引き受けてきた役割演技でもあったのではないか。

(中略)

 浮舟はしばしば、対話場面において<幼さ><若さ>のしぐさを見せている。夕顔の媚態にも似るそれは、常陸介の継子として育った浮舟の、いわば身体に染みついた身の処し方ではなかったであろうか。父宮の顔を知らず、母中将の君だけにすがって生きてきた浮舟の<幼さ><若さ>は、精一杯の自己主張であったのかもしれない。内気で臆病な浮舟などすぐに淘汰されてしまうのだから。

三村友希「浮舟の<幼さ><若さ>――他者との関係構造から――」『文学・語学』第一八八、全国大学国語国文学会編、2007年、23〜24ページ)

三村さんは、この<若さ>の生命力こそが入水した川で浮船の命を永らえさせ、この<幼さ>の媚態が小野の地での尼たちの庇護心を掻き立てるのだという。浮船は、自らを守るために、<幼さ>と<若さ>によって、周囲に自分を愛させることで、生き延びていくのだ。この浮舟は、『源氏物語』の語り手までもが、あきれるような突発的な行動をとる。この点に関して、三村さんはこう述べる。

 浮舟の<幼さ><若さ>はいつも批判にさらされ、その<成熟><未成熟>は常に未分化である。不遇で孤独な浮舟の<幼さ><若さ>は、正編の紫の上や女三の宮のそれとはちがう。光源氏のように、彼女を熱心に教え導いてくれる父的存在も欠如していた。浮舟の前にはじめて父性を担って現れたともいえる横川の僧都に、行き迷う浮船は繰り返し、教えを乞うている。自分自身では何一つ決断できなかったからこそ、入水などという無鉄砲な行動に出て、語り手までをあきれさせた。何も持たない、何も知らない浮舟の、弱さのただなかにふと立ちあらわれた捨て身の逞しさである。

(25〜26ページ)

三村さんは、浮舟を哀れむわけでも、蔑むわけでもない。ここに、逞しさをみる。浮舟の行動は、合理的でも生産的でもない。しかし、彼女は、その無茶苦茶な行動で、初めて、母の庇護からも、薫の庇護からも逃れる。薫は、出家した浮舟に使いを出すが、浮船はそれを拒む。そして、今は尼の庇護により生き延びているが、そこで出家生活を全うするのかどうかにも三村さんは疑問を呈す。

 浮舟が、成熟していき、<幼さ><若さ>ではない生きるすべを身につけることができるかどうかは、作品を読んでもわからない。しかし、このような課せられた<幼さ><若さ>を利用して生き延びつつ、<幼さ><若さ>が彼女の全てだと思い込む周囲から、逃れ続けようとする浮舟の迷走は、現代でもよく見かけるように思う。庇護なしでは生きられない人間が、庇護なく生きるすべとは、何をさすのだろうか。

 

[][]ホンゲル係数

 読んでて、これはあるなあ、と思った話。*2

男性は、心の会計システムにおいて、女性と違う特徴があります。その最たるものは服を費用計上しているところです。だから、できるだけ服には金や時間をかけたがりません。無論例外はありますがね。

ただ、大抵の男性は、服に時間と金をかけません。だからヨレヨレの服をきたり、場合によって靴下がかたっぽ違っていても、キニシナイのです。なぜなら、服とは費用だからです。コストを出来るだけ削減すべきものなのです。


一方で、僕が観察したところ、女性の心の会計システムにおいては、服とは、費用でなく、資産に計上されています。


そう、女性にとって、服とは資産計上されているのです。


女性は、服を自らの資産として計上するため、服を買っても、その後に後悔が発生しにくい心理的メカニズムを持っています。なぜなら、それは資産であり、費用ではないからです。金が単に服に変わっただけなのです。だから、後悔は発生しません。自分の資産が金から服に変わっただけのことであり、買い物の時点で自分の利得が失われたとは計算していません。


一方、男性はそうはいきません。服を費用計上しているため、服を買うと「ああ、この金でゲーム一本買えたなぁ」とか「釣りざお一本変えたのになぁ」といった形で後悔が発生します。費用計上しているが故に、服を買うと利得が失われたと計算してしまうわけです。

男性は、心の会計システムにおいて、服は費用計上しますが、趣味にかける金は資産計上します。時々、男女の間で、諍いが起こるのもここだったりします。

pal-9999「男の服は費用計上、女の服は資産計上」『pal-9999の日記』(http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20071018/p1

 このブログを読んでいる人は、本を資産計上している人が多いのではなかろうか。*3そして、友人やパートナーと、予算配分についてもめたことがあるのではなかろうか。

 私は、友人と喋っていて、何度か諍いになりかけてたことがある。「本ばっかり買って、お金持ちなのね」といわれ、愕然とした。食い詰めて買ってるんだってば!だけど、一般的に多くの人は、本は費用計上であって、最低限の支出として節約する*4のだと気づいたとき、怒りは霧散した。そのときの気持ちを思い出した。

 私は、本の資産計上を理解してくれる人としか、付き合えないなあ。ちなみに、私の今の恋人は、ばりばり本を資産計上する人なので、もめない。*5それはいいんだけど…恋人が「うちのホンゲル係数(本×エンゲル係数)は、えらいことになってるなあ」と呟いていた。これはこれで、大変。*6

*1:誤解のないように書いておくと、4〜5冊は私にとって読まないといけない本はある。

*2:その男女差が何によって生まれるかは、置いておくとして。

*3:このブログを書いてる人は、全員、そうに違いない。

*4:そして、この本は役に立つ、という価値基準が違うっぽかった。

*5:むしろ、私以上に、本に資産価値を見出すので、たまについていけない。

*6:ネットショッピングは怖いね。月末の請求額にギョエーッとなります。

2007-10-23

[][][]河野哲也「善悪は実在するか」

 先日、友人の結婚式に出席してきた。新婦から、両親への挨拶で、彼女は泣きながら「私は父に叱られてばかりでした。そんな父をうとましく思ったこともありました。でも、今は、あれが本当の優しさだったと思います。お父さんありがとう。」と述べていた。高校時代に、彼女の父親との葛藤の相談を受けていた、私たち友人一同は、ハンカチを握って感動で涙をこぼした。

 一方で、成人してから、父親が自分に行ったしつけが虐待だったと気づくこともある。あのときは、父は自分のために叱ってくれていると思っていたが、実はそのことにより、自分の中に別の問題が生じていることに、後から気づくのである。

 両者は、当時に話を聞けば、「父親に叱られて、辛い。父親が怖い」と述べるだろう。しかし、数年後、両者はまったく別の過去の振り返り方をしている。前者ならば、父親の行ったことは、子どもに利益になっただろうし、後者ならば不利益になっただろう。また、さらに10年後、両者が入れ替わって逆の振り返り方をすることもある。そして、たいていの場合、私たちは親に対して、両者が混ざり合った感情を持っている。「お父さんありがとう。しかし、父は、叱り方が下手だったせいで、私の人生に悪影響も与えた」という具合に。

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

 さて、河野哲也「善悪は実在するか」を読み始めた。私はこの手の議論が苦手だ。途中まで論理展開はわかるのだが、実際に例を挙げて説明されると「ええっ?」となる。河野さんは、セクハラにおける、善悪について以下のように述べる。

出来事と行為の実在

 実在とは、主観(こころ)から独立したもののことである。ある行為がセクハラかどうか、したがって悪しき行為かどうかは、その行為を行った者の、主観(判断)からは独立である。その意味で、その行為のセクハラ性は実在している。こうしたタイプの主張は、先に説明した自然主義実在論とも、反自然主義実在論とも異なるだろう。私の立場は、出来事と行為の実在論から導き出されている。

 だが、以上の議論に対して、「当人としては単純な友情の表現としての身体への接触が、触れられたほうにとって性的に不愉快である場合がある。この場合、行為者はその相手の不愉快に気づかなかっただけであってセクハラとは言えないのではないか。したがって、相手への影響のみをもって道徳的性質を定めるのは無理があるのではないか」という反論もありえるだろう。

 たしかにこうしたことは起こりうるだろう。「悪」という言葉の定義にはやや揺らぎがある。相手に害を及ぼしたならそれだけで意図的か否かを問わず、その行為は「悪しき」行為なのだと言うことも可能である。しかし一般的には、行為者がその害を認知していたか否か、つまり意図的か否かが、その行為にとって重要だと考えられているだろう。たとえば、セクシャルハラスメントを受けたと感じた場合には、一度、その相手に警告や断りを告げておけばよいだろう。すると善意の人ならばその行為を以降は止めるはずだし、それでもなおその行為を続ける人は明らかに意図的であり、それは悪しき行為である。

 ある行為が悪(あるいは善)であるか否かには、行為者の意図性という心的な性質が関係していると言ってもよい。しかし行為者の心理が絡んでいても、そのことは、その行為の善悪を判断することからは独立している。たとえば、相手が嫌がっているのに意図的に繰り返しているセクハラ行為は、それを悪と道徳判断する人がいてもいなくても、被害者の訴えと加害者の意図性によって悪と定まる。まtそのセクハラを第三者が誤って善と判断しても、その判断が誤りであることは、被害者からの聴取と加害者の意図性から明らかになる。したがって、ある行為の善悪は判断主観から独立しているのであり、この意味で善悪は実在しているのである。

(101ページ)

この理屈で言うと、被害者が「いやだ」と言ったかどうかが、セクハラかどうかの争点になるだろう。これまでもセクハラ裁判は、この問題について争っていたし、これからもそうだろう。

 しかし、セクハラの加害者・被害者に話を聞いていくと、問題はそう簡単でないことがわかってくる。たいてい、加害者は「いやだ、という気持ちが私には伝わらなかった」と主張するからだ。また、被害者の多くは、抵抗するのが怖くて、「いやだ」といえないからだ。

 さらに、冒頭の私の話の問題が加わってくる。一部の被害者は、そのときは「いやだ」と思っていなかったが、あとから「いやだ」と思う。そして、「なぜ、あのとき、『いやだ』と思えなかったのか」と自分を責める。人間は、極限状況に陥ると、自分のこころを守るために、防衛反応で「いやだ」とすら思えないことがある。逆に、そのときは確かに「いやだ」と思っていたのに、時間がたつにつれて「私は本当に『いやだ』と思っていたのだろうか。思っていれば、もっと抵抗できたのではないか」と悩み始めることもある。

 このこころの揺れは、当然のものだ。人間は、環境や時間の変化、気持ちの状態や性格によって、できごとを様々な心理で表現する。これこそが主観だろう。

 河野さんの主張のポイントは、ものごとが起きている、そのときの主観を疑わないことにある。河野さんはこの点について、こう述べる。

 では、道徳的性質が問題となるときの利益と不利益についてはどうだろうか。これをどう判断するのか。ひとつの方法としては、行為の影響を受ける人に直接聞くというやり方がある。現代の常識としては、行為者にはそのつもりはなくても、相手が深いと受け止めればすべてセクシャルハラスメントだとされている。ある行為が不快であるかどうかは、無関与な第三者が一般的な命題として決めたりすることはできないし、ましてやセクハラした当人が決めるべきことではない。したがって、不利益がすなわち不快の不快のことであるならば、道徳的性質は行為の影響を受ける人の主観によって完全に決定されることになる。

 こう考えるならば、面白いことに、道徳的性質は行為の影響を受ける人の個人主観で決定されることになり、個人主観主義が正しいことになる。個人主観主義は、行為者の立場において唱えられたときには独善的に思われるが、行為の影響を受ける側の観点から唱えられた場合には、正当な要求となるのである。

(102ページ)

別に、面白くともなんともない。これは、被害者が、自分が「いやだ」と思っているかどうかを、一つの主張として押し出せることを前提としている。しかし、先にも述べたように、この主観は一定でないし、一つにも絞れない。被害者一人の人間の中に「いやだ」「いやでない」という、快と不快が渾然一体となっていることは、よくある。

 河野さんがいうように、善悪が、個人の快・不快に依拠して構築されるならば、セクハラにおける一部の被害者は、善悪を二分できないことになるだろう。そして、被害者にとって、加害者の行為は、善でもあれば、悪でもある。ある意味で、これはものごとの本質を捉えているともいえる。

 では、セクハラは善でもあり、悪でもあるのか?それこそ、善悪の反実在論になるだろう。どんなに主観から、抽象化を試みようと、その立脚点に主観がある限り、「<主観>の呪縛から倫理を解き放つ!」(本書帯)ことはできない。

 私が主観の鬼フッサールを唯一尊敬している点は、腹のくくり方だ。主観に縛り付けられたまま、いかに主観であるかを客観的に記述しようとしたかというのが、現象学の気持ち悪さであり魅力であると、私は思っている。私は、河野さんが、この主観の泥沼に足を突っ込んだまま、倫理を語るならば、別のニーズがあると思う。この善悪の混乱の中にある被害者が、「私の『いやだ』『いやでない』と思わせる主観(こころ)はどこから生まれてくるのですか?」と問うときにこそ、現象学の出番だ。

[][]「生命」と「誰か」は二律背反なのか?

加藤秀一『「個」からはじめる生命論』をきちんと読んだ。

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

いつもの加藤さんらしく、ところどころに切れ味のよいセンス(引用のセンスも含めて)が光る好著だった。最後のほうは、ちょっと息切れしている感もあるが、加藤さん自身にとっても本書は通過点であろうから、これからの本格的な学問構築が楽しみになる本であった。それと、やはり思ったのは、この本と、『生命学に何ができるか』と、『死は共鳴する』などを並べてみれば分かるように、日本の生命論は、何か興味深いものをいま生み出そうとしているということだ。それが何なのかはまだよく分からないが、単なる輸入学術ではないものへと、少しずつシフトが始まっているように思う。

そのうえで、思ったこと。

私たちは自分が単なるのっぺらぼうの「生命」であることや、あるいはその虚ろな容器であることを求めているのではなく、かけがえのない人称的存在者――〈誰か〉――であることを求めているからではないだろうか。そして同時に、もうひとりの〈誰か〉である相手に向かって呼びかけ、また呼びかけられることを希っているからではないだろうか。(36頁)

加藤さんは、「生命」と「誰か」を截然と切り離す。そして倫理の問いを、前者の位相から後者の位相へと引き戻すことを主張する。これが本書の基本的なスタンスだ。これを見て私は、かつて自分が『生命学への招待』で、「生命圏の原理」と「他者の原理」の二つの原理を立てて、生命倫理学を超えていこうとしたことを思い出す。

私のいちばん大きな疑問は、「生命」の位相と、「誰か」の位相を、加藤さんの言うように截然と切り離してよいのかということだ。切り離したうえで、前者から後者へ、という話でほんとうによいのだろうか。私も確たる答えは持ってないが、この二律背反には違和感を覚える。それはかつての私への違和感でもあろう。「生命」と言うときには、そのなかにすでに「かけがえのない誰か」というモメントは、入っているのではないだろうか。こういうと加藤さんはきっと、それこそが「生命フェティシズム」だ、と批判するだろう。

このあたりのことは、いずれきちんと詰めて考えたいと思っている。

_________________________

追記

熊本日々新聞に書評を書いた。(2007年10月28日)全文↓

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20071102/1194010890

2007-10-22

[][][]愛させる技術

 kanjinaiさんが紹介しているように、17歳の女の子の水着DVDが児童ポルノとして摘発された。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071022/1192991596

私自身、今年の春頃から機を見ては、この問題を友人と議論してきた。しかし、この問題は表現の自由、性の商品化、性の自己決定、売春婦差別、子どものセックスなど、気をつけなければならない点が多く、これという結論は出せずにいた。女の子たちとセックスを結びつけようとする、過度の扇動を批判することは必要だろう。しかし、どの角度から、どのように規制するのか、という点には慎重にならなければならない。左翼にしろ、フェミニストにしろ、反性暴力運動にしろ、動きは鈍い。

 一方で、kanjinaiさんが引用している、web上のニュースにもあるように、批判は女の子たちの母親に向けられる。かわいい娘を金儲けの手段にするのか、と責める。そしてセックスアピールをする女の子たちは、騙されているから保護しなければならない、と批判が出る。それらが、全て間違っているとは思わない。

 それでも、問題は女の子と母親たち<だけ>なのだろうか?

 少なくとも、私は今まで、「女の子は性的に魅力的でなければ愛されない。愛されなければ幸せにならない」というメッセージを浴びて育ってきた。この社会は、愛されなければ、孤独で味気ない人生になるのだ、という価値観が重視されている。そして、女の子はお勉強ができて、仕事で有能さを発揮できても、性的魅力がなければ愛されないと言い聞かされている。男の子は社会的成功が愛される条件だとみなすかもしれない。しかし、女の子たちは、社会的成功が必ずしも愛されることに有利には働かないと、(言葉ではなくても)身に沁み込ませている。

 この社会は、女の子を産んだ母親が、「あなたは、性的に魅力的でなくたって、幸せになれるのよ」と言ってやれるような社会だろうか。私には、むしろ、「性的に魅力的であることがあなたを幸せにするのよ」と(言葉ではなくても)言ってしまうような社会にみえる。また、女の子自身が、母親が言わなくても自ら、「性的に魅力的であれば、幸せになれる」と思ってしまう社会にもみえる。

 もちろん、女の子たちが水着を着て、セックスを模したポーズをすることを批判することは重要だ。だが、そのときに水着の女の子たちは、特別な存在ではない。この社会の象徴でしかない。わかりやすい形で、女の子たちが取り上げられるだけだ。

 この問題は、どの時点から批判すべきなのか。性の商品化か。商品が子供であることか。女の子が愛される条件が性的魅力に限られていることか。愛されなければ幸せになれないことか。丁寧に議論すればするほど、私たちは、自分がセックスという問題で、何を最重要視するか発見するだろう。そして、まず、その己の足元を見極めることから出発すべきだ。女の子たちと母親を批判する前に、自分がこの社会でセックスをどう考えるのかを、明らかにしなければならない。

 私は、この議論の出発点には、どんな手段であろうと、全ての存在から愛されたいと思う子どもの欲求をおきたいと思っている。他者を意識する10歳ごろから思春期にかけて、子どもは周囲に自分を愛させるように仕向ける技術を、身につけようとする。そのとき、性的魅力という手段を選ぶことはなんのタブーでもない。しかし、この手段だけにアクセスするように煽る社会の状況は批判したい。そこから始めたい。

[][]とうとう摘発!

少女〈合法〉ポルノなるものについて、ずっと問題提起してきた。たとえば、

幼い心の商品化なぜ許す―ロリコン社会・犯罪の根源・相次ぐ少女殺害事件

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20060121/1175002703

など。だが反応はきわめてにぶかった。とくに『朝日新聞』東京本社はこの原稿を全国配信しなかった。

先週、こういうニュースが流れていたようだ。

「少女ポルノ」全盛の現場

17歳女子高生の水着姿のDVDが、全国で初めて「児童ポルノ」として摘発され、先日、出版社の幹部ら4人が警視庁に逮捕された。・・・

http://news.livedoor.com/article/detail/3353250/

16歳熟女、18歳ババア?過激「水着DVD」市場

これまで「児童ポルノ」として摘発されると思われていたのは、少女の性行為の様子や、裸が写ったビデオやDVDだった。ところが、水着姿を映したDVDが「児童ポルノ」だとして、出版社のプロデューサーなどが逮捕された。・・・

http://www.j-cast.com/2007/10/17012321.html

当然と言えば当然のことだろう。左翼はこういう「摘発」に関しては知らぬ存ぜぬを貫く傾向があるが(言論の自由を守るため)、それでいいのか。左翼こそ、この問題を正面から扱うべきだ。

2007-10-21

[][][]荻上チキ「ウェブ炎上――ネット群集の暴走と可能性」

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

 トラカレのchikiさんこと、荻上チキのウェブ論が発刊された。前半の用語解説などは、退屈。サンスティーンやレッシグのまとめが、便利といえば便利かも。「サイバーカスケード」とか「エコーチェンバー」とか、そういう言葉を上手に解説している。

 事例として目を引いたのは、荻上さん自身がブログを運営していく中で、強迫的にネット依存に陥った体験談と、イラク人質事件についての回想録。人質事件で、ブログの運営者が、一気に人質批判だけに流れ込んでいく過程を、当時ちゃんと追っている。このことは個人的には尊敬する。私は、当時、辛くて読めなかった。愛読していたブログや、友人のブログに、次々と「三人は死ねばいい」という主張が書かれていた。普段、ものごとを斜めにみているような素振りをしているブログの書き手も、右へ倣えで同じことを書くのだなあ、とショックだった。「ブログって、あかんわ。批判精神ないのね」と思った象徴的出来事。

 しかし、全体的な分析のトーンは、最近よくあるメディア論という感じ。北田暁大東浩紀鈴木謙介のあたりの本に似ているなあ、と思ったら、荻上さんも東京大学情報学環出身だそうで。そっち系の人が書きそうなことだなあ、と感じた。

 WEB論ということで、懐かしい本を引っ張り出してきた。

意識通信―ドリーム・ナヴィゲイターの誕生

意識通信―ドリーム・ナヴィゲイターの誕生

6〜7年位前に読んで、いやな予言だなあ、と思ったのは次の箇所。

 ただ、架空世界でのコミュニケーションにしかリアリティを持てなくなったり、架空世界での「もうひとりの私」と現実世界での「私」とのギャップが広がりすぎて、自分の中でアイデンティティの統一がとれなくなるケースも出て来るであろう。そして最悪の場合、それは「現実世界」と「架空世界」の二つの世界の間で引き裂かれて放浪する、不幸な精神を生み出すことになる。

(中略)

 現実世界と架空世界を、ともに無理なく受容してゆくこと、これが高度情報社会に順応してゆくための条件になるのであろう。しかし、たとえば、産業社会は人類に大きな可能性を与えた反面、数々のこころの病を生み出した。それと同じように、架空世界を増殖させえてゆく電子文明もまた、電子自閉症、外界リアリティの喪失、アイデンティティの崩壊など、いくつものこころの病を人類にもたらすにちがいない。

(84ページ)

実際に、この6〜7年、私はweb上の自分と、オフラインの自分の間のアイデンティティに整合性がもてない経験をいくつかした。荻上さんが論じようとしている問題も、集約すればこの地点の話ではないか。

 しかし、この森岡さんの本はすごく微妙。特に後半は生理的に受け付けない人も多いだろうな、と思う。私も正直、読むのギリギリ。でも、これくらい、ギリギリな本って、印象的で忘れられなかったりする。

 多くのメディア論はギリギリ感に乏しいので、つまんない本が多い。中立中庸って響きはいいけど、凡庸になりやすいから難しいと思った。

[][]21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜

 今夜のNHK・ETV特集です。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html

2007-10-20

[][]中島義道『「死」を哲学する』

「死」を哲学する (双書 哲学塾)

「死」を哲学する (双書 哲学塾)

中島さんの新著を入手した。このシリーズでは、他に、山内志朗の『〈畳長さ〉が大切です』をパラパラと読んだところである。双書哲学塾というシリーズなのだが、きわめて薄い本ばかり。岩波書店は、重厚本路線は捨てたのだろうか。このシリーズは私の知り合いや同業者ばかりが書いているから、いちおうチェックしておかないといけないわけだが、うーんその必要あるのかなという気もしてきた。

いずれにせよ、中島さんのこの本は読んでおくことにする。死は言語が作り出した虚妄であるという路線の話なのかな。でも最後のほうでは、死の新たな意味づけみたいなことも口走っているし、どうなんだろう。もっと本格的な死論かと思っていたが、そうでもなさそうだ。やっぱりこのシリーズではそういうのは無理っぽい。あとは永井均さんがどのくらいのユニークなものを書いてくるのかというところでしょう。

2007-10-19

[][]人種差別発言と遺伝子の問題の件

DNA二重螺旋の発見者のひとりで、ノーベル賞をもらった、ワトソン博士が、人種差別発言を行なったということで話題になっている。

タイムズ紙によると、こういうことらしい。

The 79-year-old geneticist said he was “inherently gloomy about the prospect of Africa” because “all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours - whereas all the testing says not really.". He said he hoped that everyone was equal, but countered that “people who have to deal with black employees find this not true”.

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article2677098.ece

アフリカ人の知性・知能intelligenceがわれわれの知性・知能とは同じであると示しているテストは、まったく存在しない、と。慎重な言い回しだが、アフリカ人は人種としてless intelligentだと言っているのと同じことである。

ということで、英国を中心に例によって大騒動になっている。ワトソン博士は以前からも問題発言をしまくっていたとのこと。

He has been reported in the past saying that a woman should have the right to abort her unborn child if tests could determine it would be homosexual.

In addition, he has suggested a link between skin colour and sex drive, proposing a theory that black people have higher libidos.

He also claimed that beauty could be genetically manufactured, saying: “People say it would be terrible if we made all girls pretty. I think it would be great.”

ホモセクシャルの胎児を中絶する権利、黒人は性欲が強い説、美人は遺伝子操作で作られるので美人が多いほうがうれしい発言。ワトソン博士って、単なるオッサンじゃん! なんか、名著『二重螺旋』を若き日に読んで感動したり、名教科書『遺伝子分子生物学』に感嘆したりしたことが馬鹿らしく思えてきたぞ。

というわけで、こういうpolitically correctでない発言は一蹴されて終わりになるでしょう。

だがしかし、それで問題は終わらないのが難しいところ。というのは、実際に、何かのきちんとしたテストをしてしまうと、いろんなものに有意差が見つかってしまうのも事実だからだ。たとえば、「身長」をとってみよう。きちんとしたテストをすれば、オランダ人の平均身長は、日本人の平均身長よりもくっきりと高いことは証明されてしまう。これは明らかに遺伝子レベルの差異であろう。オランダと日本で栄養事情にそれほど差があるとも思えないし、ライフスタイルもそんなに変わらない。同じように、男性と女性の平均身長に有意な差があることも証明されてしまう。これも、遺伝子レベルの差異であろう。「身長」の有意差について、「それは馬鹿げている」と言う人はほとんどいないだろう。だとすると、ちゃんとはかったときに、遺伝子レベルでの差違が明白にありそうなものとしては、身長以外にはないのか?という疑問が浮かんでくる。ここからがややこしい話になる。現代の双生児研究(近過去のじゃなくて)は、遺伝子関与は、人間の身体的特徴だけではなく精神的特徴に至るまであらゆるところにまで<程度の差はあれ>及んでいる、という、なかなか動かし難い(文化・社会環境からの影響も考慮したうえでの)データを出し続けている。ワトソン博士もたぶんこういうデータを参照してはいるんだろう。これらの研究は、文化的・社会的・ジェンダー的関与がない、と言っているのではなくて、逆に、そういう関与があるのは当然であり、<それに加えて>遺伝子関与があると言っている。ただ専門研究者たちはこういう言説を専門論文の外で発言することにかなり腰が引けている。

このへんはかなり難しいところだろう。「遺伝子関与があるなんて馬鹿げている!」と言う人たちは、「人間の身体的・精神的特徴には、文化的関与はあり、社会環境からの関与もあり、親や家庭の環境の関与もあり、栄養状態の関与もあり、ジェンダー秩序からの関与もあり、教育の関与もあり、・・・・、だが遺伝子的な関与だけはぜったいにない!」と主張しようとしているのだろうか。それとも、「人間の身体的・精神的特徴に、どのような因子が関与しているのかは、複雑すぎるので、けっして分かるはずがない!」と言っているのだろうか。だが「身長」はそんなに複雑ではないだろう。では、どのあたりから複雑になっていくのだろうか・・・。脳もまた物質であることを考えてみれば、内面世界だけがいつまでも聖域ということにはならないだろう。とくに現在のように脳研究に異様な資金が投入されているとしたら。

もちろん、そういうことを暴くかもしれないような科学は、研究禁止にすべきだ、という選択肢は、私個人はありだと思っている。クローン人間産生研究も、人間の尊厳を守るために禁止された。同じ理屈で、比較遺伝子研究を禁止するというのはあり得る。

もし「馬鹿げている!」と言う人たちが、そういうことを「公共世界で発言すること」に反対しているだけなのだとしたら(PC)、そしてその科学的研究それ自体が馬鹿げていると言っているのではないとしたら、こういう差違を研究する科学は、一種の「ポルノ」として日陰でこっそりと進めてもらって、表舞台には出てくるな、という落としどころがあるのかもしれない。もしポルノはそもそもダメだということなら、この落としどころもダメとなろう。

ところで、もしこの社会が「身長」によってあきらかな社会的階層化がおきるような社会で(たとえば金持ち、有名人、尊敬を受ける人はみんな背が高いとか。低所得者、疎んじられる人etcは背が低いとか)あったとしたら、そしてそれが個人のアイデンティティに深く食い込むような社会であったとしたら、「身長には遺伝子的な関与がある」と発言するのは、「馬鹿げている!」という罵倒を浴びることになるのだろうか。私はひょっとしたらそうなるんじゃないかと想像する。

[][]河野哲也『善悪は実在するか』

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

購入してパラパラと見ただけであるが、これは賛同するにせよ批判するにせよ、とても重要な提起を含んだ書である。生態学理論であるギブソンアフォーダンスの考え方を、倫理学へと応用しようというものだ。フッサール現象学や、分析哲学における実在論反実在論論争を批判的にとらえ直し、アフォーダンス論の視点から、道徳の(河野さんが言うところの)実在性を説く。フーコーアガンベンの法/権力理論も参照される。最後には、ノディングスやギリガンらのケア倫理、修復的司法の可能性、イグナティエフの「ニーズの政治学」論など、多方面へと議論が及ぶが、一貫しているのは、徹底して「具体的な他者から倫理学を再構築していこう」とする河野さんの態度である。それに対しては、非常に好感が持てた。

議論が多岐にわたるため、精査していけばたぶん穴だらけだとは思う。しかしそれでも、重要な試みであると、私はまずは拍手を送りたい。

2007-10-18

[][]中沢新一生態学観はこれでいいのだろうか

中沢新一が解題編集している南方熊楠コレクション『森の思想』という本を再読。

南方熊楠コレクション〈5〉森の思想 (河出文庫)

南方熊楠コレクション〈5〉森の思想 (河出文庫)

中沢の文章はレトリカルに美しいが、内容はほんとうにこれでいいのだろうか。たとえば生態学に触れたところ。

景観の美的秩序は、生物界のエコロジカルな相互関係によって、支えられている。そこが美しくいられるのは、そこでおこなわれている生命同士の関係が、上手に調節されているからだ。そうでないと、自然の景観全体の美は、維持されるはずがない。この生態学的秩序の維持に、神社の森は、きわめて重要な働きをしてきた。生態の秩序は、水田が開かれただけで大きな損傷を受けるものだ。そこに鬱蒼たる神社の森があることによって、人間の世界はどんなに救われてきたことか。いまや、その森が破壊されようとしている。それは景観を二重の意味で破壊する。まず、精神の内部の景観を破壊することによって、人々の心を荒廃させる。そしてそれといっしょに、生態学的なバランスを崩すことによって、害虫などの異常繁殖する、壊れた世界をつくりだすことになる。(119〜120頁)

最後の行は、いくつかの誤謬を同時に含んでいるのではないだろうか。まず「害虫」とは何か。それは人間が勝手に決めた「害」虫である。生態学的なバランスの崩れ方とは根本的には無関係のことである。生態学的なバランスが崩れて、「益虫」が異常繁殖しても、それはやはり壊れた世界か? 生態学的なバランスが崩れて、おいしい果樹が異常繁殖したら、それを備蓄しておいしく食べればいいではないか。実際、森が破壊されても、そのあとに別種の植物群が謳歌することはある。また害虫が増えたとしても、それを食べる動物種にとっては天国のような環境になるだろう。また生態学的なバランスが崩れるとは何を指して言っているのか。バランスのとれた生態系とは、あるときにはある種が増え、そのあとで他の種が増え、そうやってダイナミックに移り変わっていきながら、大きな時の流れの中で全体として種の多様性が維持されるシステムのことだろう。スタティックな極相モデルに縛られすぎてはいないか。

また、最初のほうの、生命同士の関係が上手に調節されているから景観全体の美が維持されるという自然観もそれでいいのだろうか。砂漠や北極海の景観の美と人間が感じるものは、生命同士の関係とはほぼ無関係ではないのか。あるいは生命同士の関係が上手に調節された熱帯雨林では、一面の泥河にブヨや蚊や蛭の乱れ飛ぶ景観が維持されているところもある。それを中沢は景観の美として認識するのだろうか。

中沢は私の『宗教なき時代を生きるために』が出たときに好評してくれた恩義があるので、頭は上がらないが、それとこれとは別の話である。いくつもの疑問が浮かんでは消える。他山の石にしたいと思う。

2007-10-17

[][]青い目・茶色い目 〜教室は目の色で分けられた〜

 来週の日曜日のBSドキュメンタリー。「人種差別の実験授業」についての番組が放映されるようですが、これは大学生の時に見たことがあります。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/yotei/index.html#071021a 

2007-10-16

[][]土井健司『キリスト教を問いなおす』読書中

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

土井さんの、この本をちびちびと読んでいる。土井さんはキリスト教神学者であり、最近では生命倫理問題でも発言している(ちなみに土井さんは私に対しては批判的)。この本の最初で、キリスト教十字軍魔女裁判などで多くの人の命を殺戮した宗教ではないのかという疑問に正面から答えようとしている。そして、「キリスト教」と「キリスト教を信じているという人」を分けようと提案する。

まず単純に考えてみましょう。たとえば凶暴な性格の人がいて、その人がたまたまキリスト教を信じていたとします。その人がキリスト教の悪口を言った他人を殴り倒したとすると、その人はキリスト教徒であるからそうしたのか、それとも凶暴な性格であるからそうしたのか。確かにその人は、キリスト教信仰しているからこそ、キリスト教の悪口に耐えられなかったと言えます。しかし、相手を殴り倒したのはその人が凶暴な性格をしていたからでしょう。そのような人は、もし別の宗教を信仰していれば、その宗教の悪口を言った人に暴行を加えていたことでしょう。この場合、宗教が悪いのか、その人が悪いのか、いずれでしょうか。キリスト教が隣人を愛するように教えている以上、その教えを顧みずに暴力を働いたとすれば、いくら信仰心からであったとしても、やはりその人が悪いのではないでしょうか。(34頁)

すなわち、暴力や殺戮があったとしたら、それはそれを働いた「個人」が悪いのであって、その個人が信仰していた「キリスト教」が悪いとは言えないというのである。土井さんの思索の根本の筋は、ここにあるようだ。

これと同じ構造といえば、「銃」が悪いのではなくて、それを悪用する「個人」が悪いのである、というものがあるだろう。「核兵器」や「原発」についても同じである。銃や核兵器キリスト教を一緒にしないでほしい、キリスト教は魂を救うものであるから、という反論もあるだろう。だが、銃や核兵器であっても、社会の安全を守り、国家の安全を守るのに役立っている(警察が銃を持てなかったらどうなるか?)とも言える。

この種の理屈は、いったいどこまで妥当なのだろうか。

土井さん個人は、次のような信条を表明している。

(1)イエスを信じる者は戦争、紛争など暴力に与らない。

(2)戦争、紛争など暴力に対しては、キリスト教の立場から反対を唱える。なかでも、キリスト教が社会をまとめる力となって暴力が生み出される場合には、反対しなければならない。(57頁)

これに対しては、まさにそうであってほしいと願うし、私も文句なく賛同したい。

それと同時に思うのは、土井さん個人のことを超えて、キリスト教社会一般の問題として、キリスト教の名のもとに戦争肯定する人々がいるのはどういうことか? そしてそれに賛同する信者たちがたくさんいるのはどういうことか? という疑問は残されたままである。たとえば、911の直後、アフガン侵攻に明瞭に反対した米国のキリスト教団は少なかった(クェーカーは貴重な例外である)。もし米国の教会勢力が団結してアフガニスタン・タリバンへの「報復戦争」に反対していたら、ブッシュ政権はけっして戦争することはなかっただろう。(あの時期、メガチャーチは何をしていたのか)。あの時期の米国の教会勢力に、「右の頬を打たれたら、左の頬を」というイエスの精神は存在していたのだろうか。米国のキリスト者たちは、「イエスの名において」米国の教会勢力に対して、アフガン戦争を阻止するように全力で働きかけるべきではなかっただろうか。もちろん教団内部においては様々な議論があったことだろう。だが、本来ならばそれらの議論を突き抜けて、「イエスの言葉」のもとに、「報復戦争」を止めさせるために立ちあがるべきではなかったのだろうか。そのことについて、いくら神学的・教義学的議論を持ち出されても、教会のサークルの外側にいる一般市民の心には届かない。

私は、あの時期に米国のキリスト教勢力がそういうふうに動けなかったというまさにその点に、「宗教教団」というものの、動かし難い難点があるのではないかと思っている。これはキリスト教に限らず、ほとんどすべての巨大教団宗教に当てはまることだと思う。

追記:土井さんは、社会をまとめる力としてキリスト教が働く場合には、それに反対しなければならないと言っている。それに加えて、なぜ、キリスト教がそのように働くことがあるのか、911のときにはなぜキリスト教団は総体として報復に反対行動できなかったのかという点の解明をすることも必要だろう。

[][][]ナヴァラサ

 明日の夜、NHK・BS2で放映です。

http://www.nhk.or.jp/bs/genre/movie.html

NHK アジア・フィルム・フェスティバル ナヴァラサ 2005年・インド NAVARASA

BS2 10月17日(水) 午後9:03〜午後10:43

少女の目を通して、性同一性障害に悩むサード・ジェンダーの人々への差別と偏見に迫ろうとした異色作。南インドに住む13歳の少女シュエータは、大好きな叔父ガウタムの女装姿をのぞき見してしまいショックを受ける。男の体の中に女の心を持つガウタムは、自分が何者なのか分からずに日々苦悩していたが・・・。インド最大のゲイ・フェスティバルに集う人々を実際に撮影し、彼らの真実の姿を映し出した一作である。

(原題:NAVARASA)

参考

バイアグラに乾杯!

2007-10-15

[][]京都大学講義「偏見・差別・人権」を問い直す

 京都大学学術出版会の website より。現物は手に取っていないのですが、大学での連続講義が書籍化されているようですね。

京都大学学術出版会:京都大学講義「偏見・差別・人権」を問い直す

2007-10-14

[][]ライスショック あなたの主食は誰が作る

 今晩と明日の夜に放映されるNHKスペシャルです。食糧自給についての特集があるようです。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/071014.html

http://www.nhk.or.jp/special/onair/071015.html

2007-10-13

[][]想田和弘の映画『選挙』BBC"Why Democracy?"で放映

BBCワールドで、いま"Why Democracy?"という、世界の民主主義の現在についての連続ドキュメンタリーを放映している。今日、その日本篇として、想田和弘『選挙』(短縮版)が放映された。これはすでに各国の映画祭などで好評を博しているらしい同名映画の短縮版らしいが、たいへん面白かった。

言語はすべて日本語で、英語字幕が入る。川崎市議会選挙に自民党から出馬する40歳の候補・山内和彦の選挙活動をその私生活にまで入り込んで切り取ったもので、たしかにいまの日本の一側面をあぶり出すことに成功していると思った。

毎日毎日、白手袋で、握手握手、連呼の連続。妻のことは妻ではなく「家内」と呼ぶように指導され、妻はそれに疑問をもちながらも流されていく。いかにも、なドブ板選挙の模様が映し出され、事務所開きの日には神主がやってきておはらいをする。人に会うたびにバッタのようにお辞儀お辞儀の連続。「家内」は英語ではhousewifeと訳されていた。この映像を、BBCワールドでいきなり見るのはすごく衝撃的だった。それまではイラクのテロの模様や、ゴアのノーベル賞や、パキスタンの大統領のことをやっていて、いきなりこの番組にはいる。そしたらお辞儀お辞儀の候補者、連呼する選挙カー、神棚に向かって柏手をうつ人々・・・。これはどこの国? 日本なんですよね。今日、BBCワールドで全世界に放映されました。

ふだんBBCワールドを見ている視点で見てしまったから、たぶん多くの視聴者もそうだと思うけど、ここに映し出されている国では、ぺこぺこお辞儀ばっかりして、年長者の意見には逆らうことができず、最後は「ばんざーい、ばんざーい」と唱和する不思議の人々がいっぱい。なによりも、みんな、身体の動きが硬い。ここに出てきている日本人はほんとロボットのようだ。アジア外に住んでいる人が見たら、これは中国なのか、北朝鮮なのか分からないであろう。私もよく分からなかった。一糸乱れぬ姿で朝礼の体操をしている姿は北朝鮮と言われても不思議ではない。

視聴後の感想としては、よい作品だと思ったと同時に、暗い気分になった。こういう、人々の身体をカチコチにさせるような国には住みたくないな。海外脱出する人の気持ちはよく分かる(もちろん海外も楽園ではないことは承知済みですけどね)。「ばんざーい」三唱はほんとにやな気持ちだ。私が前に勤めていた国際日本文化研究センターでは、正月の仕事始めのときに、職員全員を集めて所長があいさつしたあと、課長の音頭で全員が「ばんざーい」をした(現在のことは知らない)。私は(たぶんひとりだけ)万歳をしなかった。この国は、私のように「みんながしているときに、ひとりだけしない」ヤツに対して、「そんなに日本が嫌いならとっとと出て行け!」と罵声を浴びせる人々が現われる国である。いままで何度もそういう目にあってきたから、もうよく分かっている。これが、私のもっとも嫌悪する日本の側面である。

この番組は、日本では、NHKBSで10月19日深夜に放映される。

http://www.nhk.or.jp/democracy/yotei/index.html#yotei10

BBCでは、英語字幕付きの予告編を見ることができる。

http://www.whydemocracy.net/film/5

ドキュメンタリーとしては非常によくできている。この想田和弘という若手の監督はかなりの将来性があると思う。

BBCサイトには、以下のような解説がある。

Japanese elections politics are shaped by traditions and formalities. You have to have your campaign endorsed and blessed. You have to have the right people endorsing it and you have to have the right family structure and the right bow and handshake to even be considered for a policial post. It makes us wonder whether a person with no political background can accomplish anything in politics? Looking ahead how important is it for our society that the people running the country actually knows what they are doing?

この国で政治家になるためには、「the right family structure and the right bow and handshake」が必要なようだと。それはこの映像を見た者の正直な感想だろう。

2007-10-12

[][]筑摩書房の新刊(11月)

 来月の新刊情報です。注目は、サルトルの『存在と無』の文庫化でしょうか。梅田望夫さんも新著を刊行されるようです。

http://www.chikumashobo.co.jp/comingbook/

[][]21世紀のドストエフスキー〜テロの時代を読み解く〜

 明後日の夜、NHK教育「ETV 特集」でドストエフスキーの特集が組まれています。『カラマーゾフの兄弟』新訳を刊行された亀山郁夫さんが出演されるそうです。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html

2007-10-11

[][]雨宮処凛『プレカリアート』

雨宮処凛さん、今年いったい何冊出すんだろう、と思いながら今回もまた読んだ。

プレカリアート―デジタル日雇い世代の不安な生き方 (新書y)

プレカリアート―デジタル日雇い世代の不安な生き方 (新書y)

はからずも有名になってしまった言葉「プレカリアート」とは、「プレカリオ(不安定な)」と「プロレタリアート」の造語であり、「不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者・失業者を総称している」(カバーの耳より)。いまや、ネットカフェはおろか、ファストフード店で100円のハンバーガーを注文し、トレイを横にし「自分は客だ」と主張しながら、仮眠をとる者まで出始めてきている、とこの書は述べる。

注目は何と言っても石原慎太郎・東京都知事との対談だろう。ひたすらすれ違っている感を受けたが、その中にも得も言われぬ「一体感」のようなものがあるような気もした。しかし、やはり「努力の大切さ」を強調する石原都知事には、雨宮さんの言う通り、「努力しても報われない人。努力する機会すら与えられない人の存在は、都庁のビルからは見えないのかもしれ」(p.216)ない。

2007-10-10

[][]今日・明日のクローズアップ現代

 「いじめ」と「生活保護」の特集を組んでいます。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

2007-10-09

[][][][][]英国で15歳の女性から子宮摘出準備

イギリスで、脳性マヒの15歳の女性から子宮摘出がなされる用意があるとの報道があった。

「Disabled 15 year-old girl to lose womb

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/health/article2603965.ece

以下、論争点になりそうなところを整理する。

・女性は15歳。

・母親が依頼。

・女性は脳性マヒであるが、いたって健康。

・月経時の周りへの不便、迷惑をなくすことが理由。

コメント欄には「彼女が母親になるなんて考えられないから、彼女の母親には依頼する権利がある」という意見もある。

要注目の「事件」である。

*追記*

kanjinaiさんのコメントで、より詳しい記事を教えていただきました。

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/health/article2604771.ece

さらに追記。

The Guardianの記事

Mother defends hysterectomy for disabled daughter

The Daily Telegraphの記事

Let disabled Katie Thorpe’s mother decide

The Daily Telegraphの記事へのRobert Softley氏のコメントの試訳(yuubokuさん)

http://fragments.g.hatena.ne.jp/yuuboku/20071009/1191947055

[][]NHK高校講座

 NHKラジオでは、高校生向けの講座を放送している。

 最近気がついたが、ウェブサイトが開設され、いくつかの科目では過去の放送がネットで聴けるようになっている。

「倫理」

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_rinri/index1.html

講師陣

「現代社会」

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_syakai/

講師陣

2007-10-08

[][]"Girls and Guns"は米国の病か?

米国のネットテレビで、Girls and Gunsという番組が大ヒットの兆しを見せているようだ。これは、10代から20代のセクシーな女性を公募して、全員に水着を着せて本物の銃やマシンガンを渡して、標的の車や人物人形を撃ちまくって破壊させるゲームである。4人の参加者で競わせ、2人が勝ち残る。一種のリアリティショーである。番組を発案したのはアウトドア系の女性である。番組のサイトで、大型銃を撃つのが好きな女性を募集している。

勝者の女性を決める基準は、"Girls are judged on a point system judged on accuracy, speed, form, and sex appeal" とのことだ。

百聞は一見にしかずなので、映像を見てみよう。こういうのがダメな人は見ないように。

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[][]『夕凪の街 桜の国』多層化する生者と死者

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

ネタバレありなので、隠しておきます。

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2007-10-07

[][][]愛と暴力の間

 杉田俊介が、弱者暴力についての批判を書いている。暴力の加害者は、ときに、別の暴力の被害者でありうる。そのとき、加害者は、過去の被害体験を持ち出して、自己のふるった暴力を正当化することがある。そのことについて、杉田さんは、簡潔に述べている。

この数年、私自身のだめさをふくめて、自分の足元を鶴嘴で掘り進めたあげく、行き当たった岩盤(足場)のありかを今、一つだけ再確認するなら、それは「かつて悲惨な被害にあった当事者が、それを理由に、別の人間に何をしてもいい、傷ついた人間が直接間接に他人を傷つけて構わない、とは言えない」、という単純な事実であるらしい。

杉田俊介「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(後半)」『いきすべき批評』(http://www.allneetnippon.jp/2007/08/4_10.html

読んでいて、私もこの数年の自分のだめさが頭を駆け巡った。

 これは、由緒正しき左翼の自己批判である。私の友人(左翼)が、同じように自分がやらかした弱者暴力を自己批判していた。それをみて、私が「なんでそんなことするの?」と聞くと、「私の人生を総括する必要があったから。」と答えた。なるほど納得である。「ソーカツ」「ジコヒハン」と聞くと、連合赤軍やらなにやら、きな臭い関連キーワードが出てきそうだが、それ自体が悪いわけではない。杉田さんを、だめな左翼だと批判する人がいるようだが、だめじゃない左翼*1だと思った。

 杉田さんには、以下の批判も加えられている。

 杉田さんも指摘しているように、「弱いものがさらに弱いものを叩く」ことがあるとしても、それが自覚的に行われることはほとんどない。「ジャイアンに殴られて痛かった。だから僕は飼い猫をいじめる」とのび太が言ったとしたら、「いや、それはおかしんじゃね?」と批判することができるだろう。でも、弱者が強者と戦い、暴力に抵抗しているつもりで「さらに弱いものを叩」いてる場合は、いったい誰がそれを「弱者による暴力」であると認定するんだろうか? そしてそのような批判は、「強者」による暴力との関係でどんな意味をもつだろうか?

常野雄次郎「『弱者による暴力』に対する暴力について」『共産主義、入門中』(http://www.allneetnippon.jp/2007/09/5_9.html

この問いには、私は、被害者による異議申し立てから出発するしかない、という答えが出ていると思う。「お前がどれだけ強者と闘っていようとも、おれの足をふんずけるのはやめてくれ」という異議申し立てによって、なされる。この文章では、杉田さんは、弱者暴力の被害者、という立ち位置から、論争相手の弱者暴力への異議申し立てをしている、と私は読んだ。*2そして、常野さんが心配する、「『弱者による暴力』を批判するという名目による暴力の方が蔓延している」(常野、同ページ)ことに対しては、それはそれで批判が必要だろう。弱者暴力を批判することと、弱者暴力を口実に、弱者に暴力をふるうことを批判することは両立する。もぐら叩きのようでうんざりするかもしれないが、それはうんざりしつつ、やるしかない。*3

 それはともかくとして、杉田さんの最後の部分が、「それ怖いです」(http://d.hatena.ne.jp/demian/20071007/p13)と批判されているので、もう一度読んでみた。

 微小な違いだが、「弱者暴力との抗争」と「弱者との闘争」(アドルフ・ヒトラー)は違っている。決定的なのは、全ての追い詰められた弱者が必ず弱者暴力を振るうとは限らない、という単純だが圧倒的な事実だ。しかし、「弱者暴力との抗争」を「弱者との闘争」から分離しうる基盤は何だろう。戦いがたんなる戦いのための戦い、殺し合いの螺旋ではなく、弱者暴力を振るうその他者――弱者ゆえに最大の敵――をあるやり方で愛するからこその戦いであること。その愛自体が「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(『マタイ福音書』)というタイプの、わかりにくい愛、殺意をもふくむ愛であること。言葉の一粒ひとつぶが愛の雪片でしんしんとぬれてあること。

杉田、同ページ

この部分は、本当に難しいと思う。なぜなら、「お前のためだ」といって、暴力をふるうのは虐待やDV常套句であり、そこには「お前を愛しているからだ」という言葉が添えられやすい。だから、この『マタイ福音書』じたいの、扱いが難しいのだ。

 その上で、私はこの「殺意を含む愛」はもっと掘り下げて考える価値のある言葉だと思った。おそらく、この一節は、固定された関係性を掘り崩すなかで、保たれていた平穏が失われ、敵対が生まれる可能性を示しているのだろう。みたくないものに蓋をして平和を保つことではなく、それをこじ開け敵対することを愛とする。*4

 ここで、たぶん、もう、何千年も、人類が誕生したときから人間は考えていたのではないか、と思うような、次の問いを繰り返すことになる。「愛と暴力は、どうやって線引きすればいいのだろう?」もちろん、これも異議申し立てと、討論的、論争的やり取りの中で探っていくしかない。しかし、なぜ、人間は愛するものに、暴力をふるってしまうのだろう。そして、なぜ、暴力をふるわれるとき、その相手に対する深い思い入れ――これは愛としか言いようがないのではないかという思い入れ――を持つことがあるのだろうか。

 私は、杉田さんが、まかりまちがって、論争相手を死に追いやるのではないか、という意味で怖いとは思わない。ただ、この暴力の前に、論争相手を愛する、という結論は――崇高だと思うが――怖い。杉田さん個人が、ではない。私も、愛するよりほかに、暴力の連鎖を止めることはできない、と思うから怖いのだ。なぜ、誰かを愛そうとすると暴力があらわれ、暴力があらわれると愛が必要になるのか。暴力と愛の密着度が怖い。

追記:コメント欄でお知らせいただいたので、demianさんの記事の移動に従い、リンクを修正しました。

 ところで、私は杉田さんの文章に関して、一つ目の引用を誤読していることに気づきました。杉田さんは、この数年、自分のだめさを考えておられたんですね。私は、この数年、だめだっただけで、まだあんまり考えてません。似て非なる両者の、この数年でございます。

*1:杉田さんは、別にだめな左翼でも、問題ないと思いますけど。

*2:念のため書いておくが、「暴力への異議申し立て=暴力の認定」ではない。異議申し立てを、議論に発展させていくことが重要である。杉田さんの最終部の「私自身を含めて、誰が加害者/被害者/弱者なのか、自分たちが今どんな「議論の場」でこの泥のような議論を続けているのか、土と泥を分けられるのか、それ自体が自明ではなく、討論的=論争的に決められていく以外ないのだ。」(杉田、同ページ)も参照。

*3:そもそも、人間が暴力をふるうということ(ついでに言うと、自分も暴力をふるうということ)自体が、うんざりすることである。由緒正しき左翼でいるためには、粘り強く気長にならねばならない。(で、すぐにキレるのが、だめな左翼の典型だと私は思っている)

*4:この一節を、ぜひ結婚式の説教で言って欲しいと思った。…ウソです、それこそ「それ怖いです」。

2007-10-06

[][]松浦理英子『犬身』という本

犬身

犬身

異才の小説家、松浦理英子の『犬身』という本が手もとに届いた。帯には「『親指Pの修業時代』から14年。今、新たに切り開かれる魂とセクシュアリティ」と書かれている。そうか、親指Pからもう14年も経つのか・・・という感慨が。親指Pは傑作だったが(書評)、今回の作品はどうなのだろうか。読んでみようと思う。しかし、500ページもある大著が、2000円で刊行できるというのは、うらやましいといつも思う。もし哲学書だったら4800円とかになるんじゃないかなあ。帯裏「好きな人間に犬を可愛がるように可愛がってもらえれば、天国にいるような心地になるっていうセクシュアリティね」とある。たぶん本文には、いろんな仕掛けがあるにちがいない。

[][]ミャンマー軍による長井健司さん殺害に抗議するブログ

「ミャンマー軍による長井健司さん殺害に抗議する」というブログが、署名を集めています。ミャンマー政府に抗議文を提出するとのことです。ご関心のある方はご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/

2007-10-05

[][]『イメージでわかる単語帳』もまた傑作

前回は、中学生向けの英語学習本を紹介したが、そのレベルを終えたと自負する方は、これをお薦めしたい。

これは、NHK教育テレビで2006年に放映していた内容(「新感覚☆キーワードで英会話」)を一冊にまとめたもの。テレビもたまに見ていたが、こうやって一冊に圧縮してまとまってみると、これは英語学習本の近年の傑作であることがよく分かる。150語近いコア単語に、イラストによるイメージをつけて、直観的に中核的意味がつかめるようになっている。口では説明しにくいが、書店で手に取って見てみたら、その意義は一発でわかるだろう。このブログを読んでいる方で、ここにある150語弱を知らない人は皆無だと思うが、それぞれの単語の中核的イメージをきちんと言える人もまた皆無だろう。

とにかく、読み物として面白い。私は買ってから数日で読破してしまった。また、文中に収められたフレーズ・例文も非常に的確かつ有用なので、これを暗記するだけでかなり会話は上達すると思う。動詞、前置詞、形容詞、名詞というように分類されているが、個人的には、形容詞篇がいちばん面白かった。初級者向けに見えて、実は中級者から上級者向けの本だと思う。

というわけで、今後も、良質の英語学習本を紹介していくことにしたい。

2007-10-04

[][]フランス現代思想家関連書籍

まずは、10月6日にドゥルーズ『差異と反復』が文庫になるらしい。『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』『意味の論理学〈上〉 (河出文庫)』『フーコー (河出文庫)』などに続いて。文庫化してくれるのは、本が軽くなり電車で読めるので大歓迎。

『差異と反復(上)』出版社のサイト

続いて、いま読み進めている2冊。

デリダマルクスの亡霊たち』の本の帯を見ると、近刊の『別冊・環(13)』はデリダの特集らしい。ここにデリダ最後の生前講演「赦し、真実、和解――ジャンルは何か?」が収録されるらしい。発売日は書いていないのですが、font-daさん、注目では?

[][][]関西レインボーパレード&秋の関西クィア映画祭

 今月末には、関西レインボーパレード(http://www.kansaiparade.org/kanpare/index.html)が開かれます。去年はあいにくの雨だったけれど、今年は晴れるといいなあ。

関西レインボーパレードは

パレードとして賑やかに歩くことで、自分の周りにはいない遠い存在と思っている社会に対して、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーなど)といったセクシャルマイノリティ(性的少数派) の認知を向上させ、身近に一緒に生きている、そして共に生きる社会を作るきっかけにしたいと考え、2006年から大阪のメインストリートである御堂筋を舞台に開催しています。

「パレードの目的」『関西レインボーパレード2007』(http://www.kansaiparade.org/kanpare/mokuteki.html

東京のクィア学会設立と同日です。どっちに行くか迷う人もいるかも。(追記:同日ではなくて、翌日でした。クィア学会は27日。強行軍で両方行くこともできるみたいです。)

・日にち 10月28日(日) 13:00集合

Date.28.10.2007.Sun Gathering at 13:00

・集合 中之島公園女神像前

(大阪市営地下鉄・京阪 淀屋橋駅下車 徒歩2分 大阪市役所前)

Place: Nakanoshima Park south of Osaka City Hall

(2 minutes walk from either Keihan Yodoyabashi or Midousuji Yodoyabashi Sta. exit No.1)

http://www.kansaiparade.org/kanpare/route.html

 加えて、協賛企画があがっています。「秋の関西クィア映画祭」だそうです。

 今回の関西レインボーパレード(*注2)協賛上映会では、過去3回の映画祭 で上映された作品の中から、選りすぐりの作品を上映します。また単に映画を 見るだけではなく、映画についての感想を述べあったり、参加者同士で交流する時間も設けるなど、参加型の濃ゆ〜い企画にする予定です。

http://kansai-qff.org/2007/1103/index.html

このブログでもたびたび話題にのぼる「まんこ独り語り(初級編)」も上映されるようです。

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[][][][]秋山駿「内部の人間の犯罪」

内部の人間の犯罪 秋山駿評論集 (講談社文芸文庫)

内部の人間の犯罪 秋山駿評論集 (講談社文芸文庫)

 表題作の「内部の人間の犯罪」は、初出が1967年になっている。文庫版になり、再録されている。もしかすると、有名な文章かもしれないが、私は初めて読んだ。1958年の、小松川女高生殺人事件で加害者になった少年の心理を、推察したもの。あまりにも詩的で感傷的すぎるきらいもある。しかし、よく踏み込んだ考察になっている。

 秋山さんは、加害少年を「内部の人間」と称する。内部の人間は、自己内におのれの世界を生み出して、充足しようとする。秋山さんはこう書く。

 閉ざされた場所で自己完了しているものは、いわば本当の自分を仮死状態においている。そこで、つまり、偽りの無私、というような状態が成立する。この状態が外部、あるいは相手の人間に向けられるとき、外部がどんなに任意のまた思いがけない展開や行動を示しても、それがそのまま、この状態に描かれるところの一つの軌跡になってしまう。そのすべてがわが事のように完了してしまう。そういう性質をもつのだ。無私のカンヴァスにはどんな線も可能だから。相手が勝手なことをする。それこそ想像された、むしろ予期された行動だったのだ、と思うことだけはこちらの自由なのだ。これが内部の人間の秘密の生活の場所だ。

*引用者注:傍点は省略した

(25ページ)

そして、加害少年の手記を引用しながら、「自分が殺した」とわかっているが、それがリアリティを欠いた状態だと述べる加害少年を分析する。

 人を殺しながら、絞めているのはおれだと考えながら、しかもその全体は夢のように感ぜられる――これは外部からの証明を欠いた内部的行為の性質である。内部的行為とは意識の内部でのみ完了するような行為である。それは結局、夢のような行為、あるいは夢のなかの行為である。意識が意識を追い、想像が想像を追う、それだけが唯一の渦動であるような内部に閉じこめられている人間には、ある行為のどこまでが内部であり、どこまでが外部であるか、その区別があいまいであり境界の標識が厳密さを失って稀薄になっている。

(略)

 夢のような行為から一歩をふみ出す。あいまいな夢の世界に忍耐し切れなくなったために、とにかく一歩をふみ出す。その動力となるものが、思考の作用であるか、自慰行為の発展であるか、それはどうでもいい。この一歩が兇行となってあらわれる。

 兇行として行われたものは外部である。しかし、彼は、自分の内部から一歩をふみ出しただけなのだ。事件の全体のどこに自分に意想外な新しい現実の一片があるのか。全体はその細部まで一つ一つ、想像のなかの事柄と同一の状態であり、等質の性質ではないか。もう一度同一のことがあるにすぎない。これはやはり夢のような行為であって、一つの新しい現実の体験ではない。どうか自分に、それが一つの恐るべき行為であり、一つの異常な経験であることを、強く実感させてほしい。わからせてほしい。これが内部の人間の弁証法である。

(45〜46ページ)

 この二十年後、秋山さんは、事件の裁判調書を読んで憤慨している。

 もし犯罪が、一国の知的水準を示すものなら、というより、その国に住む市民の生の意識が、人間的生存の深さを手探って測る、深度を示す目盛りのようなものだとすれば、この事件に見る限り、犯罪へのわれわれの感受性は、おそろしく低くて、鈍い。この裁判調書には、犯罪を愛撫しているという趣がない。おそろしく鈍感で、もっとわるいことには、生きた人間を歪曲し、なるべく犯罪モデル人形に近寄せて処刑してしまえばそれで済む、といった、生への無関心を露呈している。ここに描かれた犯罪は、小さな檻に入れられ、飼われ、観察されている低い動物のそれである。小さな檻に入れるから犯罪が惨めになるのだ。檻とは、犯罪へのわれわれの頭脳の機構であり、日常の意識である。われわれは恥じなければならぬ。われわれへの犯罪への意識には、いかなる繊細さもなく、また、想像力というものがまったく欠けているのだ。(警官よ、裁判官よ、新聞記者よ、それは君等のことだ。そしてあるいは、この私のことだ)。檻を壊してみよ、犯罪はたちまち生気を帯び、暗く、謎めき、しかしときに異常な輝きを発しながら、一匹の黒豹のごとくに疾走するであろう。

(204〜205ページ)

秋山さんの、犯罪への思いいれは、あまりにも深い。加害者を英雄視しかねないくらい、熱心である。しかし、現在の、犯罪加害者への盛り上がっているバッシングより、生々しくて熱情的だ。普通では考えられないような、おそろしい行為をなしてしまう加害者とは、いったい何かという疑問を執拗に追う。加害者になった人間と、そうでない人間の違いが、紙一重でありながら、埋まることのない断絶であることを描く。「私も人を殺したかもしれない」ということと、「私は人を殺した」ということの間には、決定的な差がある。その差は、繊細になり、想像力を限界まで働かせなければ、浮き上がらないのだと、秋山さんはいう。

 現在、秋山さんが「内部の人間」と称するような加害者は、精神鑑定にかけられ、なんらかの精神異常として病名がつけられるだろう。精神科医が責任能力の有無を確定するだけではなく、マスコミ報道などで、コメンテーターのタレントまでもが、いっぱしの診断をくだす。秋山さんは、この文章の中でも、精神分析心理学に偏重する世相に批判的である。しかし、当時とは比べられない勢いで、精神医学は、重んじられるようになった。その結果、人を殺す人間と、殺さない人間の差は、DSMによって説明されるようになった。

 一方で、秋山さんが引き合いに出すのは、文学作品である。ドストエフスキー『白痴』、カミュ異邦人』の登場人物と、加害少年を比較する。また、2005年には、昨今の少年犯罪を論じて、秋山さんは、「内部の人間」が外部に一歩をふみ出すのは、早熟な詩人が初めて詩を書くのと似ているのだといっている。「なぜ殺したのですか」「わからない」という問答と、「なぜ詩を書くのですか」「わからない」という問答を重なり合わせる。

 文学は、次のように考える。

「分からない」というのは、真に分らないわけではなく、人が心の奥に秘めたる言葉、それを、原因と結果を二二が四のように結ぶ社会の言葉に翻訳することができない。あるいは、秘めたる言葉を、生のまま現実化する言葉を見出せない、ということであろう。その秘めたる言葉を探るのが、文学である。

(276ページ)

 秋山さんの言葉づかいは古く、読みにくい。しかし、現在の日本の犯罪についての言説の中で、かなり面白い。加害者は異常である、というのは当然である。その異常さに接近するためには、秋山さんのような異常な熱情が必要なのかもしれない、と私は感じた。

2007-10-03

[][]“就職氷河期世代”夢はつかめるか

 明日のクローズアップ現代です。就職氷河期世代・若者の就職問題を扱うようです。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

 今、人材派遣会社の斡旋で中国へ渡る就職氷河期世代が増えている。仕事は、人件費の安い中国にアウトソーシングされた、企業の電話応対業務。給与は現地の人とほぼ同じ。そのかわり中国語の教室にただで行ける。日本では切り開けそうにない「明るい未来」をつかむための挑戦である。就職氷河期世代の「勝ち組」と「負け組」の格差はますます開いている。就職の狭き門をくぐった勝ち組は、景気の回復で今ひっぱりだこ。極端に層がうすいこの世代を増強しようと引き抜きが加熱している。しかしそうした熱いまなざしは、就職できなかった負け組には向けられない。多くの人たちが相変わらず非正規社員として働いている。閉塞した状況を抜け出す道が、中国だというのだが・・・。若者の夢と厳しい現実を追う。

(NO.2472)

2007-10-02

[][]岩波書店の新刊(10月)

 今月の新刊情報です。哲学関係では、中島義道さんの本が出ますね。

404 Not Found

2007-10-01

[][]地域の医療はよみがえるか

 今晩のNHKスペシャルです。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/071001.html

[][]生物が生物である理由(わけ)

 「爆笑問題のニッポンの教養」に、福岡伸一分子生物学者)さんが出演されるそうです。明日の夜、NHK総合夜11:00からです。

http://www.nhk.or.jp/bakumon/nexttime/

 参考

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』 - G★RDIAS