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2007-11-30

[][]脳科学倫理を問いなおす

脳神経倫理についての以下のイベントがあります。興味深いテーマですし、関心ある方はぜひ参加されてはいかがでしょうか?

生命倫理政策研究会」・第91回くすり勉強会の共催シンポジウム


■日 時 : 2007年12月22日(土)13:30〜18:30

  場 所 : 共立薬科大学3号館5階大学院セミナー

(JR浜松町駅、都営線大門駅・御成門駅から10分以内)

http://www.kyoritsu-ph.ac.jp/general/index.html

  参加費 : 2,000円 ※定員になり次第締め切ります。

◆「被験者」としての脳〜脳科学倫理を臨床から問い直す

◆発 表:

   ぬで島 次郎(生命倫理政策研究会共同代表・科学政策論)

「精神外科と脳研究の過去と現在〜ニューロエシックスはロボトミーの夢を見るか」

◆特別講演:

   片山 容一氏(日本大学医学部長・脳神経外科

「脳深部刺激(DBS)の開発〜その現状と展望」(仮題)

◆コメンテーター・司会:

   光石 忠敬(生命倫理政策研究会共同代表・弁護士)

「日本の脳死論議の総括から」(仮題)

◆開催趣旨:

 脳科学がブームになっています。教育や認知能力の維持向上などの応用への期待がその背景にあります。

 一方で、日本では長く脳死論議が闘わされてきました。最近の世論調査でも、脳死を人の死と認めると答えた人は、半数に届きませんでした。脳死肯定と否定の議論は決着がついていないわけですが、どちらの立場にも共通しているのは、脳は人の本質に関わる最も重要な臓器であるという認識だと思います。

 では、いまの脳科学において、脳はその特別な地位にふさわしい扱いを受けているでしょうか。様々な能力の発現・向上のための道具のように見られてはいないでしょうか。脳に研究目的で介入することは、どこまで・どのような条件で許されるでしょうか。

 私たちは今回、この問題に取り組む糸口として、脳の外科的臨床と脳研究との関係を取り上げることにしました。まず、封印された精神外科の歴史と現在を概観し、その脳研究とのつながりについて考えます。次に、日本の脳深部刺激の第一人者でいらっしゃる片山容一先生をお迎えし、機能的脳神経外科の歴史と現在についてお教えいただき、脳の臨床と脳研究の今後の方向性についてお考えをお聞かせいただきます。

 自由討議の時間もできるだけ長く設けたいと思います。どうぞふるってご参加ください。


★申し込みは、下記必要事項をご記入の上、栗原まで。 chieko.kurihara@nifty.ne.jp

【申込み要項】

お名前・ご所属またはお仕事など・メールアドレス をご記入ください。

(上記の個人情報は、講演者・運営メンバー・場合によって当日参加者の間で、共有されます。)

懇親会への参加・不参加をご記入ください。

[][]いま、障害者はどう社会と関わるか(仮)

 明日の夜、教育テレビ 午後7:00〜10:00 の放映です。

エラー|NHKオンライン

2007-11-29

[][]『医療倫理と合意形成

医療倫理と合意形成―治療・ケアの現場での意思決定

医療倫理と合意形成―治療・ケアの現場での意思決定

医療倫理の基本原則の一つである「インフォームド・コンセント」の限界を指摘したうえで、それにかわる「合意の原則」を提唱した、しぶい研究書。環境倫理の住民集会、人工妊娠中絶のワークショップ遺伝子治療コンセンサス会議を念頭に置きながら、医療現場における「合意形成」こそが、ここでのキーであることを主張している。その際に重要となるもののひとつは、「関係者が意見の理由や思いを共有することで信頼を深めていく」ことである。

従来からいろんなところで言われていたことだが、このようにモデル化してみせたのは役に立つだろう。環境倫理の桑子敏雄研究室の実践から学んで医療倫理に応用しているらしいことがとくに興味をそそられる。

2007-11-28

[][]33カ国共同制作「民主主義」

 kanjinai さん紹介の「民主主義」のシリーズですが、お正月に、NHK総合(地上波)で放映されることになりました。

想田和弘の映画『選挙』BBC"Why Democracy?"で放映 - G★RDIAS

 放映日時は、番組表で確認してください。

http://www.nhk.or.jp/democracy/yotei/index.html

[][]ロボットとの愛とセックス

Love and Sex with Robots: The Evolution of Human-Robot Relationships

Love and Sex with Robots: The Evolution of Human-Robot Relationships

以前のエントリー「女性型ロボットへの性的欲望の未来」で、女性型ロボットとのセックスについてみなさんにお聞きしたが、今年の11月に、ずばりそれをテーマにした本が英語で出版されて、世界で評判を呼んでいるようだ。この著者は、人工知能の研究者で、人間とロボットのセックスはもうすぐ可能になるし、その先には、人間とロボットの結婚という事態が生じるだろうと言っている。それを最初に認めるだろうのは、米国のマサチューセツ州だろうと言う。そもそも、人間がロボットに愛情を感じるように、ロボットをプログラミングするのは可能だから、結婚する人も出てくるだろうと。それで、もしそういう人が多くなったら、人口減少社会が本格的に到来すると。これはマースリヒト大学に提出された博士論文を本にしたもの。日本の大学と違って、研究テーマが自由に認められて、さすが欧州の有力大学ですね。

キャッチーなので、きっと日本語訳もすぐに出ることだろう。ロボット大国、アキバの国、日本からはこれに対抗する研究は出ないのか?

2007-11-27

[][]英語の支配の件

北海道大学の国際集会で感じたことがある。いま、応用倫理関連の共通語は英語である。だから私もずっと英語の勉強は続けている。また英語が共通語になっているおかげで、学会に来ていた欧州や台湾やアフリカの人たちともコミュニケーションできるというのはすばらしいことである。

が、同時に、英語帝国主義の問題はやはり避けては通れないという思いも強い。まず、英語が会議の言語なので、まず米国らの英語ネイティブの人たちの話す英語があまりにもスピードが速く、非ネイティブには着いていくのがやっとである。その結果、どういうことになるかというと、議論の基本的な方向性が米国人を中心とする英語ネイティブの人々によって決定されてしまうのである。また、彼らの英語が分からないときに、彼らがそれを言い直すということは、こちらがあえて尋ねないかぎり起きない。そして私の経験上、米国から来ている学者の多くは、自分の英語にまわりが合わせて当然、という暗黙の態度でしゃべる。(まれにその点に非常に気配りする人もいるが)。非ネイティブの人は、自分の言いたいことを、非常にシンプルな英語でしか表現できない。それに対して、ネイティブの人は、複雑なことをそのまま複雑な英語でしゃべる。その結果として、議論のベースはネイティブによって設定されていくのである。このことは、会議に出席していた日本人からも訴えられた(私は司会をしていたので)。

これは基本的に、英語を第二言語とするわれわれが考えるべき問題ではなくて、英語ネイティブの彼らが考えるべき問題である。だが、そういうことはほとんど起きない。英語がしゃべれて、そして英語で複雑なことが言えて当然、という設定がなされている空間では、そういうことは起きないのである。だが、今度私が司会をする機会があったら、ネイティブの人は簡単な英語でゆっくりしゃべってくださいと言うことにしよう。(どこまでの効果があるかわからんが。ただ、以前に筑波大であった会合のときは司会者の外国人がそういうことを最初に言ってくれてとても気持ちよかった)。

そういえば、ある分科会で、白人男性の司会者が、北大の大学院生の発表者を紹介するときに、「He is a local boy」と言っていたが、これは聞いていて不快だった。ここの大学院生の男の子というくらいの意味だろうが、知り合いでもないのに、こういう見下すニュアンス(boy)はいただけない。それとも、この英語にはそういうニュアンスはゼロなんでしょうかね? (ジーニアス英和辞典には「かつて黒人男性を侮蔑的にboyと呼んだことから,黒人に対して用いるのは軽蔑(べつ)的」とある)

[][]貧困問題の放置は違憲

 東京新聞が「試される憲法」を連載中ですが、ウェブサイトに生田武志さんのインタビューが掲載されました。生田さんは本ブログでも紹介した「フリーターズフリー」の組合員の一人。今年『ルポ最底辺』(ちくま新書)も刊行されています。

東京新聞:ページが見つかりませんでした(TOKYO Web)

2007-11-26

[][]<貧困>は自己責任ではない

JANJAN のウェブサイトより。湯浅誠さん(自立生活サポートセンターもやい)の講演会の内容が紹介されています。

no title

[][][]復刊リスト2007

紀伊国屋書店のウェブサイトより、今年復刊した学術書のリストです。

紀伊國屋書店

[][]アキ・ラーの少年たち

 今夜 9:10〜10:00 放映のBSドキュメンタリーです。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/071126.html

 番組表によると、今週は山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映される作品を放映しているようです。

エラー|NHKオンライン

2007-11-25

[][]生命学研究会2

生命学研究会の第2回目の告知です。締め切りは12月31日です。詳しくはこちらをご覧ください。

 ↓

http://www.lifestudies.org/jp/kenkyukai02.htm

2007-11-24

[][]WOMEN'S DIARY PROJECT「WOMEN2008」

 私は、去年からWOMEN'S DIARY PROJECT(http://www.womens-diary.com/pc/)が作っているスケジュール手帖を愛用している。今年も、「WOMEN2008」を取り寄せた。この手帖は巻末に、付録で月経周期表、公立女性センターリスト、DV相談支援センターリスト、相談できる施設・団体リストなどがついている。いつも持ち歩いている手帖に、緊急時や困った時に連絡するあて先のリストがあるのは便利だし、心強い。当然だが、毎年、リストが更新されるので、連絡先が変わりやすい当事者グループや新しくできた団体の情報を得ることができる。

 また、今年は、妊娠・避妊についての情報が特集で載っている。もちろん、コンドームの装着法が図入りで書いてあるし、殺精子剤やペッサリーも紹介してある。ピルは言うまでもない。正確な避妊の知識を持ったり、選択肢がたくさんあることを知っておくのは大事だ。

 この手帖を作っているのは、有志の団体である。京都に事務連絡先を置き、1996年から、毎年、発行している。一ページごとに、違うイラストや、一言コラムが載っていたりして、楽しい。ちょっと、バックナンバーも集めてみたい。女性向けで、フェミニズムの要素も満載なんだけど、商品としてもよくできてるなあ、と思う。

[][]お父さんに会いたい 〜アメリカ・崩れる人工授精の匿名性〜

 本日の夜 10:10〜11:00 、BS1で放映です。

http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/

 人工授精で生まれた子どもが100万人を突破したともいわれるアメリカで、遺伝上の父親や異母兄弟と出会い“血を分けた家族”としての交流を続ける人々が年々増加している。これまで人工授精に関しては、精子提供者ドナープライバシーを守る匿名性が原則とされてきた。しかし、親や兄弟を知りたいという子どもの強い思いと、自分の精子から生まれた子どもに責任を果たしたいという父親の願いがこの原則を崩しつつある。その新しい流れをうみだしているのがインターネット。精子の提供者と人工授精児が情報を寄せ合い、血縁者を捜すためのサイトが全米で注目されている。掲示板にドナー番号や個人情報を投稿して互いの存在を知り、実際に父子の対面を果たすケースも少なくない。また、父親と子が絆を築こうと、継続的な交流を続けるケースも出始めた。「本当の父親を知りたい」と訴える人工授精で生まれた子どもたち。彼らは交流から何を確かめ、何を得ようとしているのか。そして、ドナーの匿名性が崩れることで何が起こるのか。番組では、さまざまな家族の交流の現場を丹念に取材しながら人工授精をめぐる新たな動きを見つめる。

[][]パーソン論と障害者

北海道大学で開かれている応用倫理国際集会というのに行ってきた。2日間ずっと英語漬けだったので頭がパーになってるが、気づいたことをひとつだけ。英語圏からの学者たち(白人男性がほとんど)のあいだでは、「自己意識と理性ある者のみが人格であり生きるに値する」という「パーソン論」が当然のように支持されている傾向にある。日本での業界では「パーソン論」に疑いの眼差しを向けるのがある種共通了解っぽいが、それは英語圏の共通了解とは異なる。日本人女性スピーカーが青い芝を引き合いに出して、障害者からの声を聞くべきと言ったのに対して、海外からの学者が、「では親の声は聞かなくてもいいのか?」とすぐさま質問した。スピーカーは返答に苦慮していた。私が司会した分科会では、英語圏からの学者が、自己意識と理性のない段階の赤ちゃんは殺すことも許されるという発表をしたが、会場からはその結論に対する異議は出なかった。(私は司会だったので発言する時間がなかった)。

日本の生命倫理・障害学の暗黙の雰囲気は、英語圏生命倫理の舞台ではあまり通用していない(らしい)ということを再確認した。これだから、昨年の米国での生命倫理の会議に私が参加したときに、米国の障害者団体が会場になだれ込んで実力行使をしたのだろうと思った。(保守派は障害者の権利を擁護するが、背後にはGodがいるので、障害学とはちょっと違うように思う。詳しくは、http://www.lifestudies.org/jp/handai02.htm あたりから調べてみてください)。

2007-11-23

[][]50年目のリトルロック 〜アメリカ 消えぬ人種差別〜

 本日の夜、午後11:10〜午前0:00、BS1で放映です。

http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/

今からちょうど50年前、アメリカ南部リトルロックの高校に全世界の注目が集まった。黒人と白人の共学をめぐり地元州政府と連邦政府が対立、軍隊が高校を占拠するなか黒人生徒9人が初登校を果たした。公民権運動史上に名高いリトルロック危機である。9月には50年目の記念式典も行われるこのセントラル高校が、実はいま深刻な人種問題に直面している。黒人生徒が半数以上を占めるにいたったものの両者が口をきく機会はほとんどない。自動車を乗り回し有名大学に進学する白人生徒と対照的に、黒人生徒は校内で暴力ざたを起こし、就職のメドすらたたない。無関心をよそおう白人生徒と嫉妬と憎悪を深める黒人生徒達。学校側では、黒人生徒のための特別クラスの設置や生活指導などの対策に校長以下が取り組んでいるものの効果はあがっていない。アメリカ社会の格差の拡大も両者をいっそう引き離す結果をもたらした。白人はより裕福に、黒人はより貧しく追いつめられている。対立は半世紀を経たいま、より根深いものとなっているのだ。番組ではセントラル高校を300日にわたって取材。生徒の心の奥深くにくすぶる思いと、アメリカ社会でよりいっそう深刻化する人種問題の実態に迫る。

参考

http://en.wikipedia.org/wiki/Little_Rock_Nine

2007-11-22

[][][]「<私>の自由をはばむもの」を<私>が生み出すこと

x0000000000さんの「これは真の「生殖の自由」なんだろうか」↓を受けて考えた。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071117/1195277074

 人が自由になるための社会運動、特に20世紀の解放運動*1は重要だったし、必要だった。*2その極致が多文化主義だろう。お互いの価値の自由を認め合い、共存を目指すものである。しかし、9.11以降、多文化主義は色あせてしまった。

 多文化主義とは、穏和な分離主義である。認めあえる範囲で認めあい、認めあえない範囲は踏み込まない。もっとも踏み込めない部分が宗教である。特に、一神教の精神は、多文化主義と真っ向から対立する。一神教は、神が唯一無二であることが基底にある。他の存在と、比較すらできない存在が一神教における神である。多文化主義では、この神を、個人の内面に閉じこめることを求める。しかし、宗教を個人の内面の問題とすること自体が、既に西欧的な観念であり、他の一神教と対立することになる。多文化主義は、現代社会の多くの問題を解決するだろう。しかし、解決できない部分も残る。

 そこを解決するためには、どうすればよいのか。やっぱり、なんらかの「正しさ」が必要だろうという話になる。では、どうすればよいのかというと、「自由競争」か「討議」で決めようという二案が出てくる。淘汰され残ったものを「正しさ」とするのか、話し合って合意したものを「正しさ」とするのか。議論は続いているが、どっちにも不備点があり、決着はついていない。*3

 では、出産という問題はどうなのか。

 もし、「女性の解放」を書いたJ.S.ミルだったらどう考えるか。彼は、女性と男性の肉体的格差を減らし、与えられる機会が均等であれば、男女は自由に競争する中で地位も対等になっていくという。ならば、アンドロイドが女性の代わりに出産するようになることに賛成するかもしれない。

 しかし、出産という問題は、「人間を生み出す」という点で特殊である。生まれた赤ん坊は、他のどんな生き物/無生物とも異なる、人間である。子どもを生み出すとは、<私>が<他者>を生み出すことである。ここで、「<私>の自由をはばむもの」とは誰かを考えてみる。*4それは言うまでもなく<他者>である。自由が問題になるとき、<私>と同じではないのに、同じ人間として現われる<他者>をどう扱うのかが、最も問題である。<私>が出産において、自由を追求するとき、それは「自由に、自由はばむものを生み出したい」という矛盾を抱える。そもそも<他者>を生み出すこととは、新たに増える<他者>一人分の自由を、<私>が放棄することである。

 アンドロイドに出産を代行させれば、出産する肉体をもつ女性は自由になる、と言えるかもしれない。しかし、アンドロイドの出産で、この世界にひとりの<他者>が増えることにより、<私>は<他者>ひとりぶんの自由を、この世界から失うことになる。この問題をも自由を求めることで解決しようとすると、どこまでも<私>と同じ、クローンとしての<私>を出産することを望むことになるだろう。しかし、クローンとしての<私>でも、やはり私の目の前に現われるときには、<他者>として捉えることになるだろう。でなければ、<私>の「ここからここまでが<私>という感覚」が基底から覆される。または、<他者>を増やすことをやめ、出産しないことが人類が自由への道である。

 出産について、自由を追求するという観点から言うとすれば、「産まない」というのが一番簡潔な解決策だ。<他者>を生み出すことをやめるのである。では「産む」ことは自由を放棄することなのか。そういうわけでもないだろう。産むことにより、享受していた自由は、減るかもしれない。しかし、自由という概念の核に触れる経験になる可能性もある。なぜなら、自由をはばむものは<他者>であるが、<他者>は自由という概念を生み出す源でもあるからだ。<他者>が存在しなければ、<私>は自由を問題にしないだろう。ここで、自由を追求することだけが、自由を尊重するわけでない、という仮説が立てられる。ひとは、出産を通して、不自由になることで、自由について考え始める原初に立ち戻るのではないか。それは、「なぜか、ひとは不自由になるのに<他者>の存在を求めてしまう」という謎を含む。

 

 以上をみていくと、私が先に述べた、解放運動の末の多文化主義が、「正しさ」を必要としたのとは別の形で、自由について思考する経路が開ける。

[][]『なぜ意識は実在しないのか』

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

永井均さんの新刊を入手。パラパラと全体を読んでみた。ある意味、非常にシャープな主張をしていて、刺激的な本になっている。ただ、このシリーズ全体の特徴というか、講義形式はいまいち読みにくいとも言える。永井さんが問題にしたいことは、私もかつて彼と議論の応答をしているので、ほぼ完全に分かる。永井さんの出している答えの方角も、大きな異論はいまのところ思いつかない。再確認したのは、この問題設定それ自体はやはりヴィトゲンシュタインの手のひらの上だろうということ。永井さん自身は、たとえば私的言語の可能性についてのヴィトの解決は間違っていると断言していて、ヴィトの追随者ではないとしているが、私的言語という議論枠組みそれ自体はヴィトの手のひらの上ということに違いはない。ヴィトの呪縛を脱するには、このような問題設定それ自体から脱出するしかないだろう。しかし脱出するにはあまりに魅力的な問題系であるが。永井さんの言いたいことは、もっと前に進められるように思う。いずれちゃんと読み返して、きちんと絡んでいきたいと思っている。

*1:「○○である自由」を求めるアイデンティティ・ポリティクス、と言ってもいい。

*2:まだ、必要ですけど。私もコミットすること多いし。

*3:いまのところ、前者が優勢。

*4:以下の、自由を自他関係から捉えるアプローチは、社会学者・大澤真幸の自由に関する議論からヒントを得た。

2007-11-21

[][]腐女子ノ先ニアルモノ

 本日の深夜、フジテレビ系列で放映です。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/index2.html

 「オタク」 辞書を引くと「ある事に過度に熱中していること。また、熱中している人。」とある。メディアにたびたび登場する彼らは、その容姿や行動から、いつも奇抜さ、奇妙さが目立つ。彼らは、本当は何を考えているんだろう。

 ある日突然興味がなくなることってあるんだろうか?その時、彼らに何が残るんだろう?そんな疑問から、私はオタクを追いかけた。

 まず私は、オタクの祭典と言われるコミックマーケットに足を運んだ。アニメやマンガ、ゲームを題材にした同人誌を売り買いするマーケットだ。3日間で約55万人もの人が集まる。東京ドームの集客数の10倍以上だ。

 ものすごい熱気の中、私はある事に気が付いた。それは、女性の人数が多いこと。彼女達に話を聞くと、面白い発見があった。自分達の事を腐女子と呼び、男性同士の恋愛を扱った同人誌を買っている。いわゆる「ボーイズラブ」や、「やおい」と呼ばれる作品だ。興味を持って調べると、市場は120億円もあった。

 なぜ男性同士の恋愛マンガにそこまではまれるの?腐女子って、何が腐ってるの?腐女子のその先に何があるのか、見つけようと思った。

参考(wikipedia)

腐女子

やおい

ちなみに、kanjinai さんが、下記の本に所収された論文「〈私〉にとって男とは何か」で、竹宮恵子風と木の詩』を参照しながら、ボーイズ・ラブに熱中する女性の心理を考察している。

思想の身体 性の巻

思想の身体 性の巻

2007-11-20

[][][][]クレームメーキング

 ブログで情報発信していたところ、国会議員から問い合わせがあり、実際に国会質問の参考資料に使われた、という報告がある。

先日、参議院議員である松浦大悟さん(松浦大悟 - Wikipedia)から問い合わせのメールをいただきました。今国会で争点として取り上げられそうな「学校裏サイト」「出会い系サイト」「有害サイト規制」について質問するため、これらに関する情報を提供して欲しいとのことだったので、下記のようにお答えさせていただきました

chiki「松浦大悟議員が『有害サイト規制』『学校裏サイト』などについて質問」『荻上式』http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20071119/p1

ネットで、各人が情報発信をできるようになって数年経過したが、実際に国会質問に直結するような協力関係ができたのは初めてのケースかもしれない。もちろん、書き手のchikiさんは、先日「ウェブ炎上」を出版されたところだから、という背景もあるだろうが。

 ところで、以下のような問題について。

出会い系サイト規制の前提として、「出会い系サイトを利用した児童買春事件が急増している」というクローズアップがよくされているが、これだけをみて論じるのは間違い。まず統計的に見ても売春が「急増」しているわけではない。ネット・ケータイユーザーが単純に増加したことで、ネット・ケータイを通じてこれまで行われていたことが<可視化>されるようになったこと、およびこれまでであってもコミットしやすかった層が、ネットに流れているということなども関係していると予測される。単純に増えたわけではない。

(同上)

このような主張は社会学でよく見られる。たとえば、「児童虐待は増加していない」という研究がなされ、一部の社会学者の中で議論になっているようだ。ショッキングで、感情的な反応を呼びやすい主張が、社会の人々の不安を煽り、センセーショナルに取り上げられることを「モラルパニック」と呼ぶ。社会学者は、このモラルパニックに陥った人びとを分析し、主張を始めた人物を探し出し、どのような過程で社会に受け入れられていったのかを調査する。そうして、実は、その主張の論拠が曖昧で非科学的だということを、発見したりする。

 それは、それで大事である。私もそういう研究を好んで読むほうである。また、現在、ニュースで取りざたされているいくつかの、ショッキングな主張*1の研究が、早急に必要だとも思っている。

 ただ、クレームメーキングが必要ないか、というと、そんなことはない。「出会い系サイトを利用した児童買春事件」も「児童虐待」も急増していなくても、あることはある、のだ。そして、可視化された以上、なんらかの対策は必要になってくるだろう。モラルパニックが起きたからこそ、やっと日の目を浴びた、としかいいようのない問題がある。そういう混乱期を通過しないと、社会は真面目に取り組まない、という側面だ。

 マッチポンプでないやり方で、問題を問題化する方法というのが、今の私には思いつかない。やはり、焚き火みたいにボーボー燃えている人もいれば、焼却炉みたいに静かに燃えている人もいるほうが良いと思う。もちろん、誰が炎上して、誰が焼け焦げているか、ということも、問題にしなければならないけれど。とりあえず、燃えている人は、燃える以外に方法がないほど、追い詰められていた可能性がある、ということは、念頭において議論したほうがいい。燃えてるのが、その問題の当事者であってもなくても。

 まだ、上手くかけないが、クレームメーカーになることを、やたら恐れる風潮が、今の私の世代の人に多いように感じて、それを危惧している。問題を問題化することは、わがままや責任放棄だとみなしやすいのではないか。気になっている。

[][]不信と対立を乗り越えて 〜始まった医療現場のADR〜

 本日のクローズアップ現代です。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

<頻発する医療トラブルで対立する医師と患者・家族>という不幸の構図を覆そうという試みが始まった。ADR(裁判外紛争解決)だ。トラブルの当事者同士が対話のテーブルにつき、真実を語り合い、和解に至る。この手法で今春、東京女子医大の心臓手術や検査などで子供が死亡したり、重度の障害を負った8組の家族が病院側と和解した。背景には、裁判では医師の有罪・無罪ばかりが焦点となり、真実の解明や有効な再発防止には繋がりにくいということがある。8つの家族と病院側が粘り強く対話を続け、不信や対立から和解へと至った3年間のプロセスを振り返り、患者と医療者がなぜ不信に陥るのか、どうしたら理解し合える関係に変わることができるのか、考える。

(NO.2497)

参考 「裁判外紛争解決」

ADR JAPAN

ADR(裁判外紛争解決手続)の紹介_国民生活センター

*1:例:「最近の若い人の間デートDVが増えている」…そんな馬鹿な!中年以上のみなさん、あなた方の若かりし頃を、美化せずに思い出してください。暴力の形が変化していることと、暴力が増えていることは、問題が違う。

2007-11-19

[][][][]性同一性障害不当解雇撤回裁判

 性同一性障害を理由にした解雇に対し、撤回を求める裁判が行われています。雇用者は社会福祉法人大阪自彊館(じきょうかん)で、大阪市野宿生活者巡回相談事業を営んでいます。原告は「『男か女かはっきりしろ』、『野宿者から蔑視される』など差別的な言葉を浴びせかけられたあげく、仕事を取り上げられ、雇い止めに」されたことを訴えています。

 性同一性障害者への、職場での差別については、問題化されることが多いですが、実際の裁判でどのような判決が下されるのかは、いまだ不明確です。また、どうすることがハラスメントにあたるのか、わかりにくい部分もあります。裁判の行方は、注目です。

 それから、この裁判は労働組合が取り組んでいます。1人でも入れる労働組合で、非正規雇用の人も入れるそうです。もちろん、フリーター問題にも取り組んでいます。こちらも、目を引きました。

性同一性障害を理由にした不当解雇に反対する裁判

     「自彊館闘争」第8回口頭弁論のお知らせ

 ■ 日時: 11月27日(火)午後4時〜

 ■ 場所: 大阪地方裁判所第617号法廷

   (御堂筋線・淀屋橋あるいは、京阪・淀屋橋下車、徒歩7

分)   

 ■ 地図: 

http://www.courts.go.jp/osaka-h/about/syozai/osaka_h.html

 ■裁判終了後、街頭宣伝行動を行います。

  ◇場所:阿波座センタービル前(大阪地下鉄駅2番出口)

  ◇日時:11月27日(火)午後5時過ぎからを予定

   裁判の状況により時間帯が変更される可能性があります。

   当日の問合せは『090−9254−9931』です。

 ■ 連絡先: 関西非正規雇用等労働組合ユニオンぼちぼち

   tel/075−681−6904

    e-mail/botiboti@rootless.org

         HP/http://rootless.org/botiboti/main.htm

続きを読む

2007-11-18

[][]『マックス・ヴェーバーの哀しみ』

これはなかなかの問題作だろう。私はヴェーバー専門家じゃないから、内容がどのくらい妥当なのかは判断できないが、「プロ倫」が、母親の呪縛、父と母との結合の願いだったという説は、なにか腑に落ちるものがある。あのデモーニッシュな余韻のある読後感もまた、ヴェーバー自身の病と、プロテスタンティズムに対する裏側からの怨念からだと言われれば、そうかもと思ってしまう。本書中で、例のバニヤンの印象的な箇所がヴェーバーの捏造だったという指摘は、興奮する。もっともヴェーバープロ倫捏造論は著者の前著で触れられているので、そっちを見るべきなのだろうけど。あとがきで折原大先生からの批判に対する宣戦布告もあって、にんまりしてしまいます。

というのも、折原大先生は、羽入の前著「マックス・ヴェーバーの犯罪」に対して次のように警鐘を鳴らしておられるのです。

現在の状況を考えると、羽入書が、「放っておいても自然に淘汰される」代物とは考えにくい。管見では、受験体制の爛熟、大学院の粗製濫造、学位規準の意図的引き下げといった構造的要因により、分からないことを分からないと認めて分かろうと努力する根気がなく(「大衆人」化)、逆に、分からない相手に「杜撰」「詐欺」と難くせをつけて、分からない自分のプライドを救い、あわよくば世間をあっと驚かせて学界デヴューも飾ろうという、幼弱でエクセントリックな願望が、羽入のみでなく、若い世代に広まっている。そこで、こうした風潮に「賞=ショー」を出しておもねながら、翻って当の傾向をバック・アップしようとする勢力も現れるし、読者の側にも、羽入書を歓呼して迎え入れ、その「共鳴盤」にもなりかねない「羽入予備軍」が形成されている。羽入書は、この統計的集団に秋波を送ってエンタテインしようとしているし、版元も、この層の広がりを当て込んで、際物と知りつつ売り込みをはかっていると思われる。仄聞するところ、大学の生協書籍部には、羽入書が「平積み」にされているという。こういう状況を放っておくと、「悪貨が良貨を駆逐し」、先達の根気よい努力によって築き上げられてきたヴェーバー研究の蓄積をつぎの世代に引き渡し、乗り越えを促し、わが国の歴史・社会科学を発展させようにも、担い手が育たなくなる。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Orihara%20Hiroshi%20Essay%20Mirai%20200401.htm

ひさびさに聞く折原節でございいます。

その後の論争?はここで読めます。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm

盛り上がっているなあ・・・・。

[][]ケータイ小説@2007.jp

 今夜のNHK・ETV特集です。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html

2007-11-17

[][]これは真の「生殖の自由」なんだろうか

kanjinaiさんのエントリ「女性型ロボットへの性的欲望の未来」へのブックマークコメントが興味深い。

「個人的には人工子宮を開発してそれを望む女性を出産から解放すべきと思ふ」

「子供が欲しい女性は精子バンクで精子を買えばいいだけですし」

「将来生物学的な性(子孫を残す行為)は、人工遺伝子を持ったロボットがやるようになるかもしれない」

それらはほんとうに「生殖の自由」であり、「女性の解放」を目指すものなのか? 一部の自由主義者は、そうであると言うだろう。私は、迷いつつも、必ずしもそうだとは言いきれないのではないかと思っている。私たちが、子孫の繁殖を、質も量も含めコントロールできるようになった社会は、ほんとうに生殖に関して自由な社会なのか? 私もまだうまく言えないが、その「コントロールの困難さ」こそが、人々に「生殖の自由」を担保するよりどころであるように思えてならないのである。逆説的だが、制御することの困難さこそが、制御の自由をからくも担保している、私はそのように感じている。

[][]グレン・グールド 永遠のピアニズム

 今日の夜(22時50分50秒 〜 翌00時37分20秒)、NHK・BSハイヴィジョンで、グレン・グールドのドキュメンタリー番組が放映されるそうです(制作:2005年, Ideale Audience (カナダ・フランス)

http://www.nhk.or.jp/bsclassic/hvwth/index.html

[][]女性型ロボットへの性的欲望の未来

知らないうちに、女性型ロボットがすごいところまで進化している。しかしどうして女性型ロボットが進化するのか。そのほうが売れると見ているのか。開発者の性的欲望がそうさせるのか。ジェンダーの視点から見たらどうなるのか。

これは阪大で作られたもの。ユーチューブに上げられたもののなかではいちばん人間そっくりのように思う。

D

これは阪大と提携しているココロ社が作ったもの。商業ベースになるとこうなる。

D

サンリオが資本提供しているのはなるほどと思う。「ダイエット」「セクハラ」とかの言葉が出てきているあたりが注目点か。

続きを読む

2007-11-16

[][]『ウェブ時代をゆく

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

梅田望夫さんの新刊を入手。パラパラと眺めてみた。まだ読んでないが、ちくま新書3冊目となると、そのインパクト度はどうなのだろうと、他人事ながら心配になってしまったりする。梅田さんの本自体が、ロングテール(ゴジラの長い尻尾)になっていくんじゃないかと思ったり。しかし、米国流のオプティミズムは健在。hatenaの米国進出はいつになるのでしょう?>梅田さん

時間できたら読んでみます。

2007-11-15

[][][][]「性同一性障害 × 患者の権利――現代医療の責任の範域」

12月8日に、立命館大学で、性同一性障害医療の問題に関するシンポジウムが開かれます。基調講演の講師である田中玲さんの著作は読みました。トランスジェンダーであることを理由*1に、病院に受け入れ拒否をされた経験を綴られています。

 また、現在、裁判を進行中のヨシノユギさん*2もパネラーで出ています。ヨシノさんは、性同一性障害と認定され、大阪医大で乳房切除手術を受けました。しかし、手術が失敗し患部が壊死しました。その後の、医療関係者の対応も含めて、性同一性障害をめぐる医療を問題化するため、医療過誤裁判として提訴しました。ヨシノさん自身は、こう書きます。

「大阪医大に対して、一連の対応についての質問状を提出したところ、一ヶ月後に『過失は一切ない』という回答が返ってきました。また、その後の診察では、形成主治医から『この回答を出すことで決別するかもしれないと考えた』という言葉を聞きました。大阪医大は、わたしという患者を見捨てても良いと判断したのでしょう。一体GID医療は誰のためのものなのでしょうか。真実を知るために、満身創痍の患者が更に戦わなくてはいけないことにも強い憤りと理不尽さを感じています。

 わたしは医療の礎として『犠牲』になりたくはありません。希望を抱いて手術を受けた患者が、逆に絶望に追い込まれるということも、二度とあってはならないと考えています。

 ひとりの人間の尊厳すら守られないこの状況を、決して許容しないと示すためにも、私はこの闘いをやり遂げたいと思います。どうか皆様のご支援とご協力をよろしくお願い致します。」

http://www.geocities.jp/suku_domo/yoshino/yoshino.htm

この裁判には、当事者も含めて、さまざまな意見が飛び交っています。注目すべき裁判だと、私も考えています。

性同一性障害 × 患者の権利――現代医療の責任の範域」


  日時 2007年12月8日(土) 

  開場 13:00〜 (14:00開始)

  場所 立命館大学衣笠キャンパス

     存心館703号(法廷教室)

                 *参加費無料


◆ 第一部/基調講演

 「医療被害と裁判」 勝村 久司 氏

       (医療情報の公開・開示を求める市民の会)

勝村さんホームページ:http://homepage1.nifty.com/hkr/

 「GID医療」 田中 玲 氏

              (フリーランス・ライター)


◆ 第二部/パネルディスカッション

 「医療の責任とは何か」

  勝村氏×田中氏×上瀧浩子氏(弁護士)×ヨシノユギ(原

告)


◇ 主催 「性同一性障害×患者の権利」シンポジウム実行委

員会 

◇ 共催 立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」

HP:http://www.arsvi.com/

    ヨシノ支援プロジェクト

HP:http://www.geocities.jp/suku_domo/

□ 地図(アクセスマップ+キャンパスマップ)

http://www.ritsumei.jp/accessmap/accessmap_kinugasa_j.html

http://www.ritsumei.jp/campusmap/index_j.html#KINUGASA

□ お問い合わせ

e-mail:sukudomo@yahoo.co.jp

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*1:最初に「性同一性障害であることを理由に」という文章で書いていたのですが、コメント欄でご指摘いただき、訂正しました。すいません。

*2:どうでもいい話ですが、実は、ヨシノさんと私は同い年です。このあいだ、小さな会で同席しました。落ち着きのある、とてもしっかりした方で、「あたしとエライ違いだよ」と思ったのでした。

2007-11-14

[][]喜納育江「ネイティブなるもの 魂の交わりを求めて」

境域の文学 (21世紀文学の創造 5)

境域の文学 (21世紀文学の創造 5)

 先日、あるナショナリズムについて議論する場で、「沖縄」という問題が俎上にあがった。日本という国について考えるとき、沖縄は日本国の一部で、地方の呼び名である。ところが、沖縄戦、アメリカ占領政策、米軍基地などの問題を考えるさいには、特殊な共同体を名指すことになる。あるときは、沖縄は日本であり、あるときは日本以外であるかのように、扱われる。「私たち/沖縄の人たち」と、境界線がいれられるのだ。このような、境界領域をグロリア・アンサルドゥーアは「ボーダーランズ[borderlands]」と呼んだ。『境域の文学』に収録されている、喜納育江「ネイティブなるもの 魂の交わりを求めて」では、このボーダーランズとしての沖縄が論じられている。

 喜納さんは、琉球大学の助教授で、自らを「ウチナーンチュ」だと言う。自身の中には「私以外の人によって認識される『ウチナーンチュとしての私』ではなく、私自身がこうありたい、こうであると規定する『ウチナーンチュとしての私』」(206ページ)があるという。このアイデンティティの強固さがどれほどのものか試すかのように、喜納さんはアメリカに渡る。そして、どこにいても、身体を通して沖縄の土地と共同体につながることのできる「私」を発見する。根っこに、「ウチナーンチュとしての私」があることで、自由でいられるのだという。しかし、このアイデンティティは不変ではないと付け加えている。

「私」も「私」でいたいなら、「沖縄」によって定義されるばかりではなく、「沖縄」との対話において、こうあってほしい「沖縄」の姿を定義しなくてはならない。このように、生涯をかけて沖縄と関るというウチナーンチュとしての責任を「呪縛」と捉える人もあろう。しかし、共同体との関係性の中において存在する「私」は、その「呪縛」を「きちんと縛られる」こととして、いつしか積極的に受け入れるのである。

(208ページ)

ウチナーンチュのネイティブ(土着)としての自分を受け入れた喜納さんは、土と肉体がつながり、「ウチナーンチュの物語」を共同体の声として、沈殿させていく。と、同時に、ヤマト(内地)からの、沖縄のイメージを語る声にさらされる。ウチナーンチュという共同体内部の他者の声と、ヤマトという共同体外部の他者の声が錯綜するのが沖縄という場所であると喜納さんは述べる。そして、沖縄とは、「『他者』の声を聞き、『他者』の姿を可視化しようと試みる場所」(211ページ)であるかもしれないと定義する。

 さらに、喜納さんは、ヤマトゥンチュ(内地の人)と、ウチナーンチュの文学作品を分析する。ヤマトゥンチュが作った『ナビィの初恋』『青い魚』は、デフォルメされた「オキナワ」であるという。それはウチナーンチュの好む・好まざるを超えて分有可能になった虚像である。だが、喜納さんは、続ける。

ヤマトゥンチュが勝手に想像し、勝手に作り出した「沖縄」に対して、ウチナーンチュとして違和感が不快感となる場合もなくはない。しかし、そのような一見フェイクなオキナワでさえ、沖縄なのである。どれがホンモノでどれがフェイクなのか、という議論はもはや成立しない、というのが、常に変容していくことを前提とした境域[引用者註:ボーダーランズ]としての沖縄のありようであると言えるかもしれない。

(219ページ)

ボーダーランズである沖縄は、このような分有に揉まれながら自文化形成してきた。ヤマトの視線にさらされ、消費の対象とされてきた。見られる対象としての、「オキナワ」は、ときには「ヤマトに追いつきたい、受容されたい」と望み、ときには商品価値をあげようと、ヤマトのまなざしを意識してきた。そして、ついには、ヤマトが勝手に見ている虚像であり、他者としてしか認識できない「オキナワ」もまた、「沖縄」であると内なる他者として飲み込む。

 一方、文学作品で、この関係が反転すると、喜納さんは、指摘する。又吉栄喜「ジョージが射殺した猪」について論じている。この物語は、ベトナム戦争下が舞台で、小柄で貧弱な兵士ジョージが主人公である。ジョージは沖縄の訓練風土や、軍隊という異文化接触の衝撃で、自己が揺らいでいた。以下、長いが、引用する。

 ジョージの揺らぐ自己は、沖縄とアメリカの間に横たわる差別の多重構造の中で、異文化の声に反応せずにはいられないジョージの主体であり、その人物像は、例えば物語の冒頭に出てくる、平気でホステスを強姦するような横暴な米兵などに見られるアメリカ人のステロタイプを崩す。「沖縄人は正面から俺たちをみやしない」と言う一方、まじまじと俺の顔をみすえる」沖縄人ホステスに対しては「どきまぎしてしまう」とジョージは白状する。そして、挙句の果てにはこの「ジョージより英語が流暢なウチナー女の声を聞き届ける羽目になるのだ。

あんたらにゃ沖縄の女はみんななぐさみもんだもんね、そりゃ、あたしらのようなもんはしかたがないよ、承知してるよ、だがね、ちゃんと結婚しながら、チャーチで神父や神にちゃんと誓いながら、アメリカに帰るとすぐ汚いチリみたいに捨てちまうのはどういうわけなの?ああ、あたしの村にも何人かいるんだ〔中略〕あたしの妹もそうなんだから、赤毛の子供を残してね、アメリカ軍人はみんなそうさ、アメリカにエミリーがいるんだもんね、だまされた女らが馬鹿なんだろうけど、そのエミリーなんてもんが沖縄の女をめちゃくちゃにしてるんだよ。エミリーを悪くいうな。ジョージは叫んだ。エミリーはお前たちとは違うんだ、男の前で平気で裸になる女とは違うんだ。

 女がアメリカ人のジョージをなじる声と、アメリカ人のジョージがウチナーンチュの女を罵倒する声は分離することなくひとつの声として語られる。それは、作者が、ウチナーンチュとしてジョージのまなざしを表現するのに挑むと同時に、そのジョージのまなざしに映るウチナーンチュを描くことにより、ウチナーンチュとアメリカ人の間に対話を成立させようとしているようにも見える。すなわちアメリカ社会において周縁に追いやられたジョージという他者の声と、やはりそのアメリカ人にとって他者として差別されているウチナーンチュの声をフィクションと言う場において交わらせることによって、異文化の声が混交する領域を創造しようと試みているように思われる。それはフィクションに終わってしまう領域なのかもしれない。しかし、同時にフィクションと言う形でしか達成できない異文化的対話の可能性の実現なのである。

(230〜231ページ)

加えて重要なのことは、このジョージの視点は、又吉さんというウチナーンチュが創造しているということだ。米兵というウチナーンチュの他者の視点に入り込み、それを占有するのだという。そうして、見られる対象としての沖縄を、見る主体という位置から語りだす。これはフィクションだからこそ、できる手法である。サバルタン<の>声を奪うのではない。サバルタン<が>声を奪うのである。

 このあと、喜納さんは、新しい若い沖縄運動の担い手としてCocco*1を挙げている。私は、ここで以前、NHKの番組で取り上げられていた劇団を紹介しようと思う。その名も「お笑い米軍基地」(http://www.pottekasu.com/)サイトを見ても、もう一つ伝わらないかもしれないが、テレビで見てると強烈だった。脚本を書いている小波津正光は、現在の沖縄の状況を笑いの対象にする。街頭では、マイクによる基地反対演説と、右翼のスピーカーが、大音量でぶつかる。これを見ながら小波津さんは「正反対のキャラが出てくる。これはコントでしかないですよ」とネタにする。さらに、周囲のうっすらと基地反対ではあるのだが、運動に入り込めない、市井のウチナーンチュにインタビューしていく。

 小波津さんが上京して知ったのは、ウチナーンチュなら、誰もが知っている沖縄の状況が、全くヤマトでは知られていないことだった。基地反対の次の日に、基地内で行われるお祭りに参加する事は、ウチナーンチュにとっては、おかしなことでも、なんでもなく日常である。その矛盾を洗い出し、ネタにする。年々、参加人数が減る「人間の鎖」や、疲労感が漂う「反基地運動」はもとより、「慰霊の碑」までネタになっている。

 ネタはどれもギリギリである。正直、「わ、笑いにくい…笑っていいのか、これは」というネタもある。それでも、悪ふざけで終わらないのは、沖縄という問題の核心を突こうとしているからだ。私の大好きないいまわしに「笑いごとではないが、笑うしかない」*2という文句がある。まさに、そういう感じだ。真面目さを徹底して、真摯に向き合ったその後にみえてくる、ちぐはぐさや、ほころびを笑う。それは問題の内部に沈潜し、脱出口を見出す作業の中で発見される。沖縄でも、新しい世代の運動が、少しずつ顔を出してきているのかもしれない。

[][]エンハンスメント:ドイツからのレポート

エンハンスメントとは、人間の遺伝子操作や、脳操作や、薬物投与などによって、技術的に人間の能力を増強することである。それはドーピングなどの形ですでに実現しているが、今後、もっと本格的な形で応用されていくのではないかと考えられている。遺伝子操作をすると、その結果が身体に埋め込まれるわけだし、「生延長」も一種のエンハンスメントだろう。また、自分だけではなく、子どもにそれを使っていいのかというのも大問題である。近年の生命倫理の大トピックである。この問題については英語圏の議論が隆盛しているが、ドイツでのレポートが今回翻訳された。この分野は英語の情報しか流通しないので、この翻訳は非常に貴重であると思う。著者は、生命環境倫理ドイツ情報センター(DRZE)の若手研究者たちである。このセンターはドイツのボンに置かれていて、実は私も訪問したことがある。瀟洒な建物にあって、全世界の雑誌が壁一面に並べられていたのは圧巻であった。日本の生命倫理の雑誌もあった。そこの偉い学者とディスカッションしたが、脳死移植については話がいまいち噛み合わなかったのであった・・・。あまり時間もなかったし、今度は、この著者たちと話をしてみたい。ヨナスやハバーマスら、ドイツの生命倫理学も目を離せない状況である。

*1:詳しく書かないのは興味がないからではなくて、ありすぎてまとまらないからです。

*2:出典はパット・カリフィアです。

2007-11-13

[][]ニューロエシックス学会

日本生命倫理学会に久々に出席した。その分科会のニューロエシックスの発表を聞いて、いろいろと新しい情報を入手した。この分野のインパクトは、なかなか刺激的である。夜にホテルでニューロの夢を見てしまった。

2008年に、米国でニューロエシックス学会が第1回の会合を開催するらしい。日程は未定だが、秋になるのではとのこと。どこでやるのだろう?

Neuroethics Society

http://www.neuroethicssociety.org/

会場でこのような論文をいただいた。

林芳紀・伊吹友秀ほか著「倫理学者のためのニューロエシックス」『実践哲学研究』第30号(2007年11月1日)69−175頁

ニューロエシックスの論点の整理と、AJOBのニューロエシックス特集の論文紹介で、要領よく議論の全体像が眺められる。

おそらく来年から再来年にかけて、日本語でのニューロエシックスの書籍がいくつか刊行されることになるだろう。

2007-11-12

[][]品川哲彦『正義と境を接するもの』

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

出版社のサイト:http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=403

品川さんのこれまでの研究成果がまとめられたような、一読して情念のこもった著書である。

品川さんは、とりあえずの出発点としての「正義」の定義を「あるものがそれにふさわしいしかたで秩序づけられている状態」「あるものがそれにふさわしい者に帰している状態」(p.7)であると述べる。しかし、直後に品川さんも述べているように、「ふさわしい」とは何か、「秩序」とは何か、そして「ふさわしい者」とは誰を意味するのか、という超難問が待ち構えている。そこには、世代間倫理や人間と自然との共存という中長期的展望に関する責任の問題があり、また現在の問題としての女性・子ども・障害者・病人・老人をどうするかというケアをめぐる問題系がある。品川さんは、その2つを「正義と境を接する」という主題で論じていく。正義がこれまで論じなかったとされるこれらの主題に関して、ハンス・ヨナスの議論と、ギリガンを嚆矢とするケアの倫理を媒介に論じていく。個人的には、ヨナスの責任原理を批判していたハーバーマスが、いまになって生命倫理分野でヨナスの議論に接近している印象を受けたのが、興味深かった。

品川さんも、「それではどうすればよいか?」という疑問には、十分に答えられているとは私には思えない。しかし、ヨナスとケア倫理とを「正義と境を接する」という視点から同時に論じたものはこれまでにはなかったように思う。その意味では議論は端緒に着いたばかりだし、もちろん私自身も考えていきたい主題である。とても刺激的な論考だと思った。

[][][]イスラム教仕様のクルマ

 こんな記事を見つけた。イスラム教国・マレーシアの自動車メーカーが開発したらしい。

マレーシア自動車メーカー、「イスラム教」車を海外展開 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

[][]歪む沖縄戦〜11万人が問う歴史の真実

 月曜日の深夜2:40から、テレビ朝日系列です。

http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/

 9月下旬。宜野湾市の公園が、11万の人で(主催者発表)で埋め尽くされた。復帰後最大規模の集会。高校の教科書検定で沖縄戦の集団自決について日本軍の関与を示す表現が削除・修正された事に抗議する集会だ。

11万人を呼び寄せたものは何だったのか。多くの国民が無関心でいることへの危機感、そして責任をあいまいにしようとする国への反発。集団自決の体験者の思いを通して、沖縄が抱く危機感を伝える。

制作:琉球朝日放送

2007-11-11

[][]ヒラリークリントン 大統領への道

 月曜日のクローズアップ現代です。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

 投票日まで1年を切ったアメリカ大統領選挙選挙戦のトップを走っているのが、民主党のヒラリークリントン上院議員だ。最新の世論調査では、後を追うジュリアーニ氏、オバマ氏を引き離し、「米国史上初の女性大統領誕生」が現実味を帯び始めた。NHKの取材班は9月から本格始動したヒラリー選挙ツアーに密着。自信と気魄に満ちた立ち振る舞いや、"冷たい"イメージを払拭するための好感度アップ作戦など、ヒラリー候補の素顔を追った。また、ブッシュ政権時代に拡大した格差から、中間層・貧困層がヒラリー候補を支持する様子を取材し、アメリカの人々のポスト・ブッシュに向けた"願い"を見つめる。

(NO.2492)

2007-11-10

[][][]新屋達之「検察・刑事訴追の課題」

 今月の「法律時報」に出ている新屋達之の論文が興味深かった。2007年の司法改革を批判的に論じている。新屋さんは、戦後改革以降の刑事手続きの当事者主義化、「検察民主化」と「訴追の民主化」が未だ達成されていないことを指摘する。2007年の司法改革も、時代の要請に応える微調整とみなされ、検察・訴追の根本に立ち入った議論はなかったという。ここで、新屋さんは、戦後改革の完成こそが重要だと指摘する。

 近時、組織犯罪対策・被害者保護などさまざまな形で刑事手続きの「現代的」変容やパラダイム転換が説かれ、現にそのような立法も相次いでいる。そのような状況の中で、戦後改革の完成や警鐘を言うことには、疑問を投げかける向きも少なくないであろう。

 だが、体制の如何を問わず、およそ政治権力はマキャベリズムを本質とする。他方、刑事手続は、いかなる形態をとろうとも、またいかに正当なものであっても、政治権力による市民の権利の侵害・制限を伴う点で権力的・暴力的性格を伴う。かかる性格ゆえ、刑事手続は常に政治の渦中に巻き込まれる契機を有しており、政治権力と刑事司法の接点に立つ検察とその活動である刑事訴追も、政治性と権力性を帯びやすい。しかもここに、戦前との決別が意識的・無意識的に回避されてきたという、戦後日本政治の特殊事情が加わる。

(新屋達之「検察・刑事訴追の課題」『法律時報』79巻12号)、64ページ)

 検察を、市民的な観点から抑制することの重要性を、新谷さんは指摘する。そして、最も重要な課題は、法執行の適正さの確保・統制であるという。

 新谷さんは、被害者参加制度について、裁判所・検察官の裁量に委ねられ、被害者が訴追主体としての地位を認められた点を強調する。これは、裁判所・検察官に認められた範囲内で、被害者が司法参加できるということだ。つまり、国家訴追制度(検察官の起訴独占)の部分は、温存されている。「被害者と検察官が協力し合って、裁判をすすめます」というように、説明される点である。新屋さんは次のように述べる。

 また、裁量的参加制度であるだけに、検察官への影響も大きいように思われる。被害者が純粋な訴訟主体として独自の訴訟追行が可能であれば、被害者は検察官の意向を気にかける必要はない。逆に検察官も被害者を突き放してよい。ところが、裁量的参加では、被害者と検察官の相互の密接な意思疎通、検察官による被害者の意向の最大限の汲み上げが不可欠となる。さもないと、被害者は検察官の訴訟追行に満足できず、刑事司法への不信とそれに由来する自己破壊といういわゆる第二次・第三次被害を受けることになる。

(同上)

 もし、検察官は検察官の立場で、被害者は被害者の立場で二元的に訴訟主体としての地位を持っていれば、検察官は被害者代理を免除され、公共的な側面を強調することができる。そこで、公益に専念することができる。ところが2007年の司法改革では、検察官と被害者の意向をある程度まで一元化することを求められる。そこで、検察官が、これまで以上に、公的な観点より被害者の観点を強化することになるだろう。その行き過ぎをコントロールするための手段が必要だという。新屋さんは、それこそが「近代」の原点である戦後改革の完成であるとする。

 私も、大意としては賛同する。特に註での修復的司法への言及は重要だろう。

刑事的手段をインフォーマルな性格の強い修復的司法の理念と調和させることは、決して容易でないように思われる。修復的司法論の意図や意義を高く評価しうるとしても、それは打ち出の小槌ではない。(特に二〇〇七年改正が想定するような重大事件ではこのことがあてはまる)ことに留意する必要がある。

(66ページ)

司法関係者には、「これからは修復的司法の時代です」とスローガンを掲げる人が多い。私も、修復的司法には関心を持っている。しかし、私も、刑事司法の手続の適正化=修復的司法の導入、だとは全く思っていない。二つは並行して扱う、別の問題だ。特に、現行の刑事司法の手続における、容疑者の保護、加害者の保護はまだまだ途上である。被害者だけをかわいそうがって、権利や保障をあげましょう、という改革に目くらましされてはならない。私たちは誰もが被害者になりうる。そして、加害者にもなりうる。

[][][]2ちゃんねるで辻説法

 荻上式BLOG経由で、知った話題。↓

哲学で博士号取る予定の俺が、どんな質問にも哲学的に答える

http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-185.html

哲学科の院生が、4時間以上にわたって、2ちゃんねらーと一問一答している記録。*1気の効いた答えが多くて、半分くらい楽しく読んでしまった。私が一番笑ったのはこれ↓

141 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 18:01:47.33 ID:KeuvhJ1O0

自称哲学者の中2病患者なんだけど

そろそろ本格的に哲学学びたい

色んな人の思想を取り込みたいし、もっと自分でも考えたいんだが

これからどうすればいいかアドバイスしろ


>>141

大学入って教授にケンカ売りまくるのがベスト。

必死にやらざるを得ないしベッコベコにされて知識つく。

百人教室でも元気に手をあげろ!

[][]明日・明後日のNHKスペシャル

 11月11日(日) 午後9時〜9時49分 総合テレビ

 ヤクザマネー 〜社会を蝕(むしば)む闇の資金〜

 11月12日(月) 午後10時〜10時49分 総合テレビ

 ニッポンの縮図 1000人にきく ハケンの本音

[][]朝鮮通信使 400年の真実

 明日の夜10時から、NHK教育・ETV特集です。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html

 参考

 wikipedia:朝鮮通信使

 amazon:朝鮮通信使

*1:2ちゃんねる用語が多くて、わからない単語も多かった。哲学の内容よりもそっちのが大変だった。(笑)

2007-11-09

[][][]ミャンマーからの「僕たちは小声で連呼する人間はいらない」という声

 ニュースで聞いているだけだが、現在もミャンマーの状況は難しい。「すばる」12月号に土佐桂子「ミャンマーのいま ブログから見えること」というレポートが載っている。ミャンマーでは厳しい情報統制が敷かれている。土佐さんは、1998まで続いたネーウィン政権の一党独裁により、「政治」という領域が党の独占物になったという。政治について語ることは、命を賭けることになった。内心で活動家に共感しても、「政治運動家」とみなされ、密告されることを恐れなくてはならない。よって、自分のポリシー(政策)を口に出すことは難しい。

 しかし、ついにインターネットがミャンマーにも導入され始めた。ネットカフェがコーヒー二杯分ほどの値段で、利用できる。フリーのメールアドレスの使用は制限されているが、人々は次々と利用可能なサービスを探しだし、政府といたちごっこで抵抗している。在外ミャンマー人が中心となる海外のNGOと、連携もすすめられている。今回のデモの様子も海外の拠点を通じて、大々的に世界に発信された。(しかし、その後、9月27日にインターネットは使用できなくなり、復旧したのは10月9日であったという。)

 その中で、ビルマ語のブログが立ち上げられている。学生を中心とした、在外ミャンマー人のブログは「政治」に対する発言が多い。だが、国内のものは、日常生活や音楽、恋愛についてなど、「政治」には触れないものがほとんどだ。土佐さんはその中で、「政治」について発言するいくつかのブログを紹介している。たとえば、ヤンゴン在住の女性が、国内からデモの様子を伝えている。*1また、41歳の男性は、10月15日に王朝時代の国王をとりあげ、遠まわしに現政権への批判ともとれる記述をしている。

 最後に、土佐さんが取り上げているブログの文章は、印象的だった。8月24日に「僕と外に出て歩こう」という題名でアップされたものだ。書き手は、本人の書くプロフィールによれば、ヤンゴン工科大学を中退したIT技術者である。22歳男性となっている。以下のように、土佐さんが紹介し、該当部分を翻訳している。

僕がいまこれを書いている時刻は二〇〇七年八月二二日一一時四六分/今日はこの文章を読み直していた/明日の計画はたてた。胸が高鳴る/「余分な仕事だと思う」と言いに来るひとがいる/「心配なんだ」という人もいる/僕も彼らは尊重するが、「自分の道を自分で歩くだけさ」と軽く言い返す/君たちも僕たちも、足を振り上げて歩くだろう。意識を張りつめ歩くのは大変だけど、どんどん歩く、思い切り歩く

大人達にもうんざりだ/彼らは様子を見てみようという/僕たちはどうだろう/僕たちが鐘を鳴らさなければ/今度は僕たちの次の世代が、みなの将来のために、外に出て歩く/僕たちは大人もついてくることを期待する/歓迎する

僕らは政治活動をしているんじゃない/僕ら自身も政治活動家じゃない/僕らは国民/国民は国民のするべきことをする/国民は国家の証

僕たちは小声で連呼する人間はいらない/誰も無理には誘わない/僕たちはずっと小声で叫びつづけてきた/一九年間/もう十分だ

僕はまだ若い/僕はなんのためにするのかということも知っている/僕はこの先も続けると知っている/僕はどんなことになるかも分かっている/でも僕は外に出て歩く

ともだちよ、きみたちもできる限り続いてほしい

 この文章の上部には、八月二二日のデモの、ユーチューブの映像が貼り付けてある。これは、後の九月の僧侶たちのデモに先駆け、政府によるガソリン値上げ発表後すぐに起こったものである。

 彼はデモに参加したのだろうか。いまだにブログには戻ってきていない。

(土佐桂子「ミャンマーのいま ブログから見えること」『すばる』12月号、190ページ)

私は彼のともだちになれるだろうか。 

*1:タイムズオンラインに紹介されたhttp://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article2539435.ece

2007-11-08

[][]岡野八代『シティズンシップの政治学

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書

岡野さんのこの本は、私の目標とするもののひとつである。ロールズアッカーマンの正義論を、他者への配慮を欠いた、同質の集団内における分配論であると批判する。つまり、分配という主題だけでは正義の問題は扱えない、と主張する。

全く同感である。私自身に即して言えば、承認の問題が気になりつつも、分配の問題に特化して考えてきた。しかし、そもそも分配とは、ひとが在るためにこそ必要なものであり、ひとが在るということそれ自身は、分配の問題系ではうまく扱えないように感じる。分配ではうまく扱えない<誰かがここに在る>ことの承認のためにこそ、分配は要請されるのであろう。

岡野さんはそのあたりは、とりわけ英米圏のフェミニズムを参照しながら(「続きを読む」で文献を挙げています)、「他者のニーズ」や、「親密圏におけるケア関係」を手がかりに、正義の問題は分配だけではないことを示していく。だが、それらじたいは正しいと思える「他者」や「ケア関係」といった射程で、いったい何が論じられたのか私には不明確な部分もある。「ひとは依存関係の中にある」ということを肯定してもよいにせよ(かりに、全く依存関係がないという状態があったとしても、論理的には「依存関係がゼロの関係」とは言える)、そこから何が言えるのか、「そんなものは当たり前だ」で終わってしまわないのか、そこらあたりは微妙なところであると思う。

いずれにせよ、正義をめぐる規範理論は、分配も承認もどちらも求めてよいということを、本書は教えてくれる。

以下、(私も一応目を通したことがある)参照されている、あるいは本書に関連する文献です。

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2007-11-07

[][]大澤真幸さんの「ナショナリズムの由来」異例の売れ行き

 読売新聞・読書欄の記事。大澤真幸さんの『ナショナリズムの由来』が売れているそうです。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20071107bk02.htm

ナショナリズムの由来

ナショナリズムの由来

参考

東京新聞:ページが見つかりませんでした(TOKYO Web)

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2007-11-06

[][][][]DPI女性障害者ネットワーク集会

DPI(障害者インターナショナル)は、女性障害者の問題を考えるために、「女性障害者ネットワーク」というものを作っている。12月に、以下のような集会が開かれる模様。私は行けるかどうかわからないが、女性障害者のリプロダクティブヘルス/ライツ、「性と生殖について」の分科会は気になる。

詳しくはDPI日本会議のブログで。

http://dpi.cocolog-nifty.com/vooo/2007/11/dpi1223_9f54.html

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DPI女性障害者ネットワークによる「DPI世界会議韓国大会」報告集会

わたしたちが見てきた・聞いてきた・感じてきた世界の声

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[][]イスラエル:売春目的の人身売買

英国では、東欧やアジアから女性を誘拐してきて管理売春させることが大問題になっている。少女も含まれていて、出身国からの移民も手を汚していたりして根は深いらしい。BBCによると、イスラエルでも、外国から誘拐してきて管理売春させるケースが問題になっているとのことらしい。もっとも多かった年では、年に3000人が連れてこられたとのこと。これはウクライナから騙されて連れてこられた女性の証言。

"When I was in the Ukraine, I had a difficult life," said Marina, who came to Israel in 1999 at the age of 33 after answering a newspaper advertisement offering the opportunity to study abroad.

"I was taken to an apartment in Ashkelon, and other women there told me I was now in prostitution. I became hysterical, but a guy starting hitting me and then others there raped me.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7070929.stm

最近ではようやく取り締まりの効果が出てきたと政府はいうが、支援団体はそう楽観的にはなれないと言う。世界的に見れば、このような性取引目的の女性や子どもの誘拐はあちこちで頻発している。日本もその例外ではない。

[][]英語hatenaダイアリー

英語hatenaダイアリーって、場所だけはちゃんとあるんですね。

http://d.hatena.com/

ほんとうに英語でhatenaダイアリーサービスが始まったら、けっこう面白いんじゃないかな。だって、こういうシステムのものって英語圏ではないでしょう? はやく英語でもやってみたいなと思う。

2007-11-05

[][] ファトヒ・クデイラートさんスピーキング・ツアー

パレスチナの「隔離壁」問題をめぐり、11月23日〜12月2日まで、日本各地で講演会が開かれる模様です。詳しくはこちら。

http://palestine-forum.org/event/20071125.html

2007-11-04

[][]youtube にみる哲学者思想家たち

 youtube には、哲学者思想家の動画がアップされている。以下に検索リンクの表示を挙げておきます。

Martin Heidegger At His Freiburg House(ハイデガーの自宅映像)

D

バートランド・ラッセル(1872-1970)

http://www.youtube.com/results?search_query=Bertrand%20Russell&search=Search

マルティン・ハイデガー(1889-1976)

http://www.youtube.com/results?search_query=Heidegger&search=Search

エーリッヒ・フロム(1900-1980)

http://www.youtube.com/results?search_query=Erich+Fromm&search=Search

ジャック・ラカン(1901-1981)

http://www.youtube.com/results?search_query=Jacques+Lacan&search=Search

ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)

http://www.youtube.com/results?search_query=Sartre&search=Search

シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)

http://www.youtube.com/results?search_query=Beauvoir&search=Search

クロード・レヴィ=ストロース(1908-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Claude+L%C3%A9vi-Strauss&search=Search

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)

http://www.youtube.com/results?search_query=Deleuze&search=Search

ミシェル・フーコー(1926-1984)

http://www.youtube.com/results?search_query=Foucault&search=Search

ヨゼフ・ラッツィンガーローマ教皇ベネディクト16世、1927-)

http://jp.youtube.com/results?search_query=Ratzinger

ノーム・チョムスキー(1928-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Chomsky&search=Search

マーティン・ルーサー・キング(1929-1968)

http://www.youtube.com/results?search_query=Martin+Luther+King&search=Search

ユルゲン・ハーバーマス(1929-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Habermas&search=Search

ジャック・デリダ(1930-2004)

http://www.youtube.com/results?search_query=Derrida&search=Search

リチャード・ローティ(1931-2007)

http://www.youtube.com/results?search_query=Richard+Rorty&search=Search

エドワード・サイード(1935-2003)

http://www.youtube.com/results?search_query=Edward+Said&search=Search

ジョルジョ・アガンベン(1942-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Agamben&search=Search

ピーター・シンガー(1946-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Peter+Singer&search=Search

スラヴォイ・ジジェク(1949-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Zizek&search=Search

ジュディス・バトラー(1956-)

http://www.youtube.com/results?search_query=Judith+Butler&search=Search

2007-11-03

[][]余計なお世話を言いたくなる

 tummygirlさんから、kanjinaiさんへの問いかけの記事が出されている。それに対しては、コメント欄で、kanjinaiさん自らが答えているので、終結ということだと思う。しかし、私はなんだか引っかかりを感じてしまった。

 これはルサンチマンなのだろうかと思うが、どうも大学人フェミニスト(特に、大学に教えに来るジェンダー論の先生たち)に、いいイメージを持てていない。そして、そのイメージを持っていることを、大学人フェミニストが問題視しているのかもわからない。

 というのは、私は以下のような文章を目にする機会があるからだ。大学で、ジェンダー/女性文学論を担当していることについての、文章である。学生たちを観察して、次のように述べる。

 少しまえに漫画の『NANA』を読んだときに、もっとも必要で、もっとも欠けているのはフェミニズムだと思ったけれど(妊娠や中絶をめぐる登場人物の苦悩や疑問は例えば『2年目の報告』が一冊ナナのテーブルの上にあるだけでずいぶんちがったものになっただろう)、学生たちの反応をみているとやはり大事なフェミニズムに関する知識がかの女/かれらから遠ざけられていると感じる。

(山田サキ「リブを『語り継ぐ』」日本女性学研究会ニュースVOICE OF WOMEN No.282)

これは、日本女性学研究会に入会すると送られてくる、ニュースペーパーに載っている文章である。*1日本女性学研究会は、年報を毎年出しており、大学人フェミニスト論文も多数載っている。また、会員にも大学人フェミニストの名前が連なっている。*2この文章は、多くの大学人フェミニストも思われる。

 私がこの文章を読んで、あまりいい気がしなかった。*3私は『NANA』を愛読する学生だった*4。そして妊娠や中絶をめぐる登場人物の苦悩や疑問に、自分を重ねてきた。そこに「フェミニズムの本があれば解決するのに」というようなことを言われると、非常に不愉快だ。人ひとりの命を孕んだ若い女の葛藤を、知識さえあれば解決すると切り捨てるやり方に疑問を感じる。

 山田さんは、フェミニズムが若い学生に浸透していないのを憂いて、田中美津を読ませたり、フェミニズムの知識を教えることに、気概を燃やしてこの文章を書かれたのだろう。私は、その姿を、啓蒙大好きフェミニズムとしてしか、見ることができない。山田さんは文章をこう結ぶ。

 「ウーマンリブの激しさに感動した」とコメントを書いた学生は、これから生きていくなかで抱えるであろう困難をはねかえしていくようなアイデアをリブのメッセージのなかに見つけることはできるだろうか。「美しくなることは楽しみでもある」と書いた学生は、美しくないと見なされることへの恐怖をうまいことやり過ごす手がかりを見つけることができるだろうか。そうやってひとりひとりのフェミニズムを見つけていく手伝いができるなら、授業準備で夜更かしが続くこんな初夏の日々も悪くないと思う。

(同上)

リブに感動したからといって、リブを教典に生きていく必要はないだろう。美しくなることの楽しみを見出している人に、なぜ、勝手に「美しくないと見なされることへの恐怖」 というラベリングをする必要があるのか。

 私は、自分をフェミニズムにかなり親和性が高いほうだと思っている。だけれども、このような文章を読むと、フェミニズムと距離を置きたくなる。私はここに、完成されたフェミニズムがあり、それをみつけさせるように仕向ける、いわゆる管理教育の姿を見てしまう。要するに、私は、『NANA』に共感したことを、「フェミニズム的に正しくないですよ」と言われた気分になったのだ。

 一方で、山田さんが、悪徳フェミニストだとも思えない。とても誠意があって、熱心な大学人フェミニストなのだろう。これ以降のニュースペーパーに、これを読んでいると思われる同業者から、山田さんへの批判が出されることもない。大学人フェミニストにとっては、この文章は、特に問題ではないということだろう。

 なんか私は、そういう雰囲気に、疎外感を持った。この研究会の人たち的には、この文章はOKなのか…それこそ、ここで、(現在、大学人フェミニストとは言われないであろう)私が、何か突っ込むのは「余計なお世話」なのだろう、と。せっかく会員なんだから、私もこの気持ちを書いて投稿して、疑問を挟むべきかとも思ったが、ずるずる書けていなかった。

 もちろん、みんながみんな、山田さんみたいなことを言ってるとは思わないし、そうじゃない大学人フェミニストも多いだろう。だけど、こういう人、たくさんいる気がする。そして、もうすでに何人か目撃した。そして、私の中で、大学人フェミニストのよろしくないイメージ像が膨らんでいく。

 もちろん、単にイメージの問題でしかない。だけれど、イメージ戦略が、あまり上手く行ってないし、そのことへの危機感は、大学人フェミニスト内にあるのか疑問だ。

 そして、こんなこと言ったら大学人フェミニストから、ハブにされるのではないかという、私の不安感。これは被害妄想…に終わるように祈っています。

*1:つまり、私も会員です。

*2:ただし、学会ではない。ので、大学人じゃないフェミニストもたくさんいる。

*3:ていうか、テーブルの上に『2年目の報告』がある、ってどんな漫画だよ?少なくとも商業誌では載るまい。

*4:今はあまり読んでない。

2007-11-02

[][]法政大学出版局の新刊(11月)

 法大出版局のウェブサイトも、今後チェックしようと思います。

 以下は、11月の新刊書一覧。

http://www.h-up.com/2007-11.html

 『教皇と魔女 宗教裁判の機密文書より』は面白そうなので、書店で捜してみるつもりです。

[][]岩波書店の新刊(11月)

 哲学関連で注目は、永井均さんの新著でしょうか(「哲学塾」のシリーズです)。

http://www.iwanami.co.jp/shinkan/index.html

2007-11-01

[][]筑摩書房の新刊(12月)

 新刊情報が更新されていました。哲学関連では、サルトル『存在と無 2』、メルロ=ポンティ『心身の合一』、入不二基義哲学の誤読 ─入試現代文哲学する!』などが刊行されます。

http://www.chikumashobo.co.jp/comingbook/