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2007-04-04

[][][][]マタイ受難曲

 カール・リヒターが指揮した、バッハ作曲「マタイ受難曲」はCDがたしか三種類ある。以前は最後の録音を愛聴していたが、昨年にDVD映像を入手したので、これを見ている。値段はちょっと高いが、映像のクオリティは悪くないし、これから「マタイ受難曲」を聴きたい人にはお勧めだと思う。

 聴いて思うのは、「イエスは『神の子羊』であり、人間の罪をあがなうために、十字架につけられた」というキリスト論の言語が、いかにも古いということ。古いけれど、バッハの音楽と「マタイ受難曲」のドラマが凄すぎるので、つい聴いてしまう。

 このキリスト論言語を、現代人のセンスに合った、もっとわかりやすい形に言い換えたら、どうなるんだろう……ということを最近考える。「罪をあがなった」という言い方は、信仰告白の一つのフォーマットとして大事にするとして、もうちょっと自分自身にとっても、自分の周囲にいる人にとっても、すっきりする言い方はないだろうか。そこに、いまの自分とキリスト教の接点があるかなと思う。私の場合、どうもすっきりしないので、キリスト教を学んでいるという思いが強いです。

 復活祭前の時期、ここ毎年は、「マタイ受難曲」を聴くと共に、イエスがなぜ殺されたのかを考えている。言い換えると、「イエス様は十字架で人類の罪をあがなった、万歳!」という信仰を告白する前に、なぜかれのような存在が、人間の歴史から抹殺されることになったのか、その暴力がいったい何に由来するのかを、反省してみるということです。

 歴史のなかに、イエスのような活動をして、時の権力者と正面からぶつかり、公然と殺された者(例・キング牧師)、あるいは秘密裏に殺された「匿名のイエス」が数多くいる。

 聖なる人を殺す、その権力とは何なのか。その権力が働くような仕組みに乗っかり、甘い汁を吸う者は誰なんだろうか、と問い詰めていくと、この私にも責任があるかな……と思わざるを得ない。イエスを裏切ったユダは、ある意味でこの私。かれを十字架刑で抹殺したローマ帝国の支配体制・権力機構は、ある意味でいまの先進国の社会体制だという視点を手放さずに、福音書を読みたい。

 「マタイ受難曲」のガイドブックとしては、音楽学者の礒山雅さんの『マタイ受難曲』がある。10年ちょっと前の刊行ですが、音楽学・歴史学からのバッハ研究の成果が盛り込まれており、「何でこんな奇妙な歌詞なのだろう」「どうして、ユダのアリアは明るい長調で書かれているのか」といった、マタイを聴く日本人が持つ疑問に答えてくれます。目から鱗を幾つも落としてくれる名著です。

 もう一つ、「マタイ受難曲」のファンに勧めたいのは、聖書学者の佐藤研さんの『悲劇と福音』。これは四つの福音書の受難物語の人間学的な意義を、アリストテレス『詩学』の悲劇論を援用しながら、解読しようというもの。抹香臭いキリスト教本ではないので、非クリスチャンの人には読みやすいだろうと思う。

マタイ受難曲

マタイ受難曲