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2007-12-26

[][]NHKBS受信料強制徴収は合法との判決!?

堺市で、NHKのBS放送の受信料を払う必要がないかどうかで争われていた裁判で、大阪地裁堺支部は、徴収は合法であり、受信料は払う義務があるとの判断を示したらしい。

この判決はほんとうにこれでいいのか?

 ケーブルテレビを視聴する堺市の男性(40)が、見てもいない衛星放送の受信料日本放送協会NHK)に支払う必要がないことの確認を求めた訴訟の判決が30日、大阪地裁堺支部であった。谷口幸博裁判長は「放送法に基づく受信規約は有効で、原告は衛星カラー契約を締結する義務を負う」として、請求を棄却した。男性は控訴する方針。

 判決によると、男性はNHKとの間で地上波放送の「カラー契約」を締結していたが、平成18年7月ごろ、ケーブルテレビ会社と契約し、衛星放送も受信できる装置を自宅に設置した。

 男性は、NHKが衛星放送を視聴する意思のない者にまで一律に「衛星カラー契約」への変更を義務づけることは、「契約自由の原則に反し、消費者の利益を一方的に害する」などと主張していた。

 谷口裁判長は判決理由で、「衛星カラー契約の受信料はカラー契約に比べ月額945円高いが、地上波放送では見られない放送を受信することができ、差額の負担はとりたてて過大とはいえない」とし、衛星放送を受信できる環境かどうかを基準に契約義務の有無を一律に決定することは合理的と判断した。

 そのうえで、受信装置を設置した男性に対し、放送を見る意志の有無にかかわらず契約変更を義務づけることは「契約自由の原則の例外として許され、消費者の利益を一方的に害するものではない」とした。

http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya120104.htm

BSを受信できるテレビを購入した時点で、実際に見ても見なくても、BSの受信料を払う義務が生じるというのはぜったいにおかしな理屈ではないのか。BSアンテナ付きマンションやアパートでテレビを買ったら、いまどきほとんどBS対応になっているから、自動的にBS受信料を取られてしまう。生活費が苦しいからほんとうに見ていないBSは払いたくない、という人までからも取られてしまう。「見てないのに料金を取る」というのは、端的に詐欺である。「見る可能性があるから」というNHKの理由はヘンだし、上記判決理由もヘンではないのか。

2007-12-23

[][]オウム真理教は仏教ではない?

朝日新聞』大阪版、12月21日朝刊に、「シルクロード・奈良国際シンポジウム2007」という催しの記録が一面全面を割いて紹介されている。発言者の話はそれぞれ面白いが、ひとつだけ「?」となった発言があった。それは榎本文雄大阪大学教授のものだ。

――オウム真理教も仏教か。

榎本 仏教は殺生を禁じる戒律を守らねばならない。オウム真理教は殺人を犯したので、仏教の教えに反している。

朝日の記者が要約したのだろうから、本意を伝えていないかとも思うが、それにしてもこれでよいのだろうか。だとしたら、日本の仏教のほとんどは仏教の教えに反していることになるだろう。自分で蚊も殺しているし、人の殺した肉も食べているし、むかし比叡山には強い僧兵がいて、寺の意志のもと人殺しをしていた。

もしこの発言が、「日本のほとんどの仏教徒も仏教の教えに反している」と続くのなら、一貫性はあると言えるだろう。

2007-12-22

[][]大阪府立大学シンクタンク

大阪府知事選に立候補した橋下徹氏曰く、

府立大学をシンクタンク化して連携を取りたいと思っていますが、民間からひくてあまたになる組織にしたい。

http://zakzak.co.jp/gei/2007_12/g2007121222.html

要するに、大学を潰して、仕事の注文請負で生計を立てる民間の研究所みたいなものにするということか? いままで府立大学が府の地元の企業その他経済界にどのくらい数の真面目な学生を卒業生として送り込んできたのかこの人は分かってるのか?

[][]大佛次郎論壇賞とタバコ

12月16日の朝日新聞朝刊に、「第7回 大佛次郎論壇賞」の発表と講評ページがあった。今年の論壇賞は『和解のために』であったが、私が注目したのは、その選考風景の写真である。長い机に十名ほどの選考委員のお偉いさんたちが座っているが、その机の中央部には、「灰皿」が4個ほどどーんと置かれているのである。

朝日新聞社にお聞きしたい。朝日新聞社は会議室禁煙にしてないのか? (大組織ではいまどき珍しくないか?)

それとも、選考委員のなかに、喫煙家の偉いセンセイがいて、朝日新聞側としては、何も言えないのか?

この様子では、朝日新聞の書評委員会も相変わらず灰皿置いてるのだろう。朝日新聞紙面の喫煙に対する姿勢はどうだったのでしたっけ?

2007-12-01

[][]他者の承認抜きには、存在承認は了解できない

 mojimojiさんの「承認は分配できるか(財のように)」という記事のコメント欄で議論が始まり、お返事に「既に承認されて在ることを信じる」を頂き、さらにx0000000000さんの「信仰と信仰のシステム」という記事に議論が続いている。ここで、私の考えを整理しておこうと思う。

 私が問題にしているのは、「存在承認の了解」である。

 人は無からは生まれない。なんらかの他者の営みから生まれてくる。そういう意味では、全ての人は誕生する時に、原理的には、他者に存在を肯定されている。たとえ生み出した人間から「望まない」「望んでいなかった」と言明されていても、殺されなかったという事実によって、その人の誕生の瞬間に起きた、原初的「存在承認」は担保されている。「存在承認」を経験したことない人はいない。この世に生まれ出ることとは、純粋な「存在承認」の発露だ。*1

 だが、人は誕生の瞬間の記憶はないので、純粋な「存在承認」とは体験的に覚えておけるものではない。そこで、具体的な他者からの承認*2の経験から、純粋な「存在承認」を想像する。もちろん、人に人を完全に承認しきることは不可能なので、一部のアイデンティティの承認に留まる。この不完全な、具体的な他者からの承認を受けることで、私たちは「承認」という概念を獲得する。ここから人は、想像力により、生まれてきたときに受けたであろう、純粋な「存在承認」の経験を、自らの生から彫り出し、「生まれてきてよかった」と思えるのだ。

 この「生まれてきてよかった」というのが「存在承認の了解」である。原理的には、人は皆、純粋な存在承認を通過して、この世に生み出されたと言える。しかし、それを了解するためには、常に不完全な、人間同士の承認の経験を通して「承認」という概念の獲得が必要である。純粋性には、不純物を通してしかアクセスできないのだ。

 私たちは、全ての人に「あなたは生まれた時に存在承認されている」と伝えることはできる。しかし、それを了解できない人に必要なのは、その原理の伝授ではなく、「私からあなたを承認する」という行為である。しかし、全ての人を直接的に承認することは難しいので、x0000000000さんの言うとおり、社会的に承認する基盤を整備することで勘弁してもらうことも多いだろう。少なくとも、自己内で存在承認を完結させることはできないのだ。*3

*1:有であることをゆるされること

*2:有であってよいとされること

*3:これについては、知人に別の考えを聞いた。次のものである。"自己を自己で承認するときには、自己を「承認する自己」と「承認される自己」に分裂させなければならない。ということは、自己承認には、常に「承認する自己」の部分が承認しきれない、構造ができる。であるから、自分で自分をまるごと肯定することは不可能である。"しかし、私はこの自己承認じたい、他者からの承認の経験抜きに、どうやって学習するのかが不明である。もし、学習抜きに可能だとすれば、それは人間のnatureということになるけれど、この議論はあんまり美味しくない気がする。

2007-11-27

[][]英語の支配の件

北海道大学の国際集会で感じたことがある。いま、応用倫理関連の共通語は英語である。だから私もずっと英語の勉強は続けている。また英語が共通語になっているおかげで、学会に来ていた欧州や台湾やアフリカの人たちともコミュニケーションできるというのはすばらしいことである。

が、同時に、英語帝国主義の問題はやはり避けては通れないという思いも強い。まず、英語が会議の言語なので、まず米国らの英語ネイティブの人たちの話す英語があまりにもスピードが速く、非ネイティブには着いていくのがやっとである。その結果、どういうことになるかというと、議論の基本的な方向性が米国人を中心とする英語ネイティブの人々によって決定されてしまうのである。また、彼らの英語が分からないときに、彼らがそれを言い直すということは、こちらがあえて尋ねないかぎり起きない。そして私の経験上、米国から来ている学者の多くは、自分の英語にまわりが合わせて当然、という暗黙の態度でしゃべる。(まれにその点に非常に気配りする人もいるが)。非ネイティブの人は、自分の言いたいことを、非常にシンプルな英語でしか表現できない。それに対して、ネイティブの人は、複雑なことをそのまま複雑な英語でしゃべる。その結果として、議論のベースはネイティブによって設定されていくのである。このことは、会議に出席していた日本人からも訴えられた(私は司会をしていたので)。

これは基本的に、英語を第二言語とするわれわれが考えるべき問題ではなくて、英語ネイティブの彼らが考えるべき問題である。だが、そういうことはほとんど起きない。英語がしゃべれて、そして英語で複雑なことが言えて当然、という設定がなされている空間では、そういうことは起きないのである。だが、今度私が司会をする機会があったら、ネイティブの人は簡単な英語でゆっくりしゃべってくださいと言うことにしよう。(どこまでの効果があるかわからんが。ただ、以前に筑波大であった会合のときは司会者の外国人がそういうことを最初に言ってくれてとても気持ちよかった)。

そういえば、ある分科会で、白人男性の司会者が、北大の大学院生の発表者を紹介するときに、「He is a local boy」と言っていたが、これは聞いていて不快だった。ここの大学院生の男の子というくらいの意味だろうが、知り合いでもないのに、こういう見下すニュアンス(boy)はいただけない。それとも、この英語にはそういうニュアンスはゼロなんでしょうかね? (ジーニアス英和辞典には「かつて黒人男性を侮蔑的にboyと呼んだことから,黒人に対して用いるのは軽蔑(べつ)的」とある)

2007-11-24

[][]パーソン論と障害者

北海道大学で開かれている応用倫理国際集会というのに行ってきた。2日間ずっと英語漬けだったので頭がパーになってるが、気づいたことをひとつだけ。英語圏からの学者たち(白人男性がほとんど)のあいだでは、「自己意識と理性ある者のみが人格であり生きるに値する」という「パーソン論」が当然のように支持されている傾向にある。日本での業界では「パーソン論」に疑いの眼差しを向けるのがある種共通了解っぽいが、それは英語圏の共通了解とは異なる。日本人女性スピーカーが青い芝を引き合いに出して、障害者からの声を聞くべきと言ったのに対して、海外からの学者が、「では親の声は聞かなくてもいいのか?」とすぐさま質問した。スピーカーは返答に苦慮していた。私が司会した分科会では、英語圏からの学者が、自己意識と理性のない段階の赤ちゃんは殺すことも許されるという発表をしたが、会場からはその結論に対する異議は出なかった。(私は司会だったので発言する時間がなかった)。

日本の生命倫理・障害学の暗黙の雰囲気は、英語圏の生命倫理の舞台ではあまり通用していない(らしい)ということを再確認した。これだから、昨年の米国での生命倫理の会議に私が参加したときに、米国の障害者団体が会場になだれ込んで実力行使をしたのだろうと思った。(保守派は障害者の権利を擁護するが、背後にはGodがいるので、障害学とはちょっと違うように思う。詳しくは、http://www.lifestudies.org/jp/handai02.htm あたりから調べてみてください)。

2007-11-20

[][][][]クレームメーキング

 ブログで情報発信していたところ、国会議員から問い合わせがあり、実際に国会質問の参考資料に使われた、という報告がある。

先日、参議院議員である松浦大悟さん(松浦大悟 - Wikipedia)から問い合わせのメールをいただきました。今国会で争点として取り上げられそうな「学校裏サイト」「出会い系サイト」「有害サイト規制」について質問するため、これらに関する情報を提供して欲しいとのことだったので、下記のようにお答えさせていただきました

chiki「松浦大悟議員が『有害サイト規制』『学校裏サイト』などについて質問」『荻上式』http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20071119/p1

ネットで、各人が情報発信をできるようになって数年経過したが、実際に国会質問に直結するような協力関係ができたのは初めてのケースかもしれない。もちろん、書き手のchikiさんは、先日「ウェブ炎上」を出版されたところだから、という背景もあるだろうが。

 ところで、以下のような問題について。

出会い系サイト規制の前提として、「出会い系サイトを利用した児童買春事件が急増している」というクローズアップがよくされているが、これだけをみて論じるのは間違い。まず統計的に見ても売春が「急増」しているわけではない。ネット・ケータイユーザーが単純に増加したことで、ネット・ケータイを通じてこれまで行われていたことが<可視化>されるようになったこと、およびこれまでであってもコミットしやすかった層が、ネットに流れているということなども関係していると予測される。単純に増えたわけではない。

(同上)

このような主張は社会学でよく見られる。たとえば、「児童虐待は増加していない」という研究がなされ、一部の社会学者の中で議論になっているようだ。ショッキングで、感情的な反応を呼びやすい主張が、社会の人々の不安を煽り、センセーショナルに取り上げられることを「モラルパニック」と呼ぶ。社会学者は、このモラルパニックに陥った人びとを分析し、主張を始めた人物を探し出し、どのような過程で社会に受け入れられていったのかを調査する。そうして、実は、その主張の論拠が曖昧で非科学的だということを、発見したりする。

 それは、それで大事である。私もそういう研究を好んで読むほうである。また、現在、ニュースで取りざたされているいくつかの、ショッキングな主張*1の研究が、早急に必要だとも思っている。

 ただ、クレームメーキングが必要ないか、というと、そんなことはない。「出会い系サイトを利用した児童買春事件」も「児童虐待」も急増していなくても、あることはある、のだ。そして、可視化された以上、なんらかの対策は必要になってくるだろう。モラルパニックが起きたからこそ、やっと日の目を浴びた、としかいいようのない問題がある。そういう混乱期を通過しないと、社会は真面目に取り組まない、という側面だ。

 マッチポンプでないやり方で、問題を問題化する方法というのが、今の私には思いつかない。やはり、焚き火みたいにボーボー燃えている人もいれば、焼却炉みたいに静かに燃えている人もいるほうが良いと思う。もちろん、誰が炎上して、誰が焼け焦げているか、ということも、問題にしなければならないけれど。とりあえず、燃えている人は、燃える以外に方法がないほど、追い詰められていた可能性がある、ということは、念頭において議論したほうがいい。燃えてるのが、その問題の当事者であってもなくても。

 まだ、上手くかけないが、クレームメーカーになることを、やたら恐れる風潮が、今の私の世代の人に多いように感じて、それを危惧している。問題を問題化することは、わがままや責任放棄だとみなしやすいのではないか。気になっている。

*1:例:「最近の若い人の間デートDVが増えている」…そんな馬鹿な!中年以上のみなさん、あなた方の若かりし頃を、美化せずに思い出してください。暴力の形が変化していることと、暴力が増えていることは、問題が違う。