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2007-12-25

[][][]編集者は「邪馬台国」をどう断るか

『いける本・いけない本』第7号というミニコミ誌を眺めていたら、タイトルのようなエッセイを見つけた。著者は、元講談社の編集者、鷲尾賢也さんである。編集者をやっていると、様々な持ち込み原稿が殺到するが、そのなかでもいちばん多いのは「邪馬台国」ものらしい。それをどう断わるかというのが、編集者の技だとのこと。どう断わるかというと、

「なかなかの労作だと拝読しました」。ただ、「昨今の書店事情だと、こういうものはなかなか数字があがらない」。「しかし念のために販売担当者に話をしたが、やはりうんといってくれなかった」。「せっかくのお原稿ですが、ご希望に添えません。まことに残念です」とでも書けば、かなり納得してくれるだろう。(27頁)

ということのようである。こういう手紙をもらった人、ひょっとしていませんか?

2007-12-12

[][][]ヤン・パトチカという哲学者

『思想』12月号が、チェコの哲学者、ヤン・パトチカの特集を組んでいる。パトチカは、1977年に、チェコの警察による過酷な訊問を受けて、70歳を目前に死んだとのこと。この特集を読むまで、私はこの哲学者についてまったく知らなかった。亡命することもできたかもしれないのに、チェコに残り、地下大学で解放運動をしながら死んでしまった人である。よい特集であると思った。

特集のなかで、今道友信が、生前に面識あった者として追悼文を書いている。例によって、臭みに満ちた文章で辟易とするが、それでもパトチカの面影は伝わってくる文章となっていると言える。おそらくパトチカは、今道のように自分はこんなにすごいということを言わないと文章が書けない人とは対照的な、ソクラテスのような哲学者だったのだろうと思った。

2007-11-10

[][][]新屋達之「検察・刑事訴追の課題」

 今月の「法律時報」に出ている新屋達之の論文が興味深かった。2007年の司法改革を批判的に論じている。新屋さんは、戦後改革以降の刑事手続きの当事者主義化、「検察の民主化」と「訴追の民主化」が未だ達成されていないことを指摘する。2007年の司法改革も、時代の要請に応える微調整とみなされ、検察・訴追の根本に立ち入った議論はなかったという。ここで、新屋さんは、戦後改革の完成こそが重要だと指摘する。

 近時、組織犯罪対策・被害者保護などさまざまな形で刑事手続きの「現代的」変容やパラダイム転換が説かれ、現にそのような立法も相次いでいる。そのような状況の中で、戦後改革の完成や警鐘を言うことには、疑問を投げかける向きも少なくないであろう。

 だが、体制の如何を問わず、およそ政治権力はマキャベリズムを本質とする。他方、刑事手続は、いかなる形態をとろうとも、またいかに正当なものであっても、政治権力による市民の権利の侵害・制限を伴う点で権力的・暴力的性格を伴う。かかる性格ゆえ、刑事手続は常に政治の渦中に巻き込まれる契機を有しており、政治権力と刑事司法の接点に立つ検察とその活動である刑事訴追も、政治性と権力性を帯びやすい。しかもここに、戦前との決別が意識的・無意識的に回避されてきたという、戦後日本政治の特殊事情が加わる。

(新屋達之「検察・刑事訴追の課題」『法律時報』79巻12号)、64ページ)

 検察を、市民的な観点から抑制することの重要性を、新谷さんは指摘する。そして、最も重要な課題は、法執行の適正さの確保・統制であるという。

 新谷さんは、被害者参加制度について、裁判所・検察官の裁量に委ねられ、被害者が訴追主体としての地位を認められた点を強調する。これは、裁判所・検察官に認められた範囲内で、被害者が司法参加できるということだ。つまり、国家訴追制度(検察官の起訴独占)の部分は、温存されている。「被害者と検察官が協力し合って、裁判をすすめます」というように、説明される点である。新屋さんは次のように述べる。

 また、裁量的参加制度であるだけに、検察官への影響も大きいように思われる。被害者が純粋な訴訟主体として独自の訴訟追行が可能であれば、被害者は検察官の意向を気にかける必要はない。逆に検察官も被害者を突き放してよい。ところが、裁量的参加では、被害者と検察官の相互の密接な意思疎通、検察官による被害者の意向の最大限の汲み上げが不可欠となる。さもないと、被害者は検察官の訴訟追行に満足できず、刑事司法への不信とそれに由来する自己破壊といういわゆる第二次・第三次被害を受けることになる。

(同上)

 もし、検察官は検察官の立場で、被害者は被害者の立場で二元的に訴訟主体としての地位を持っていれば、検察官は被害者代理を免除され、公共的な側面を強調することができる。そこで、公益に専念することができる。ところが2007年の司法改革では、検察官と被害者の意向をある程度まで一元化することを求められる。そこで、検察官が、これまで以上に、公的な観点より被害者の観点を強化することになるだろう。その行き過ぎをコントロールするための手段が必要だという。新屋さんは、それこそが「近代」の原点である戦後改革の完成であるとする。

 私も、大意としては賛同する。特に註での修復的司法への言及は重要だろう。

刑事的手段をインフォーマルな性格の強い修復的司法の理念と調和させることは、決して容易でないように思われる。修復的司法論の意図や意義を高く評価しうるとしても、それは打ち出の小槌ではない。(特に二〇〇七年改正が想定するような重大事件ではこのことがあてはまる)ことに留意する必要がある。

(66ページ)

司法関係者には、「これからは修復的司法の時代です」とスローガンを掲げる人が多い。私も、修復的司法には関心を持っている。しかし、私も、刑事司法の手続の適正化=修復的司法の導入、だとは全く思っていない。二つは並行して扱う、別の問題だ。特に、現行の刑事司法の手続における、容疑者の保護、加害者の保護はまだまだ途上である。被害者だけをかわいそうがって、権利や保障をあげましょう、という改革に目くらましされてはならない。私たちは誰もが被害者になりうる。そして、加害者にもなりうる。

2007-11-09

[][][]ミャンマーからの「僕たちは小声で連呼する人間はいらない」という声

 ニュースで聞いているだけだが、現在もミャンマーの状況は難しい。「すばる」12月号に土佐桂子「ミャンマーのいま ブログから見えること」というレポートが載っている。ミャンマーでは厳しい情報統制が敷かれている。土佐さんは、1998まで続いたネーウィン政権の一党独裁により、「政治」という領域が党の独占物になったという。政治について語ることは、命を賭けることになった。内心で活動家に共感しても、「政治運動家」とみなされ、密告されることを恐れなくてはならない。よって、自分のポリシー(政策)を口に出すことは難しい。

 しかし、ついにインターネットがミャンマーにも導入され始めた。ネットカフェがコーヒー二杯分ほどの値段で、利用できる。フリーのメールアドレスの使用は制限されているが、人々は次々と利用可能なサービスを探しだし、政府といたちごっこで抵抗している。在外ミャンマー人が中心となる海外のNGOと、連携もすすめられている。今回のデモの様子も海外の拠点を通じて、大々的に世界に発信された。(しかし、その後、9月27日にインターネットは使用できなくなり、復旧したのは10月9日であったという。)

 その中で、ビルマ語のブログが立ち上げられている。学生を中心とした、在外ミャンマー人のブログは「政治」に対する発言が多い。だが、国内のものは、日常生活や音楽、恋愛についてなど、「政治」には触れないものがほとんどだ。土佐さんはその中で、「政治」について発言するいくつかのブログを紹介している。たとえば、ヤンゴン在住の女性が、国内からデモの様子を伝えている。*1また、41歳の男性は、10月15日に王朝時代の国王をとりあげ、遠まわしに現政権への批判ともとれる記述をしている。

 最後に、土佐さんが取り上げているブログの文章は、印象的だった。8月24日に「僕と外に出て歩こう」という題名でアップされたものだ。書き手は、本人の書くプロフィールによれば、ヤンゴン工科大学を中退したIT技術者である。22歳男性となっている。以下のように、土佐さんが紹介し、該当部分を翻訳している。

僕がいまこれを書いている時刻は二〇〇七年八月二二日一一時四六分/今日はこの文章を読み直していた/明日の計画はたてた。胸が高鳴る/「余分な仕事だと思う」と言いに来るひとがいる/「心配なんだ」という人もいる/僕も彼らは尊重するが、「自分の道を自分で歩くだけさ」と軽く言い返す/君たちも僕たちも、足を振り上げて歩くだろう。意識を張りつめ歩くのは大変だけど、どんどん歩く、思い切り歩く

大人達にもうんざりだ/彼らは様子を見てみようという/僕たちはどうだろう/僕たちが鐘を鳴らさなければ/今度は僕たちの次の世代が、みなの将来のために、外に出て歩く/僕たちは大人もついてくることを期待する/歓迎する

僕らは政治活動をしているんじゃない/僕ら自身も政治活動家じゃない/僕らは国民/国民は国民のするべきことをする/国民は国家の証

僕たちは小声で連呼する人間はいらない/誰も無理には誘わない/僕たちはずっと小声で叫びつづけてきた/一九年間/もう十分だ

僕はまだ若い/僕はなんのためにするのかということも知っている/僕はこの先も続けると知っている/僕はどんなことになるかも分かっている/でも僕は外に出て歩く

ともだちよ、きみたちもできる限り続いてほしい

 この文章の上部には、八月二二日のデモの、ユーチューブの映像が貼り付けてある。これは、後の九月の僧侶たちのデモに先駆け、政府によるガソリン値上げ発表後すぐに起こったものである。

 彼はデモに参加したのだろうか。いまだにブログには戻ってきていない。

(土佐桂子「ミャンマーのいま ブログから見えること」『すばる』12月号、190ページ)

私は彼のともだちになれるだろうか。 

*1:タイムズオンラインに紹介されたhttp://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article2539435.ece

2007-10-29

[][][][]長岡善幸「コミック性表現・規制の現在」

 今月の『出版ニュース』(10月号)に、松文館のわいせつ裁判に関する。レポートが出ている。事件の発端は以下。

 松文館に「わいせつ図画販売」容疑で警視庁保安課と代々木署が家宅捜索に入ったのは、2002年9月19日のことだった。元警察庁キャリアの平沢勝栄衆議院議員(自民党)のもとに、「高2の息子の机を覗いたら、松文館の卑猥なマンガをみつけた。発禁処分にすべきだ。このままでは、うちの息子のみならず日本の青少年の将来はない」と訴える霞ヶ関官僚の投書(8月12日付)が届き、平沢議員がかつて防犯部長を務めていた警視庁に通報。これが捜査の端緒になった。

長岡善幸「コミック性表現・規制の現在」『出版ニュース』2007年10月、7ページ

該当のマンガを描いた漫画家、編集局長、そして松文館社長貴志元則が逮捕された。漫画家と編集局長は、略式起訴を受け入れて罰金を支払ったが、貴志さんは裁判闘争へと持ち込んだ。2005年6月に最高裁に上告していたが、2007年6月14日に棄却が決定された。貴志さんは、罰金150万円に処せられた。

 棄却決定書について、長岡さんは以下のように書く。

 <主文 本件上告を棄却する>――。その後に続く「理由」の説明はたったの16行。刑法175条は意見だとする弁護団の主張には、憲法に<違反するものでないことは><当裁判所の累次の判例により極めて明らかである>と素っ気なかった。チャタレイ裁判や悪徳の栄え裁判で示された「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが175条の目的」などとした判例を機械的に適用し、わいせつ3要件(いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する)を追認したということだ。そのうえ、<本件漫画本の頒布が刑法175条のわいせつ図画頒布に該当するとした原判断は、正当として是認できる>と突き放した。

(8ページ)

チャタレイ裁判が判例…。こういう裁判所が持ち出す判例は、時折、時空をこえていく印象を受けます。澁澤さんが死んで、何年たったっけ?とかいろいろ個人的に思うことはある。

 それはともかくとして、長岡さんのレポートで気になったのは以下の点である。

 1審、2審の審理を振り返ると、裁判でのやりとりは、ときに滑稽なものだった。子どもはおろか、大人が読むことも禁止しているのが「わいせつ罪」であるのに、検察官は「青少年に見せられますか」と、ピントの外れた発言を繰り返した。青少年に対して「有害」だというなら、刑法ではなく、せいぜい青少年条例の守備範囲のはず。論理的整合性のなさを見せつけていた。「わいせつと思うか思わないか」と検事が問う、不可思議な問答も繰り返された。ふつうの刑事事件であれば、実行行為が裁かれるのに、175条は実在の被害者が存在しないまま、心のなかで何を考えたかが罪になるという形式であることがよくわかった。「わいせつだと思う」と答えれば、略式起訴の罰金で済み、「思わない」と言えば、見せしめ的に正式裁判にかけられ、懲役刑が求刑される。1審の裁判官が「反省の態度が見られない」と思想犯のごとく扱い、難詰したのも心のなかを裁いたということだろう。

(8ページ)

5年も前の事件なので、私も記憶が薄れているが、このときマスコミでも「子どもに性的情報を流すか否か」で話題になった気がする。しかし、警察が逮捕するのは、「わいせつ罪」であり、「大人にとって害がある」ものでなければ刑法には触れない。*1「子どものことを憂いて、親が訴える」という構図であったため、事態がわかりにくくなっていた。印象操作されかねないので、注意が必要だ。

 司法において、性表現を論じるときには、「主体‐対象」の関係が、4種類に分けられる。それは、「大人‐大人」「大人‐子ども」「子ども‐大人」「子ども‐子ども」である。今回は「大人‐大人」の問題であるべきなのに、「子ども‐大人」のように見えがちだ。また「大人‐子ども」の問題がクローズアップされているため、ごっちゃになりやすい。表現の自由とは別に、考えておきたいと思う。

[][][]フェミニスト生命倫理学

Bioethics誌の最新号が、フェミニスト生命倫理学の特集となっている。

Bioethics Vol.21, No.9 November 2007

なかでも、Angela Thachukの"The Space in Between: Narratives of Silenced and Genetic Terminations" 511-514 が気になる。

Consider the following:

A young woman is presented with the results of prenatal screening indicating a series of fatal anomalies. Peior to conception the woman and her partner had agreed that if diagnostic testing revealed disabling conditions, she would terminate the pregnancy. After much struggle, she affirms the decision to abort. Their grief and anguish is palpable. The woman says she will tell others she has miscarried.

For this particular woman, and others like her, the decision seemingly wraps her in a shroud of silence beyond the walls of clinic. In North America, prenatal testing and selective terminations are becoming clinically normalized. Yet, despite this implied social acceptance, open discussions surrounding selective terminations remain taboo. Women are often socially isolated, their experiences kept secret, and their grief disenfranchised. (p.512)

著者はカナダの大学に勤めているらしい。このテーマがカナダ(北米)ではタブーであり、女性の経験が秘匿されているという指摘は考えさせられる。日本でも状況は同じであろう。

*1:子どもにわいせつ物をみせる→青少年条例、子どもをわいせつ物にする→児童ポルノ法

2007-09-19

[][][]ヘーゲル『精神現象学』

雑誌『理想』679号が、「ヘーゲル『精神現象学』」という特集を組んでいる。『現代思想』も同じ特集を組んでいたし、やっぱりヘーゲルと言えば、この本でしょうというわけか。冒頭にまたしても加藤尚武の論文がある。「実体−主体説と実体−主語説」。そのなかに、こういうことが書いてあった。

ヘーゲルのテキストについて、私は次のような特徴を指摘しておいた方がよいのではないかと思う。

 公開を想定していないノートでは、比較的無理のすくない叙述がされている。公刊した書物では、故意に難解な記述をして、意味深長な名文句を残そうとしたり、非常にドラマティックな場面設定をしたりするが、そこで示されたモチーフを持続的に展開していくということをしない。(9頁)

ちょっと面白かったので紹介。これはヘーゲル研究者の共通認識なのかな?

2007-09-13

[][][]トランスヒューマニズムの生命倫理

Bioethics誌の最新号に、James Wilson, "Transhumanism and Moral Equality," Bioethics 21-8(2007)pp.419-425という論文が掲載されている。「エンハンスメントによってがんがん個人の能力を増強できるようになったら、非常に不正な社会がくる」というフランシス・フクヤマらの批判があるがそれは間違っている、という主張をしている。いくら誰かの能力が増強されるようになっても、非増強人間の基本的平等性は守られるようにできるのだから、その意味での道徳的な問題はないのである、という論調のようだ。

If the argument of this paper is correct, no enhancements we coild make to human beings could do anything to undermine the moral status of the unenhanced. Hence, if the project of human enhancement presents us with a moral problem, it cannot be that it will undermine our status as moral equals. (pp.419-420)

著者は、英国の倫理学者。斜め読みの感想だが、えらい浅い議論のように見える。権力とか支配とかの視点はこの種の生命倫理学には入ってこないんでしょうかねえ・・・・。