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2007-12-05

[][][]修復的司法についての文献

 ついに、日本の法学者による概論書が出版された。

対話による犯罪解決―修復的司法の展開 (RJ叢書)

対話による犯罪解決―修復的司法の展開 (RJ叢書)

とりあえず、これを読めば体系的な知識は押さえられる模様。今までは、短い論文や英語論文をかき集めて、自分で整理するという、私のような初学者にとっては、不安でたまらなくなるような作業が必要だった。これで、心細さが半減しました!よかった。

 しかし、日本では、ものすごい勢いで修復的司法についての文献が出版されているようだ。私はこれも、買ったんだけど、未読になっている。ぱらぱら見た限りでは、入門書として、使いやすそう。

ここ1年くらいで、これまで出版されてきた文献は倍くらいになった気がする。ほくほく買ってしまうのだけれど、読みきれなくなってきた。それでも、修復的司法の理念について、観念的に論じた文献は、少ない。欧米では、いかにも、ポストモダンな発想で、1980年代から推進されてきた制度なので、流行れば言及する人は、もっと増えるのかもしれない。

2007-11-19

[][][][]性同一性障害不当解雇撤回裁判

 性同一性障害を理由にした解雇に対し、撤回を求める裁判が行われています。雇用者は社会福祉法人大阪自彊館(じきょうかん)で、大阪市野宿生活者巡回相談事業を営んでいます。原告は「『男か女かはっきりしろ』、『野宿者から蔑視される』など差別的な言葉を浴びせかけられたあげく、仕事を取り上げられ、雇い止めに」されたことを訴えています。

 性同一性障害者への、職場での差別については、問題化されることが多いですが、実際の裁判でどのような判決が下されるのかは、いまだ不明確です。また、どうすることがハラスメントにあたるのか、わかりにくい部分もあります。裁判の行方は、注目です。

 それから、この裁判は労働組合が取り組んでいます。1人でも入れる労働組合で、非正規雇用の人も入れるそうです。もちろん、フリーター問題にも取り組んでいます。こちらも、目を引きました。

性同一性障害を理由にした不当解雇に反対する裁判

     「自彊館闘争」第8回口頭弁論のお知らせ

 ■ 日時: 11月27日(火)午後4時〜

 ■ 場所: 大阪地方裁判所第617号法廷

   (御堂筋線・淀屋橋あるいは、京阪・淀屋橋下車、徒歩7

分)   

 ■ 地図: 

http://www.courts.go.jp/osaka-h/about/syozai/osaka_h.html

 ■裁判終了後、街頭宣伝行動を行います。

  ◇場所:阿波座センタービル前(大阪地下鉄駅2番出口)

  ◇日時:11月27日(火)午後5時過ぎからを予定

   裁判の状況により時間帯が変更される可能性があります。

   当日の問合せは『090−9254−9931』です。

 ■ 連絡先: 関西非正規雇用等労働組合ユニオンぼちぼち

   tel/075−681−6904

    e-mail/botiboti@rootless.org

         HP/http://rootless.org/botiboti/main.htm

■ 自彊館裁判とは?

 2004年9月から約1年半、大阪市野宿生活者巡回相談事業で

働いていたKさんに、06年3月、突然の雇い止め通告。雇い止め

は、Kさんの性同一性障害を差別した不当なものです。「男か女か

はっきりしろ」、「野宿者から蔑視される」など差別的な言葉を浴

びせかけられたあげく、仕事を取り上げられ、雇い止めにされまし

た。

 雇用主の社会福祉法人大阪自彊館(じきょうかん)側は、団体交

渉の席上、雇い止めには正当な理由がないことを認めていますが、

セクハラを認めず、雇い止め撤回もしません。Kさんは、このまま

泣き寝入りはしたくないと、性同一性障害に対するセクハラへの謝

罪と雇い止め撤回を求める、裁判闘争に立ち上がりました。

 2006年10月11日に大阪地裁に提訴しました。裁判はいま

第8回口頭弁論を迎えようとしています。

 どうぞ、ご支援ください。

ご支援とカンパのお願い

 裁判には、多大な費用がかかっております。皆様からのカンパ

で、

この裁判闘争は成り立っています。いままでも多くの方からご支援

をいただいてきました。裁判は続きます。勝訴に向けて、裁判とK

さんの生活を支えるために、さらなるご支援をよろしくお願いしま

す。

 自彊館闘争支援カンパ 1口1,000円(何口でも)

 郵便振替の場合(自彊館闘争支援と明記ください)

 加入者名 ユニオンぼちぼち

 振替番号 00900−8−263985

 *お名前の公表可否もお知らせください。

2007-11-10

[][][]新屋達之「検察・刑事訴追の課題」

 今月の「法律時報」に出ている新屋達之の論文が興味深かった。2007年の司法改革を批判的に論じている。新屋さんは、戦後改革以降の刑事手続きの当事者主義化、「検察の民主化」と「訴追の民主化」が未だ達成されていないことを指摘する。2007年の司法改革も、時代の要請に応える微調整とみなされ、検察・訴追の根本に立ち入った議論はなかったという。ここで、新屋さんは、戦後改革の完成こそが重要だと指摘する。

 近時、組織犯罪対策・被害者保護などさまざまな形で刑事手続きの「現代的」変容やパラダイム転換が説かれ、現にそのような立法も相次いでいる。そのような状況の中で、戦後改革の完成や警鐘を言うことには、疑問を投げかける向きも少なくないであろう。

 だが、体制の如何を問わず、およそ政治権力はマキャベリズムを本質とする。他方、刑事手続は、いかなる形態をとろうとも、またいかに正当なものであっても、政治権力による市民の権利の侵害・制限を伴う点で権力的・暴力的性格を伴う。かかる性格ゆえ、刑事手続は常に政治の渦中に巻き込まれる契機を有しており、政治権力と刑事司法の接点に立つ検察とその活動である刑事訴追も、政治性と権力性を帯びやすい。しかもここに、戦前との決別が意識的・無意識的に回避されてきたという、戦後日本政治の特殊事情が加わる。

(新屋達之「検察・刑事訴追の課題」『法律時報』79巻12号)、64ページ)

 検察を、市民的な観点から抑制することの重要性を、新谷さんは指摘する。そして、最も重要な課題は、法執行の適正さの確保・統制であるという。

 新谷さんは、被害者参加制度について、裁判所・検察官の裁量に委ねられ、被害者が訴追主体としての地位を認められた点を強調する。これは、裁判所・検察官に認められた範囲内で、被害者が司法参加できるということだ。つまり、国家訴追制度(検察官の起訴独占)の部分は、温存されている。「被害者と検察官が協力し合って、裁判をすすめます」というように、説明される点である。新屋さんは次のように述べる。

 また、裁量的参加制度であるだけに、検察官への影響も大きいように思われる。被害者が純粋な訴訟主体として独自の訴訟追行が可能であれば、被害者は検察官の意向を気にかける必要はない。逆に検察官も被害者を突き放してよい。ところが、裁量的参加では、被害者と検察官の相互の密接な意思疎通、検察官による被害者の意向の最大限の汲み上げが不可欠となる。さもないと、被害者は検察官の訴訟追行に満足できず、刑事司法への不信とそれに由来する自己破壊といういわゆる第二次・第三次被害を受けることになる。

(同上)

 もし、検察官は検察官の立場で、被害者は被害者の立場で二元的に訴訟主体としての地位を持っていれば、検察官は被害者代理を免除され、公共的な側面を強調することができる。そこで、公益に専念することができる。ところが2007年の司法改革では、検察官と被害者の意向をある程度まで一元化することを求められる。そこで、検察官が、これまで以上に、公的な観点より被害者の観点を強化することになるだろう。その行き過ぎをコントロールするための手段が必要だという。新屋さんは、それこそが「近代」の原点である戦後改革の完成であるとする。

 私も、大意としては賛同する。特に註での修復的司法への言及は重要だろう。

刑事的手段をインフォーマルな性格の強い修復的司法の理念と調和させることは、決して容易でないように思われる。修復的司法論の意図や意義を高く評価しうるとしても、それは打ち出の小槌ではない。(特に二〇〇七年改正が想定するような重大事件ではこのことがあてはまる)ことに留意する必要がある。

(66ページ)

司法関係者には、「これからは修復的司法の時代です」とスローガンを掲げる人が多い。私も、修復的司法には関心を持っている。しかし、私も、刑事司法の手続の適正化=修復的司法の導入、だとは全く思っていない。二つは並行して扱う、別の問題だ。特に、現行の刑事司法の手続における、容疑者の保護、加害者の保護はまだまだ途上である。被害者だけをかわいそうがって、権利や保障をあげましょう、という改革に目くらましされてはならない。私たちは誰もが被害者になりうる。そして、加害者にもなりうる。

2007-10-29

[][][][]長岡善幸「コミック性表現・規制の現在」

 今月の『出版ニュース』(10月号)に、松文館のわいせつ裁判に関する。レポートが出ている。事件の発端は以下。

 松文館に「わいせつ図画販売」容疑で警視庁保安課と代々木署が家宅捜索に入ったのは、2002年9月19日のことだった。元警察庁キャリアの平沢勝栄衆議院議員(自民党)のもとに、「高2の息子の机を覗いたら、松文館の卑猥なマンガをみつけた。発禁処分にすべきだ。このままでは、うちの息子のみならず日本の青少年の将来はない」と訴える霞ヶ関官僚の投書(8月12日付)が届き、平沢議員がかつて防犯部長を務めていた警視庁に通報。これが捜査の端緒になった。

長岡善幸「コミック性表現・規制の現在」『出版ニュース』2007年10月、7ページ

該当のマンガを描いた漫画家、編集局長、そして松文館社長貴志元則が逮捕された。漫画家と編集局長は、略式起訴を受け入れて罰金を支払ったが、貴志さんは裁判闘争へと持ち込んだ。2005年6月に最高裁に上告していたが、2007年6月14日に棄却が決定された。貴志さんは、罰金150万円に処せられた。

 棄却決定書について、長岡さんは以下のように書く。

 <主文 本件上告を棄却する>――。その後に続く「理由」の説明はたったの16行。刑法175条は意見だとする弁護団の主張には、憲法に<違反するものでないことは><当裁判所の累次の判例により極めて明らかである>と素っ気なかった。チャタレイ裁判や悪徳の栄え裁判で示された「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが175条の目的」などとした判例を機械的に適用し、わいせつ3要件(いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する)を追認したということだ。そのうえ、<本件漫画本の頒布が刑法175条のわいせつ図画頒布に該当するとした原判断は、正当として是認できる>と突き放した。

(8ページ)

チャタレイ裁判が判例…。こういう裁判所が持ち出す判例は、時折、時空をこえていく印象を受けます。澁澤さんが死んで、何年たったっけ?とかいろいろ個人的に思うことはある。

 それはともかくとして、長岡さんのレポートで気になったのは以下の点である。

 1審、2審の審理を振り返ると、裁判でのやりとりは、ときに滑稽なものだった。子どもはおろか、大人が読むことも禁止しているのが「わいせつ罪」であるのに、検察官は「青少年に見せられますか」と、ピントの外れた発言を繰り返した。青少年に対して「有害」だというなら、刑法ではなく、せいぜい青少年条例の守備範囲のはず。論理的整合性のなさを見せつけていた。「わいせつと思うか思わないか」と検事が問う、不可思議な問答も繰り返された。ふつうの刑事事件であれば、実行行為が裁かれるのに、175条は実在の被害者が存在しないまま、心のなかで何を考えたかが罪になるという形式であることがよくわかった。「わいせつだと思う」と答えれば、略式起訴の罰金で済み、「思わない」と言えば、見せしめ的に正式裁判にかけられ、懲役刑が求刑される。1審の裁判官が「反省の態度が見られない」と思想犯のごとく扱い、難詰したのも心のなかを裁いたということだろう。

(8ページ)

5年も前の事件なので、私も記憶が薄れているが、このときマスコミでも「子どもに性的情報を流すか否か」で話題になった気がする。しかし、警察が逮捕するのは、「わいせつ罪」であり、「大人にとって害がある」ものでなければ刑法には触れない。*1「子どものことを憂いて、親が訴える」という構図であったため、事態がわかりにくくなっていた。印象操作されかねないので、注意が必要だ。

 司法において、性表現を論じるときには、「主体‐対象」の関係が、4種類に分けられる。それは、「大人‐大人」「大人‐子ども」「子ども‐大人」「子ども‐子ども」である。今回は「大人‐大人」の問題であるべきなのに、「子ども‐大人」のように見えがちだ。また「大人‐子ども」の問題がクローズアップされているため、ごっちゃになりやすい。表現の自由とは別に、考えておきたいと思う。

*1:子どもにわいせつ物をみせる→青少年条例、子どもをわいせつ物にする→児童ポルノ法

2007-10-04

[][][][]秋山駿「内部の人間の犯罪」

内部の人間の犯罪 秋山駿評論集 (講談社文芸文庫)

内部の人間の犯罪 秋山駿評論集 (講談社文芸文庫)

 表題作の「内部の人間の犯罪」は、初出が1967年になっている。文庫版になり、再録されている。もしかすると、有名な文章かもしれないが、私は初めて読んだ。1958年の、小松川女高生殺人事件で加害者になった少年の心理を、推察したもの。あまりにも詩的で感傷的すぎるきらいもある。しかし、よく踏み込んだ考察になっている。

 秋山さんは、加害少年を「内部の人間」と称する。内部の人間は、自己内におのれの世界を生み出して、充足しようとする。秋山さんはこう書く。

 閉ざされた場所で自己完了しているものは、いわば本当の自分を仮死状態においている。そこで、つまり、偽りの無私、というような状態が成立する。この状態が外部、あるいは相手の人間に向けられるとき、外部がどんなに任意のまた思いがけない展開や行動を示しても、それがそのまま、この状態に描かれるところの一つの軌跡になってしまう。そのすべてがわが事のように完了してしまう。そういう性質をもつのだ。無私のカンヴァスにはどんな線も可能だから。相手が勝手なことをする。それこそ想像された、むしろ予期された行動だったのだ、と思うことだけはこちらの自由なのだ。これが内部の人間の秘密の生活の場所だ。

*引用者注:傍点は省略した

(25ページ)

そして、加害少年の手記を引用しながら、「自分が殺した」とわかっているが、それがリアリティを欠いた状態だと述べる加害少年を分析する。

 人を殺しながら、絞めているのはおれだと考えながら、しかもその全体は夢のように感ぜられる――これは外部からの証明を欠いた内部的行為の性質である。内部的行為とは意識の内部でのみ完了するような行為である。それは結局、夢のような行為、あるいは夢のなかの行為である。意識が意識を追い、想像が想像を追う、それだけが唯一の渦動であるような内部に閉じこめられている人間には、ある行為のどこまでが内部であり、どこまでが外部であるか、その区別があいまいであり境界の標識が厳密さを失って稀薄になっている。

(略)

 夢のような行為から一歩をふみ出す。あいまいな夢の世界に忍耐し切れなくなったために、とにかく一歩をふみ出す。その動力となるものが、思考の作用であるか、自慰行為の発展であるか、それはどうでもいい。この一歩が兇行となってあらわれる。

 兇行として行われたものは外部である。しかし、彼は、自分の内部から一歩をふみ出しただけなのだ。事件の全体のどこに自分に意想外な新しい現実の一片があるのか。全体はその細部まで一つ一つ、想像のなかの事柄と同一の状態であり、等質の性質ではないか。もう一度同一のことがあるにすぎない。これはやはり夢のような行為であって、一つの新しい現実の体験ではない。どうか自分に、それが一つの恐るべき行為であり、一つの異常な経験であることを、強く実感させてほしい。わからせてほしい。これが内部の人間の弁証法である。

(45〜46ページ)

 この二十年後、秋山さんは、事件の裁判調書を読んで憤慨している。

 もし犯罪が、一国の知的水準を示すものなら、というより、その国に住む市民の生の意識が、人間的生存の深さを手探って測る、深度を示す目盛りのようなものだとすれば、この事件に見る限り、犯罪へのわれわれの感受性は、おそろしく低くて、鈍い。この裁判調書には、犯罪を愛撫しているという趣がない。おそろしく鈍感で、もっとわるいことには、生きた人間を歪曲し、なるべく犯罪モデル人形に近寄せて処刑してしまえばそれで済む、といった、生への無関心を露呈している。ここに描かれた犯罪は、小さな檻に入れられ、飼われ、観察されている低い動物のそれである。小さな檻に入れるから犯罪が惨めになるのだ。檻とは、犯罪へのわれわれの頭脳の機構であり、日常の意識である。われわれは恥じなければならぬ。われわれへの犯罪への意識には、いかなる繊細さもなく、また、想像力というものがまったく欠けているのだ。(警官よ、裁判官よ、新聞記者よ、それは君等のことだ。そしてあるいは、この私のことだ)。檻を壊してみよ、犯罪はたちまち生気を帯び、暗く、謎めき、しかしときに異常な輝きを発しながら、一匹の黒豹のごとくに疾走するであろう。

(204〜205ページ)

秋山さんの、犯罪への思いいれは、あまりにも深い。加害者を英雄視しかねないくらい、熱心である。しかし、現在の、犯罪加害者への盛り上がっているバッシングより、生々しくて熱情的だ。普通では考えられないような、おそろしい行為をなしてしまう加害者とは、いったい何かという疑問を執拗に追う。加害者になった人間と、そうでない人間の違いが、紙一重でありながら、埋まることのない断絶であることを描く。「私も人を殺したかもしれない」ということと、「私は人を殺した」ということの間には、決定的な差がある。その差は、繊細になり、想像力を限界まで働かせなければ、浮き上がらないのだと、秋山さんはいう。

 現在、秋山さんが「内部の人間」と称するような加害者は、精神鑑定にかけられ、なんらかの精神異常として病名がつけられるだろう。精神科医が責任能力の有無を確定するだけではなく、マスコミ報道などで、コメンテーターのタレントまでもが、いっぱしの診断をくだす。秋山さんは、この文章の中でも、精神分析や心理学に偏重する世相に批判的である。しかし、当時とは比べられない勢いで、精神医学は、重んじられるようになった。その結果、人を殺す人間と、殺さない人間の差は、DSMによって説明されるようになった。

 一方で、秋山さんが引き合いに出すのは、文学作品である。ドストエフスキー『白痴』、カミュ『異邦人』の登場人物と、加害少年を比較する。また、2005年には、昨今の少年犯罪を論じて、秋山さんは、「内部の人間」が外部に一歩をふみ出すのは、早熟な詩人が初めて詩を書くのと似ているのだといっている。「なぜ殺したのですか」「わからない」という問答と、「なぜ詩を書くのですか」「わからない」という問答を重なり合わせる。

 文学は、次のように考える。

「分からない」というのは、真に分らないわけではなく、人が心の奥に秘めたる言葉、それを、原因と結果を二二が四のように結ぶ社会の言葉に翻訳することができない。あるいは、秘めたる言葉を、生のまま現実化する言葉を見出せない、ということであろう。その秘めたる言葉を探るのが、文学である。

(276ページ)

 秋山さんの言葉づかいは古く、読みにくい。しかし、現在の日本の犯罪についての言説の中で、かなり面白い。加害者は異常である、というのは当然である。その異常さに接近するためには、秋山さんのような異常な熱情が必要なのかもしれない、と私は感じた。

2007-09-29

[][][]加害者の家族・被害者の家族

 死刑に関する本が紹介されているので、私は次を挙げておく。

癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち

癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち

注目される機会も増えているので、ご存知の方も多いかもしれない。

 坂上さんが取材しているのは、アメリカの死刑囚の家族と、犯罪被害者が、同じバスに乗って死刑廃止運動をする、という団体である。詳しい内容は、ぜひ読んでいただきたいが、必ずしも上手くいっていることばかり書かれているわけではない。また、この取り組みを美化して、犯罪被害者の家族に、これを理想像として押し付けてはならない。その上で、ときに、「被害者の気持ちを考えろ」「遺族の気持ちを考えろ」と言いたい気持ちに駆られる、第三者の私たちは読むべき本である。

 犯罪被害者の家族が、「加害者を殺してくれ」という気持ちは、素朴に私たちに理解しやすい感情かもしれない。「私も、そう思うんじゃないなろうか」と想像できそうだ。しかし、直接の加害者ではないとはいえ、死刑に値する犯罪をおかした加害者の家族と、抱き合って気持ちをわかちあい、共に死刑廃止運動を推進していく犯罪被害者の家族の気持ちは、想像しにくい。

 さまざまな犯罪被害者の家族がいるだろう。「あなたなんて本当の犯罪被害者の家族ではない!」と言いたくなる家族もいるかもしれない。「こんな犯罪被害者の家族は、レアケースだから除外すべきだ」と言いたくなる家族もいるかもしれない。でも、丁寧に追っていったほうが良い。その中で、私たちは、自分が犯罪被害者の家族に、あって欲しい理想像を押し付けている自分を発見するかもしれない。

 せいぜい、私たちにわかるのは、犯罪被害者の家族というのは、驚くほど多様でひとくくりにはできない、ということだろう。しかし、それでも私たちは、犯罪被害者の家族について、論じていくことになるだろう。それは、「犯罪被害者の家族として」、ではなく、「社会を運営する一員の一人として」*1第三者が死刑や司法制度について考えるときに、念頭においておくべき問題である。どんなにインタビューや、書籍を読もうとも、私たちは犯罪被害者の家族(当事者)にはなれないし、なる必要もない。そして、当事者の気持ちを代弁することもできない。まず、そこからだろう。

 坂上さんは「ライファーズ」という映画もとっている。こちらは修復的司法の要素を取り入れた、アメリカの刑務所内でのプログラムなどを紹介した作品である。DVDが出ていないようで、残念だ。こちらも賛否両論だが、もう少し広く知られて良いように思う。

*1:簡潔に言えば「市民として」ということである。

2007-09-26

[][][][]日本における修復的司法の導入開始

 web上で、以下のニュースが流れている。

補導少年、被害者と対話 警察庁が来月新制度 反省促す

 警察庁は、万引きや傷害などで補導された少年が、被害者と対面し、自分が犯した行為や動機などについて説明する場を設ける新たな立ち直り支援策を導入する。加害者と被害者が向かい合うことで関係の回復や更生を図る手法は「修復的司法」と呼ばれ、家庭裁判所や少年事件に熱心な弁護士などが採り入れている。警察が正式に導入するのは初めてで、補導された少年に、自らの行為を自覚してもらい、反省と再起を促すのが狙いだ。

http://www.asahi.com/national/update/0926/TKY200709260213.html

前情報を手に入れていなかったので、どういう経緯で導入が決まったのか、全く知らない。修復的司法の本来的性質は、少年事件に絞って導入されるようなものではない。しかし、日本においては、家庭裁判所の調査官や、少年院の関係者、少年事件を扱う弁護士が中心に、修復的司法を紹介していたので、私はこの展開は予想していた。

 それにしても、この新制度は、比較的軽微な犯罪をおかした、加害少年と被害者本人を対面させるもののようだ。もちろん、加害者が罪の意識をもつ、というのは修復的司法でも重要な成果とみなされている。だが、修復的司法に期待される役割は、それだけではないはずだ。

 修復的司法では、二つの成果が目指される。一つは、事件によってもたらされた、肉体的・精神的・経済的なダメージの修復を、修復的司法を通じて模索することである。もう一つは、事件によって混乱した、被害者・加害者とその周辺のコミュニティーの関係性の修復することである。そして、この二つを遂行するプロセスで、当事者の納得のもとに、事件を終結させていく。

 加害者の更正はもちろん目指されるべきではあるが、それだけを成果にかかげるには、修復的司法をあまりにも矮小化させている。また、更正した加害者をいかにコミュニティーが再度受け入れるのか、をさぐることも、修復的司法の中では重要な問題とされている。

 もちろん、新制度が修復的司法の先駆けとして導入される事自体が、悪いわけではないが、これが修復的司法の全てではないことは、改めて確認しておきたい。また、新制度には、修復的司法の根幹である、「赦し」というコンセプトが無視されている。このイデオロギーを抜きに、修復的司法はありえるのだろうか。この新制度については、注意を払っていきたいと思う。

 ついでに、web上で、宮台真司の修復的司法批判を目にした。

1)今時、重罰化を含む応報刑的措置に対抗してコミュニケーションによる回復(修復的司法)を賞揚することが国家権力への対抗(による社会の擁護や弱者の擁護)になるとする勘違いには、仰天しました。アナクロニズム(時代錯誤)です。

 むしろ昨今では反動的司法学者が修復的司法を通じた国家の「内面的介入」を擁護し得ることが重大です。被害者が許していないことを理由に罪刑法定主義に違背して永久に閉じ込めておくことを可能にしようとするわけです。教育刑ファシズムの思考伝統に連なります。

 今や素朴な修復的司法の賞揚は反動的であり得ます。因みにフリーター批判からニート批判への変化もまた単なる振舞い批判から内面批判への弧を描き、国家が内面改造に予算と人員を配置することも付言しておきましょう。

宮台真司「明日の思想塾公開講座の参加者に参考資料を緊急にお知らせします」『MIYADAI.con Blog』(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=345

宮台さんが、批判する上野千鶴子の本が、手元に無いので文脈が確認できない。確かに、修復的司法を国家として導入しているケースは、いくつかある。たとえば、ニュージーランドでは、日本と似た形で、少年の更生を目指す趣が強いようだ。しかし、修復的司法は、必ずしも、国家主導で行う必要はない。アメリカのミネソタ大学を拠点にした、アンブライト(有名な修復的司法の実践家)のセンターも、民営だったはずだ。また、フィンランドのように、国家が出資し、あくまでも市民が運営するスタイルをとる場合もある。(ただし、フィンランドの場合は、体制化したという批判が出ている)

 何がともあれ、修復的司法を推進することと、国家の内面的介入を直結させるのは早計だろう。危惧は大事だし、私自身、新制度に対しては不安をもっている。また、多くの国家で内面的介入に結果的になっていることも、予感している。それでも、修復的司法をアナクロニズムと切り捨てるのは、ナンセンスだと思う。