G★RDIAS このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-11-22

[][][]「<私>の自由をはばむもの」を<私>が生み出すこと

x0000000000さんの「これは真の「生殖の自由」なんだろうか」↓を受けて考えた。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071117/1195277074

 人が自由になるための社会運動、特に20世紀の解放運動*1は重要だったし、必要だった。*2その極致が多文化主義だろう。お互いの価値の自由を認め合い、共存を目指すものである。しかし、9.11以降、多文化主義は色あせてしまった。

 多文化主義とは、穏和な分離主義である。認めあえる範囲で認めあい、認めあえない範囲は踏み込まない。もっとも踏み込めない部分が宗教である。特に、一神教の精神は、多文化主義と真っ向から対立する。一神教は、神が唯一無二であることが基底にある。他の存在と、比較すらできない存在が一神教における神である。多文化主義では、この神を、個人の内面に閉じこめることを求める。しかし、宗教を個人の内面の問題とすること自体が、既に西欧的な観念であり、他の一神教と対立することになる。多文化主義は、現代社会の多くの問題を解決するだろう。しかし、解決できない部分も残る。

 そこを解決するためには、どうすればよいのか。やっぱり、なんらかの「正しさ」が必要だろうという話になる。では、どうすればよいのかというと、「自由競争」か「討議」で決めようという二案が出てくる。淘汰され残ったものを「正しさ」とするのか、話し合って合意したものを「正しさ」とするのか。議論は続いているが、どっちにも不備点があり、決着はついていない。*3

 では、出産という問題はどうなのか。

 もし、「女性の解放」を書いたJ.S.ミルだったらどう考えるか。彼は、女性と男性の肉体的格差を減らし、与えられる機会が均等であれば、男女は自由に競争する中で地位も対等になっていくという。ならば、アンドロイドが女性の代わりに出産するようになることに賛成するかもしれない。

 しかし、出産という問題は、「人間を生み出す」という点で特殊である。生まれた赤ん坊は、他のどんな生き物/無生物とも異なる、人間である。子どもを生み出すとは、<私>が<他者>を生み出すことである。ここで、「<私>の自由をはばむもの」とは誰かを考えてみる。*4それは言うまでもなく<他者>である。自由が問題になるとき、<私>と同じではないのに、同じ人間として現われる<他者>をどう扱うのかが、最も問題である。<私>が出産において、自由を追求するとき、それは「自由に、自由はばむものを生み出したい」という矛盾を抱える。そもそも<他者>を生み出すこととは、新たに増える<他者>一人分の自由を、<私>が放棄することである。

 アンドロイドに出産を代行させれば、出産する肉体をもつ女性は自由になる、と言えるかもしれない。しかし、アンドロイドの出産で、この世界にひとりの<他者>が増えることにより、<私>は<他者>ひとりぶんの自由を、この世界から失うことになる。この問題をも自由を求めることで解決しようとすると、どこまでも<私>と同じ、クローンとしての<私>を出産することを望むことになるだろう。しかし、クローンとしての<私>でも、やはり私の目の前に現われるときには、<他者>として捉えることになるだろう。でなければ、<私>の「ここからここまでが<私>という感覚」が基底から覆される。または、<他者>を増やすことをやめ、出産しないことが人類が自由への道である。

 出産について、自由を追求するという観点から言うとすれば、「産まない」というのが一番簡潔な解決策だ。<他者>を生み出すことをやめるのである。では「産む」ことは自由を放棄することなのか。そういうわけでもないだろう。産むことにより、享受していた自由は、減るかもしれない。しかし、自由という概念の核に触れる経験になる可能性もある。なぜなら、自由をはばむものは<他者>であるが、<他者>は自由という概念を生み出す源でもあるからだ。<他者>が存在しなければ、<私>は自由を問題にしないだろう。ここで、自由を追求することだけが、自由を尊重するわけでない、という仮説が立てられる。ひとは、出産を通して、不自由になることで、自由について考え始める原初に立ち戻るのではないか。それは、「なぜか、ひとは不自由になるのに<他者>の存在を求めてしまう」という謎を含む。

 

 以上をみていくと、私が先に述べた、解放運動の末の多文化主義が、「正しさ」を必要としたのとは別の形で、自由について思考する経路が開ける。

*1:「○○である自由」を求めるアイデンティティ・ポリティクス、と言ってもいい。

*2:まだ、必要ですけど。私もコミットすること多いし。

*3:いまのところ、前者が優勢。

*4:以下の、自由を自他関係から捉えるアプローチは、社会学者・大澤真幸の自由に関する議論からヒントを得た。

2007-11-20

[][][][]クレームメーキング

 ブログで情報発信していたところ、国会議員から問い合わせがあり、実際に国会質問の参考資料に使われた、という報告がある。

先日、参議院議員である松浦大悟さん(松浦大悟 - Wikipedia)から問い合わせのメールをいただきました。今国会で争点として取り上げられそうな「学校裏サイト」「出会い系サイト」「有害サイト規制」について質問するため、これらに関する情報を提供して欲しいとのことだったので、下記のようにお答えさせていただきました

chiki「松浦大悟議員が『有害サイト規制』『学校裏サイト』などについて質問」『荻上式』http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20071119/p1

ネットで、各人が情報発信をできるようになって数年経過したが、実際に国会質問に直結するような協力関係ができたのは初めてのケースかもしれない。もちろん、書き手のchikiさんは、先日「ウェブ炎上」を出版されたところだから、という背景もあるだろうが。

 ところで、以下のような問題について。

出会い系サイト規制の前提として、「出会い系サイトを利用した児童買春事件が急増している」というクローズアップがよくされているが、これだけをみて論じるのは間違い。まず統計的に見ても売春が「急増」しているわけではない。ネット・ケータイユーザーが単純に増加したことで、ネット・ケータイを通じてこれまで行われていたことが<可視化>されるようになったこと、およびこれまでであってもコミットしやすかった層が、ネットに流れているということなども関係していると予測される。単純に増えたわけではない。

(同上)

このような主張は社会学でよく見られる。たとえば、「児童虐待は増加していない」という研究がなされ、一部の社会学者の中で議論になっているようだ。ショッキングで、感情的な反応を呼びやすい主張が、社会の人々の不安を煽り、センセーショナルに取り上げられることを「モラルパニック」と呼ぶ。社会学者は、このモラルパニックに陥った人びとを分析し、主張を始めた人物を探し出し、どのような過程で社会に受け入れられていったのかを調査する。そうして、実は、その主張の論拠が曖昧で非科学的だということを、発見したりする。

 それは、それで大事である。私もそういう研究を好んで読むほうである。また、現在、ニュースで取りざたされているいくつかの、ショッキングな主張*1の研究が、早急に必要だとも思っている。

 ただ、クレームメーキングが必要ないか、というと、そんなことはない。「出会い系サイトを利用した児童買春事件」も「児童虐待」も急増していなくても、あることはある、のだ。そして、可視化された以上、なんらかの対策は必要になってくるだろう。モラルパニックが起きたからこそ、やっと日の目を浴びた、としかいいようのない問題がある。そういう混乱期を通過しないと、社会は真面目に取り組まない、という側面だ。

 マッチポンプでないやり方で、問題を問題化する方法というのが、今の私には思いつかない。やはり、焚き火みたいにボーボー燃えている人もいれば、焼却炉みたいに静かに燃えている人もいるほうが良いと思う。もちろん、誰が炎上して、誰が焼け焦げているか、ということも、問題にしなければならないけれど。とりあえず、燃えている人は、燃える以外に方法がないほど、追い詰められていた可能性がある、ということは、念頭において議論したほうがいい。燃えてるのが、その問題の当事者であってもなくても。

 まだ、上手くかけないが、クレームメーカーになることを、やたら恐れる風潮が、今の私の世代の人に多いように感じて、それを危惧している。問題を問題化することは、わがままや責任放棄だとみなしやすいのではないか。気になっている。

*1:例:「最近の若い人の間デートDVが増えている」…そんな馬鹿な!中年以上のみなさん、あなた方の若かりし頃を、美化せずに思い出してください。暴力の形が変化していることと、暴力が増えていることは、問題が違う。

2007-05-08

[][][]尊厳死とジェンダー

kanjinaiさんのエントリ「女性が安楽死させられる国アメリカ」にコメントを書いたが、本を見つけたので引用。

社会学がわかる。 (アエラムック (12))

社会学がわかる。 (アエラムック (12))

日本尊厳死協会の会員数は一九九二年に三万人を突破したが、注意すべきなのは、女性の会員数が男性の会員数のほぼ倍であるということだ。そうした格差が生まれる理由の一つに、日本で(家族の)看護に当たるのが圧倒的に女性であり、彼女たちは看護の過程で大変な苦労を強いられているという現状があげられよう。(市野川容孝「現代医療社会学――「生の画一化」にどう立ち向かうか」、p.117)

文献が古い(1996年)ので最新の情報を日本尊厳死協会のHPで調べると、2006年12月末現在で女性が8万人、男性が4万人弱であることが分かる。さらに推移をたどっていくと、女性が男性のほぼ倍という状態のまま増加していることが分かる。アメリカの安楽死だけでなく、日本の尊厳死にもかなりジェンダー要因が見て取れるのではないだろうか。