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2007-12-27

[][][]2007年の3冊

 今年の新刊書から印象に残った本を紹介したい。宗教に関係する本を3冊選んでみた。

キリスト教と音楽 ヨーロッパ音楽の源流をたずねて

キリスト教と音楽 ヨーロッパ音楽の源流をたずねて

 ヨーロッパの芸術音楽の歴史とキリスト教の結びつきについて、やさしく書かれた日本語の本は、それほど多くないように思う。著者は『キリスト教音楽の歴史』(asin:4818405507)をすでに刊行しているが、本書はキリスト教にそれほど詳しくない日本人のクラシック音楽愛好家を意識し、平明な文章で書かれている。

 キリスト教典礼と音楽の関連など、基本事項の解説があるのは便利(第1章〜3章)。第4章「教会とオルガン」が面白い。

 本書を読み、芸術音楽はキリスト教の思想や霊性を表現し、人々に伝える手段として、とてつもなく重要なものであったことを、再認識させられた。

 それにつけても、世俗化の進んだ現代に住むわれわれがともすると忘れがちなのは、バロック以前のヨーロッパにおいては、社会における教会の役割が今日とはだいぶ異なっていて、人々とキリスト教の結びつきも自然で、「宗教」などというむずかしい言葉は二の次であったということです。つまりそのころはだれもが、なんら疑いをもたずに教会に足をはこんでいたのです。だからといってかれらが現代人以上に信心深かった、というわけでは決してありません。かれらにとっては、キリスト教は最初から生活の一部であり、信じることはあたりまえ、それにたいして疑いをもつなどということは夢にも考えなかったことでしょう。教会に行くといってもそれを宗教的行為と意識していたかどうかはわかりません。教会はいわば社交の場としての役目もはたしていたのです。誰でもいいから人に会いたいと思ったら、まず教会にいけば誰かに会えるだろう、と考えて足をはこんだ人もすくなくなかったことでしょう。文化活動においても、現代ではその中心にさまざまな世俗的な施設がありますが、以前はキリスト教の教会がその役割をはたしていたのです。

 そのような事情は音楽の世界でも同じことで、一八世紀を境目として大きな変化がみられます。とくに一九世紀に入ると音楽芸術とは世俗的性格が強いものという傾向が優位を占め、宗教音楽というとなにやらそのなかの限られた分野と思われるようになってしまいました。しかし以前はそれがまさに逆で、音楽の主流は教会音楽にあったのです。しかもそのころの一般庶民にとってより身近だったのは教会音楽であり、世俗音楽はむしろ高嶺の花だったのです。つまり世俗曲のほとんどは個人的に家庭内、というよりは宮廷内で演奏されるような小規模な作品で、しかもそれを楽しむのは上流階級の人々に限られていました。一般庶民が楽しむのは現在と同じで、おもに流行歌や巷の楽師たちの演奏だったはずですが、歴史に残るようなより高度な音楽を聴きたいと思った人たちは、教会へと足をはこんだのです。教会では素晴らしい聖歌隊の歌唱がつねに聴けましたし、オルガンの演奏もあり、バロック時代に入るとそれ以外のさまざまな楽器の合奏も聴けたわけです。しかもそれはすべて無料で。

 本書「はじめに」より、3〜4頁

精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性

精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性

 これは9月2日のエントリーで言及した。旧著の新装版であるが、新たに索引が付加され、使いやすくなっている。

 参照、http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070902

禅キリスト教の誕生

禅キリスト教の誕生

 ヨーロッパでは、一九七〇年代後半から参禅する人が増えている。私が大学生だった一九八〇年代の半ばのこと、キャンパスで知り合ったドイツ人留学生カトリック信徒だったが、禅に傾倒していた。当時(西)ドイツを旅行した際、都市部の書店に立ち寄ったところ、Zen 関連の本が並んでいたのに驚いた記憶もある。

 ヨーロッパで禅ブームと並行して生じているのは、伝統的キリスト教の凋落である。著者(聖書学者)によると、ヨーロッパのキリスト教会からは若者の姿が消え、ドイツ・スイス圏の大学神学部(=牧師養成機関)では教員のリストラが進んでいるという。「一九七〇年代は、神学を学ぶ者は賢い者という評判だった。しかし九〇年代では、神学を専攻する者は愚かな変質者でしかない」と語った、あるヨーロッパ人の声も紹介されている(本書、6頁)。

 禅ブームとキリスト教の凋落は、なぜ起きているのか。禅ブームが定着した今後、ヨーロッパ人が継承してきたキリスト教信仰はいかに変容していくのか。本書には、著者独自の分析と見通しが記されている。

2007-12-25

[][][]2007年の3冊

 今年、印象に残った3冊をあげます。私は、人間を描き出そうという試みで、興味深かった本を3冊。(必ずしも良書という意味で選んだわけではありません)

(1)森田京子『子どもたちのアイデンティティー・ポリティックス―ブラジル人のいる小学校のエスノグラフィー』

 日本のある小学校での、参与観察をまとめたもの。筆者はアメリカの大学で、人類学を修めたフィールドワーカーである。約2年間、数度にわけて、教室の中での調査を行っている。ニューカマーとして、日本に移住してきた日系ブラジル人の子弟が、どのように小学校で暮らしているのかを追う。

 やはり、言語の問題や、文化の違いなどで、ほかの日本人クラスメイトとの摩擦が起きている。以前より、教育学では日本の小学校教諭が、学級経営に一体化を求めるため、ブラジル人小学生が同化を迫られる点が指摘されていた。しかし、森田さんは、深く小学生のコミュニティに入っていき、子どもたち一人一人が、「ブラジル人としてのアイデンティティを奪われることなく、クラスになじむ戦略」をたてていくことを明らかにする。

 「抑圧的な日本の教師/抑圧される子どもたち」という二項対立で語られやすい教育現場だが、この文献では、そのような単純化を切り開く試みがなされている。子どもたちの生き延びる戦略のたくましさに焦点を当てている。具体的には3人のブラジル人小学生のストーリーが紹介されている。この3人の成長の様子を、つぶさに観察しながら、暖かく描いている点で、読み物としても面白かった。

(2)藤井誠二『殺された側の論理』

殺された側の論理 -犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」

殺された側の論理 -犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」

 今年6月に被害者参加制度が成立した。その3ヶ月ほどまえに発刊された書籍である。犯罪被害者遺族の側の言い分を、ルポルタージュとしてまとめている。後半は、被害者遺族による「死刑廃止論」批判があることを述べている。

 被害者参加制度は、私が「声をきこう」運動と呼んでいるムーブメントの集大成であるといえるだろう。「当事者こそが真実を知っている」「当事者の意見を尊重しなければらない」という世の多くの人が賛同した運動である。しかし、「声をきこう」運動の内実とは、いったいなんだったのか。被害者参加制度に反対していた犯罪被害者遺族の存在は、ほとんど省みられなかった。声の大きい当事者<だけ>を、「私たちの聞きたい声をあげるような当事者」<だけ>を取り上げている側面がある。結局、私たちは、「声をきこう」といいながら、都合のよい声だけを拾い上げていたのではないか。

 藤井はこの書籍のあとがきで

 殺された側にしかわからない、という言い方がある。

 被害に遭った者にしか理解できない、という言い方もある。

 私は当初、そういった経験主義的ともとれる言い方に若干のひっかりがあったのだが、犯罪被害者や遺族へのインタビューを重ねていく過程でそのひっかかりは溶けてなくなっていった。

(276ページ)

私は「それはあかんやろう」と思う。なぜなら、「あなたにはわからない」と言ってしまった瞬間に対話の糸口はなくなるからである。感情的には「あなたにはわからない」という言葉の前に、私は立ち尽くすだろう。そして、私も感情的に「あなたにはわからない」と他者に言うことがある。感情的に圧倒し/圧倒され、言われた側が沈黙することがある。しかし、それは言われた側の、論理の放棄である。

 この書籍の表題にある「殺された側の論理」はとても重い言葉である。殺された側は、それでも論理的であることができるのか。しかし、言う側が論理だというのならば、言う側は論理を貫徹するほかない。また、論理だと言われれれば、言われた側も論理的に批判するしかない。

 論理として主張をかざすことは、批判に身をさらすことである。被害者遺族のその態度に対し、私たちは誠実に論理で応答しなければならない。だが、「ああ、私にはわかない」と感情に流され、論理を放棄していないか。

 当事者の「声をきこう」とする第三者として、藤井さんの態度をどう評価するのか、という点で印象に残った書籍だった。

(3)四方田犬彦『先生とわたし』

先生とわたし

先生とわたし

 批評家である四方田さんの回想録。自分の師匠である由良君美を、描き出そうと試みている。大学のゼミ時代の思い出から始まり、由良さんの生育歴や、その父母の系譜をたどっている。そして、四方田さんが研究者としてひとり立ちした後の、いさかいまでも綴っている。

 知の探求の途上で、師にめぐり合うことは重要である。しかし、いずれ、弟子は師を超え、その庇護から這い出す。そして、今度は弟子を迎え、自らが師となるのだ。四方田さんは、由良さんとの交流を振り返りながら、暗い感情の行き違いがあったとはいえ、由良さんは深く誠実に弟子と向き合っていたと述べる。さらに、自分は由良さんほど、弟子に対し誠実であるのかを問われるという。

 内容はすごく面白かった。でも、それ以上に「私の知っている大学生活とはずいぶん違うようで」という意味で夢中になった。私にとっては時代小説みたいなものです。 

(番外)ケイト・ボーンスタイン『隠されたジェンダー

隠されたジェンダー

隠されたジェンダー

 トランスジェンダリズムの先駆けである本が、ついに翻訳された。1994年に出版されている。当時はやりのコラージュや、簡単なワークショップ的な仕掛けも楽しい本。すでに批判も多く出ているけれど、トランスジェンダーと、政治参加について考えるには通るべき本だと思う。(まだパラパラ見ただけで、ちゃんと読めてません…)

 続けてこちらに乗っている批判も。

[][][]編集者は「邪馬台国」をどう断るか

『いける本・いけない本』第7号というミニコミ誌を眺めていたら、タイトルのようなエッセイを見つけた。著者は、元講談社の編集者、鷲尾賢也さんである。編集者をやっていると、様々な持ち込み原稿が殺到するが、そのなかでもいちばん多いのは「邪馬台国」ものらしい。それをどう断わるかというのが、編集者の技だとのこと。どう断わるかというと、

「なかなかの労作だと拝読しました」。ただ、「昨今の書店事情だと、こういうものはなかなか数字があがらない」。「しかし念のために販売担当者に話をしたが、やはりうんといってくれなかった」。「せっかくのお原稿ですが、ご希望に添えません。まことに残念です」とでも書けば、かなり納得してくれるだろう。(27頁)

ということのようである。こういう手紙をもらった人、ひょっとしていませんか?

2007-12-20

[][]戦後民衆精神史

現代思想2007年12月臨時増刊号 総特集=戦後民衆精神史

現代思想2007年12月臨時増刊号 総特集=戦後民衆精神史

現代思想』臨時増刊号が、「戦後民衆精神史」という特集をやっている。戦後の思想文化芸術運動をささえた、サークルの動きを検証していて面白い特集になっていると思う。資料としても貴重なのではないだろうか。冒頭に、鶴見俊輔吉本隆明金時鐘へのインタビューが掲載されている。

鶴見は例によって、歯に衣着せぬストレートな物言いで、たいへん面白い。こういう知性をもって高齢化するというのはうらやましいと思う。

日本の社会は創造的な力を消していくね。これは大学の影響じゃないかと思うんだよ。日本の文化というのは大学出の人たちが作ったものじゃあない。・・・(中略)・・・断じて日本は終わる。私はもともと親父と爺さんを比較していてその直感はあったんだ。80年経って確認するね。自分の中の目利きによると、未来はない。(17頁)

これは、創造的な面という意味では、日本に未来はないということだろう。日本全体を主体として見ると、日本全体が世界に冠たる創造的な場所になるという機運は、たしかになさそうに私も思う。ただそのなかの個人に注目すれば、創造的な個人はこれからも出てきて、その人たちは日本という場所にこだわらずに個として創造性を発信していくだろう。後の世界史から見れば、それらの個人は、とくに日本人としては見られないだろう。私はこのように未来を見ている。

2007-12-19

[][]アドルノの否定弁証法講義

否定弁証法講義

否定弁証法講義

アドルノの大著『否定弁証法』への入門的位置づけにあたる本。アドルノが1965年から66年にかけてフランクフルト大学で行なった連続講義のテープ起こしを本にしたもの。

アドルノは「肯定的批判」に対して次のように言う。

そのとき私はラインラントのあるホテルに滞在していたのですが、そのホテルの支配人に私はこう言ったのです。他の点では申し分のないホテルなのに、こんなに騒音がひどいのだから、二重窓を設置すべきではありませんか、と。すると彼は、当然のことながらいくつかの込み入った事情でそれは不可能なのだと説明したあとで、こう語ったのです。「しかしながら、私どもはもちろん、肯定的な批判に対してはいつも心から感謝申し上げています」。

 私が否定弁証法について語る場合、まさしく肯定的なもののこの物神化に対してあたうかぎり明確に一線を画することが重要な動機となっています。(36頁)

興味深い文章である。ここからどういうふうに展開されていくのかは、先を読んでみないと分からない。私自身は、ホルクハイマーのほうが分かりやすくて好きなのだが、アドルノもちゃんと読まないといけないなあと思っている。

2007-12-18

[][]「能力の共同性」が答えか?

新自由主義の嘘 (双書 哲学塾)

新自由主義の嘘 (双書 哲学塾)

私はこちらを取り上げる。方向性としては共感し、挙げられている例はなじみの例も多い。しかし、私は論理の薄っぺらさを感じざるを得なかった。

竹内さんは、新自由主義に抗するために、「能力の共同性」を主張する。しかし、いくら他者に負う(所有権ownershipは他者に「負う」oweというown/oweの親近性も、見慣れた議論だ)としても、能力は個体である生の身体にしか宿らない。つまりは、能力の「何を」共同すべきか、あるいは可能なのか、そのあたりの議論がまったくよくわからなかったのだ。そこが、竹内さんの(この書だけではない)著作を読んでいつも腑に落ちないところである。ロールズの「才能のプーリング」と、どこが違うのか、私には分からない。

10年前、立岩真也が書いた『私的所有論』は、論理の緻密さからして、越えられてはいないように思える。

[][]意識と〈私〉

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

読了しました。とても刺激的で面白い本だと言える。テーマは永井さんがずっとこだわっている「〈私〉」と「言語」のことである。それを、「意識」という面から切ってみた。チャーマーズの、例の「ゾンビ」の例を素材にして、チャーマーズ批判をしていくところはなかなか面白い。議論内容はと言えば、これまで永井さんがしてきた議論の枠内で進んでいくのだが、最後のあたりで、私の特権的な経験の再帰的自覚というものが、実はその特権性の消去を本質とする「言語」によって可能となるという構想が出されていて、これはかなり刺激的であった。あとは、時間についての記述で、間違っているのではないかと思われる箇所があったので、これについてはどこかでちゃんと書くことにしたい。

前のエントリーでも書いたが、やはりこの議論パラダイムは、ヴィトゲンシュタインの手のひらであるということを、再確認できた。永井さん本人もヴィトゲンシュタインの洞察に導かれてここまで来たということを本文で匂わせている。言葉のうえでは、ヴィトの私的言語論は誤謬であると断言しているが、それもパラダイムに乗った上での内部批判のように読める。最初に出てくる「ブトム」という造語も、ヴィトへのオマージュであろう。もちろん、永井さんの側からしてみれば、自分の本来的な哲学的問いが、たまたまヴィトと似ていたという順序であろうから、こういうのは言いがかりのように聞こえるにちがいない。それは重々承知のうえで、私としてはヴィトから脱出する道を探したいと本気で思っている。でも、永井さんの説にはいずれちゃんと絡ませてもらいます。私が以前に書いた論文だけでは終えられないと思うから。

2007-12-17

[][]アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京

アイリス・チャン(1968-2004)の著書が、日本語訳されたようだ。

南京大虐殺は、虐殺された人々の数だけでなく、彼らの多くが、恐ろしく悲惨な状態で死んでいった事実においても、想起されなければならない。中国人の男性は、銃剣の練習や、首切り競争で殺害された。強姦された中国人の女性は二万人から八万人に上ると見積もられる。多くの兵士は強姦に飽き足らず、女性の腹を裂き、胸を切り取り、生きたまま壁に釘付けにした。家族の見ている前で、父親が娘を犯し、息子が母親を犯すことを強いられた。(p.12)

この本への批判に答えるチャンの文章も収録した、次の本も同時発売されている。

「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む

「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む

2007-12-14

[][]プラトンの『国家』

名著誕生4 プラトンの『国家』

名著誕生4 プラトンの『国家』

Plato's

Plato's "Republic": A Biography (Books That Shook the World)

 サイモン・ブラックバーン(ケンブリッジ大学哲学科)著 Plato's "Republic" の邦訳がポプラ社から刊行された。訳者は木田元さんで、鷲田清一さんの解説がついている。読むのはこれからだが、訳者によると、随所で独特のプラトン解釈がなされているらしい。楽しみである。

 目次紹介がポプラ社のウェブサイトにある。

http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80003740

 本書は「名著誕生」というシリーズの第4巻。すでに、マルクス『資本論』、ダーウィン『種の起源』、トマス・ペイン『人間の権利』が刊行されている。

マルクスの『資本論』 (名著誕生)

マルクスの『資本論』 (名著誕生)

名著誕生2 ダーウィンの『種の起源』

名著誕生2 ダーウィンの『種の起源』

 同シリーズで、今後は『コーラン』『聖書』、ホメロス『イーリアス』『オデュッセイア』、アダム・スミス『国富論』、クラウゼヴィッツ『戦争論』、マキアヴェッリ『君主論』が刊行されるという。

 追記

 kajinai さんからコメントをいただきましたが、『聖書』は、カレン・アームストロングの "Bible" が翻訳されるらしいです。

The Bible: A Biography (Books That Changed the World)

The Bible: A Biography (Books That Changed the World)