G★RDIAS このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-11-10

[][][]2ちゃんねるで辻説法

 荻上式BLOG経由で、知った話題。↓

哲学で博士号取る予定の俺が、どんな質問にも哲学的に答える

http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-185.html

哲学科の院生が、4時間以上にわたって、2ちゃんねらーと一問一答している記録。*1気の効いた答えが多くて、半分くらい楽しく読んでしまった。私が一番笑ったのはこれ↓

141 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 18:01:47.33 ID:KeuvhJ1O0

自称哲学者の中2病患者なんだけど

そろそろ本格的に哲学学びたい

色んな人の思想を取り込みたいし、もっと自分でも考えたいんだが

これからどうすればいいかアドバイスしろ


>>141

大学入って教授にケンカ売りまくるのがベスト。

必死にやらざるを得ないしベッコベコにされて知識つく。

百人教室でも元気に手をあげろ!

*1:2ちゃんねる用語が多くて、わからない単語も多かった。哲学の内容よりもそっちのが大変だった。(笑)

2007-06-26

[][][]澤瀉久敬『医学の哲学

ある方に勧められ、澤瀉久敬さんを読んでみようと思っている。私は恥ずかしながら初耳だったのだが、デカルトベルクソンなど、フランス哲学研究者であったようだ。そして、注文した本がこれ。ちょうど、誠信書房からオンデマンド版が出されているようだ(最初の4冊)。

医学の哲学

医学の哲学

澤瀉さんは大阪大学で教鞭をとられていたようだから、いまの阪大医の倫理学教室にもその思想は受け継がれているのかな…? 安易な推測はやめておくが、年代をみれば『医学概論』三部作が1960年、『医の倫理』が1971年だから、日本において学術的なフィールドでいわゆる生命倫理が議論し始められる以前のことである。欧米流の生命倫理学が流入してくる前の日本の「医の哲学」、どんなものか早く読んでみたい。

2007-05-13

[][]女性が哲学に惹かれない(らしい)のはなぜ?

これは古典的な問いである。大学進学率が男女半々くらいになってきて、文系諸学科では女性の比率がむしろ高くなってきているが、心理学、社会福祉学、言語学などに比べて、哲学は女性から人気がない。その理由としては、以下が考えられる。

(1)概して女性は哲学的思考というものに興味がない。

(2)現存の「哲学」は伝統的に現実の女性を蔑視し、排除しながら構築されてきた。「女性は抽象的思考が苦手であたまが悪い」など。そういう学問に女性が興味をもたないのは当然。(また、女性蔑視してる哲学教師も多いから学生はそれを内面化する)

(3)現存の「哲学」は、学問内容として、「女性の経験」を取り込んでこなかった。女性は哲学に、みずからの経験に響く要素を感じず、興味を持てない。裏返して言えば、現存の「哲学」は過度に男性ジェンダー化されている。

ほかにもあるかもしれない。私は個人的には(1)は無意味、(2)と(3)が大きいかなと思う。

(2)の解決を前提としたうえで、(3)に注目するならば、「女性の経験」というものに立脚した哲学が打ち立てられていったとしたら、それはどのようなものになっていくのかに、大きな興味がある。そういう目で見てみれば、20世紀のフェミニズム思想は、まさに女性が主人公となった「哲学」運動であったと考えることができる。(フェミニストたちは、この言い方を、哲学によるフェミニズムの回収という悪辣な暴挙だと言うかもしれないが)。また、学界でも影響力のある女性哲学者は増えてきているように見える(ただし女性の数は圧倒的に少ない)。

もし、「哲学という知的装置それ自体が男性による女性の搾取の装置でありそれ以外ではあり得ない」というふうに考えないのならば、男性ジェンダー化が解体されたあとの哲学がどんなふうなものになるのかを考えてみることに、意義はあると私は思う。

とりあえず、ざっくりとした問題提起のみ。

実は、日本の職業的哲学者(ほとんどが大学教員と院生)の最大の学会である「日本哲学会」が、一昨年にこのテーマについて学会員のアンケート調査を行なっている。私も答えた。その結果がネットで発表されているのでぜひご覧頂きたい。

http://philosophy.cognitom.com/exec/page/danjo-kyoudou/

とくに「1.1 日本哲学会における女性会員の比率の低さは何を反映していると思いますか」

http://philosophy.cognitom.com/exec/page/questionnaire-1-1/

「4. 男女共同参画推進については賛否両論があるかと存じます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお寄せ下さい」

http://philosophy.cognitom.com/exec/page/questionnaire-4/

が読みごたえがある。また後者にある女性からの意見:「このアンケートに答えるか否か迷いました。というのは、どうせ改善されないだろうというあきらめがあるからです。日本の哲学系の学会では。私は今学会活動の場を海外に探しつつあります。日本ではもう希望がもてないからです。日本はイスラム国よりはるかに男性王国です。そのことを自覚しないのは日本の男性だけです。私が所属する海外(ヨーロッパ)の哲学系学会は参加者の半数が女性であり、執行部に助成枠が設けてあります。しかしアンケートに答えたのは0.1%の可能性を求めてです。日本は男性女性の問題はまことに後進国ですよ。それと、男女の問題とは別に、日哲は学会での発表は何故現実社会と密着したもっと広いテーマを採用しないのでしょうか。HIV差別とかテロリズムのような。現状では「日本文献哲学会」と名付けたほうがいいですね。(女)[誤字などママ、一部修正]」には賛同できる部分がある。日本の学術哲学誌の現状は、世界的標準から見て、かなりおかしい。このままでは世界からまったく相手にされないと思う。これについては、いずれまた別エントリーを立てたい。

2007-05-10

[][][]ドゥルーズ『記号と事件』――マイノリティについて

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

アントニオ・ネグリの「どうすればマイノリティへの生成変化は力能をもつのか、どうすれば抵抗は現実の反乱たりうるのか」という質問を受けて。

マイノリティとマジョリティは数の大小で区別されるものではありません。マイノリティのほうがマジョリティより数が多いこともあるからです。マジョリティを規定するのは、遵守せざるをえないひとつのモデルです。たとえば平均的ヨーロッパ人の成人男性で都市の住民……。これにたいして、マイノリティにはモデルがない。

続いてドゥルーズは、「マイノリティは生成変化であり、プロセスである」とも述べる。さらに批判を察知してか、周到に次のようにも述べている。

マイノリティがみずからモデルを構築するとしたら、それはマイノリティがマジョリティになりたいという願望をいだくからにほかなりません。たぶん、生き延びたり、救済を見出したりするためには、そうするしかないのでしょう。(以上、すべて引用はすべてpp.347-348)

ドゥルーズはマイノリティの生成変化を「創造」であるといっている。現実の世界におけるマイノリティの「創造」にドゥルーズは期待する。

だが一方で、マジョリティの責任も問われなくてはいけないだろう。世界の変化をマイノリティだけに押し付けるとすれば、マイノリティにとっては迷惑な話である。そもそも、「遵守せざるをえないひとつのモデル」に「居座り続けようとすること」こそが、マジョリティのマジョリティたるゆえんであろうと私は思う。だとすれば、こうした状況を変化させるには、マジョリティも(マイノリティとは違う方法で)「創造的」であり続けることが、「抵抗は現実の反乱たりうる」条件ではなかろうか。

2007-05-06

[][][]マルクス・アウレーリウス『自省録』の生命論

人間の遺伝子操作や、脳改造や、生延長などの方向に、現代医学はどんどん突き進んでいる。その最先端を走っているのは米国であるが、その米国ですら、レオン・キャスらをはじめとする保守派の生命倫理学が勢いを増してきて、これらのトレンドを再考しようとしはじめている。日本では左翼の生命倫理学者たちがそのトレンドを担ってきた。いずれにせよ、われわれの欲望を制御することこそが、今世紀の技術倫理・技術哲学の最大の課題になるはずだ。だが、そのための思想はどこにあるのか。あったとして、それは資本主義・快楽主義の現代文明に勝てるのか。

というようなことをつらつら考えながら、ストア派を読むというのは、どうだろう。即効薬にはならないだろうが、いま再読すべき文献であることはまちがいない。もちろん再読するだけじゃなくて、そこから推進力を獲得して、現代の思想を構築することが必須である。

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

マルクス・アウレーリウスは、西暦121年生まれで、後にローマ皇帝となった哲学者である。哲学者の職業というのは古今東西、きわめて多岐にわたるが、ローマ皇帝の哲学者というのは、世俗の地位としてはこれ以上ないほど最高である。(ちなみに格差社会最底辺のホームレス?哲学者として樽のディオゲネスがいる。ブッダは、王子から苦行者へという大移動が素敵である)。マルクス・アウレーリウスは、皇帝としての職務のかたわら、自省録という日誌をつけていた。

君は多くの無用の悩みの種をきりすてることができる、なぜならばこれはまったく君の主観にのみ存在するからである。全宇宙を君の精神で包容し、永遠の時を思いめぐらし、あらゆる個々の物のすみやかな変化に思いをひそめ、誕生から分解に至るまでの時間のなんと短いことかを考え、誕生以前の無限と分解以後の永遠に思いを至すがよい。それによって君はたちまちひろびろとしたところへ出ることができるであろう。(155頁)

すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。きわめて高齢に達して死ぬ者も結局は夭折した者と同じことになってしまうであろう。(155頁)

この人生を少々長く生きたところで、宇宙全体から見てみれば、たいした違いはないということか。「その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう」というあたりの思索は、なかなか身に浸みるものがある。

この文章などは、どうだろう。

死を軽蔑するな。これもまた自然の欲するものの一つであるから歓迎せよ。たとえば若いこと、年取ること、成長すること、成熟すること、歯やひげや白髪の生えること、受胎すること、妊娠すること、出産すること、その他すべて君の人生のさまざまな季節のもたらす自然の働きのごとく、分解することもまた同様の現象なのである。したがってこのことをよく考えぬいた人間にふさわしい態度は、死にたいして無関心であるのでもなく、烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、自然の働きの一つとしてこれを待つことである。そしてちょうど今君が妻の胎から子供が産まれ出る時を待っているように、君の魂がその被(おおい)から抜け出す時を期して待つがよい。(146頁)

よく練られた、すばらしい文章である。マルクス・アウレーリウスは、死を「自然」のはたらきとして淡々と待つがよいと言っている。注目すべきは、死を、妊娠・出産と対比して捉えているところだろう。ここでは自分の死が話題になっているのだから、この文脈では、ふつうは、死を「自分自身の誕生」と対比して捉えることが多いと思うが、自分の死を子どもの妊娠・出産と対比させるところに、マルクス・アウレーリウスの不思議な視点がある。

次の文章はどうか。

無限の時という測り知れぬ深淵のなんと小さな部分が各人に割当てられていることよ。それは一瞬にして永遠の中に消え失せてしまう。また普遍的物質のなんと小さな部分、普遍的生命のなんと小さな部分(が割り当てられていることよ。)また全地のなんと小さな土塊の上を君ははっていることであろう。以上のことをことごとく思いめぐらしつつ君の内なる自然の導くままに行動し、宇宙の自然の与えることを忍ぶ以外には何事にも重きをおくな。(210頁)

これがローマ皇帝の言葉であろうか。私の耳には、この断章から、パスカル『パンセ』の叫びが聞こえてくる。広大無辺なる宇宙に比したときに、人間のなんと卑小なことよ。ほんのちっぽけなかよわき人間、しかしそれは考える葦である・・・・。

マルクス・アウレーリウスの思想から響いてくるのは、人間を超絶した宇宙の滔々たる流れと秩序と、それにのっとってみずからの限界ある生を生きることの至福と救済である。これは西洋キリスト教とは無関係な文脈から発せられている。中村元はストア派と原始仏教の近さを指摘しているが、たしかにそれは正しいように思われる。キリスト教にも当然これと同様の思想水脈がある。レオン・キャスらはそれに依拠している。はたして現代文明を転轍することはできるのか。

本書の翻訳と解説は、神谷美恵子である。解説は簡潔ですばらしい。神谷美恵子とマルクス・アウレーリウスの接続を考えるとき、得も言われぬ感動に襲われる。

2007-05-05

[][][]仏教と不可知論

仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)

仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)

当時、「来世はあるか」「来世に生まれ変わりはあるか」「善悪の果報は来世にうけるか」「ブッダは来世に生まれ変わるか」などの問題が、多くの哲学者や宗教家たちによって論議されていた。サンジャヤは、それらは来世の問題で、人の知識の及ばないところであるから、論じるに値しないと考えた。

たしかに死後の世界について誰でも教えてくれた人はいない。死後の世界についての文献もない。書かれていても経験の上で伝えたものではない。想像の域を出ない。そこでサンジャヤはそんな形而上の問題についての思考は停止することをよしとした。

だがマウドガリヤーヤナ、シャーリプトラたちは、来世のことは確かにわからないかもしれないが、わからぬというだけで、来世についての思考を停止することはおかしい、と考えた。この生存のなんらかの連続として死後があるとすれば、そこに何かの説明ができるはずであり、それを、ただ人知を超えたところといって思考を放棄するだけでは、一体いまの修行は何のために行っているのか、ということになる。

(中略)

釈尊も来世についての論議は好まなかった。なぜか。ただ来世があるといえば、その実態を説明しなければならない。経験がないのにそれを説明することは不可能である。といって、来世がないわけではない。今世における修行の意義と、その目的である解脱の意義とがかみ合わなくなるからである。ただ釈尊は来世に関する一切の問題について、解答を与えなかった。それは答える必要がなかったというより、因果の道理の上からすれば、おのずから解答が与えられるからである。(pp.51-52)

仏教の倫理思想 (講談社学術文庫)

仏教の倫理思想 (講談社学術文庫)

ゴータマ・ブッダは、一口で言うと、実存主義的経験論者でした。つまり、ゴータマ・ブッダが関心を集中したのは、みずからの実存である輪廻的な生存(という苦)にまつわる経験的な事実と、それらが織りなす因果関係の鎖がどのようにあるかということでした。(p.60)

「死後は存在するか」などの形而上学的問いについて、ブッダは答えを与えない。しかし、それらは不可知だからといって、考える意味はないということはない。ただ、ブッダにしてみれば、実存的な経験からの因果関係における語りこそが重要であったのだと解することができるだろう。

「生を一回限りのものとするか」、「死後の生も存在するとするか」は、明らかに世界観の問題であり、その世界の上で成立する価値の問題である。さしずめ、これらの問いを――不可知ゆえ考えない、のではなく――考え抜こうとするならば、自らの実存を賭けなければならない、そのようにブッダは教えてくれているのかもしれない。

2007-05-01

[][][]ベーシック・インカム

昨日、東京と大阪で以下のような行進があったようだ。

不安定生活限界だ フリーターら「生存メーデー」叫ぶ

生きさせろ――。フリーター、日雇い派遣労働者、障害者、ホームレス、生活保護の受給者など、低収入で不安定な生き方を強いられているさまざまな立場の人々が一緒に歩き、踊り、叫んだ。30日に東京で開かれた「自由と生存のメーデー07」。同じ日に大阪でも、その名もずばり「明るいビンボー★メーデー」があった。格差と競争の強まる社会で最も生きづらさを抱える人々が、互いにつながり、声を上げ始めた。

午後3時半すぎ、東京・歌舞伎町。靖国通りが始まるJR線の「大ガード」の下から、大音量のダンス音楽とともにデモ隊が飛び出してきた。DJが乗る先頭車両に続いて、手をふり、足を踏みならしながら進む。

「生活を変えろ」「ホワイトカラーエグゼンプション ただ働き?ふざけるな」。思い思いのプラカードや横断幕が、強烈なリズムに合わせて左右に揺れた。沿道で目を丸くして眺める人たち。

「自由と生存のメーデー07」はフリーター全般労組が呼びかけ、38団体が賛同。若者を中心に、予想を大きく上回る420人が参加した。

デモの後方では、人々から集めた100を超す「デモ・コール」を作家の雨宮処凜(かりん)さんらが叫んだ。「最低賃金1500円以上よこせ」「過労死から逃げろ」「住む場所をよこせ」「生きさせろ」

病気のため今は生活保護を受けるシングルマザー(45)は「『生きさせろ』というメッセージに共感できた。時給800円台でどうやって子どもを育てるのでしょう」。

歌舞伎町では、6メートル×40メートルの巨大なブルーシートを頭上にかぶるパフォーマンスがあった。「正社員、非正社員を問わずプレカリアートが一つの社会勢力としてまとまろうという意味を込めた」と主催者は言う。プレカリアートはイタリア語のプレカリオ(不安定な)から派生した言葉で、「不安定な雇用を強いられた人々」の意味だ。

大阪の「明るいビンボー★メーデー」は、大阪市東住吉区の長居公園が会場。フリーターや野宿者約100人が集まった。プラカードには「時給2000円。有給休暇を」の文字が躍る。

派遣として大学図書館を転々としてきた女性(29)の手取りは月約10万円。来春で3年契約が切れる。「自分はダメ人間だと感じてきた。同じような境遇の若者がいっぱいおり、しんどいと声をあげる勇気が持てた」

別の公園で暮らす50代の男性によると、最近「泊めてほしい」と駆け込んでくる若者が後をたたない。「野宿とそうでない暮らしの距離が近くなっているのを感じる」

人が生存というただ一つの根拠をもとにして要求し得る「ベーシック・インカム(BI)」という構想がある。これをめぐっては、さまざまな意見もある。もっとも大きな批判の二つは、労働インセンティブ(BIを実行したら、労働意欲を失う)の問題と、実行可能性(そんなものは無理)の問題であろう。私は、もう少し違う立場から実はBIには批判的*1なのだが、それでもとにかくまずはやってみたらいいとは思っている。もう、思想から政策へ移すべき時期であると考えている。「食うに困らない」というのは、生存のための最低限の要求であるはずだ*2

ウェブで読めるBI関連サイト(日本語)

「格差社会とベーシック・インカム」(小沢修司さん)

関連書

福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平

福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平

自由と保障―ベーシック・インカム論争

自由と保障―ベーシック・インカム論争

*1:たとえばBIが8万円/月として、明らかにそれでは生存するのに足りない人がいる。だから私は生活保護の延長で考えたほうがよいように思っている。

*2:もっと要求してよい、とは思っているが。