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2007-12-24

[][]西田幾多郎の生命の哲学

論文書きのために、次の本を読んだ。

西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書)

西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書)

なかなか面白かった。西田は、『善の研究』を読んでいたほかは、後期の全集などをぱらぱらと読むくらいだったから、この本を読むことで西田の全体像を、いまっぽい枠組みで概観することができた。京都学派とのしがらみなしに西田を読める良い本だと思う。

檜垣さんは、西田を生命の哲学として読み解こうとする。前半がとくに引き締まっていてクリアーである。後半はちょっと息切れしてるかなとか思うが、言いたいことは分かる。西田自身が後期・晩年は煮詰まっているのだろう。

檜垣さんは「生命」についてこのように言う。

生命は自らを展開させる力をもっている。生命は自己増殖し、自己展開し、進化する。生命は、「要素還元主義」的な単純な物質法則によってはとり押さえられないような、繁殖の力、多様性の力、自己組織化の力を露呈していく。(73頁)

そして前期西田における「純粋経験」が「このような有機体的な生命の議論の、思想的ヴァリエーションと見なしうるものである」(74頁)とする。

そして、西田哲学が「自覚」「無の場所」「行為的直観」というふうに後期に向かって深化していくときにおいても、それは一貫して「生命の哲学」であったと言う。すなわち、「形」から「形」へと無限に「動揺」していく場面が「絶対矛盾的自己同一」なのであるが、そこにおいて働いているものは「破断を含みながら自らを組み替える潜在的な力」であり、西田はそこに「生命」を見る、と檜垣さんは言う 。そしてこのように西田を読解したうえで、そこに同時代の哲学者であるベルクソンとの類似性を認め、また後の哲学者であるドゥルーズとの共通点を見出している。

無と自己同一というような形而上学的思索にもし興味がもてるのなら、こういうふうに解釈された生命哲学はとても面白いだろう。私としても、とても参考になるが、私自身はもっと楽しい方向に生命の哲学を開いていきたいと思っている。いずれ論文で発表します。

2007-12-17

[][]睡眠の本

眠りの悩み相談室 (ちくま新書)

眠りの悩み相談室 (ちくま新書)

睡眠とは何かについて、やさしく書かれていて、いろいろ参考になった。睡眠不足で悩んでいるときでも、「寝なきゃ、寝なきゃ」とあせって思っているのはかえってよくないとのこと。身体が本気で睡眠を欲しているときには、ほっといても寝てしまう。自分の不眠の状況を正確に把握しておけば、正しい対処法が見つかるという。夕食後から深夜直前までのあいだの時間は、一種の覚醒時間なので、この時間に寝ようとするとかえって寝付けなくなるということで、これはたしかに身に覚えがある。

自分のことを言うと、私はかなりのロングスリーパーである。過剰睡眠にはいろいろ原因がある。当てはまりそうなものも、当てはまらないものもあるが、実際はどうなのだろう。平均睡眠時間が8時間を超えると寿命が短くなるらしいが、かといってそれを無理に短縮しても寿命が伸びるわけではないという。ちなみに個人的には昼寝がいちばん気持ちよい睡眠体験のように思う。

2007-12-05

[][]「東京外国人」

東京外国人

東京外国人

 東京に住む外国人の家を30軒くらい訪れ、撮影したスナップ集。自国のインテリアで統一する人ありーの、和風を追及する人ありーの、インテリアにお金をかけてる人ありーの、なんにもない部屋に住む人ありーの。外から来て、日本で暮らすことに焦点を当ててるのは面白い。

 というわけで、狙った枠組みは良かったのだけれど、肝心の写真が良くない。作為が前面に出て、撮り手の主張が目障りなものが多い。欄外のコメントも、もう一つ面白くない。しかも、出来・不出来にばらつきがあるなあ、と思っていたのだが、専門学校の出身者がチームで作った写真集だと気づき、合点がいった。

 この本は、以前、留学生向けの雑誌「HIRAGANA TIMES」に紹介されていたので、知った。9月号くらいに出てた気がする。

2007-12-03

[][][]ネット書籍サービス

以前から、このブログでも、部屋にたまる一方の書籍をどうすればいいかということが話題になっていた。引っ越しのときにたいへんだし、下手すると寝る場所もなくなる。古本屋に売るのもしのびない・・・。

と思っていたら、中経出版社というところが、「ネット書籍サービス」というものをはじめているのを知った。これは、この出版社が出した本と同じものを、ウェブ上で全文読めるというサービスである。

http://www.chukei.co.jp/net_book_about/index.html

本の裏側に付いている登録番号を入力したら、同じものが電子書籍で画面上で読めるということらしい。ということは、この本は読後に捨ててしまったり、売ってしまってもよいということになる。あとでいくらでもウェブで再確認できるから。

他の出版社の本も、どんどんこういうふうになっていったら、これからは本を買って、どんどん捨てるか売るという時代がくるだろう。自分の買った本の本文は、ウェブの上の本棚にどんどん構築されていく。ウェブジャーナルの書籍版である。

この種のサービスは、いずれ、一気に広まりそうな気がする。早くそうなってほしい。

2007-11-26

[][][]復刊リスト2007

紀伊国屋書店のウェブサイトより、今年復刊した学術書のリストです。

紀伊國屋書店

2007-11-14

[][]喜納育江「ネイティブなるもの 魂の交わりを求めて」

境域の文学 (21世紀文学の創造 5)

境域の文学 (21世紀文学の創造 5)

 先日、あるナショナリズムについて議論する場で、「沖縄」という問題が俎上にあがった。日本という国について考えるとき、沖縄は日本国の一部で、地方の呼び名である。ところが、沖縄戦、アメリカ占領政策、米軍基地などの問題を考えるさいには、特殊な共同体を名指すことになる。あるときは、沖縄は日本であり、あるときは日本以外であるかのように、扱われる。「私たち/沖縄の人たち」と、境界線がいれられるのだ。このような、境界領域をグロリア・アンサルドゥーアは「ボーダーランズ[borderlands]」と呼んだ。『境域の文学』に収録されている、喜納育江「ネイティブなるもの 魂の交わりを求めて」では、このボーダーランズとしての沖縄が論じられている。

 喜納さんは、琉球大学の助教授で、自らを「ウチナーンチュ」だと言う。自身の中には「私以外の人によって認識される『ウチナーンチュとしての私』ではなく、私自身がこうありたい、こうであると規定する『ウチナーンチュとしての私』」(206ページ)があるという。このアイデンティティの強固さがどれほどのものか試すかのように、喜納さんはアメリカに渡る。そして、どこにいても、身体を通して沖縄の土地と共同体につながることのできる「私」を発見する。根っこに、「ウチナーンチュとしての私」があることで、自由でいられるのだという。しかし、このアイデンティティは不変ではないと付け加えている。

「私」も「私」でいたいなら、「沖縄」によって定義されるばかりではなく、「沖縄」との対話において、こうあってほしい「沖縄」の姿を定義しなくてはならない。このように、生涯をかけて沖縄と関るというウチナーンチュとしての責任を「呪縛」と捉える人もあろう。しかし、共同体との関係性の中において存在する「私」は、その「呪縛」を「きちんと縛られる」こととして、いつしか積極的に受け入れるのである。

(208ページ)

ウチナーンチュのネイティブ(土着)としての自分を受け入れた喜納さんは、土と肉体がつながり、「ウチナーンチュの物語」を共同体の声として、沈殿させていく。と、同時に、ヤマト(内地)からの、沖縄のイメージを語る声にさらされる。ウチナーンチュという共同体内部の他者の声と、ヤマトという共同体外部の他者の声が錯綜するのが沖縄という場所であると喜納さんは述べる。そして、沖縄とは、「『他者』の声を聞き、『他者』の姿を可視化しようと試みる場所」(211ページ)であるかもしれないと定義する。

 さらに、喜納さんは、ヤマトゥンチュ(内地の人)と、ウチナーンチュの文学作品を分析する。ヤマトゥンチュが作った『ナビィの初恋』『青い魚』は、デフォルメされた「オキナワ」であるという。それはウチナーンチュの好む・好まざるを超えて分有可能になった虚像である。だが、喜納さんは、続ける。

ヤマトゥンチュが勝手に想像し、勝手に作り出した「沖縄」に対して、ウチナーンチュとして違和感が不快感となる場合もなくはない。しかし、そのような一見フェイクなオキナワでさえ、沖縄なのである。どれがホンモノでどれがフェイクなのか、という議論はもはや成立しない、というのが、常に変容していくことを前提とした境域[引用者註:ボーダーランズ]としての沖縄のありようであると言えるかもしれない。

(219ページ)

ボーダーランズである沖縄は、このような分有に揉まれながら自文化形成してきた。ヤマトの視線にさらされ、消費の対象とされてきた。見られる対象としての、「オキナワ」は、ときには「ヤマトに追いつきたい、受容されたい」と望み、ときには商品価値をあげようと、ヤマトのまなざしを意識してきた。そして、ついには、ヤマトが勝手に見ている虚像であり、他者としてしか認識できない「オキナワ」もまた、「沖縄」であると内なる他者として飲み込む。

 一方、文学作品で、この関係が反転すると、喜納さんは、指摘する。又吉栄喜「ジョージが射殺した猪」について論じている。この物語は、ベトナム戦争下が舞台で、小柄で貧弱な兵士ジョージが主人公である。ジョージは沖縄の訓練風土や、軍隊という異文化接触の衝撃で、自己が揺らいでいた。以下、長いが、引用する。

 ジョージの揺らぐ自己は、沖縄とアメリカの間に横たわる差別の多重構造の中で、異文化の声に反応せずにはいられないジョージの主体であり、その人物像は、例えば物語の冒頭に出てくる、平気でホステスを強姦するような横暴な米兵などに見られるアメリカ人のステロタイプを崩す。「沖縄人は正面から俺たちをみやしない」と言う一方、まじまじと俺の顔をみすえる」沖縄人ホステスに対しては「どきまぎしてしまう」とジョージは白状する。そして、挙句の果てにはこの「ジョージより英語が流暢なウチナー女の声を聞き届ける羽目になるのだ。

あんたらにゃ沖縄の女はみんななぐさみもんだもんね、そりゃ、あたしらのようなもんはしかたがないよ、承知してるよ、だがね、ちゃんと結婚しながら、チャーチで神父や神にちゃんと誓いながら、アメリカに帰るとすぐ汚いチリみたいに捨てちまうのはどういうわけなの?ああ、あたしの村にも何人かいるんだ〔中略〕あたしの妹もそうなんだから、赤毛の子供を残してね、アメリカ軍人はみんなそうさ、アメリカにエミリーがいるんだもんね、だまされた女らが馬鹿なんだろうけど、そのエミリーなんてもんが沖縄の女をめちゃくちゃにしてるんだよ。エミリーを悪くいうな。ジョージは叫んだ。エミリーはお前たちとは違うんだ、男の前で平気で裸になる女とは違うんだ。

 女がアメリカ人のジョージをなじる声と、アメリカ人のジョージがウチナーンチュの女を罵倒する声は分離することなくひとつの声として語られる。それは、作者が、ウチナーンチュとしてジョージのまなざしを表現するのに挑むと同時に、そのジョージのまなざしに映るウチナーンチュを描くことにより、ウチナーンチュとアメリカ人の間に対話を成立させようとしているようにも見える。すなわちアメリカ社会において周縁に追いやられたジョージという他者の声と、やはりそのアメリカ人にとって他者として差別されているウチナーンチュの声をフィクションと言う場において交わらせることによって、異文化の声が混交する領域を創造しようと試みているように思われる。それはフィクションに終わってしまう領域なのかもしれない。しかし、同時にフィクションと言う形でしか達成できない異文化的対話の可能性の実現なのである。

(230〜231ページ)

加えて重要なのことは、このジョージの視点は、又吉さんというウチナーンチュが創造しているということだ。米兵というウチナーンチュの他者の視点に入り込み、それを占有するのだという。そうして、見られる対象としての沖縄を、見る主体という位置から語りだす。これはフィクションだからこそ、できる手法である。サバルタン<の>声を奪うのではない。サバルタン<が>声を奪うのである。

 このあと、喜納さんは、新しい若い沖縄運動の担い手としてCocco*1を挙げている。私は、ここで以前、NHKの番組で取り上げられていた劇団を紹介しようと思う。その名も「お笑い米軍基地」(http://www.pottekasu.com/)サイトを見ても、もう一つ伝わらないかもしれないが、テレビで見てると強烈だった。脚本を書いている小波津正光は、現在の沖縄の状況を笑いの対象にする。街頭では、マイクによる基地反対演説と、右翼のスピーカーが、大音量でぶつかる。これを見ながら小波津さんは「正反対のキャラが出てくる。これはコントでしかないですよ」とネタにする。さらに、周囲のうっすらと基地反対ではあるのだが、運動に入り込めない、市井のウチナーンチュにインタビューしていく。

 小波津さんが上京して知ったのは、ウチナーンチュなら、誰もが知っている沖縄の状況が、全くヤマトでは知られていないことだった。基地反対の次の日に、基地内で行われるお祭りに参加する事は、ウチナーンチュにとっては、おかしなことでも、なんでもなく日常である。その矛盾を洗い出し、ネタにする。年々、参加人数が減る「人間の鎖」や、疲労感が漂う「反基地運動」はもとより、「慰霊の碑」までネタになっている。

 ネタはどれもギリギリである。正直、「わ、笑いにくい…笑っていいのか、これは」というネタもある。それでも、悪ふざけで終わらないのは、沖縄という問題の核心を突こうとしているからだ。私の大好きないいまわしに「笑いごとではないが、笑うしかない」*2という文句がある。まさに、そういう感じだ。真面目さを徹底して、真摯に向き合ったその後にみえてくる、ちぐはぐさや、ほころびを笑う。それは問題の内部に沈潜し、脱出口を見出す作業の中で発見される。沖縄でも、新しい世代の運動が、少しずつ顔を出してきているのかもしれない。

*1:詳しく書かないのは興味がないからではなくて、ありすぎてまとまらないからです。

*2:出典はパット・カリフィアです。

2007-11-08

[][]岡野八代『シティズンシップの政治学』

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書

岡野さんのこの本は、私の目標とするもののひとつである。ロールズやアッカーマンの正義論を、他者への配慮を欠いた、同質の集団内における分配論であると批判する。つまり、分配という主題だけでは正義の問題は扱えない、と主張する。

全く同感である。私自身に即して言えば、承認の問題が気になりつつも、分配の問題に特化して考えてきた。しかし、そもそも分配とは、ひとが在るためにこそ必要なものであり、ひとが在るということそれ自身は、分配の問題系ではうまく扱えないように感じる。分配ではうまく扱えない<誰かがここに在る>ことの承認のためにこそ、分配は要請されるのであろう。

岡野さんはそのあたりは、とりわけ英米圏のフェミニズムを参照しながら(「続きを読む」で文献を挙げています)、「他者のニーズ」や、「親密圏におけるケア関係」を手がかりに、正義の問題は分配だけではないことを示していく。だが、それらじたいは正しいと思える「他者」や「ケア関係」といった射程で、いったい何が論じられたのか私には不明確な部分もある。「ひとは依存関係の中にある」ということを肯定してもよいにせよ(かりに、全く依存関係がないという状態があったとしても、論理的には「依存関係がゼロの関係」とは言える)、そこから何が言えるのか、「そんなものは当たり前だ」で終わってしまわないのか、そこらあたりは微妙なところであると思う。

いずれにせよ、正義をめぐる規範理論は、分配も承認もどちらも求めてよいということを、本書は教えてくれる。

以下、(私も一応目を通したことがある)参照されている、あるいは本書に関連する文献です。


Justice and the Politics of Difference

Justice and the Politics of Difference

Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

Inclusion and Democracy (Oxford Political Theory)

Inclusion and Democracy (Oxford Political Theory)

Justice Interruptus: Critical Reflections on the

Justice Interruptus: Critical Reflections on the "Postsocialist" Condition

Redistribution or Recognition: A Philosophical Exchange

Redistribution or Recognition: A Philosophical Exchange

Justice, Gender, and the Family

Justice, Gender, and the Family

The Claims of Culture: Equality and Diversity in the Global Era

The Claims of Culture: Equality and Diversity in the Global Era

Love's Labor: Essays on Women, Equality and Dependency (Thinking Gender)

Love's Labor: Essays on Women, Equality and Dependency (Thinking Gender)

The Subject of Care: Feminist Perspectives on Dependency (Feminist Constructions)

The Subject of Care: Feminist Perspectives on Dependency (Feminist Constructions)

ちなみに、日本での議論の蓄積としては以下。

現代フェミニズム理論の地平―ジェンダー関係・公正・差異

現代フェミニズム理論の地平―ジェンダー関係・公正・差異

フェミニズムとリベラリズム (フェミニズムの主張)

フェミニズムとリベラリズム (フェミニズムの主張)

産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム

産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム