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2007-12-25

[][][]2007年の3冊

 今年、印象に残った3冊をあげます。私は、人間を描き出そうという試みで、興味深かった本を3冊。(必ずしも良書という意味で選んだわけではありません)

(1)森田京子『子どもたちのアイデンティティー・ポリティックス―ブラジル人のいる小学校のエスノグラフィー』

 日本のある小学校での、参与観察をまとめたもの。筆者はアメリカの大学で、人類学を修めたフィールドワーカーである。約2年間、数度にわけて、教室の中での調査を行っている。ニューカマーとして、日本に移住してきた日系ブラジル人の子弟が、どのように小学校で暮らしているのかを追う。

 やはり、言語の問題や、文化の違いなどで、ほかの日本人クラスメイトとの摩擦が起きている。以前より、教育学では日本の小学校教諭が、学級経営に一体化を求めるため、ブラジル人小学生が同化を迫られる点が指摘されていた。しかし、森田さんは、深く小学生のコミュニティに入っていき、子どもたち一人一人が、「ブラジル人としてのアイデンティティを奪われることなく、クラスになじむ戦略」をたてていくことを明らかにする。

 「抑圧的な日本の教師/抑圧される子どもたち」という二項対立で語られやすい教育現場だが、この文献では、そのような単純化を切り開く試みがなされている。子どもたちの生き延びる戦略のたくましさに焦点を当てている。具体的には3人のブラジル人小学生のストーリーが紹介されている。この3人の成長の様子を、つぶさに観察しながら、暖かく描いている点で、読み物としても面白かった。

(2)藤井誠二『殺された側の論理』

殺された側の論理 -犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」

殺された側の論理 -犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」

 今年6月に被害者参加制度が成立した。その3ヶ月ほどまえに発刊された書籍である。犯罪被害者遺族の側の言い分を、ルポルタージュとしてまとめている。後半は、被害者遺族による「死刑廃止論」批判があることを述べている。

 被害者参加制度は、私が「声をきこう」運動と呼んでいるムーブメントの集大成であるといえるだろう。「当事者こそが真実を知っている」「当事者の意見を尊重しなければらない」という世の多くの人が賛同した運動である。しかし、「声をきこう」運動の内実とは、いったいなんだったのか。被害者参加制度に反対していた犯罪被害者遺族の存在は、ほとんど省みられなかった。声の大きい当事者<だけ>を、「私たちの聞きたい声をあげるような当事者」<だけ>を取り上げている側面がある。結局、私たちは、「声をきこう」といいながら、都合のよい声だけを拾い上げていたのではないか。

 藤井はこの書籍のあとがきで

 殺された側にしかわからない、という言い方がある。

 被害に遭った者にしか理解できない、という言い方もある。

 私は当初、そういった経験主義的ともとれる言い方に若干のひっかりがあったのだが、犯罪被害者や遺族へのインタビューを重ねていく過程でそのひっかかりは溶けてなくなっていった。

(276ページ)

私は「それはあかんやろう」と思う。なぜなら、「あなたにはわからない」と言ってしまった瞬間に対話の糸口はなくなるからである。感情的には「あなたにはわからない」という言葉の前に、私は立ち尽くすだろう。そして、私も感情的に「あなたにはわからない」と他者に言うことがある。感情的に圧倒し/圧倒され、言われた側が沈黙することがある。しかし、それは言われた側の、論理の放棄である。

 この書籍の表題にある「殺された側の論理」はとても重い言葉である。殺された側は、それでも論理的であることができるのか。しかし、言う側が論理だというのならば、言う側は論理を貫徹するほかない。また、論理だと言われれれば、言われた側も論理的に批判するしかない。

 論理として主張をかざすことは、批判に身をさらすことである。被害者遺族のその態度に対し、私たちは誠実に論理で応答しなければならない。だが、「ああ、私にはわかない」と感情に流され、論理を放棄していないか。

 当事者の「声をきこう」とする第三者として、藤井さんの態度をどう評価するのか、という点で印象に残った書籍だった。

(3)四方田犬彦『先生とわたし』

先生とわたし

先生とわたし

 批評家である四方田さんの回想録。自分の師匠である由良君美を、描き出そうと試みている。大学のゼミ時代の思い出から始まり、由良さんの生育歴や、その父母の系譜をたどっている。そして、四方田さんが研究者としてひとり立ちした後の、いさかいまでも綴っている。

 知の探求の途上で、師にめぐり合うことは重要である。しかし、いずれ、弟子は師を超え、その庇護から這い出す。そして、今度は弟子を迎え、自らが師となるのだ。四方田さんは、由良さんとの交流を振り返りながら、暗い感情の行き違いがあったとはいえ、由良さんは深く誠実に弟子と向き合っていたと述べる。さらに、自分は由良さんほど、弟子に対し誠実であるのかを問われるという。

 内容はすごく面白かった。でも、それ以上に「私の知っている大学生活とはずいぶん違うようで」という意味で夢中になった。私にとっては時代小説みたいなものです。 

(番外)ケイト・ボーンスタイン『隠されたジェンダー

隠されたジェンダー

隠されたジェンダー

 トランスジェンダリズムの先駆けである本が、ついに翻訳された。1994年に出版されている。当時はやりのコラージュや、簡単なワークショップ的な仕掛けも楽しい本。すでに批判も多く出ているけれど、トランスジェンダーと、政治参加について考えるには通るべき本だと思う。(まだパラパラ見ただけで、ちゃんと読めてません…)

 続けてこちらに乗っている批判も。

2007-12-05

[][]「東京外国人」

東京外国人

東京外国人

 東京に住む外国人の家を30軒くらい訪れ、撮影したスナップ集。自国のインテリアで統一する人ありーの、和風を追及する人ありーの、インテリアにお金をかけてる人ありーの、なんにもない部屋に住む人ありーの。外から来て、日本で暮らすことに焦点を当ててるのは面白い。

 というわけで、狙った枠組みは良かったのだけれど、肝心の写真が良くない。作為が前面に出て、撮り手の主張が目障りなものが多い。欄外のコメントも、もう一つ面白くない。しかも、出来・不出来にばらつきがあるなあ、と思っていたのだが、専門学校の出身者がチームで作った写真集だと気づき、合点がいった。

 この本は、以前、留学生向けの雑誌「HIRAGANA TIMES」に紹介されていたので、知った。9月号くらいに出てた気がする。

[][][]修復的司法についての文献

 ついに、日本の法学者による概論書が出版された。

対話による犯罪解決―修復的司法の展開 (RJ叢書)

対話による犯罪解決―修復的司法の展開 (RJ叢書)

とりあえず、これを読めば体系的な知識は押さえられる模様。今までは、短い論文や英語論文をかき集めて、自分で整理するという、私のような初学者にとっては、不安でたまらなくなるような作業が必要だった。これで、心細さが半減しました!よかった。

 しかし、日本では、ものすごい勢いで修復的司法についての文献が出版されているようだ。私はこれも、買ったんだけど、未読になっている。ぱらぱら見た限りでは、入門書として、使いやすそう。

ここ1年くらいで、これまで出版されてきた文献は倍くらいになった気がする。ほくほく買ってしまうのだけれど、読みきれなくなってきた。それでも、修復的司法の理念について、観念的に論じた文献は、少ない。欧米では、いかにも、ポストモダンな発想で、1980年代から推進されてきた制度なので、流行れば言及する人は、もっと増えるのかもしれない。

2007-12-01

[][]他者の承認抜きには、存在承認は了解できない

 mojimojiさんの「承認は分配できるか(財のように)」という記事のコメント欄で議論が始まり、お返事に「既に承認されて在ることを信じる」を頂き、さらにx0000000000さんの「信仰と信仰のシステム」という記事に議論が続いている。ここで、私の考えを整理しておこうと思う。

 私が問題にしているのは、「存在承認の了解」である。

 人は無からは生まれない。なんらかの他者の営みから生まれてくる。そういう意味では、全ての人は誕生する時に、原理的には、他者に存在を肯定されている。たとえ生み出した人間から「望まない」「望んでいなかった」と言明されていても、殺されなかったという事実によって、その人の誕生の瞬間に起きた、原初的「存在承認」は担保されている。「存在承認」を経験したことない人はいない。この世に生まれ出ることとは、純粋な「存在承認」の発露だ。*1

 だが、人は誕生の瞬間の記憶はないので、純粋な「存在承認」とは体験的に覚えておけるものではない。そこで、具体的な他者からの承認*2の経験から、純粋な「存在承認」を想像する。もちろん、人に人を完全に承認しきることは不可能なので、一部のアイデンティティの承認に留まる。この不完全な、具体的な他者からの承認を受けることで、私たちは「承認」という概念を獲得する。ここから人は、想像力により、生まれてきたときに受けたであろう、純粋な「存在承認」の経験を、自らの生から彫り出し、「生まれてきてよかった」と思えるのだ。

 この「生まれてきてよかった」というのが「存在承認の了解」である。原理的には、人は皆、純粋な存在承認を通過して、この世に生み出されたと言える。しかし、それを了解するためには、常に不完全な、人間同士の承認の経験を通して「承認」という概念の獲得が必要である。純粋性には、不純物を通してしかアクセスできないのだ。

 私たちは、全ての人に「あなたは生まれた時に存在承認されている」と伝えることはできる。しかし、それを了解できない人に必要なのは、その原理の伝授ではなく、「私からあなたを承認する」という行為である。しかし、全ての人を直接的に承認することは難しいので、x0000000000さんの言うとおり、社会的に承認する基盤を整備することで勘弁してもらうことも多いだろう。少なくとも、自己内で存在承認を完結させることはできないのだ。*3

*1:有であることをゆるされること

*2:有であってよいとされること

*3:これについては、知人に別の考えを聞いた。次のものである。"自己を自己で承認するときには、自己を「承認する自己」と「承認される自己」に分裂させなければならない。ということは、自己承認には、常に「承認する自己」の部分が承認しきれない、構造ができる。であるから、自分で自分をまるごと肯定することは不可能である。"しかし、私はこの自己承認じたい、他者からの承認の経験抜きに、どうやって学習するのかが不明である。もし、学習抜きに可能だとすれば、それは人間のnatureということになるけれど、この議論はあんまり美味しくない気がする。

2007-11-24

[][]WOMEN'S DIARY PROJECT「WOMEN2008」

 私は、去年からWOMEN'S DIARY PROJECT(http://www.womens-diary.com/pc/)が作っているスケジュール手帖を愛用している。今年も、「WOMEN2008」を取り寄せた。この手帖は巻末に、付録で月経周期表、公立女性センターリスト、DV相談支援センターリスト、相談できる施設・団体リストなどがついている。いつも持ち歩いている手帖に、緊急時や困った時に連絡するあて先のリストがあるのは便利だし、心強い。当然だが、毎年、リストが更新されるので、連絡先が変わりやすい当事者グループや新しくできた団体の情報を得ることができる。

 また、今年は、妊娠・避妊についての情報が特集で載っている。もちろん、コンドームの装着法が図入りで書いてあるし、殺精子剤やペッサリーも紹介してある。ピルは言うまでもない。正確な避妊の知識を持ったり、選択肢がたくさんあることを知っておくのは大事だ。

 この手帖を作っているのは、有志の団体である。京都に事務連絡先を置き、1996年から、毎年、発行している。一ページごとに、違うイラストや、一言コラムが載っていたりして、楽しい。ちょっと、バックナンバーも集めてみたい。女性向けで、フェミニズムの要素も満載なんだけど、商品としてもよくできてるなあ、と思う。

2007-11-22

[][][]「<私>の自由をはばむもの」を<私>が生み出すこと

x0000000000さんの「これは真の「生殖の自由」なんだろうか」↓を受けて考えた。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071117/1195277074

 人が自由になるための社会運動、特に20世紀の解放運動*1は重要だったし、必要だった。*2その極致が多文化主義だろう。お互いの価値の自由を認め合い、共存を目指すものである。しかし、9.11以降、多文化主義は色あせてしまった。

 多文化主義とは、穏和な分離主義である。認めあえる範囲で認めあい、認めあえない範囲は踏み込まない。もっとも踏み込めない部分が宗教である。特に、一神教の精神は、多文化主義と真っ向から対立する。一神教は、神が唯一無二であることが基底にある。他の存在と、比較すらできない存在が一神教における神である。多文化主義では、この神を、個人の内面に閉じこめることを求める。しかし、宗教を個人の内面の問題とすること自体が、既に西欧的な観念であり、他の一神教と対立することになる。多文化主義は、現代社会の多くの問題を解決するだろう。しかし、解決できない部分も残る。

 そこを解決するためには、どうすればよいのか。やっぱり、なんらかの「正しさ」が必要だろうという話になる。では、どうすればよいのかというと、「自由競争」か「討議」で決めようという二案が出てくる。淘汰され残ったものを「正しさ」とするのか、話し合って合意したものを「正しさ」とするのか。議論は続いているが、どっちにも不備点があり、決着はついていない。*3

 では、出産という問題はどうなのか。

 もし、「女性の解放」を書いたJ.S.ミルだったらどう考えるか。彼は、女性と男性の肉体的格差を減らし、与えられる機会が均等であれば、男女は自由に競争する中で地位も対等になっていくという。ならば、アンドロイドが女性の代わりに出産するようになることに賛成するかもしれない。

 しかし、出産という問題は、「人間を生み出す」という点で特殊である。生まれた赤ん坊は、他のどんな生き物/無生物とも異なる、人間である。子どもを生み出すとは、<私>が<他者>を生み出すことである。ここで、「<私>の自由をはばむもの」とは誰かを考えてみる。*4それは言うまでもなく<他者>である。自由が問題になるとき、<私>と同じではないのに、同じ人間として現われる<他者>をどう扱うのかが、最も問題である。<私>が出産において、自由を追求するとき、それは「自由に、自由はばむものを生み出したい」という矛盾を抱える。そもそも<他者>を生み出すこととは、新たに増える<他者>一人分の自由を、<私>が放棄することである。

 アンドロイドに出産を代行させれば、出産する肉体をもつ女性は自由になる、と言えるかもしれない。しかし、アンドロイドの出産で、この世界にひとりの<他者>が増えることにより、<私>は<他者>ひとりぶんの自由を、この世界から失うことになる。この問題をも自由を求めることで解決しようとすると、どこまでも<私>と同じ、クローンとしての<私>を出産することを望むことになるだろう。しかし、クローンとしての<私>でも、やはり私の目の前に現われるときには、<他者>として捉えることになるだろう。でなければ、<私>の「ここからここまでが<私>という感覚」が基底から覆される。または、<他者>を増やすことをやめ、出産しないことが人類が自由への道である。

 出産について、自由を追求するという観点から言うとすれば、「産まない」というのが一番簡潔な解決策だ。<他者>を生み出すことをやめるのである。では「産む」ことは自由を放棄することなのか。そういうわけでもないだろう。産むことにより、享受していた自由は、減るかもしれない。しかし、自由という概念の核に触れる経験になる可能性もある。なぜなら、自由をはばむものは<他者>であるが、<他者>は自由という概念を生み出す源でもあるからだ。<他者>が存在しなければ、<私>は自由を問題にしないだろう。ここで、自由を追求することだけが、自由を尊重するわけでない、という仮説が立てられる。ひとは、出産を通して、不自由になることで、自由について考え始める原初に立ち戻るのではないか。それは、「なぜか、ひとは不自由になるのに<他者>の存在を求めてしまう」という謎を含む。

 

 以上をみていくと、私が先に述べた、解放運動の末の多文化主義が、「正しさ」を必要としたのとは別の形で、自由について思考する経路が開ける。

*1:「○○である自由」を求めるアイデンティティ・ポリティクス、と言ってもいい。

*2:まだ、必要ですけど。私もコミットすること多いし。

*3:いまのところ、前者が優勢。

*4:以下の、自由を自他関係から捉えるアプローチは、社会学者・大澤真幸の自由に関する議論からヒントを得た。

2007-11-20

[][][][]クレームメーキング

 ブログで情報発信していたところ、国会議員から問い合わせがあり、実際に国会質問の参考資料に使われた、という報告がある。

先日、参議院議員である松浦大悟さん(松浦大悟 - Wikipedia)から問い合わせのメールをいただきました。今国会で争点として取り上げられそうな「学校裏サイト」「出会い系サイト」「有害サイト規制」について質問するため、これらに関する情報を提供して欲しいとのことだったので、下記のようにお答えさせていただきました

chiki「松浦大悟議員が『有害サイト規制』『学校裏サイト』などについて質問」『荻上式』http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20071119/p1

ネットで、各人が情報発信をできるようになって数年経過したが、実際に国会質問に直結するような協力関係ができたのは初めてのケースかもしれない。もちろん、書き手のchikiさんは、先日「ウェブ炎上」を出版されたところだから、という背景もあるだろうが。

 ところで、以下のような問題について。

出会い系サイト規制の前提として、「出会い系サイトを利用した児童買春事件が急増している」というクローズアップがよくされているが、これだけをみて論じるのは間違い。まず統計的に見ても売春が「急増」しているわけではない。ネット・ケータイユーザーが単純に増加したことで、ネット・ケータイを通じてこれまで行われていたことが<可視化>されるようになったこと、およびこれまでであってもコミットしやすかった層が、ネットに流れているということなども関係していると予測される。単純に増えたわけではない。

(同上)

このような主張は社会学でよく見られる。たとえば、「児童虐待は増加していない」という研究がなされ、一部の社会学者の中で議論になっているようだ。ショッキングで、感情的な反応を呼びやすい主張が、社会の人々の不安を煽り、センセーショナルに取り上げられることを「モラルパニック」と呼ぶ。社会学者は、このモラルパニックに陥った人びとを分析し、主張を始めた人物を探し出し、どのような過程で社会に受け入れられていったのかを調査する。そうして、実は、その主張の論拠が曖昧で非科学的だということを、発見したりする。

 それは、それで大事である。私もそういう研究を好んで読むほうである。また、現在、ニュースで取りざたされているいくつかの、ショッキングな主張*1の研究が、早急に必要だとも思っている。

 ただ、クレームメーキングが必要ないか、というと、そんなことはない。「出会い系サイトを利用した児童買春事件」も「児童虐待」も急増していなくても、あることはある、のだ。そして、可視化された以上、なんらかの対策は必要になってくるだろう。モラルパニックが起きたからこそ、やっと日の目を浴びた、としかいいようのない問題がある。そういう混乱期を通過しないと、社会は真面目に取り組まない、という側面だ。

 マッチポンプでないやり方で、問題を問題化する方法というのが、今の私には思いつかない。やはり、焚き火みたいにボーボー燃えている人もいれば、焼却炉みたいに静かに燃えている人もいるほうが良いと思う。もちろん、誰が炎上して、誰が焼け焦げているか、ということも、問題にしなければならないけれど。とりあえず、燃えている人は、燃える以外に方法がないほど、追い詰められていた可能性がある、ということは、念頭において議論したほうがいい。燃えてるのが、その問題の当事者であってもなくても。

 まだ、上手くかけないが、クレームメーカーになることを、やたら恐れる風潮が、今の私の世代の人に多いように感じて、それを危惧している。問題を問題化することは、わがままや責任放棄だとみなしやすいのではないか。気になっている。

*1:例:「最近の若い人の間デートDVが増えている」…そんな馬鹿な!中年以上のみなさん、あなた方の若かりし頃を、美化せずに思い出してください。暴力の形が変化していることと、暴力が増えていることは、問題が違う。

2007-11-19

[][][][]性同一性障害不当解雇撤回裁判

 性同一性障害を理由にした解雇に対し、撤回を求める裁判が行われています。雇用者は社会福祉法人大阪自彊館(じきょうかん)で、大阪市野宿生活者巡回相談事業を営んでいます。原告は「『男か女かはっきりしろ』、『野宿者から蔑視される』など差別的な言葉を浴びせかけられたあげく、仕事を取り上げられ、雇い止めに」されたことを訴えています。

 性同一性障害者への、職場での差別については、問題化されることが多いですが、実際の裁判でどのような判決が下されるのかは、いまだ不明確です。また、どうすることがハラスメントにあたるのか、わかりにくい部分もあります。裁判の行方は、注目です。

 それから、この裁判は労働組合が取り組んでいます。1人でも入れる労働組合で、非正規雇用の人も入れるそうです。もちろん、フリーター問題にも取り組んでいます。こちらも、目を引きました。

性同一性障害を理由にした不当解雇に反対する裁判

     「自彊館闘争」第8回口頭弁論のお知らせ

 ■ 日時: 11月27日(火)午後4時〜

 ■ 場所: 大阪地方裁判所第617号法廷

   (御堂筋線・淀屋橋あるいは、京阪・淀屋橋下車、徒歩7

分)   

 ■ 地図: 

http://www.courts.go.jp/osaka-h/about/syozai/osaka_h.html

 ■裁判終了後、街頭宣伝行動を行います。

  ◇場所:阿波座センタービル前(大阪地下鉄駅2番出口)

  ◇日時:11月27日(火)午後5時過ぎからを予定

   裁判の状況により時間帯が変更される可能性があります。

   当日の問合せは『090−9254−9931』です。

 ■ 連絡先: 関西非正規雇用等労働組合ユニオンぼちぼち

   tel/075−681−6904

    e-mail/botiboti@rootless.org

         HP/http://rootless.org/botiboti/main.htm

■ 自彊館裁判とは?

 2004年9月から約1年半、大阪市野宿生活者巡回相談事業で

働いていたKさんに、06年3月、突然の雇い止め通告。雇い止め

は、Kさんの性同一性障害を差別した不当なものです。「男か女か

はっきりしろ」、「野宿者から蔑視される」など差別的な言葉を浴

びせかけられたあげく、仕事を取り上げられ、雇い止めにされまし

た。

 雇用主の社会福祉法人大阪自彊館(じきょうかん)側は、団体交

渉の席上、雇い止めには正当な理由がないことを認めていますが、

セクハラを認めず、雇い止め撤回もしません。Kさんは、このまま

泣き寝入りはしたくないと、性同一性障害に対するセクハラへの謝

罪と雇い止め撤回を求める、裁判闘争に立ち上がりました。

 2006年10月11日に大阪地裁に提訴しました。裁判はいま

第8回口頭弁論を迎えようとしています。

 どうぞ、ご支援ください。

ご支援とカンパのお願い

 裁判には、多大な費用がかかっております。皆様からのカンパ

で、

この裁判闘争は成り立っています。いままでも多くの方からご支援

をいただいてきました。裁判は続きます。勝訴に向けて、裁判とK

さんの生活を支えるために、さらなるご支援をよろしくお願いしま

す。

 自彊館闘争支援カンパ 1口1,000円(何口でも)

 郵便振替の場合(自彊館闘争支援と明記ください)

 加入者名 ユニオンぼちぼち

 振替番号 00900−8−263985

 *お名前の公表可否もお知らせください。