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2007-05-29

[][][]他者を歓待するブログについて

以下の投稿はid:mojimojiさんによるゲスト投稿です。

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 私が、様々な媒体の中でも特にブログという媒体に愛着を持っているのは、そこが他者に出会ってしまいやすい媒体である、という思いがある。その意味で、kanjinai氏の書かれた「ネットに「他者」は現れるか」にはとても興味を引かれた。その中での「「他者」は実は現われていない」という記述について、これは当然、僕の考えるところと違う。しかし、それ以外の多くの部分に首肯するところもたくさんある。どこで異なってしまっているのか。このところ、この問題がずっと頭に引っかかっていて、考え続けていた。──そんなときに、GORDIASにゲスト記事を書かないか、という打診があり、いろいろ考えた末に*1、書かせていただくことにした。

 述べたいことは大きく二つ。一つは「ネットに「他者」は現れる」ということ。いま一つは「閉じることを正当化しない」ということ。以上を踏まえて、ブログや掲示板には様々な開かれ方があっていい、あるより仕方ない、ということを述べる。


やはり、ネットに「他者」は現れる

 kanjinai氏の論の中の、たとえば、次の部分を見てみよう。

彼らと私の延々と続いたやり取りのなかで、彼らは私からの批判をすべて自分のパラダイムに変換して解釈し、彼らの基準でもって私に反論し、私もまた自分のパラダイムでそれを変換して解釈して彼らに返し、双方とも互いにまったく「ゆらぐ」ことなく、これが延々と続き、ささいな揚げ足取りが永遠に分岐し、やりとりをやめようとすると「あなたは逃げる気か」「それは卑怯ではないのか」「民主的ではない」「説明を求めます」の応酬となり、最後には疲れ果て、徒労感だけが残り、掲示板は荒れ果て、人々は去っていった。掲示板でのやりとりがこのような応酬へと変貌するきっかけといえば、実は、ささいな言葉尻であったり、単語表現であったり、であることが、いまではよく知られている。【そしてこのように展開していくやりとりに、「他者」は実は現われていない、というのが私の考え方である。そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。】(【 】はmojimojiが追記。)

 ウェブ上でなされる対話の多くが、このようなものであることに、同意する。つまり、この引用部の内容に、【 】部分を除き、同意する。愚かさと付き合うことは大きな疲労を伴い、かつ、得るものは少なく、その無駄さ加減に嫌気がさしてくる。どれほど馬鹿げた発言であろうとも、あるいは馬鹿げた発言であればあるほど、発言がなされてそこに置かれてあるからには、きちんと批判しておかなければならないように感じられる。あるいは、応答する必要を感じないとしても、単に不快であり、どうしてそのようなものを自分の管理しうる場所に陳列し続けなければならないのか、と思う。

 しかし(だからこそ?)、【 】部分には同意できないのである。もし、他者と他者でないものの境界線を私の主観において引いてしまうならば、その境界線をいかにして批判しうるのだろうか。他者という存在について考えるにあたっては、「私にとって不快で不都合な他者」を「他者」として認めることができるか、私が「他者」と認めたくない存在をこそ「他者」として認めうるか、ということが、やはり大事なポイントだと思うのである。

 そこで、これらの不快な存在は、やはり私にとって他者である、と述べてみよう。このとき私は、二つの意味で「他者である」と述べている。第一に、その人は、私が決定できない存在であるという意味で「他者」である。どれほど理を尽くして説明しても、どれほど友好的な態度を保持しようとも、話の内容を(それに賛成するにせよ反対するにせよ)きちんと踏まえて次の発言を考えるかどうかは、その人自身に委ねられるしかないのである。その人は決定できない他者である。

 それに加えて、第二に、その人自身が決定したその人自身のあり方が、私をどうしようもなく不快にさせ、苛立たせる。その人の述べていることが、まったく愚にもつかないものであったとしても(しばしば、そうであるからこそ)、私を苛立たせる*2。だから、そこにあるのが「粘着的な自己確認」でしかないとしても、それはやはり、「粘着的な自己確認をする他者」なのだ。

 ここまでのことならば、それは言葉の定義の問題に過ぎない。定義以上の問題であると言うためには、もう少し話を深める必要がある。すなわち、「彼らは他者ではない」と述べるときに見えないものが、「彼らは他者である」と述べることによって見えてくる、というような何か具体的な問題を提示する必要がある。そこで、彼らは他者であると考えたとき、そのコメントを制限したり削除したりすることがどういう意味を持つのか、ということを考えてみよう。


他者の歓待

 初めてブログや掲示板を運営するとき、そこをできるだけ開かれたものにしようと考える人は多いだろう。コメント欄を開放し、削除はせず、どんなコメントにもできるだけ丁寧な応答を返そう。しかし、そのように決意したその人を試すように、許容できない発言、対処しきれない質・量の書き込みが突発的に流れ込んでくることがある。その中で現実的に対応できることは限られており、開かれた状態を維持することは徐々に負担となっていく。

 ネット上のコミュニケーションを生活の一部と考え、至上のものとみなさないならば(これは当たり前の前提だ)、無条件の開放性を維持することはできない。私たちはある種のコメントを削除したり、アクセスを制限したり、あるいは一切禁じてしまうことによって、その場を守ろうとする。これは条件付の開放である。現実的には、そのようにせざるをえない。

 無条件の開放=歓待を望みつつ、しかし、現実的な要請から、私たちは開放に様々な条件をつけ、少なくとも幾分かは閉じていく。それは挫折、後退と呼ぶべきことだろうか。そう呼ぶ必要はない、と思う。しかし、ここは考えどころである。「条件をつけてはいけない」と言いたいのではない。そうではなく、条件をつけることに対する姿勢を考えてみたい。私たちはコメントを削除するとき、誰かのアクセスを制限するとき、コメントの内容やその人物の言動やふるまいを指摘し、それを根拠として、削除や制限=閉じることを正当化しようとする。先ほどの「現実的な要請」を、正当化の根拠としたくなる。「彼らは「他者」ではない」とするkanjinai氏の主張も、同様なふるまいだと思う。しかし、正当化してしまったら、そこでなされた削除や制限は正しいのであり、再検討の余地はない。言い換えれば、別様のあり方が検討される余地はない。これはマズイのではないか。ここで一度踏みとどまる必要があるのではないか。

 この点に関連して、デリダの発言を引用しよう*3

私たちは夢想家ではありません。この観点からすれば、どんな政府や国民国家も、その境界を完全に開くつもりがないことは承知していますし、正直なところ、私たち自身もそうしていないことも承知しています。家を、扉もなく、鍵もかけず、等々の状態に放っておきはしないでしょう。自分の身は自分で守る、そうですよね? 正直なところ、これを否定できる人がいるでしょうか?しかし私たちはこの完成可能性への欲望をもっており、この欲望は純粋な歓待という無限の極によって統制されています。もしも条件つきの歓待の概念が私たちにあるとしたら、それは、純粋な歓待の観念、無条件の歓待の観念もあるからです。(『デリダ脱構築を語る』、p.123)

 私たちは、「コメント欄を開放し、削除はせず、どんなコメントにもできるだけ丁寧な応答を返そう」という理想を、それは実現困難に感じられる*4理想に過ぎないとしても、やはり手放してはならないのである。というのも、私たちが実現可能なものの領域を拡げるにあたり、あるいは、狭められた現実を再び取り戻そうとするときに、無条件の歓待の観念が決定的に重要であるからだ。不快な他者を、他者と捉えておくことの重要性はここにあるように思う。

 このことは、具体的には、次のようなことを意味する。私たちがその場を閉じようとするときでも、様々な閉じ方のうち、より開かれた閉じ方を選ぶようにしよう。時々閉じてみて、少し休んだら、また開いてみよう。完全に閉じてしまうのではなく、どれだけ細い道筋でも少しの道筋を開けておけないか工夫してみよう。コメントを削除したり、書き込みを制限したり禁止したりするとき、あるいはブログそのものをやめてしまうとき、そのような可能性を一通り検討してみよう。このことはすなわち、自らが行った管理行為を、できるだけ広く、多くの段階で再審に付す、ということでもある。

 私たちは閉じつつ、しかし、様々な開かれ方を、より開かれたあり方を模索する。そのためには、不都合な他者たちを「他者」と認めておくことが、やはり必要なのである。この意味で、不快な他者たちは、私を開くための資源でもあるのだ。


閉じ方/開き方の模索

 以上のことから、実際のブログや掲示板の運営について、付け加えておくべきことを書いておきたい。私があらゆる(不快な)訪問者を歓待する(したい)としても、それらの訪問者の発言を軽蔑し、全面的に否定したりすることは当然にある。むしろ、こういうことなのだ。私は全力でそれらを批判するし、否定するし、非難もするだろう。しかし、そのような者たちと出会ってしまうことを肯定する。あるいは、別様に言えば次のようになる。そうした愚かで不快な人々は、そうではないあり方で存在した方がいいと思う。しかし、そのような人々が存在しない方がいいとは言わないし、そのように存在する人々が存在しているからには、出会わないよりは出会った方がいい。そのように言いたいのだ。排除か歓待かの二分法を脱して、様々な排除/歓待のあり方を模索していきたいのだ。

 具体的にどのようにすればよいのか。結局のところ、「何でもあり」と述べるしかないように思う。ただし、手放してはならないことはあると思う。すなわち、ネットの生活はそれ以外の生活の一部であって、至上のものでもなければ、その中でもっとも重要なものですらない、という意識を手放してはならない。自分の生活全体と整合性が取れることを重視して、運営方針は選ばれるべきだ。

 人がどのようにあることも、事実そのようにあることは仕方のないことであり、いいも悪いもない。ただ、そのような人がおり、その人がネット上でブログや掲示板を主宰したいと思うならば、それらの諸条件と整合的な運営方針が採られればよく、そこで採用される運用方針は人によって違うだろう。人の悪意に晒されたときに傷つきやすい人は、比較的制限的な運営方針を採るかもしれない。タフな人は圧倒的な開放感の中で放置プレイをその芸風とするのかもしれない。また、運営方針は固定的である必要はない。仕事が比較的ゆっくりできるときにはより開放的で負担のかかる運営方針でよいが、忙しくなってきたならば制限的な管理に移行することもあるだろう。

 そのように、あり方は変化してよいはずだ。大事なことは、それが繰り返し再検討に付されつつ、様々な機会に自覚的に「選び直される」のがよいと思う。

 その場合、選択肢は無限にある。コメントは一切禁じないことからそもそもコメント欄を閉じることまで、様々に管理することができる。トラックバックについても同様である。ブログを閉じるときにも、過去の記事はそのままにしてもいいし(更新停止)、記事ごとすべてを削除するということがあってもいい。様々な閉鎖の仕方がある。新たに始めるときも、新たなハンドルで新たな場所で始めてもいいし、以前と同じ場所に戻ってもいい。それぞれが、それぞれの心に浮かぶことを踏まえて、それぞれにあった開かれ方が模索されればいい。そのことによって、人と人の間に投げ込まれる言葉が一つでも増えるならば、それは良いことだ、と私は思う。

*1:この「いろいろ考えた」というところにも、いろいろ面白い問題があった。いずれ別の機会に書くと思うけれども、今回は触れない。

*2:ついでに言えば、ほぼまったくこのようなことを感じず、ただ、「無残だな」としか思わないこともある。そのようなときには、割と淡々としてもいられるのだけれど、どのようなときにそのようにしていられるのか、明確な傾向はない。また、淡々としていられることが必ずしも良いことだとも言い切れない。

*3:いつだったか、この発言を教えてもらったのは、確かx0000000000さんからだったかな。

*4:実現不可能、と述べることは、せめて、やめておこう。