「ヘマタ?」=「何?」

 確か中学時代(昭和29年ごろ)の国語の教科書に「心の小径』という教材があった。私は余り勉強は熱心でなかったのだが、その概要を今でもよく覚えている。国語の授業で教えてくださったのは今もご健在のK子先生である。
 これは金田一京助が25歳の時、アイヌ語調査のために樺太へ渡り、全く知らないアイヌ語をどのようにして収集したかについて書いたものであった。今はその教科書は手元にはないが、十数年前に購入した新潮新書金田一京助」(藤本英夫著)には、教材のもとになった一部が載っている。
 
 ただ私は「何?」という一語がほしくなった。それさえわかれば、心のままに、物を指して、その名を聞くことができるのである。そこでふと思いついて、もう一枚紙をめくって、今度はめちゃくちゃな線をぐるぐるぐるぐる引き回した。年かさの子が首をかしげた。そして「ヘマタ!」と叫んだ。するとほかの子供も皆変な顔をして、口々に「ヘマタ!」「ヘマタ!」「ヘマタ!」
 「うん! 北海道で『何』のことを『ヘマンダ』という。これだ」と思ったから、まず試みようと、身のまわりを見回して、足元の小石を拾って、私からあべこべに「ヘマタ?」と叫んでやった。
 驚くべし、群がる子供らが私の手元へくるくるした目を向けて、口々に、「スマ!」「スマ!」と叫ぶんではないか。北海道で「石」のことを「シュマ」という。してみると、「スマ」は「石」のことで、そして、「ヘマタ」はやっぱり「何」ということに違いなさそうだ。

 中学生の私は、アイヌ語アイヌ人、樺太、そして金田一京助についても何の知識もなかったと思う。それ故にかえってアイヌ語アイヌの子どもたちに興味を持ったのかも知れない。特に、アイヌの子どもたちから「ヘマタ」を引き出して、その言葉を駆使して次々にいろんな物の名称や表現の仕方を収集していった発想に感動したに違いない。
 著書『金田一京助』によると、彼がオポチョッカ村に40日の滞在後、帰る頃にはたいていの話は支障がなくなった上、樺太アイヌ語文法の大要と、4000の語彙と『北蝦夷古謡遺篇』3000行の叙事詩採録ができたのである。
 彼がアイヌ語収集を思い立ったのは東京帝大を卒業した明治40年(1907年)7月である。渡航や滞在費等は借金している。また、樺太日露戦争により日本領有が決まったばかりで、政情は良くなかった。小樽を出て、オポチョッカ村へたどり着くまで15日も要するなど、今に比べるとすべてたいへん難儀だったはずである。にもかかわらず、彼が敢えてこの大胆な調査に踏み切ったものは何か。
 10歳ほど年上の高山樗牛が当時の若手青春群に「日蓮、詩人バイロン、大聖仏陀、哲学者ショーペンハウエル如き天才の出現を望む」という檄文を発表した。すると、後に金田一と同世代の詩人や小説家がたくさん輩出した。与謝野晶子有島武郎鈴木三重吉高村光太郎武者小路実篤石川啄木など。
 一方、金田一は「(帝国大学を出ても)自分は決して天才ではない」と自戒し、地味な言語学の道を選び、檄文に背を向ける風に見られた。しかし、ご存知の通り、金田一京助は後に言語学アイヌ語研究の第一人者となり、辞書編纂や各著書等は言うに及ばず、東大教授や学会会長なども務め、従三位勲一等瑞宝章を授けられた。昭和46年、89歳にて永眠。
 「心の小径」は昭和25年、著者が68歳の時「随筆選集」に書いた。それが各社の国語教科書に採用され、全国のかなり多くの中学生に感動を与えたのである。K子先生には一昨年秋岩手県一関市のご実家でお会いした。ご高齢ながらお元気だった。今度訪ねる時にはこのことを話題にしてみたい。なお、金田一京助岩手県盛岡の出身で、世代こそ違うが同県人としても大変誇りに思っている。