パッサー型人間がいい!

 パッサー型人間とは、「受け取ったボールを必ず次の人へパスする人」のことを言い、「生き方として、パッサー型人間がいい」と評している。思想家、武道家、大学名誉教授の内田樹(たつる)さんが対談本『慨世の遠吠え』(鹿砦社)で語った。
 自分が行使できる能力は先人からの贈物であって、自分の私物ではない。だから、自己利益のためにそれを用いてはならない。それは無傷で次世代に伝えなければならない。そう思っている人間と、自分の能力の受益者は自分である、自分の能力のエンドユーザーは自分である人間とが遭遇して闘った場合、最後の最後では、「次世代が待っている」と思う人間が勝つんです。
 自分の才能を自分一人で享受しようとする人間は、自分が死んでも誰も困る人間がいない。自分が受け継いだ技術や知恵を伝える相手がいないから。そういう「エンドユーザー」型の人間と、自分が死んだら自分とともに長い伝統が途絶えてしまう、次世代への「パス」がつながらなくなってしまうというふうに考える「パッサー」型の人間が闘った場合に、最終的には「パッサー」が勝つんです。生物的にその方が正しいから。
 僕は自分の門人たちには「なるべく早く独立して、自分の道場を持ちなさい」と言っているんです。自分が稽古をいくらしても、その成果を受益できるのは自分一人であるという人と、稽古を通じて自分を練り上げて、できるだけ、高い技術を弟子たちに伝えなければならないという人では稽古の時の目つきが違う。だから、自分の弟子を持っているものの方が進歩が早い。これも「エンドユーザー」か「パッサー」かのちがいだと思うんです。
 ボールをパスしている人はフレキシブルなんです。ボールを次へ回さないといけないので動きを止めない。僕がボールをパスすると、それを受けて次に回そうと、ポジションを変え、姿勢を変えてくる。パスしない人は僕がボールを渡しても、次のパスコースを探さない。パスを渡す相手がいないから。

 どちらの「型」の生き方がいいか。これも主観によるのでどちらでも選択は自由であるが、私にとっては、「あと何年かの余生をどう生きるべきか」の疑義について明快なヒントになった。道場や教室を開く余裕はないが、そうでなくとも後世へ伝承する方法はあるので、考えてみたい。とすると、やるべきことがたくさんあるようで楽しみではあるが、先ずは、気分をよりフレキシブル(柔軟性)にすることから始めたい。
 内田さんは強面の思想家として知られている。時おり、新聞等に論評が載ることがあるが、たいてい「目からうろこが・・・」と思える考え方を発表している。この対談では、日本の政治と外交、戦中と戦後の断絶、合気道をめぐって、などについて一水会顧問鈴木邦男さんとざっくばらんに話し合っているが、内田さんの「パッサー型人間」考に惹かれた。