血の大みそかは、何度でも

2014年十大ニュース(順序不同)

 

1 部屋の整理に継ぐ整理

2 阿部和重氏と握手

3 太宰、群像、文藝に落選

4 7度倒れる

5 メルキド出版が十年振りに新聞に載る

6 新世界で串カツを食べる

7 『夜と霧』読了

8 渋谷の映画館で西島秀俊氏を目撃する

9 早稲田文学に4回目の投稿

10 ツイッター文芸部さんとの出会い

 

 

       1

 

 羽毛が襟から突き出しているバイオレットのダウンをはおり、鼻水をすすりながらの毒毒しい行為のただなかで、視界から抹殺されている群衆の視線を、背中で軽く受け流し格好よくいなすのは、まだ到底ライトには無理なのだ。

 トップバッターの重責なんて果たせるわけがなくて、それに期待されての順番じゃなくて、エキシビションというか、場をあっためるための前座のような立場だ。客足もまだ出ないお昼を食べ終わっただろう間近の頃合で、あやしげなものはさっさとおしまいにして、ラディッシュやらオードブルからメインディッシュ、デザートへのフルコース料理を踏襲するかのような、そんなタイムテーブルを森副部長らしい豪腕でトップダウンの決定がなされたんだろう。

 ライトは、奥田と赤坂のくぐもった声の響きを、耳垢まみれの鼓膜に感知しながら、ガレージで何本もの蝋燭に照らし出された己自身の奇怪なペインティングをほどこされた顔面を、いつもの濡れた哀しい目つきで睥睨した。

 カレンは、笑った。コートを脱ぎ、着慣れた真紅のプリーツスカートに白のブラウスと黒のショールという色音痴の出で立ちの女は、受付から拝借したトキントキンのHBの鉛筆で、鼻先を押さえ、湧き上がる爆笑を辛抱している。

 自然現象がやむのをしばし待って、彼女は颯爽と風を切り、教壇前の長椅子に身体を柔らかく滑り込ませた。机の上に感想用紙の藁半紙を一枚載せ、持っていた鉛筆を紙の真ん中で縦に置いた。ちょうど、懐中電灯を点け、ラジカセの停止ボタンを慎重に押す、彼の横顔がうかがえる。

 教室の後方では、一人の女性が腕を腹の前で組み、なにせ狭い場所だ、ペンキが投光の照り返しにより、暗所でありながら不気味に光沢を持ち合わせている壁に寄りかかって、事態の推移を見守っている。最前列に並んで座る男女を値踏みするように見つめると、顎の下をかくように思えた。

 視線を落として、砂嵐で縫い合わせたような映像の断片に、誰もが、そうどんな陽気な性分の男女だって、変態趣味の好事家だって、仏とみなに呼ばれる初老の善人だって、気分をいちじるしく害し、悪態を吐くだろう。

 長回しの苦痛を、微微たる救済だがそこそこ解放される、軽快なロックが、断続的についさっきまでラジカセから流されていたが、入れ換わるように今度はプロジェクターにつながれたスピーカーより鳴り響き出した。画面はフィックスから手持ちになったようで、ぶれてはいるが、味気ない初めの展開よりかは疾走感がある。さきのテープの音と比べてみると、たいした爆音でもある。停滞しきった映画がついに異様なテンションのオーディオビジュアルとなり、突き進んでいく。

 隠し撮りみたいものやら、巻き戻しみたいのやら、激しいロックに身をゆだねながら、変幻自在の映像ショーにレイプされそうだ。ふざけきったスタッフロールが流れ、前衛的な音楽とともに、映画が終わり、ブルーバックになり、プロジェクターによる上映係の森副部長がいらだたしげに席を立った。

 どうせ、「ヘルター・スケルター」「レヴォリューション9」と、意識下でつぶやいて、彼のマイフェバリットソングを臆面もなく駆使している屈託のなさに飽きれるかなんかして、電気係の三井によって、明るくなった教室を大股で潜りぬけ、喫煙するためにか廊下に出るんだろう森副部長を見送った。今日限り、ライトのことは完全に無視をしよう、とその背中は告げているようだった。進行役の鳥田が発す、次の亀嶋の上映作品までの休憩時間を伝える明朗な声は、教室の外にも響いていただろう。

 太陽と海が溶け込むような壮大な終末観を抱き、これが朝日ならいいのになと、うそぶいてみても、なんの事態の好転にはつながらないように思えて仕方ない心境。が、目のまえに、ドンキーコングみたいな姿勢で彼女がしゃがみ、『ダブリン市民』のライト版だと、絶賛された。

 カレンは机に載せられた、白紙の感想用紙をまえに瞑想している。笑ったとはストレート過ぎて書けないし、まともなことがまったくなんにもひらめかない。しょうがなくきのうねころがりながら読んだ文を引用書籍の明記をせずに、あやふやな記憶を頼りにつらつらと書いた。“芸術は受け取るほうが芸術家になれる、娯楽は労働者に徹せられる”

 壁に寄りかかって事態を静観していた女性が、いつのまにやら教室の前列にある席に座っていた。視界には背中を屈めて、筆記行為をしている女とラジカセを挟んで談笑している二人がいる。そして、次の上映係の亀嶋がさらに加わる。一般のお客さんは後席に集中していた。

 とりとめのないそんな雑駁した思考回路を巡らせながら、軽い吐息をつき、憔悴しきっている自分自身と居並ぶ、サークルの猛者たちを天秤にかけ、瞳は、色盲患者が初めて病状を自覚したときの驚愕とあきらめのように彼の姿を湛えた。

 孤独な途行き。絶海の孤島。しかし、そんなもんではへこたれない。彼女は強い意志を、才色兼備ではないが、けっして負けない鋼の心を持つものなのだ。だが、彼女のことは実はあまり知らない。名前も判らないので匿名のままあてずっぽうで記述している。また薄暗くなったA館上層角の教室のうしろに位置する壁の隅より、左手で押さえるペンライトの明かりをキャンパスノートで外界から囲い込むかのようにして、ボールペンを走らせ、ただいまこの文章をお山座りで作成しているのだ。

 無論、ひらがな、カタカナまじりの乱筆乱文の漢字変換もさることながら、誤字脱字のオンパレードも後日、修正せねばならんだろう。上映会が終わったあとに発覚する事態も加筆したいし。もちろん、大きな組みかえも必要だろう。ときどき立って状況も確認した。

 ノートを閉じ、ペンライトを口にくわえ、筆記具のペン先の反対側にかぶせておいたキャップを元通りしめた。再び暗闇が支配していく室内で、立てひざをつき、腰を曲げ、ボールペンを指のあいだに差したまま、両手を汚い頑丈な床につけ、四つん這いの姿勢で暗幕を垂らした唯一の出入口を目指して、孤独な行軍を開始した。

 隣には誰かがいる。長机に両ひじを立て、指を厚ぼったい口唇の周りに円を形作るように曲げている。目はうつろで、いちじるしく集中力を欠いており、睡魔がいやおうなく襲っていた。次の瞬間、両腕がまえの形から崩され、通路へと投げ出された片腕に、ペロペロと従順になめまわす細長い舌が、手指に付着していたから揚げの油を嘗食する。

 ペンライトとボールペンは、左右の手におさまっていた。開いた口からは、とめどもなく唾液がしたたり、床に水たまりをこしらえている。隣で静かに映画を鑑賞していた、シルクハットの紳士が立ち上がった。カラーを振りほどき、充血したまなこを獣に向ける。さらなる時が流れ、いまはすっかり完全なる夜になったかのような錯覚を彼は抱いた。獣の目が光っている。

 おかえり、おかえり、双子の男の子が彼に対面してこういっている。紳士は、すっかりくつろいだ様子で、帽子を取ると、タキシードも脱ぎ、スラックスも放り出し、上はYシャツだけの姿になり、カフスボタンを外した。首をぐるりとひと回しして、頚骨を鳴らす。お次は座って、まずは紐靴を解放し、それからシルクの黒ソックスの全容を明らかにする。はて、スリッパがない。それどころか部屋着の洋服かけも見当たらない。ここは真っ暗だから。

 駅が映写されている。労働は自然ではない。上映は終わっていた。マルクス教授の個人レッスンが終わったのだ、正確にいうのならば。教授は助手に目配せをしたあと、生徒のガルシア君を色眼鏡で見た。彼の恋人は日本人だ。たしか、コイタといった。仲むつまじく、大学で目撃したものはまだいないらしいが、ところかまわず乳繰りあっているというもっぱらの噂だ。夜の中学校の乾いたプールなどで。仕事のストレス発散なんだろうが、まったくお盛んなことだ。

 しかしマルクス教授は平面の存在だ。上映が終わり、ガルシアとコイタに嫉妬してみても、直接的にはなんの変化を現実に及ぼすことはできないのだろうか。いや、違う。できる。巨大な影響を与えることは不可能ではない。そう教授は固く信じている。

 教授には妻子がある。それがどうしたことか。本件にはなんの関係もない。彼は自由なのだ。どんな場面においても。彼はなんの圧力にも構造的欠陥による個人への軋轢にも無関係なのだ。だって妻子はまだ設定まえの段階でなんのデザインもほどこされていないのだから。

 ここにいたるまでのいきさつは、頭部に付着した虫が心得ていた。黒髪のあわいをかき分けかき分け、虫は頭皮中を移動する。だから、彼女にすべてを打ちあけて、訊いてみればいい。答えはおのずと解きあかされるだろう。だが彼女は黙ったままだ。

 電気係の三井により、教室が光に包まれる。しつらえられた暖房器具が場内の発熱を促進している。まだ春先なゆえ、底冷えする陽気だった。男女数名がヒラヒラと感想用紙とパンフレットをそれぞれ鉛筆と重ねて持ち、入場してくる場面を、ライトとカレンは腰を回して観察した。進行の鳥田の声が緊張で震えながら、教室に響く。

 いよいよ、森副部長の作品の上映とあいなった。二人は、外にもう出払っていた。例外をのぞき、監督本人がプロジェクターを管理するため、廊下にて、どうやらパンと牛乳でブランチをすませていた森副部長が、急いで8ミリビデオカメラにHi‐8のテープをセットしている。

 ささくれだった手指を、母親が銀行の景品でもらってきた、ダサダサのオックスフォードと読める字が躍るショルダーバッグに無造作に突っ込み、レジ袋に入った近所のコンビニで今朝購入した、食べ残しのおにぎりを取り出して即行でかぶりつく。

三角形の包装がうまく開けずに、のりがビリビリに破れていた。床に細かくちぎれた残骸がハラハラと落ちてゆく。第一の手順からして誤っているのだ。始めの縦にまっすぐ切れ込みを入れ開封するのは、上にきたところで止めて第二、第三の順番でするのではなくて、ビニールがふたつに割れる最後まで完遂せねばならんのだ。

 これは、CMでおなじみのラップの切りかたに影響されすぎて、ほかのメーカーでCM通りに被せたままクルッと半回転させてラッピングをしようとしてもうまくいかなくて、大概のものはあらかじめ皿などに張るまえにラップだけで切り離さないといけない、ということになかなか気づかないのと、同じような不器用な生きかただ。

 もぎりをしたり、ワンドリンク制のため、紙コップに午後の紅茶かコーラの2リットル入りペットボトルを注いだり、感想用紙や鉛筆を渡したり回収したりと、入場客と退場客の応対に迫られている受付係より離れ、消火器が設置されているドンツキで、伏し目がちに全景を支配する人間を見ている。ふと気づいたときには、カレンの姿が消えていた。暗幕が揺れる教室に一足先に入ったんだろう。そう、ライトは思った。誘導係の仁が笑っている。

 薄汚いテニスシューズに視線を落とし、明太子が具のおにぎりで頬をパンパンに膨れ上がらせて、なんとか早く飲み下そうと躍起になる。オックスフォードのバッグから、今度はペットボトルのミニサイズをつまんで出した。もう熱熱というわけじゃないが、まだほの温かい。口唇にのりがついていないか注意して、口の内外を清める感じで半分ほどあわてて飲んだ。

 人差指にかけていたレジ袋におにぎりの包装ビニールが入っていたが、お茶の容器も勢いあまって放り込んでしまった。ま、いいか。そのままバッグのなかに忍ばせ、肩に下げずにおっとり刀でスタスタと受付を通り過ぎて、教室に舞い戻る。

 きょろきょろ辺りを見回しても、カレンはいなかった。トイレだろう。まえいた席には鳥田が座っていた。仕方なく、空いている彼の真後ろの長椅子に身体を入れた。荷物を机の上に置く。持ち手についているプラスチック製の伸縮させたり、着脱させたりするための留め具が、板に当り微かな小音を立たせた。

 私はライトのあとにくっつき、逐一ノートに彼の動静を書き込んでいる。つまり、いまはライトの横の席から、彼と鳥田を観察しているのだ。鳥田が腰を回転させて、振り向いた。感想、書いてないの。ライトは自分がもといた席に感想用紙と鉛筆とを置いてきたことをすっかり忘れていた。この執筆前にライトに長いインタビューを敢行している。それが今回、彼の心情を図るうえで重要な材料になっているわけだ。二人は仲がいい。ライトが、鳥田の下宿に何泊もするほどだ。鳥田が紙と鉛筆をライトに渡した。

 花藤が教壇のまえに立つ。実況小説とも呼んでもいいだろう作業は続く。しかし、ここで私がきのうライトの家に泊まったことを引き続き文書で報告したいと思う。教室はまたもや暗闇と投光とスクリーンの明かりで彩られ、時間を刻んでいる。ペンライトをポケットから出して、文字を現在も書き連ねている。

 

 

       2

 

 親指と人差指の腹を荒荒しく扱い、鼻糞を手淫行為にふける猿のごとく必要にむしる嗜癖ののち、カルピスウォーターを飲む。腹がいてえのにまだ残っていやがる缶をホルダーに置いた。サークル棟裏手の路肩で愛車のサニーのエンジンをふかし暖房をつけ、のろまな兄弟がちんたらやってくるのを待っている。

“小さな悲しみ製造機と大きな悲しみ製造機”

 ラジオがかかっている。金曜の夜はいつもこれ、と決めているわけじゃなくて、ただ偶発的に身をゆだねているだけだ。最近に三井と観た映画を想起している。evianは、naiveを逆さに読んで商品名にしたと、劇中たしかウィノナ・ライダーがほざいていた。個人的にはジュリエット・ルイスのほうが好みだ。そっちは行きそびれちまった、クソ!

 抜け途から身を屈めて道路に出てきた黄色い猫は、ふたつの影が大きな物体のなかに消えていき、勢いよく走り去るさまを見届けた。猫はニャーニャー鳴いて、どこか暗闇のなかにその姿をくらました。日付が変わろうとしている。黒野はあすまで缶詰めの編集だ。俺たちはただハイエナのように部室の周りをうろついているわけにはいかない。俺たちにもすることがあった。俺たちは南東に進路をとった。俺たちは三人で、ただただ歌うように喋り、そして叫んだ。俺たちは支離滅裂だ。なにもかもが。俺たちは行き場を失っている子羊だ。俺たちはただただ生産される漿液と粘液で、行く手をさえぎるものを蹴散らしていく、細胞の塊に過ぎない。

 インターチェンジに入り、助手席のライトが、うしろで画用紙に鉛筆を走らせ始めた兄と、マルクス教授の話をする。自然、次の話題は教授と、兄が似顔絵を書いている彼女の恋について移ろっていった。

 黒に染まった車窓の風景が流れ、スケッチブックを立ててペンライトの投光が前方に広がるのを避けつつ、手元だけを明るくして黙黙と絵を描く兄は神経を研ぎ澄まし、次第に空談には乗らなくなった。兄はよく絵を書いてきたようだ。コミックマーケットに漫画や鉛筆画を出品したこともあるそうだ。私も現物をいくつか見させてもらった。シュールというか、サイバーパンクというか、アール・ブリュットというか。とにかく、イカレタ絵だ。

 赤いテールランプが、目ににじんで浮遊を繰り返している。ラジオはさっきから止め、いまはシトロン・プレッセのテープを流しだした。俺がベースを担当している映研バンドだ。俺のことはどうでもいい。問題はこの愛とは無縁の兄弟だ。

 この小説はライトのたっての希望で書かれているものだ。自分を取材対象にしてかまわないから、僕の物語を書いてくれ。自己愛の過剰な存在としてのライトは、そう俺にいった。現在の美しい自分を残しておきたかったの、と芸能人がヘアヌード写真集を発表するときなんかに常套句として使う思考と同じものなのかは判らないが、青春の美しさを自分の都合のいいように脚色演出して、大大的に世間にみせつけるわけではなく、ただ私家版として小部数刷り、気の合う友人たちに配布したい、絆を確かめ合い、一緒にいたことの証明として、卒業アルバムのようにみなの手元にいつまでも残しておきたい、そういった主旨のことも確かこんこんと聞かされた。

 ひとつの注意点は除いて、あとは自由に書いていいとも指示された。その注意点とはご多分に洩れず、女性関係だ。ここからはライトに従順に提出するものとは違い、俺のなんでもありのバージョンなんだ。だからすべてのことを克明に記したい。前半で叙述した女性三名がライトにこともあろうかぬかずいたような態度であるのは、もちろんフィクションである。

 彼は三名の女人の平常心を腰砕けにさせ、おのれの肉棒に心底夢中にさせているという妄想を俺に語った。その彼女たちが誰かは煙に巻かれた。これは俺にも好都合だった。三名の女性はすべて架空の存在にして書いている。そもそもうちの映研には女性部員が欠乏しているのだ。本来のライトは、この欠乏している女性部員の一人に対し、執念深く贈り物や手紙を送り、あろうことか彼女が一人暮らししているマンション付近での徘徊、実家の探索などを繰り返している。そんなみんなには周知の事実を彼は絶対に書くなとなんども念を押して懇願していた。

 結局、真実の歴史を曲解し、己の偽史を作り上げ、現実ではなしえない欲望を、せめて小説のなかだけで達成し、繰り返しになるが、身近なものたちだけでもいいから、あたかもそれが文学的叡智のように後世に伝承されることを、到底無理なことは承知の上なのか、どこまで本気でどこまでおちゃらけなのか判断がつきづらいところなのだが、大きくことほぎたいようなのだ。

 まったく、やっかいな人間だ。あきれるしかない。それでもなんで、このエリートの俺がそんな駄作になること確実な計画にこれといった不平を垂れずに参加しているかといえば、狙いはマルクス教授なのだ。彼の尊大なサークルを牛耳っている力をなきものにしたいのだ。彼のせいで何人かの革命戦士の命が絶たれてきた。俺もこの実況執筆当時は、まだ生きていた。しかし上映会直後、俺はサークル内消滅を余儀なくされた。次は、真平か。おめでたいことに気づいていない大葉兄弟も時間の問題だろう。なにもかも、マルクスのせいなのだ。彼の罪科を告発する役目が、俺にもそして、この小説にも脈脈と息づいているのである。

 マルクス暗殺計画は、去年の秋祭のころから浮上しては消え、消えては浮上して、を反復していた。前述した通り、マルクスは二次元の存在だ。そんな彼をどう始末するのか。手当たり次第に、彼の著作を焚書の憂き目に合わせても限界があるし、まずもって彼の思想の影響力を消さない限り、前途ある未来は開かれない。

 そこで我我も、マルクスがあたかも三次元にいるかのように、引きずり出すことにした。彼を生きている人間として誕生させる。生き始めた彼は、きっとタイムラグで多くの失態を起こすことになるだろう。また、暗にそう仕向ける仕事を我我がする。だが、我我の当初の暗殺計画で彼が実際に命を落とせば、狂信的な信者は残るだろうし、また彼の存在が美化される怖れがある。だから、自然死を待つ。期限はない。

 あとはどのようにしてマルクス教授をこの世に産み落とすのか。一度も存在がない、架空上の人物のはずの彼をいかに創り出すか。それには文学しかない。いままさに息をしているかのように彼を描写するのではなくて、彼がフィクションの存在であると読者を喚起させ、実物同然だと洗脳されているものを本当の世界と対峙させればいいのだ。そんな力量が果たして我我のなかにいるもので満たされるかどうかははなはだ疑わしいのだが、いつの日か、そんな未来がきてほしいと念じ、ライトの家に泊まった話に戻りたい。なにせ彼ら兄弟こそが、遠い未来、我我のマルクスに対する最後の希望になるであろうから。

 

 

       

 

 俺は車を料金所から発進させる。後部座席で作業に没頭し、一心不乱で筆を走らせていた兄が、終了の声を上げた。サイドブレーキに中学時代に使っていたのと同じ型の薄汚れたスケッチブックを置き、ペンライトの楕円形がひしゃげて広がる黄色い光に、眼鏡をかけた壮年の男性の肖像が浮かんだ。

 まぎれもなく、それがマルクス教授だった。俺は教授の顔を見たことは一度もない。そもそも教授には顔なんてないのだからあたりまえの話だ。しかし赤信号にてのぞく、その風貌は立錐の余地もないほど彼の現象と一致しているかの如くなのだ。

 さらに想像をたくましくすると、マルクス教授は、俺たちの偉大なる神なのではないかとも思えてきた。なにせこんなにも克明に彼のことが瞬時に理解できる。ライトはいまどう考えているかは不明なのだが、きっと思いは通じあっていると願いたいのだけれど、ともかく俺たちは誰よりも彼を知ってしまっているんだ。

 彼女の絵じゃない、ライトはそういった。これ誰だと思う? 俺は彼を試すために興奮を抑えて訊く。ライトはその質問には言葉をつぐみ、視線を下にしたまま、走行中の車内に響き渡る大声で、なんで彼女じゃないの! と類語反復した。

 ライトは、深甚なる衝撃を受けている。俺は強く彼の気持ちを推し量り、どうやら彼も、そしてこの不穏極まる肖像を描き上げてしまった兄も、同じ人物を心の内に召喚しているのだなと確信めいた結論を下した。

 俺は覚束ないハンドリングで、感情的になることを怖れながらも、ニヤニヤ笑ってしまう。俺たちの偉大なる神よ、恐怖の大王よ、どこまでも続くこの支配下で、なんとしても、必ずや成しとげてみせる。泥人形の俺たちがそんなことできるはずないだろうと、油断するだけすればいいさ。時間はかかるだろうが、俺たちはどこまでいっても自由になる。

 首を後ろに曲げていたライトが涙を出しているかどうかは判断できかねるけど、正面を向き泣きじゃくる駄駄っ子を彷彿させるように洟をすすっている。ルームミラーでリアシートを見れば、兄が遺影を持っているみたいに、スケッチブックの絵を抱えている。ペンライトは切られていた。沈黙にグズングスンと断続的にライトから発せられる音がもの哀しく場のトーンを形成している。ぴったりなBGMだ。シトロン・プレッセの音楽も、いつのまにか終わっていた。

 空を飛びたい、唐突にそう思った。空さえ飛べられれば、向うところ敵なしだ。神のまします天空へいって、この肖像画を持ち、マルクスを探すまでだ。

 さきほどまで心地よかった静けさにもう耐えることができなくなって、いてもたってもいられずに、ラジオをつけると、臨時ニュースで山火事が広がっていることを報じていた。アナウンサーの低音の声音が、緊迫感をより高めている。

 燃やせ! 頭にそう声が届く。肖像画を燃やせ! 跡形もなく焼き尽くせ! 衣服をまさぐり、ライターを見つけようとする。ない! ない! ない! 俺はよだれを垂らした。計器の光で一筋のよだれの糸がまばゆく輝く。ライトの洟もおさまりそうにない。落ち着け、これはまぎれもなく紙だ! 顔面にしわが寄り、からだきしたヤカンのように熱が脳を容赦なく攻める。顔全体が幾重にも伸びるしわで覆われ、脳が飛び出して、内外が裏返しになったかの如くだ。

 手っ取り早く、肖像画を処分せねばならない。この世からなきものにすべく、営為努力せねば。忘れてはならない、奴に実体などない。俺たちまで奴のリアライズに手を貸してどうする。そこまで引っ張り出すのはいいが、呑まれてはならない。耽溺してはならんのだ。

 あくまで二次元に留めておかなければいけないと、再度、俺は確認している。肖像画は二次元の産物だが、あたかも生きているかのように、俺たちに迫ってくる。奴は現実にはいないのだ、と自分に何度もいい聞かせる。

 絵はまずい。危険のなか偶然に得られた教訓は不幸中の幸いだ。だがいまはそんな悠長なことはいってられない。早いところ燃やさねば。ガタガタと身体が震えてくる。ヤカンの底が黒く焦げ、円い穴が開き、しまいには木っ端微塵に吹き飛びそうだ。脳が破裂する。

 言葉を補給せねば。ショーゾーガヲモヤス、ヒトニギリノハイモ、カゼニノッテ、ウンサンムショーサセルホド、ヤカナケレバナラナイ。

 応答不能、応答不能、只今鋭意選別中。対向車線のブルーバードの運転手が、早くしろといっている。奥歯をガタガタ鳴らせ、小刻みに顎を震動させる。目も血走ってきた。死期が近い。ヘリコプターから追われている。奴の仲間が手配したのだ。肖像画が焼かれ闇に葬られるまえに奪取するつもりなのだ。特殊部隊がロープをつたって、車上に舞い降り、屋根にへばりついて、ハンマーで窓を割り、兄の手から奪い去る計画か。

 車外に捨てても、ビリビリに破いてもダメだ。やっぱり燃やさないといけないんだよ! ラジオでも大大的に報じている。みな俺を応援している。急遽、スタジオに集められた芸能関係者たちが、特別編成で生番組を流しているのだ。みなしごのタレントが、俺を遠隔操作で動かしている。コントローラーのめりこんだBボタンをさらに押して、ヘリコプターの追跡を逃れるため、スピードを上げさせ、ついで十字ボタンで路地へと運ぶ。空撮しているテレビ局のヘリも追尾してくる。

 だが、ここにきてもうすぐガス欠だ。股間に唾液が幾筋も垂れて染みになっている。まだ垂れ続けている。ライトと兄は、沈黙をもう守っておらず、しかし相も変わらず洟をすすってはいるが、小声でなにか言葉を交わしている。よく聞きとれない。ヘリコプターの爆音とラジオから流れる、バカ騒ぎのせいで、なにを語りあっているか判らないのだ。本人たちも果たして理解して会話を進めているのかどうかも疑わしいほどなのだが、とにかく確かに、か細い、ひそひそ話が、騒音のなか、わずかにボディランゲージを含め、感じられる。

 ラジオからドッと歓声が湧いた。意味は判らない。なにが起きているか、つかみかねる。続いて怒声やバカ笑いが加わる。かなりメディアも混乱しているようだ。俺はガソリンスタンドを探すため、大通りに出ようとしている。車を捨てることも頭をよぎったが、とりやめた。スタンドで給油している最中に、ヘリから攻撃を受けるかもしれない。スタンドよりさきに、コンビニでライターを買うほうが得策に思えてきた。どちらにしろ、とにかく目抜き通りに出なくてはいけないというわけだ。

 しかし俺は受信者だ。発信側の指示がなければ、どうすることもできない。とても歯がゆい。みなしごのタレントは、サッカー番組のアシスタントの女性と大いに盛り上がっており、こちらの判断をなにも汲み取ってはくれていない。もどかしいことだが、俺にはなにもできず、ただ狭く入り組んだ一方通行の路地をくねくね蛇行運転するだけ。しまいにガス欠という万事休する未来が待っている。

 いつタレントの管理下に治まってしまったのか。自問自答してみてもなんの光明も差してはこない。ヘリのバタバタする旋回音はいまだに耳をつんざく。ピーピー鳴る給油アラームもうるさいだけだ。

 とにかく、俺はもういい加減、万年受信者をそうそうに辞めて、一刻も早く送信者側に着くことを強く念じる。と、回線が切れた。ラジオが止まり、ライトが洟をかむ音が聞こえた。

 兄が見るに見かねて、かいがいしくライトへ常備しているティッシュを分け与えたらしい。あのヘリは米軍かもしれない。俺はパワーウィンドウを開け、上空をうかがう。ヘリは遠のいている。助かった。うまく撒くことができたというより、テレビクルーの存在を知って離れていったに違いない。ヘリは一機しか確認しなかったが間違いなかろう。

 ではガソリンスタンドに寄って、コンビニでアレを燃やそう。調子が上向いてきた。善は急げだ。まっくらな民家に取り囲まれている路地より、ハンドルをキュッキュッと遊ばせて大通りに出る。あぶなかったね、とライトが前を向いた姿勢のまま、妙に老け込んだような喀痰がからんだ、いがらっぽい声でいった。洟が垂れる寸前だった。それに反応するものはいない。ルームミラーでリアシートを見やると、兄は古ぼけたスケッチブックを横にのけていた。そうか、焼かなくても、消しゴムをかければいいんだ。ちょっと、お兄さん、絵を消すの持ってる? 俺は渇き切った口臭もあるだろう口でいった。

 ひとっこひとりいない暗闇に閉ざされた集落の次に、ヘッドライトによって照らされているのは、横断歩道を渡るひとたちだ。ライトは漠然と歩行者を見ている。兄はゴソゴソと手提げ袋をあさりだし、ありますよ、といってくれた。これで安心だ。信号が青に変わり、アクセルを踏みしめて、腹に力を思いっきり入れて、消せ! 早く消すんだ! と口角泡飛ばして命令した。

 初め、兄は困惑を隠しきれず、俺の真意を汲み取れないでいた。頬を緊張させ、二の句を継げずにいる。マルクスを消せ、といっているんだ、早くしろ! と怒鳴った。マルクス? あのカール・マルクスのこと? 違う! じゃあ、グルーチョ・マルクスのことだ、違うったら違うんだ、マルクスだよ、マルクス教授のこと! 呆けたような顔と目が合った。前方不注意である。マルクス教授って、あのN大のですか? そうあの情報文化学部の教授だよ! ライトが話に割り込んできて、事情が段段に解き明かされてきたようで、兄はゴクリと唾を飲み、で、そのマルクス教授がどうしたんです? とやっぱりまだ全体の輪郭がぼやけたままであることが露呈してしまったのだが、俺はめげずに、さっき書いた絵を消せ! といっているのだと、あたかも決め台詞を吐く意気で激しくいい渡した。

 そんな押し問答をしている間に、ガソリンスタンドを発見した。とりあえず、あそこで気を休めたのち、消去を自ら実行しよう。年中無休24時間営業のそのスタンドの給油スペースに車を横づけると、誘導をしてくれた店員が、にこやかに顔を近づけ、注文を受け、もうひとりの男性が、フロントガラスや窓を手早くふき始める。

 俺はシートベルトを外し、身体をよじって、腕を最大に伸ばし兄の腰元に立てかけてあるスケッチブックをぶん獲り、消しゴムどこ! とキレ気味に相手をにらんですごんでいって、か弱い乙女から大切な小物を奪うような勢いで、手の内よりそれをかっさらった。

 レギュラー満タンの支払いを済ませ、車をサービスルームの駐車場所に移し、よだれで濡れた股間に置かれたスケッチブックと消しゴムを手に、やおらどっこいしょとばかりに車外へ出る。

 おまえたちも降りろ! ジュースおごっちゃる。兄弟は不審な表情を浮かべて、のそのそとサービスルームへと向かい、俺はキーを閉め彼らに続いた。うしゃしゃしゃしゃ、これでことなきを得る。そうしたなか、スタンドに充満する石油の臭いと有線放送の軽快なポップスに頭をクラクラさせ、いや、待てよ、もう奴らに奪われる不安は消えたのだから、稀少な資料として保存しとくか、といった考えがもたげてきた。

 簡素な椅子と机、並びに二台の自動販売機が設置された小部屋で、もう腰かけて駄弁を弄している兄弟。机に持っているものをすべて投げ出し、上着のポケットから財布を取った。

 俺は、小銭をみつくろって、紙コップ式の自販機の前に立ち、あんたら、なにがいいの? と二人に訊ねた。兄弟はそろそろと椅子から離れると、ライトはレモネード、兄はスポーツドリンクを所望した。俺は腹がシクシクするのでやめておこう。

 三人とも席に着くと、スタンドの店員が目深にかぶった帽子の奥に、鋭い眼光を宿しているのが見てとれた。ははあーん、あいつ奴らとグルだな。おい、と俺は二人に対し注意をうながし、きつく相手をにらみすえる。短い四肢をバタバタさせて、立ち上がると、もう車に乗れ乗れ、とだけ吐き捨てて、スケッチブックと消しゴムをガッとつかむと、猛然と停車しているマイカーへと向かった。

 肖像画を守らねば。俺たちの財産を。いつもはのろまな兄弟も今度ばかりは俺の指示に敏速に対応してくれていた。火の出るようなスピードでエンジンをかけ、ガソリンスタンドをあとにした。

 赤信号までかっ飛ばして、一息つくと、兄の私物をすべてリアシートにうっちゃって、ちゃんと持ってろ! と吠える。そうしたら兄は、消すんですか? と優等生発言。タコ! 予定変更だよ! 大事に抱えてろ! と畳みかけるように連射してやった。

 ぐうの音も出ない兄は、すっかりしょげかえり、この理不尽極まる俺の蛮行に文句もいえず押し黙るしかなかった。

 あやうく手にしている紙コップを傾げ、飲み物がこぼれおちそうになったが、なんとかスケッチブックが濡れるような惨事とはいかなかった。

 俺は少少、乱暴すぎたと反省する。筆圧が過度にかかって、裏写りしている上に重ね書きしている。その酷使に我慢していられず紙が破れそうだ。しかし相構わず、横書きを鉛筆で続行する。芯がちびてきている。運よく鉛筆削りは持参していた。削り滓が散らばらない箱型のだ。

 隣では、よだれの水たまりを作っている馬鹿がひとしきり寝入っている。さすがに鼾まではかかず小さな寝息を立てているまでだ。きのうは俺の家の応接間で眠っていたが、あまり熟睡できなかったのか。馬鹿が握ったままのペンライトの淡いいびつな円から角張って次第に消えてゆく光線のもと、鉛筆を走らせる。

 もうすぐシフトチェンジだ。油まみれの手袋を外し、ズボンのヒップポケットにしまう。目を輝かす。俺は一冊の青いノートが落ちているのを発見した。裏向きにしてあった。おずおずと拾い上げてみる。めくってみるとびっしりと鳥の跡が記されていた。ボールペンや鉛筆で書かれている箇所があって、よく調べてみると、途中で筆跡が変わっている。何気なくノートを閉じ、改めて表紙をまじまじと観察すると、“映研ノート あなたの書く物語、書いたら次のひとに渡しましょう”とある。

 ガルシア君、急に名前で強く呼ばれ我に返った。先輩から、もう上がっていいよ、といわれた。勤労のため痛む節節をいたわりながら、ロッカールームへと入った。ここまで読んでみて、嘆息を吐く。もう時計の針は天辺を回った。手元を照らせていたペンライトを消した。隣ではカレンが安らかに寝息を立てている。朝になったら、このノートのことを話そう。暗闇のなか、薄ぼんやりと仰向けになって、天井の照明を見た。徐徐に像が合わさっていく。温かい放屁を垂れた。俺はこのあと、カレンに付き添われ映研に入部した。

 

 

       

 

 電気が点き、憔悴し切った私は、ぼんやりと教室を見回した。腰を無理にでも動かして、カレンを捜してみたが、眼球にはこちらに無関心な人人のガラス球みたいな目しか感じられない。そのなかに森副部長も含まれていた。彼はそそくさと撤収作業に従事していたが、なにげなく視線を上げた拍子に私と目が合ったのだ。彼は薄気味悪い笑いを口元に湛えてまた下を向いた。

 姿勢を正し、真正面を向いて、鳥田の背中を見た。司会進行は花藤に任せ、せっせと感想用紙に取り組んでいるようだ。背骨がゆるやかに曲がり、不自然に後ろ髪がはねていた。

 なんだか、居ても立っても居られなくなった。カレンの姿がない、というのもあるが、第一義に、このノートの存在が気にかかる。びっしりと文字がひしめきあって異様なほどの迫力というか、圧倒的な狂気が感じられる。

 これはまずいな、燃やそう。そう決意すると腹の底から元気が湧いてきた。いいぞ、いいぞ、あの中庭で燃やすか。算段しながら席を立ち、部室にいけばライターかマッチがあるだろう、と思案し、バッグを肩にかけ、教室を飛び出す。

 プロジェクターには、次の番の兄がいて、準備を進めていた。その手元には小振りのノートが開かれており、以上のような文章が綴られている。兄は鼻から空気を深く吸い込み、静かに息を吐き出した。

 暗幕を潜り、少し傾きかけた陽光差す廊下にカレンを捜すもやはり姿はない。仕方なく受付にいる仁に訊ねてみても快い返答は得られなかった。鼻息を荒くして、歩幅大きく突き当たりを階段まで進み、少し女子トイレをうかがったのち、男子トイレの鏡で身だしなみを整え、全力で一階へ駆け降りる。

 あとは野となれ山となればかりに、ノートを抱え込んだまま、部室へ急いだ。ゴミ捨て場を横切り、玉砂利の途を突っ切って二階建てのサークル棟にある映研の部室の固く閉ざされた扉の前まできた。鍵は各自一つずつ所有している。ノートを脇に挟み、ドイツ製の財布の小銭入れに、ぎゅうぎゅうの硬貨と一緒になって、押しやられている部室の鍵を指先でつまみ上げ、急いで鍵穴を回転させる。心ここにあらずの心境で火の元を探す。

 土足で手に届く範囲にはないので、面倒臭いが靴を脱ぎ、畳に足をつけ、手当たり次第に中腰の姿勢で、部室中を動き回った。知らないうちにラジカセが置かれていた。

 と、ここまで編集を終えた黒野が、休憩のため、がぶ飲みミルクコーヒーを飲み干す丁度そのときに、扉が開かれた。男はひどく狼狽した表情で、左手にノートを持ち、黒野に語りかけた。もう時間ですよ、限界です。いま兄の上映が始まりました。次ですよ、黒野さんの出番は。その様子じゃあ、まだ完成していないようですね、どこまでいきました。もう最後のほうですか。

 黒野は胡乱なこの男を一瞥すると、なにいってるの、上映は明日でしょ。僕は今日徹夜で仕上げるから、いい加減な冗談をいって邪魔してないで、とっととコーヒー買ってきやがれ! とどなった。途中で割り込みたかったが、呆然と聞き入ってしまって、まったくの無駄だったと両者ともに思っている。

 ゲンゴの車で帰るんじゃなかったの? 渋渋と口を開くのも阿呆臭いと感じながら、黒野は、重たい疲労感たっぷりの停滞ムードのなか、二の句を継いでみた。

 双子はどこです? またもや頓珍漢な言葉を最早、互いに不審人物と化した男同士の関係性に漂わせて、メタリックな扉を背にして立っているものが喋る。ここで私がすぐ飛んでいって仲裁役を買って出たい。二人のすれ違いを正して、本来の睦まじい間柄に取りなすには私が番めにならないといけない。狭苦しく空気の澱んだ埃っぽい部屋が、さらに二人の切断を助長しているかのようだ。黒野のほうは、もう相手にすることをやめ、男に背を向け、編集作業を再開させている。無視されたほうは、おもしろくなく小声でボソボソ前にいった台詞を繰り返して、靴を脱ぎカマチに上がる。

 しかし、いまの私には反目する二人に対し、やれることはなにもない。ただここで見守っているしかない。カラフルな毛布やコタツ布団を眺めながら静かに男は立ち尽くしていた。いったい自分が誰で、どこからきたのか、そして、いまなにしに息せき切って、部室にやってきたのか、それまでも失念している。俺は、なぜ双子を探そうとしているんだ? これさえも発しえない。

 かわいそうに。彼にとって双子は、今後の人生にとって必要不可欠の要素を十二分に備えている、大切なものであるのに、なんの記憶も捨ててしまって、いまでは味方は誰一人として近くにいない状況なのだ。不憫でならない。率直に読者諸君に申せば、彼は双子の親なのである。そのことに彼が気づくことは、未来永劫、もう一度もない、失われた感情なのである。

 首が締まるかのような虚無感を、逆方向の憤激でもってやり過ごそうと俺は、黒野の背中を見ることもなく踵を返し、靴を履いて、部室から勢いよく飛び出した。ライターもマッチもなかった。砂利道を踏み鳴らして靴裏に響く歩く刺激によって徐徐に冷静さを取り戻した俺は、自分がノートを燃やすには、どうすれば最も手っ取り早いか考えた。ならグラウンド近くに焼却炉があったはずだ、とまず初めにこの選択肢に頭が及ばなかった己に腹を立てつつ、より大股になって北東に進路を取った。

 後夜祭や、部員たちと季節外れの花火をしたり、サークル対抗戦の野球の練習をしたりした図書館脇のグラウンドを尻目に直進し、東に折れ、目的地の焼却炉から煙が立ち昇っているのを確認し、自然とピッチが速まった。さきほどより陽はどんどん傾き、影が伸びている。焼却炉のまえにひょろ長いひとが立っており、火かき棒を持って、炉内を、首を曲げて覗き込んでいた。ジャージー姿で、俺の目には学生のように映った。

 そばまで寄ると、すっとんきょうな声で、すいません、これ焼いてもらえますか、とノートを差し出し訴えた。男は聞こえないはずはないのに、俺を無視するかの如く、火かき棒を操って炉のなかのゴミをかき混ぜようとする。俺は彼の肩口に顔を近づけ、燃え盛る内部を盗み見るようにうかがう。手前に置かれていたスケッチブックを奥のより炎が激しい箇所までモップがけでもするみたいに押し込もうとしているようだ。あれはもしや例の肖像画のスケッチブックじゃあないのか?

 そんなふうに見惚れていると強い打撃が頭部を襲った。なにがなんだか判らぬうちにへなへなと倒れていく最中に、火かき棒が引き出された流れに沿ってそれが振り上げられ、バットスウィングのように水平に力強く横振りされたことを確認する。頭部の激痛と精神が麻痺していく原因が夕陽に照らし出され、分厚い口唇がカサカサに乾いている自分そっくりの男によるものだという想念とともに、さよならマルクス教授なる捨て台詞も消えてゆくばかりだった。うしろの木陰にカレンがいたなんて知る由もない。そして、ガルシア君! と叫ぶなんて聞こえはしないのだ。さらに彼女が双子を宿しているとは、想像もしていない事実なのであった。

ガルシアは、ライトが倒れたショックで手離したノートをしゃがんで掴み、バッグからペットボトルが飛び出しているのを見た。ちょうど喉が渇いていたんだよ。ガルシアは誰にいうでもなくそう小声で口にして、いまから俺がライトになるんだから、失敬してもいいよな、とだんだん近寄ってくるカレンの靴音を聞きながら、ペットボトルに手を伸ばした。これで、三角関係は終わりだ。あとは俺に任せて、おまえはガソリンスタンドで働いていろ! 俺は目のまえまで近づいたカレンと逆光の黄昏のなか見つめ合い、お茶を飲み干した。

ノートの続きは、もう記されていない。

 

 以上が、一九九五年三月四日土曜日に、N大学で催された、「大ビデオ上映会」で流された黒野顕昭の代表作「3月4日公開作品」のだいたいの内容である。監督始め、小生、大葉禮人、大葉義一郎、恋田火漣、森副拓也、速木源吾、そしてガルシア・マルクスらといった主要人物とマルクス教授との闘いは、まだ決着していない。筆記係に任命された小生の、悠悠自適な平和で穏やかな時間も終わりを告げようとしており、危機はいますぐそこにもきている。どうか皆がみな無事であることを祈るばかりだ。では、これでひとまず筆を擱くとする。

院長先生殿                                

鳥田愛拝 

 

 

       5

 

 網の包帯で頭部の裂傷をいたわるガーゼを守り、虚ろ顔のライトは、校内の中庭に繁茂する雑草に周りを囲われ、古びた雨ざらしのソファに快晴の今日腰かけていた。今日といっても、マルクス教授顕現後のいま、確かな日付はもはや存在しない。麻のジャケットのポケットに収まった懐中時計を取り出し、しげしげと刻む時を見た。

 陽射しが、だんだん強くなってきたし、学園祭を催しているんだから、六月某日になるのかな。ライトは懐中時計を握り締めたまま、大きく伸びをする。カレンは、語学留学のため、ロンドンへと飛び立っていた。これもマルクス教授の力の及ぶところだろう。

 カレンが発つまえに撮った映画は、全編にオーティス・レディングの曲をあしらった、恋愛ものだった。ライトは負傷した痛痛しい姿で出演し、ここから通路を隔てた共通教育棟の教室で上映中だ。

 ロンドン付けの招待状が、仁のもとに届き主人公である彼と、ライトの間で揺れる女心を後輩の看護学生が演じる。かくして純情な乙女は、頭部に包帯を巻いたライトを振り、仁と一緒にロンドンへと旅立つ。招待状がどんな内容であるかは、まったく触れられず、どこか寓意的な物語なのである。ライトは、まるでゾンビのようで大変気持ち悪く、演技も異常な身体の動きや、変顔のオンパレードという有様だ。だから、こうして逃げてきたわけだ。

 白昼の怠けものたるライトは、本大学に在籍しているのではなく、月曜午後五時の映研の部会に顔を出し、小売業のレジ打ちと袋詰めのアルバイトは去年の暮れに辞め、普段は通信制高校生として火曜日に実家のある街の南東に位置する電車で一時間はかかる学校に通い、あとは、昼過ぎまで寝て、起きても特にすることはない生活を送っている。

 怪奇映画だよな、ほとんど、とライトが私に語りかけた。私は、赤が剥げ落ち、中身のクッションが飛び出したソファに浅く座り、黙黙と筆記している最中だ。黒野が森副より部長の職を受け継ぎ、ただでさえ危険水域にいた真平は、決選投票で敗北して、完全に姿を消し、速木も事実上退部し、風通しがよくなったかに思いきや、森副が影で支配力を強め、あれだけ自由だった機関誌も上映会も検閲が執り行われる始末となってしまっていた。残念なことだ。革命戦士のサークル内消滅は、マルクス教授と森副の手によって完遂されたことは、黒野新部長の予言としてこのノートにもすでに記されている通りだ。否、森副の関与は、彼の権力に迎合して露見していなく、ここで初めて私が指弾するものであった。いまでは黒野新部長も森副邸で犯した事件について弱味をつかまれ、唯唯諾諾につき従っているのである。許すまじ事態だ。

 懐柔された黒野新部長は今回新作を出品せず、森副が彼にカメラを任せた大作を発表する算段である。ライトの声かけで企画されたオムニバス映画のあとに上映の運びとなっている。ライトは、これを潰そうと考えていた。

 奇しくもオムニバスのテーマは、予言だった。森副とマルクス教授のマイナスの力に屈服する現状を、なんとしてでも隠喩的に脱却せねばならない意志で作品内に埋め込んだつもりだ。偽予言者にでもなんにでもなってやろう、ライトは本気でそんな覚悟をしている。いまが世紀末のハイライトなんだ、いまやらなきゃ、いつやるってんだ、馬鹿馬鹿しい。俺はやるよ、運のいいことに支えてくれる仲間もいることだしな。

 まずは、速木が家庭教師をしていた教え子のマエダ、次にシネ通のタニ、続いて亀嶋の高校時代の同級生マエバ、最後はパンク野郎ツヅキの少数精鋭部隊の四名だ。

 彼ら、彼女の力添えがあれば、まずは手始めのツリカン、タテカン撤去作戦は、なんなく遂行可能だろう。これでタイムテーブルのゴールデンタイムである午後三時上映の森副の映画は、新規宣伝が冷え、知り合いの来客どもが路頭に迷い、集客がガクンと落ちるはずに違いあるまい。

 まだ決行には少し余裕がある。予言オムニバス映画先頭のライトの作品終了後、残り作品上映時間と休憩時間内に、すべて行動をつつがなく執り行わなければならない。我ながら完璧な計画だ。愉悦に浸っているとセイタカアワダチソウが茂る先の窓を開けるものがいた。ゴワゴワの髪、銀色フレームの眼鏡、剃り残しの口髭、斜視の際立った顔つきの三井だ。

映画終わるぞー。次の上映準備そろそろ始めろってさー。

 承知。ライトは手早く懐中時計をジャケットのポケットに忍ばせるやいなや勢いつけて、オンボロのソファから立ち上がった。私もあとに従う。中庭を足早に横切り、通行人でごった返す廊下に合流し、角を曲がってすぐの上映会場に戻った。道すがら壁面に貼られた勧誘チラシが目に痛かった。初夏の風が舞い、チラシをヒラヒラとはためかせる。太陽は中天を過ぎ、少少傾いた光をN大に注ぎ込んでいた。さあ、ここからが祭りの本番だ。みんな、ついてこい!

 あまりの自信過剰で、物事を見る目が閉されている。続けざまに、この世はすべて虚構なんだから、なにやってもいいんだ、とか、速木の口癖の「なんでもあり」を繰り言のように喋り散らして、リールを8㎜映写機にセットするライトの言動を隣で聞いているとそんな気分になってくる。さあ、寄ってらっしゃい観てらっしゃい、お立会い、お立会いだよ、ささ、始まり、始まり、ときたもんだ。声は、次第に小さくなっていくのをみると、まだ最低限の自制心は働いているみたいだ。

 十五分ほどの尺の映画は準備万端整い、ライトは、スクリーン横のアナログ時計を見やり、しばし放心したのち、口を真一文字にし、顎に梅干しをつくると、司会者が現われて手短にタイトル、監督名、タイムを告げて立ち去るのを見送り、ゆっくりと右手を上げた。それを合図に照明係が従順に明りを落とす。さて映画はリーダーの黒味を映していたかと思ったら、画像は二階建てになるわ、流れるわで、どうにもこうにもスムーズに映写できないまま、混乱のうちに闇は解かれ、大失敗が点灯した光によって文字通り白日のもとに晒される痛ましい結果となった。

 マルクス教授の御力也。ライトは血相を変えており、司会者が映写機を覗き込んで当惑したライトを心配し近寄ってきた。駄目だ、フィルムがからまってグチャグチャになってる。それは僕がなんとかしとくから、ライトは、お客さんに中断の説明して、と機材に慣れている司会者はいった。ライトは、任せます、と長机と長椅子のあいだを蟹歩きして持ち場を離れ、教壇まえにすくっと立ち、正面を向いた。

 監督の大葉です。映写トラブルでただいま復旧作業中です。もうしばらくお待ちください。緊張して語尾の震える声音でいい終わり、虚空より亀嶋のほうへ視線をあわせると、彼は両手で頭のうえにバツ印を形成していた。ライトは深く嘆息を吐くと、目を潤ませて、誠に残念ですが、本作は上映を取りやめます。またの機会があれば是非ごらんいただきたい所存です。では休憩を挟んで、次作のプログラムに移りたいと思います、といった。

 明らかに気落ちしているライトに鳥田が寄りそった。沈んだ顔を笑ってみせ、彼と視線をあわす。亀嶋の隣には次の上映者荏原がいた。荏原は深刻な態度とは正反対の快活な表情で、映写機に絡まったフィルムを巻き戻そうとしている亀嶋になにごとか語りかけている。サブの映写機、部室に取りにいってくるよ、と事態を察した仁が、傾斜になっている講義室の上方から急ぎ足で近寄り、亀嶋たちの反応を待たずして、さっと向きを変えて教室を猛スピードで駆け出していった。

 亀嶋の黒い洗いざらしのTシャツの両袖を抜けた剥き出しの長いほっそりとした両腕には、薄らと柔らかい毛がステップ地方の草原の如く生えていた。暗幕を張った室内は、無風状態で外気が舞いこむことはない。なので、彼のフェロモンを周囲の女衆に広範囲に渡って撒き散らしはしなかった。でも一心不乱に作業に打ち込む姿勢は、少なからず風を起こした。それは性差を越えて彼を応援する力になった。この難局をどうにか突破してほしい切なる願いが突発的で無軌道な性欲のように、終着点を目指して我らに勃興したのだ。

 あかんわ、尾張生まれ七宝町育ちの亀嶋は縁もゆかりもない大阪弁を弄し、現状のどんづまりぶりを表現する。ハサミで切るしかないな、続けて最終手段を口にした。残酷無比な代執行の許可を監督は承認した。俺、取ってくるよ、ライトは電気係よろしくな、と鳥田が素直ないい子を演じ、いった。ライトは砂埃を上げんばかりのスタートダッシュで講義室を出てく鳥田を必死で止めようとするも潔く判断が定まらずに躊躇した時間が命取りになった。俺の美的計画が。ライトはもろくもひび割れ崩れゆくおのが定理に心を狭くして病的に痛くなり苦しかった。

 風は己で起こせるぞ、内心、声を嗄らすように雄叫びを上げる。時間は刻一刻と過ぎてゆく。荏原はキョロキョロしながら落ち着きなく、スプライサーじゃ無理かな、カッターはどうだ、スプライシングテープを剥がすとかは、と無責任な思いつきをジャブでも打つみたいに楽しもうとしていた。亀嶋は、角度がこれじゃあねと律儀に返答している有様だ。くだらん。

 荏原作品上映中を、電気係としての役割に甘んじるのは甚だ遺憾だ。なにがなんでも誰かと交代しなければなるまい。そうしないと同志たちの決行に参画できない。俺の持ち場に穴を開けてしかるものか。と、亀嶋が後頭部に手を組んで、ライト、休憩時間延長するってみんなに知らせて、といった。即座に荏原が、いけない、いけない、表のタイムテーブル修正してこないと、ライトさんの十五分ですよね、いま十分経過だから休憩も入れて、五分ですか! 十分ですか! と問う。

 二人がごちゃごちゃいい合いをしているのを横目に、私は沈思黙考する。これだけ余裕ができれば安心だ。そもそも鳥田がハサミを持ってくるか、仁がサブ映写機を持ってこないことには、上映再開は、ままならない。そうするとライトが代わりの電気係を務める話も鳥田か仁がいれば、わやになる。なんだ鳥田の奴、馬鹿なこと抜かしやがって、けたくそわりー。ライト! 亀嶋が大声で呼びかけた。延長なしだよ。タイムテーブルにも変更なし! なぜなら、息せき切って仁が小振りの映写機を担ぎこんできたので。ライトは壇上につき、お客には亀嶋発言が響き渡っていたけど、繰り返しアナウンスした。じき、鳥田もくるだろう、ふふふ。さすれば我は自由の身、野に放たれて悪行の数底しれぬ黒野新部長、森副、マルクス教授の支配システムに対し、怒りの鉄槌を食らわしてやろうじゃあありませんか。諸賢読者よろしゅうに。まるで上の空で恍惚の表情を浮かべ上映時間の注意を促し終えたライトは、鳥田が着席していた長椅子に腰かけると、彼を待つため、腰を曲げて出入口を監視し始めた。

 さてと。うーむ。えーと。あれれ。おかしいなあ。仁が用意した映写機には、もう荏原のリールは取りつけられ、すぐ横で亀嶋が絡まったフィルムとの格闘をやめ、故障した映写機の電源コードを抜いて丸めている。鳥田が遅いぞ! ライトは立ち上がると、微笑んで荏原の様子を見守っている仁に向かって、口角泡を飛ばして、鳥田とすれ違っていないか訊いてみた。仁は即座に応答し、ハサミは受付に置いてある旨を明かした。鳥田のダッシュは無駄骨だったのだ! さあどうしたことか、鳥田はいったいどこへいってしまったのだろう。

 ライトは、そのまま司会? 俺が鳥田に代わって電気やろうか。こちらの懸案をやすやすと見抜いたようにエリートの卵らしく次のシフトを誰彼に指図されたわけでもないのに俺のそばまできて仁はいった。こいつ来季の部長候補だな、そして彼の後釜はさしずめ同じM高出身の荏原でどうか。司会は亀嶋くんに再登板してもらいたいよ、俺はこれから兄弟二人でいく用事があるんでね。とかなんとか嘘ではないが過激工作をすることなぞおくびにも出さぬようなものいいをした。

 それを聞いた亀嶋が、フィルムどうするの、またつなぎ直して再上映しないのかい、どうやらテープの貼りかたが雑で絡まったみたいなんだよね。はあ、もう諦めるよ、フィルムの詰まりは申し訳ないが亀嶋くんに任せてもいいかね、司会も頼むね。えっ! 二役も無理だよ、映写機はいまから外で速く直したいしね、今日使わないにしても、ほっとくわけにはいかない。誰か代わりを連れておいでよ、一年は駄目だよ。鳥田の奴、ほんとなにやってるんだ、俺をはめやがって、クソ!

 席に着いた仁を確認し、ぶつぶつ文句を小声でもらして、私だけに聞こえるように同意を求めた。もしかしたら、これは鳥田の策略なのではないかと疑いたくなる展開にやっと気づいた。俺を司会役に縛りつけ、身動きを取れなくさし、ちりぢりに散った四人の革命戦士を食い止めるための第一段階として司令塔の俺をはめたわけだ。間違いない、そうに違いない。なんなんだ、許せない、あいつ縛り上げて、逆さ吊りにして鞭打ち千回でなぶり殺しにしろ!

 憤懣やるかたない怒りを抱え、暗幕をよけて廊下に出ると、受付に三井がいた。へ、上映中止みたいだな、こりゃあ傑作だ! 眼鏡の奥の斜視で充血した瞳をしばたたかせ、彼はいい放ち、馬鹿じゃあないの、学習能力がなさすぎるだろ! タコ! ライトは激昂する三井に気圧され、なにもいい返せられない。いったいどうしたっていうんだ。

 上映中止は初めてだろ、いい加減なこと抜かすな、そっちこそタコだ! 大馬鹿ものはおまえのほうだ、このトンチキ! 俺はこういう望遠鏡で、なんでも見渡せるんだぞ、地球を宇宙から衛星カメラで覗くより、もっともっとすごいもんなんだぜ。観世音菩薩並みにな。はあ? おまえ自分でなにいってんのか判っていってんのか、ド阿呆、そんなおもちゃみてーなもんでなにが見えるっていうんだい、ただ視界が狭まるだけじゃあねーのか、クズ!

 判ってねーのは貴様のほうだ、トンマ! かのマルクス教授より授かった代物だぜ、これは、ははは。俺は口ごもった。こいつ完全にマルクス教授の操り人形になっている。みんなが危ない! 俺は咄嗟に廊下を北に走りだした。司会は仁が電気と兼任でもすればことたりるだろうよ、へ、あばよ! ボンクラどもめ! ライトは、構内を突っ切って学舎を見回せる広場で足を止めて、私が着いてきているかを確認した。

 周囲は群衆で溢れ返っている。なじみの顔はどこにもなかった。私は弟とはぐれてしまった。三井がいやらしく隣で笑っているのに気づいた。毛むくじゃらの袖を捲った両腕にしっかと抱きかかえられている望遠鏡。知らぬうちに彼の舌が触手のように伸びて私の身体の自由を奪うかの如きに不快極まる感覚が全身を走り、ペンとノートを絡め取られてしまう。彼は器用にも舌先でペンを握り、スラスラと以上の文言をノートに書き記した。

 

 

       

 

 どれぐらいのときが流れただろう。甘い匂いで脳が呆けてゆく。時間が際限なく引き伸ばされているかのようだ。私は長い眠りに就こうとしていた。どうにかして睡魔に抵抗を試みるが、まったく無駄であることが判った。なんの迷いも消えてなくなるまで時間の問題だ。三井のペンが立てる音を静聴する。まるで揺り籠のなかでスヤスヤ眠っていた赤ちゃんだったころみたいに満ち足りた意識が、当時の自覚反応を記憶しているはずもないのに、だぶって認められた。

 もちろん、立っているわけにもいかず、へなへなとその場にへたり込んでしまい、うつらうつらと意識が遠のいていく。そして幻聴のような浅い眠りのようなまともな判別がつかない状態で、地の底からか細い声が次第に大きく野太い地鳴りに似て突き上げる言霊となって閉じつつあった聴覚を襲うのだった。お兄さん、お兄さん! 肩を揺さぶられ、はたと目をしっかりと開いた。鳥田くん! 心配そうに膝まずいて後ろから私を抱き抱えている鳥田がいた。

 いやはや、いったいどうしたんだろう。目を見合わせて二人は、笑顔で短い言葉をいくつか交わし立ち上がった。お兄さん、こんなところで倒れて大丈夫ですか? びっくりしましたよ、と鳥田は床に放ってあったハサミを取り戻し、チョキチョキ動かしていった。ああ、自分でもどうしたんだか判らないんだ、あれノートは? 辺りを捜すもどこにもなかった。ノートですか、あれなら三井が持ってきましたね。なに、三井くん! どうして三井くんが持っていくんだよ! あれは、私のプライベートブックだよ、いーや、あれはサークルみんなの公共財です、え、なにいってるの、おや、ハサミの刃が滴っているようだけど、なんか切ったの? 血ですよ、三井の、は! 三井くんのなにを切ったらこんな血が! 舌ですね、ぎょ! やばいよ、やばすぎる、あんた狂ってる! 冗談でしょ、本気と捉えてもらってなんの差支えもございません、げげ、私の舌も切断する気なのかい! お望みとあらば。

 脱兎の如く、私は逃げ出した。まずは追ってくる鳥田をどう撒くかが喫緊の問題だ。そして、三井の手中に落ちたノートを私が倒れたとしても、いかに奪回するのかも命と引き換えにするくらい大事な事項である。とにかく継承するまで生き延びなければならない。私はがむしゃらに走っているうちに、ここがN大のキャンパスではないことに思いいたった。いつのまにか異世界に迷い込んでしまったらしい。弟の所在も不明なままだ。うしろに、鳥田の気配がしなくなった。振り向いて念のため確認するが、やはり彼はいなかった。どうやら諦めたらしい。

 目のまえの場所は、全体的に靄がかかり、赤茶けた色調をなしている。地面はゴツゴツした岩の塊が散見し、足場の状態はひどく悪く、もしかしたら鳥田は追いかけている途中でけつまずいて遅れをとったのかもしれない。周囲をキョロキョロと眺めて近場の岩石に隠れて様子を見るのと休息するのでジッとしていると、どこからかシチューのいい匂いがしてきた。

 鳥田が、ハサミで三井の舌をちょん切った。三井はマルクス教授に洗脳されているはずで、鳥田も魔の手に落ちたものだと推測していたが、どうやら二人は敵対関係にあるみたいだ。いったいなぜ? あの望遠鏡がなにか争いの要因になっているのではないだろうか。しっかし、いい匂いだな、どこで煮ているんだ。私は好奇心が抑えられずに、中腰の姿勢で近辺を探索し始める。どうやら、靄のさきに見え隠れするボロ小屋が怪しいと踏んだ。

 甘い香りに誘われて、フラフラと前後不覚に陥り、小屋の窓にへばりつくように身を寄せた。なんて魅力的な馨香なのだろう。小腹も減ってきたし、是非食事にありつきたいもんだ、となかを覗くが、カーテンで閉ざされた視界を外に捨て、木扉を大胆にもノックしてみた。反応なし。もういてもたってもいられずに、私はノブに手をかけ、左に回した。扉はあっけなく開き、まっくらな屋内に薄曇りの光が当てられる。

 前方に玉すだれが淡く輝き、左右にも扉があった。靄に包まれたこの建物の外観は、玄関と窓が部分的に視野に映っていただけだったために、私はてっきり掘っ立て小屋がなにかだと認識にていたのが誤りで、造りは簡素だが、大きな一戸建てなのかと得心する。しかしさっきから大声を上げて、呼びかけるも閑古鳥が鳴くだけである。でも倉庫なんかではなく、たたきがあり、靴は脱がなければならないようで、私は無断で侵入しており、さらに土足で家に入ろうものなら、ますます傍若無人な輩と、家主にこっぴどく叱られるのを怖れ、常識の通じない世界にいることは重重承知だが、非礼をこれ以上重ねず最低限のマナーを守った。私はもちろん泥棒でも、まかりまちがっても襲撃する兵士や暴徒でもないのだ。

 屋内は暗いため、外光を導き入れなければ危険なので、玄関を開けっぱなしのまま、照明やスリッパなんという文化的な代物は、備わっているわけはないだろうと、さして探しもせず、匂いのおおもとに辿り着きたい欲望をうまくコントロールできなくて、涎をボタボタ衣服に垂らし垂らし、玉すだれを通り抜ける。

 板張りされたお勝手の中央にかまどが鎮座せしめ、グツグツ煮え立つ鉄鍋に対する火力を、こちらに尻を向けてしゃがみ、火かき棒で薪を混ぜて微調整しているらしき半袖姿の男がいる。男は私の存在に構うことなく、膝を伸ばすと、手にしていた火かき棒をかまどの横に立てかけ、鉄鍋に突っ込んであった菜箸で中身をグルグルかき回し始めた。“ティティーティーティ、ティティーティーティ、ティティーティーティ”とハミングして、私はその曲がテレビで視聴した「カーニバル」だったことを記憶していた。

 床に直でかまどを載っけて火事になったら大変だと、格子状の背丈より高いパーティション越しに斜めから見ていると、暗がりに赤赤と燃える炎があまり鮮明でないという、宙吊りにしばしされた疑念が、ようやっとくっきりと学芸会で扱うみたいな細工を凝らした書割のかまどである解になり、馬鹿馬鹿しく思った。自然光が取り込めるはずのはめころしの窓には遮光カーテンが引かれ、玄関扉の光を十全とは届けず、偽物のかまどの上に載った鉄鍋と菜箸、火かき棒は本物らしく、でもどうしてか湯気がゆらゆらと低い天井まで昇っている有様だった。

 はめころしの窓? 不自然な分厚いカーテンが引いてあるのに、なぜ判るのか、それはこの建物が我が家だからだ。となると当然、あの鍋をつついている男が、誰あろう兄自身であってなにが不思議だといえよう。その通りに、男は、ゆっくりと振り返り、切れた舌を曝して、私に向かって大声で叫ぶのだ!

 口は赤黒く血だまりで汚れ、血は衣服を伝って床にまで垂れている。そして叫び声は、言葉を成さず、混沌の王が踊りに戯れる奇妙な音楽のように視界を重ねて私を不快にさせてしまうのだった。調べもへったくれもない叫びは、地団駄を踏みだした兄の動きとともに次第に逓減し、白目を剥いた形相で、手にしていた菜箸を床に落とす。なにもできず異常な状況に呑み込まれていると、兄は立てかけてあった火かき棒をひっつかむと、なんと高高と振りかざした。

 強烈な一撃が、パーティションに身を隠していた私に浴びせかけられた。目ん玉がギョロリとこぼれ落ちたかのような衝撃を両目の窪みに受け、そのまま後ろへバタンと倒れてしまう。泡を吹き、熱い血がドクドクと顔に滴り溢れてゆくのを、虚しさのなかで感じている。あっけない生涯だった。色気のあることはなにひとつない“愛とは無縁の愛兄弟”とは黒野新部長はよくいったものだが、まさにさもありなんである。

 強い風が木木を揺らす音が聞こえた。岩石だらけのグランドキャニオンかエアーズロックみたいな土地かと決めつけていたが、どうやら違うらしい。強烈な風の音を心地よいといってもいいほどの死の悦楽、生の最期の爆発的輝きが私を満たしていた。しかしそんな安息の時間が、騒騒しい足音に打ち消された。ここは二階も存在するようで、階段をドタドタ駆け降りる物音が、それも一人ではない複数がミシミシ床板を踏み鳴らして、やかましいほどの迫力をもって私に近づいてくるのだった。

 朗らかな合唱風に声を揃え、“我らは、天空に鉄槌を、加える下僕なり”と歌っているみたいだ。格子状のパーティションは廊下と台所の間にあり、彼らは、奥まった廊下の突き当たりの階段を降りて、ぞくぞくと朦朧とする私の暗い視野に現われては重なり、こっちにやってくる。あまりに騒がしく混乱していて狂気のうちに事切れるしかないとでも主張しているかの如きに。

“お、お、お、お、お”とかけ声をして行進し、私を容赦なく踏み潰していきそうな勢いだ。しかし一列縦隊のまま止まった。先頭を見上げるに、三井の顔と、その肩口からヒョイと頭を覗かせている、ひょうきんな表情をあえてしている風情の鳥田が認められた。なんてことだ、好き好んで奴らの待ち伏せにまんまとひっかかってしまうとは、飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことだ。

 私が舌先を切断され、揚げ句に頭部に激しい裂傷を被らされ、且つ我が家までもが変形され、マルクス教授の支配下に陥落されたとあっては、もう手も足も出ようにないのは明白だ。とっととこんな茶番はおしまいにして、新しい登場人物たちによる、新しい物語を始めから語り直したほうが、どれだけ読者諸賢に有意義なことだろう。私はもはや命尽きるのも時間の問題で、続きをしたためるには限界であり、いまこうしてノートに記す文字は震えてしまい判読もまともにできない末期的状況である。

 おやすみなさい、庭の松の木陰に息を殺して隠れ、耳を澄まして動向を探ろうと必死の密使の存在が、家人の片割れが就寝するのを裏手に回り込まないでも確認できたのは、夜風を入れる開け放たれた掃き出しの窓に重ねられた網戸では、性質上、防音において、役立たずの筒抜け状態だったからだ。レースのカーテンのようなものもなく、あわよくば、室内の二人が、注意を外に向けてみれば、怪しい人影を発見してみてもなにもおかしくはないことも事実である。

 なにをおいても喫緊の課題は、弟を悪夢の世界から目覚めさせることである。そのためなら私は、どんな苦労も厭わないだろう。弟が、大学の広場で突然倒れ、衆人環視のもと、かけつけた救急隊員らに担架で担がれ救急車に運び込まれ、Y病院へと連れられていったのを、リアルに回想していられるのは、私がまだ青春の残滓を持て余していたころまでで、今日では、記憶はおぼろげに移ろい、日日の生活のなかで、あの痛ましい通り魔事件は、閉架の当時の新聞でもレファレンスコーナーで申請しない限り、もう私だけではなく誰でも真実を雄弁に語れるものはいないのだ。

 弟が執筆中だった、「グラスゴー卿の通信販売」は、私が入院している彼にノートパソコンとプリンターを持っていってやり、ベッドで二週間頑張って完成させ、然る新人賞へ、期限ギリギリで院内のポストに投函し応募したかたちになった。弟は、頭部に網網の包帯をして、傷口の周囲は、バリカンで毛髪を刈られた格好で退院の日を無事迎えた。

 草熱れの庭にビーグル犬と突っ伏し、朝のままであればおそらくまだ目脂だらけの顔で、四葉のクローバーを探していた。リビングの窓からそんな動静を見守りながら私は追い込みの小説をパソコンに入力している。「舌を入れた鍋は煮えたぎり、私にそっくりな男は、手にした菜箸で味見でもするのか、箸を突っ込み、グルグル軽くかき混ぜたあと戻すと、滴る汁を一舐めした。お次こそは具の味を確かめんと、箸で舌を串刺しにしようとして何度も突いて、ようやく貫いた舌を思いっ切りかぶりついた

 出汁の旨味成分が十二分に滲み込み、上上のできである。牛タンより柔らかく、舌苔のこびりついた革命戦士の舌は、天に昇らんばかりの美味礼賛なのだ。うめぇ、なあ、ひっく、酒よ、酒よ、だ。男はガニ股でホットプレートのまえを離れると、己と同じ背丈ほどの冷蔵庫を開けて、キンキンに冷えたノンアルコールビアーを取り出し、やおらプルトップを上げ、ぐびぐび扉も閉めずに一気飲みした。

 たまんねえなあ、と独りごち、腰で扉を押して閉めた。舌は、まだ五つもある。いましがた平らげたのは、とても弾力があったので、タニのだろう。残りは冴えない醜男五人だ。部屋着のズボンに押し入れられた望遠鏡に触れた。これで革命戦士たちがツリカン撤去作戦のあと、部室裏に集合するのを知ることができた。先回りして、一人ずつ鳥田のハサミで奴らの舌を残らず切断してやった。血をダラダラ垂らして、あいつらは全滅したのだ。

 三井は、ほくそ笑んだ。だが、彼のうしろで鳥田もほくそ笑み、それは三井の行動に対してであった。鳥田は、パンと柏手みたいに手を叩くと、三井に自分の存在気づかせ、舌を出してみせた。三井は、音もなくいつのまにか階段を降りて台所にやってきた盟友の鳥田に正直驚いた様子だった。鳥田は、舌を引っ込め、おもむろに、こう切り出した。あんた、舌もないのによく味が判るね、馬鹿じゃないの、と。三井は怒り心頭に発し、身体が熱く火照り、冷やかな感情が脳天より爪先まで駆け巡った。

 しかし、瞬時に芽生えた怒りの感情に烈火の如く流されてゆくのではなく、戸惑いを覚え自分を持て余した。くちゃくちゃガムらしきものを口に頬張り、冷徹に三井を凝視している鳥田に、すぐ怯えるに堕した。私には、舌がない。つまりは発話できないというわけだ。三井は首をガックリと落とし、眼鏡が涙で曇った。

 ぐずぐずと泣きだし、嗚咽もまじえて、鼻水をすすっている三井に、優勢の鳥田は、じゃあ、望遠鏡を出してもらおうか、といった。望遠鏡は、三井のズボンのポケットにはみ出して捩り入れられているのを知ったうえでの高圧的な命令だった。縮められた御所望の品を三井は、怒りとも恐怖ともとれる震えを引き起こしつつ、右手で当たりをつけてポケットより、捻り出すと、不明瞭な雄叫びを上げて、吊るし紐を鳥田の首にかけ。望遠鏡をブランブランと垂らした。

 溢れそうな感情を必死で抑える。鳥田は押し倒したい衝動で、三井は泣き崩れんばかりの人格の破綻を。沈黙を破ったのは攻撃的なほうだった。それ、と煮え立つ鉄鍋を顎で示し、おまえの舌が二つに裂けて入ってるんだぞ、大葉兄弟の舌じゃあねえ。あいつらは、うまく逃げおおせたんだとよ、便所でマルクス教授と交信して判った。この望遠鏡も使う人間によっては有用にも無用にもなるってことだ、クソ!

 おまえは、俺が、おまえの指示で、大葉兄弟の舌を切ったと思っているようだが、俺がいま書いているノートの切れ端には、俺がおまえの舌を切り、兄弟は逃げ延びて、死んだ振りをして二人ともこの家で姿を完全にくらましたんだよ。手がかりは、残されたノートの残骸のみ。俺が続きを書いて、真相に辿り着かないといかん。おもえも満身創痍だろうが、最後の奉公だと思って、協力してくれ!

 ヒントがないわけじゃないんだ。ノートのなかに奴らの痕跡は、確かに記されている。特に俺が目をつけているのは、まずなにより“密使”だ。密使がなぜ深夜の庭に息を潜め未来の兄弟の動静を観察しているのか。俺が推理するには、二人が寝るのを待って、なにか盗んでやろうと画策してじゃねえのかなと。あくまで俺の直感的な見立てにすぎんのだがね。おそらく雇い主は永遠の支配者マルクス教授なのだろう。

 密使のくだりは、まえのページの破片とは、明らかに筆跡も書き道具も変わっているので、これはいままでのうちのだれかが記したもんじゃねえだろう。またまた俺の確信のない直感を披歴させてもらうとだな、密使うんぬんの文章は、だれが書いたもんか判らねえ、だが、俺はノートの切れ端の束を廊下で発見したんだけど、そこに映研部員の部室前で撮った写真もあったんだ。でもどうも一人だけ見なれない顔があったんで、しばらく考えてみたんだがね。どうやら俺のできの悪い記憶では、そいつがゴトーだと断定してしまったのさ。

 ゴトーについては名前と顔以外、ほとんど情報がない。おそらくたまたま写真を撮影した日にだけ現われて、あとは姿を消したように思う。つまり、俺がなにをいいたいかといえば、ゴトーを知らないわけだから、知らない筆跡はゴトーの字であることと推察されるってーわけだよ。なんにせよ、映研部員でなければ、このノートに字は書けないのがルールだからな。

 俺たちは、M大祭まえに、うえの指示で、過去の雑記帳さらには部員の感想用紙までを含め徹底的に筆跡調査をした。なぜこんなことをするのかは、愚問だと一蹴され、黙黙と海馬に名前と文字との照らし合わせを二人で記憶していったよな。まあ、いっても名の挙がった部員は、せいぜい三十人程度だったから、国公立大受験で鍛え抜かれた我らのエリート頭脳の実力を発揮すれば、なんのことはない。お茶の子さいさいなのだ。しかし、間の抜けた話しで、渡されたリストにゴトーの名前はなかったんだぞ。

 でも、災い転じて福をなすじゃないが、この大ポカが“不明の文字=ゴトー説”を浮上させたんだから大した配剤じゃねか、えー」

 

 

       

 

 無力となった私は、他人にはなんの落ち度もない優雅な日曜の昼下がりを送っているように映るだろう。さらに、赤の他人の目を通すと、中年親父の勝手気ままな、小説遊戯にでも興じているしかない滑稽さが微笑ましい、まるで欠伸まじりのおはようの挨拶なぞをいまにもするみたいだと、ぼんやりと思われるくらいのようだ。あのときは万事休すの絶体絶命だった。通り魔事件でごった返す大学構内で、三井に奪われたノートを再度奪回し、物語を紡いで、ライトは手遅れで襲われてしまったが、私を救済してくれた命の恩人のゴトーが、幾年月のときを経てマルクス教授の軍門に降り、我が家へ、彼が郵便で返してくれたノートを盗みに入り、あの封印したはずの暗黒の力をいままさに解放せんとしていることへの心の底よりの深甚なる恐怖を抱いて死を覚悟している私が、これを、気晴らしのための戯れでやっていようとは、だれも気づいてくれはしない。

 鳥田は続けて、喋る。この切れ端からノートの所有者は大葉兄であることが推察できる。やつはマルクス教授誕生の秘密にも深く関わっているのでな。ノートが力を持つのもそれに関わっているわけだ。そもそもマルクス教授とは、いったいなんなのか。真空のメカニズムを知るものは、私ではない。そうノートこそ答えであり、未来記だ。マルクス教授とは、いままさに生まれんとする存在なのだ。もしくは永遠に生まれようとする意志なのだ。

 おい、三井。俺は書くことで手が塞がっていて片手では長く伸ばした望遠鏡を支え切れないんで、望遠鏡を俺の目に当てて覗けるようにしてくれないか? 頼むよ。三井は鳥田の指示通りに従順さをこれみよがしにみせつけるみたいに、鳥田の首に垂れ下げた望遠鏡を持ち、するすると伸ばして紙片とペンに触れないよう、そっと彼の血走ったまなこにあてがってやった。ありがとう、ありがとう、まるで潜望鏡の如く感じるね。これでゴトーをリサーチしてやりゃあいいのさ。おい三井、つまみで広げてくれや。

 よしよし、それでいい、どうやらあいつは「らいぶらりー」にいるらしいな。おまえもいったことあるだろ、N大近くの漫画喫茶だよ。俺は『ドカベン』の一巻を読んだな。初めは岩鬼ドカベンって呼ばれているんだぜ。驚いたかい。おやおや、ゴトーのやつ、机に藁半紙を沢山広げてなにか必死で書いているな、もうちょっとズームしてくれ。なんだ、なんだ、感想用紙みてーだな。なになに、これはどうやらM大祭の感想用紙だぞ、おい、あいつ感想を捏造してやがる! ノートの筆跡とも違うそれぞれの字体で次次になりすまし感想を書いているんだ! 鳥田は絶叫し、目をしばたたかせた。なんでえ、なんでえ、あの野郎、森副映画の評判をガクンと落とす算段らしいや、策略家のライトのアイデアだろうが、正直驚いたね。ここまでするこたーねーのにね。はいはい、判りましたよ、いますぐそちらにワープしてすべて感想用紙を地獄の業火で焼き払ってやりましょうや。はは、ちょろいもんだよ、さっさと終わらすぞ、タコ! でも駄目だ、ワープ機能がやはり家の圧力で作動しない、まいったな、大葉兄弟にもうこんな力はないはずなんだが、どうしたもんだろう。マルクス教授の御尽力を仰ぐしか方法はないようだ、ここで待とう、三井。

 そのあとのことは、みなさんお判りでしょう。過去の大葉側だったゴトーではなく、未来のマルクス教授側のゴトーが、鳥田・三井封印から、暗黒の力の解放へとノートに変更を加えたのだ。多少のタイムラグが起きはしたが、それは静かにつつがなく、まるでなにかの復活の儀式のように執り行われたらしい。詳し経緯について知るものは、マルクス教授とゴトー本人しかいないのである。

 深夜に玄関チャイムが鳴った。私は、パソコン画面を眺め、それを無視しようと努めたが、執拗にあきらめることなく何度もチャイムは鳴らされたので、私は、座っていた椅子を台所まで担いでいって、椅子の上に立ち、チャイムの電池を抜いた。しかしお次は、玄関扉をドンドン叩き始めたので、私は近所迷惑を考え、降参して玄関を開けた。顔を出したのは、鳥田と三井ではなく、意外にも、森副と黒野だったのには心底驚いた。

 居るんなら、はよ、開けんかい! まえに立つ黒野が懐かしい岐阜弁でまくしたてる。森副さんは舞台挨拶で疲れているところをわざわざ大葉家くんだりまで高速代払ってやってきたんだ! まあ、まあ、黒野もういいよ、お兄さん久し振りだね。突然邪魔して悪い。はい、どうも。こんな話聞いてないんだがなぜか私は頷き、二人の闖入者を、さっきまでパソコン作業をしていた部屋に誘った。私は、殺されるだろう。ついにときがきたのだ。人生最期の世界をじっくり目に焼きつけておきたい。

 おのが手で創り出した登場人物たちに殺されるのなら悔いはない。これが作品のクライマックスであればなおさらのことだ。

 いまさらどれだけ悪あがきしても所詮無駄なのだ。潔く果てようではないか。マルクス脱却のため一生を棒に振ってきたようなものだが。いや、ちょっと待てよ。舞台挨拶? 森副さん、まだ映画撮ってるの? んなことより、茶出せ、茶! いやはや心遣いが足りませんで面目次第もないです。私は台所に走って、お湯を沸かし始めた。

 居間での二人の会話が洩れ聞こえる。やっぱり花藤の原作の力があったな、いやいや、森副さんの演出力がなきゃあ、あのラストシーンはないですよ、絶対。ハハハ、まああれは何度もテイクを重ねたからね! 客の入りもよかったんじゃあないですか、「大虚構」か、まさにMが大虚構ってわけだな、なるほど、そんなメタファーがあったんですね。得心得心。“大虚構=M大祭=マルクス”やはり、ついにマルクス教授が商業映画のなかでも実在を誇示するか。禁じ手を逆手にとったか。これより一層の支配を強めるだろう。マルクス教授の映像化。肖像画すらあんなに危険があったのに、まさに最後の審判にふさわしいものなんだろう。

 私は、ティーバッグを沸騰した薬缶に投入し、湯呑を三つ盆に載せ、右手で持ち、薬缶を空いている手で電気焜炉から持ち上げて、居間へ運んだ。

 もう死は、私だけのものではなく、全世界、全宇宙規模の問題になった。物質が滅びるときがやってきたのだ。

 鳥田は県庁、三井は会計士、速木は―。永遠に続くかのような、三人のお喋りは、後夜のうちに終わるだろう。さよなら、世界。さよなら、我が青春。

 二階で寝そべりながら、ライトは以上の文章をノートに記述した。

 

 予定より早く帰国することになりました。会って話したいことがあります。

親愛なる貴方へ                               カレン

PSこちらで書いた小説も同封しました。よかったら、読んでね。

 

        

        

 

 一八九五年十二月二十八日、パリのカフェの地下「インドの間」で、リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフの初めての一般公開がなされた。兄弟は用事で出席せず、父が取り仕切った。そのちょうど百年後の今日、僕は胸いっぱいの不安を抱えて、スリランカ料理店へ向かっている。寸足らずの足元から、蛍光色の靴下が惨めに光り輝いていた。真平にせせら笑われたこともいまはただ懐かしいだけなんだが。

 書き換えることは容易いだろう。でも人身御供になっている二階の二間続きの片隅で、父の昔のスーツを着込み、拾ったサングラスをかけ、ニット帽を被り、マフラーを巻き、マスクまでする。いかにも怪しい男を滑稽に演じて、新栄のスリランカ料理店に向かったあの冬を回想することにはなんの意味があるかなんて、まだ判らないけど、四葉のクローバー探しのとき庭でみつけたノートの空白は、僕のあのことをしっかり忠実に振り返ってみろと、いっているに違いないようだったのだ。

 家族に勘づかれないように、ドアに入室厳禁の貼り紙をして、二階の窓を伝って降りてきた。帰りのことを考えると暗澹たる心持ちに陥るが、合同上映会でのカレンとの再会を強く念じ、嫌なことを払い除ける。彼女は、来年の四月までは帰国しないはずであったが、妊娠のため、急遽日本に舞い戻った。初めは僕の子ではないだろうなと疑ったが、冷静になれば本人は違う男の名前をいうだろう、と考えた。そして、はっきりカレンの言葉で、映研と音信不通でありながら、この難聴の耳に聞かせてやりたかったんで、不自然甚だしいけど、こんな暴挙にでたんだ。

 合同上映会は、ヘルとハルの声かけで実現した。確か、夏前には企画が持ち上がっていたので、学園祭のあとから引きこもりを続けている僕でも知っていた。きょう開催することは兄に聞いたのだが。

ヘルはN大、ハルはM大の映研に在籍していた。二人は、N市中をそれぞれの愛車のカブに乗って、友人の下宿先や、ロケーション、中古CDショップ、百貨店、カメラショップ、喫茶店、食堂、本屋、動物園、リサイクルショップ、演劇場、古着屋、ビデオレンタルショップ、そして自分たちの住まい、異なったバイト先の映画館などを巡り巡る一方、サークル参加している大学じゃない入学した別別の大学へは、ほとんど足を向けなかった。

 午後の光を浴びて、信号待ちをする僕は、父のトレンチコートを用意しなかったことを寒風にやられるままの状況のなか、とても後悔した。僕は、悪寒に襲われるのを紛らわすため、吹けない口笛の吹き真似をして、意識を外へ押し出そうともした。信号が青に変わり、お笑い芸人養成所の看板を鼻で笑っているうちに、横断歩道を渡り切り、向こう側の歩道をもしかしたら勇ましく映るかもしれない歩き振りで先を急いだが、これも空口笛同様に寒さを紛らわすための行動であった。

 やばい、うじゃうじゃいるぞ、と僕は前方の二軒続きの平屋店舗に群がる大学生たちの顔を瞬時に名前に変換し脳内に浮かべ、後退りして、角に身を隠す。相変わらず、馬鹿やってる連中だな、懲りることを知らない、ブツブツ、唾を地面に落としつつ、独語を繰り出す大袈裟な芝居じみた動作を加え、映画の主人公を演じるかのように、煙草をポケットに手を突っ込み指の間に挟んで取り出す。

 マスクをずらして、箱とともに入っていた、玩具ライターで火を点け、煙草を銜えスパスパ吸った。ザッと見渡したところ、カレンの姿はない。しばらく待てば、入れ替えがあり、動きが活発になり、目立たずに近寄れるだろうと、二本目の煙草にも指をかけた。しかしサングラスが視界を邪魔していると考え、右手で取ってみた。かといってもともとの視力も悪いので、かけていたときも、ほとんど見えていないことをいまさらながら確認しただけだった。

 しょうがないので、サングラスを手早くスーツのポケットにしまい、代わりといっちゃあなんだが、ニット帽を目深に被って両目を隠す。ほったらかしの煙草の灰が限界に達し、ボタッと地面に落ちた。煙草を揉み消し、携帯灰皿に捩り入れ、一向に変化のない怠惰極まるスリランカ料理店の出入口に勇気を振り絞って緊張をおくびにも出さぬよう、もうくだらない映画に飽き飽きしたような馬鹿面を曝した連中どもが、車や女について熱く語り合っている場に最大接近したはいいが、そこは完全に自分のいる場ではなかった。

 映研辞めて正解だな。引き留めてくれたのは、仁の恋人だけだった。彼女は、上海からエアメールを送ってくれ、斜めに曲がった切手がチャーミングで、短文が励ましの優しい筆致であり、とても好感が持てた。そのロープウェイが写った絵葉書はいまいったいどこにあるのか、矢口史靖の紙コップのサインともども貴重な人生の代物のはずなのだが、皆目見当がつかなかった。部屋はゴミの山で精神状態同様、荒れに荒れまくっていたのだ。家宝が紙なのも乙だな、と僕は思ったが、気づけば受付でパンフレットと感想用紙、鉛筆を手渡されていた。まえの男に続いて、上映会場へ向かう合間に、パラパラとパンフレットを見ていると、自分の名前が書いてあった。何故だ、僕は一瞬天を仰ぎ、また手にしたコピー用紙で作られたものを穴の開くほど見詰め直した。こんな映画撮った覚えはない。僕は、偽りの僕が合同上映会に作品を出品している異常さに眩暈がして、その場にうずくまった。

 眩暈が治まったのと同時に、こんどは強力な吐き気を催した。しゃがんだ姿勢のまま体勢を反転させ、戸外に出た。建物の壁に手をかけ、膝を地面に着けた格好でゲロを吐いた。水っぽいゲロで、パンフレットにまで飛び散った。受付の女性が介添えしてくれ、背中を摩ってくれているようだったが、お礼もいえず、しばらく固く目を瞑り、押し寄せてくる悪寒に耐えた。

 大丈夫ですか、受付係が喋った。僕はビクッと反応し、彼女が看護学生だったことを認識した。彼女の名は仮にKとしておこう。Kは、彫りの深い顔をしていて目は海豚みたいに離れてついていた。とても芯が強そうに見え、自己主張をしっかりするタイプだと思う。優柔不断な僕とはまったくの別人格で、年下ながら羨望の眼差しで彼女を捉えている自分を発見したのは、つい最近のことだった。

 そんな彼女の存在をすぐさま察知できなかったなんてふがいない。でもお互いさまだ。相手は判っているのだろうか。二人とも、がらくただ。どうですか、甘い吐息が、うなじを掠めた。しかし異性との触れあいを楽しんでいる余裕はどこにもない。きっと、あいつの仕業だ。夕暮れの焼却炉で、はたまたM大祭まっ最中の白昼の広場で、僕を強打したあの自分そっくりのあいつ。あいつが、また誰のさしがねなのかは判っているが、三度目になる、僕の邪魔をしにやってきたのだ。

 ほとばしる飛沫で汚れたマスクを再度、口まで上げて、僕はここを早く立ち去るのが最も賢明な判断だと踏んだ。Kの心配をよそに、うずくまった体勢から立ち上がる。彼女の問いかけには無言で通して、僕は泣きたくなるのを必死でこらえて、どうにかこうにか取り乱すことだけは避けようと努め、壁沿いを伝って角を曲がった。彼女はなにもいわず、足音を後ろに感じることもなかった。とりあえず無事退散できたと僕はひとまず安堵の息を吐いた。

 会場から少し離れたところに、休むにはちょうどいい公園があったので、そこのベンチに腰かけ、手にしたパンフレットを仔細に眺めだした。どうやら、いまは僕の作品の上映はもう済んでいる時間帯のようだ。なんとも忌忌しい限りだが、上映中止を叫ぶわけにはもういかず、怒りの行き場に数分困っていると、うしろより肩を叩かれた。ビクッと驚きを露わにして振り向くと、サングラスにニット帽を被り、マスクをしたスーツ姿の男がいた。

 ずんぐりむっくりしたこの男は、興奮しまくった様子で、股間も心なしかもっこりした塩梅のようなのだが、速射砲みたいにいいたい放題にまくし立ててはいるけど、まったく意味が汲み取れないのだ。次第にサングラスがずり下がり、マスクの片方の耳にかけていた紐が取れ、素顔を僕にさらけ出す結果になっていった。それは速木源吾そのひとだった。僕は思わず判った時点で爆笑してしまい、相手は涙を浮かべてニヤニヤするだけだった。

 映画、凄くよかった、片言のネイティブ・アメリカンを真似たみたいにようやく聞き取れる言葉で速木はいった。今度、俺の脚本で監督して、続け様に彼は喋り、僕は閉口した。あれは僕が撮ったんじゃありませんと、真実を洩らしたくて仕方なかったが、相手にうんざりしたほうが上回って黙って速木の目を睨みつけた。彼はおびえたように後退りして、距離を取ると、自販機でコーラ買ってくるわと宣言し、公園を横切っていった。

 押し潰されそうな心理状態になり、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思った。僕に小さな背中を見せ、自販機に辿り着いた速木を尻目に、ベンチを跳び越え、緑の柵を跨いで梢を突っ切り、公園を脱出した。へ、馬鹿が、貴様の映画なんか誰が撮るもんか、と呪詛の言葉を何度も脳内でがなり立てて、上映会場とは反対方向に歩を進めるしかなかった。だが、このままおめおめと帰宅するには芸がないなと、黙考している次第である。

 ふと、反射的に横へ顔を向けると、おあつらえむきの喫茶店があった。東京旅行の折、入店したことがあるチェーン店だった。僕は財布を出して、帰りの切符代を念のため勘定して、まだまだ金銭的余裕があるのを、確認すると意気揚揚と自動扉のマットレスに足を置き、電子の呼び鈴がささやかに鳴り響くなか、レジまで移動して行列に並び、順番がくるまで長考してブレンドコーヒーとファッションドーナツを注文した。

 二階の隅の禁煙席に陣を構え、マスクをずり下ろし、ニット帽も脱いで、あぶあぶとファッションドーナツを食していると、Kの顔が頭に浮かんだ。僕はカレンの真実を確かめるため、遠い豊田くんだりから、わざわざ異様な変装までして、ひきこもりの自分のスタイルも放棄してはるばるやってきた。しかしここにきて事態は風雲急を告げている。僕の偽物、そしてカレンとKとの比重の逆転。僕は小さく溜息をはくと、食べたものをすべて吐いてしまった。

 喫茶店中の客たちの注目を集め、僕は涙した。しばらくして優しい店員さんが駆けつけてきてくれて、淡緑の布巾で綺麗に汚物を拭いてくれる。ずみまぜん、ありかどうごぜみます、などと、しどろもどろに何度も奇妙な科白を無意味なまでに繰り返した。そうしているうちに、たちまち目の前の世話を焼いてくれている女性店員さんに恋してしまった。カレンやKよりかわいいじゃんか!

 しかしたちどころに己の馬鹿さ加減にげんなりし、そそくさと変装をし直し店を出た。すると軒先に突っ立っていた影に声をかけられた。瞬時にビクつき首を高速で驚く反射で向けてみると、そこには誰あろう速木が満面の笑みで煙草を前歯の間に挟んで歯茎を剥き出しのまま、こちらをまっ直ぐに見据えていた。僕は、さっきのびっくりした感情が、あっという間に恐怖へとすり変わる推移をできるだけ冷静に受け止め、つぎの手の打ちようをあれこれと思案した。

 でも、そんな暇はなかった。危機迫る面貌の彼に腕をガッシと掴まれたのだ。動転して、本来ならば初見の段階で、相手と自分の服装がまったくもって瓜二つであることに、まず驚異を感じなければいけないといえるのだが、このことに対し微塵も疑問視せずに、とにかくいま巻き起こっている、腕に感じる速木の握力と、激しい呼吸に圧倒されて、もうなにも考えられなくなってしまった。

 打開はつぎのように訪れた。煙草を抜き、打ち上げ出る? と速木が唾を飛ばして、いいたくていいたくてしょうがないのを羞恥心からか言葉を発せなくても、勇気を振り絞って勢いでやっといえたかのような具合で僕を鋭い目で串刺しにし、答えはもう決まっているといった風情なのだが、反対に形式的に訊ねてみたともとれる。つまりは、思考の回転は、彼の一声で解かれたのだが、その内容は全然、正確性を欠き、まるで死の恐怖でなにもかも混乱しているといった模様なのだ。

 僕は、何年何月何日何時何分に死ぬんだろう。あたかもそれがいましがた天より決定が下されたかのような大きな絶望感が訪れた。それでも現実はなにも変わらないみたいで、相変わらず速木が鼻息荒く、眼前に迫っている。僕はどうにかしようと、肩を上下させ、腰を回し、足踏みしてみた。速木はつられたようにステップを踏み出し、顎を上げ、鼻歌を交え、踊りだす。僕は笑顔を思い出し、よしいこう、と彼に直言した。きょうは就職活動中の森副がいねえんだよね。ヘルと偶然街で会って、聞いたのさ。まさにいまは天国ってわけさ。そしてやつがいなくなりゃあ永遠の桃源郷さ、と速木はおどけながらいった。かわいそうだが、速木は黒野の変貌ぶりを知らない。

 彼と肩を組み、街を歩いた。身長差が、あるもんだから、でこぼこで、足並み揃わず、がたぴし、ぎくしゃくと、まるでなっていない体勢で、もう二度とくることはないだろうと思っていたスリランカ料理店に着いてしまった。映画はまだやっている時間だよ、入る? と彼は酔っているかのように、いつの間にか煙草を捨てた風で、陽気に下から声をかけてきた。僕はオーバーにうなずく。観る観ると上から返答した。速木は、組んでいた肩を外しバッグよりパンフレットを取り出すと、腕時計と照合し、いまやってるのは、ハルとヘルの合作だなと低くつぶやいた。あの二人付きあってるそうですよ。速木はあけすけなく放言した。僕はこの短くも強烈な発言で、さっきの吐き気が、また押し寄せてきて、その場で三度吐いた。速木の靴にゲロが飛び散ってしまったみたいで、ふらふらなのにまえの焼き写しのように平身低頭謝罪の言葉を反復して、中腰で速木の靴を皺だらけのハンカチで拭いた。

 頭の隅のほうで、受付にKがいて自分を見ているのではないか、あわよくば、熱い視線を寄こしてはくれないかなどと思う、呆れ返る僕もいた。でも、期待なんかしないでせこせこと動いているだけの自分もいて、なんだか、ハルとヘルの肉体関係なんて、もうどこかに飛んでいってしまった。また、優しいKに抱かれるなんていう妄想をし、さらに強化するも、相手が本当のところはどうなのか確かめる勇気は、まったく持ちあわせていなかった。

 だがこんな混乱状態に終止符を打つべく突然現れ出たかのように、見慣れた靴が僕の下げた視線に侵入してきた。薄汚れた青のランニングシューズは、兄の靴だった。僕は釣られて目線を上げた。兄はスタスタと上映会場の入口に向かい、僕はその背中を見た。兄のぼさぼさ頭のまえには、なんとカレンと僕がいた。バイオレットのダウンジャケットをはおった僕は、鼻水を啜りながら不安そうな顔つきで、手にしたバッグのなかをモゾモゾさばくりながら、兄と何事か会話を交わしていた。茶色のダッフルコート姿のカレンも神妙な表情で眉を顰め、頬に手を当て、なにか熟慮しているように見えた。僕は開いた口が塞がらなかった。変装しているとはいえ、兄は僕を無視して偽物の僕と親身になってなにか相談している。僕は泣きそうになった。もう家に帰ろうと思った。踵を返し、追いすがる速木を振り払って僕はニット帽もマスクもかなぐり捨て、足早にその場を離れようとした。しかし、カレンの憤りを含んだサイレンのような呼び声が聞こえた。ちょっと待って、打ち上げいくの? 僕は立ち止まった。背後から肩をむんずと掴まれ、強引に速木と向き直された。うつむき加減に嫌がる僕に彼は、こう宣言した。大葉兄弟は、もうダメだ。これからは、きみだよ。きみが、マルクス教授と戦うんだ! ガルシア君! 

 サングラスを気障に取り払った速木の目は、Kみたいに輝きに満ちていた。Kはライトに寄りそっていた。僕は、驚くほど素直に唐突な黄昏の入れ替わりを受け入れた。そして、カレンに大声で行くよ、と返事をし、彼女のリアクションに満足を得る。さらに、自分はガルシア・マルクス、のちの実物のマルクス教授なんだ、楽しめ! 我が青春! カレンの子は、我が子だ、と興奮して胸のなかでつぶやいた。速木は、また、ニヤニヤ笑っている。

 上機嫌の僕は、投げ捨ててしまった帽子とマスクを、速木の横を素通りして数メートル戻り、しゃがんで拾い、二つを手にして、よっこいしょと立ち上がる。そして、にこやかに近づいてくる速木に、こちらも笑顔で答えると、彼は、あのガソリンスタンド以来だね、と声をかけてきた。それについて思い返す暇もなく、悲鳴とともに背中に衝撃が走った。熱い。大男の存在が、僕と重なって倒れた。背中の異常は何度も鋭利な刃物で刺されまくる感触だった。僕の首に男の冷たい唇が当てられた。ライトか。僕は小さく呻いた。全身が脱力し、南の島の光を浴びているようだ。とてもいい気分だ。僕の指からペンが転がる。

原稿用紙は、まっ赤に染まってゆく。すべての苦しみは、ここから始まる。                                       (跋)

 

 どうだった? 自分で書いたのになんなんだが、意味の判りにくい点が、多多あるけど、だいたいこんな感じでいこうと思う。是非、感想を聞かせてくれ。特撮やアニメじゃあないと出来ないなどの直したい箇所があれば、なんなりと申しつけてくれていい、修正するので。しかし、女に振られたくらいで引きこもるもんじゃあない。まえみたいに映画撮ろうや。つぎは苦手な脚本化してみる。まあ、なんなら禮人がこれを元に、自由に撮ってくれてもいいし。それじゃあな、部会に顔出せよ。

ライトへ                                 

亀嶋那武

 

 フランスパンがポルトガルパンを犯している様を見ながら、うるさい厄介なものに、ぬくい暗闇からよろよろと手を伸ばした。潜ったまま、あやふやにベルを止めるスイッチを探り、四、五回のトライで、ようやく押し当てた。

 そうするまえに見ていたことはすっかり忘れる、もう残像は消し果てていた。顔をだす。しかし、目をつぶり、カーテンから木もれ日の光が射し、雀がチュンチュンさえずるのをバックに、こんどは核戦争で荒廃した都市をさ迷い歩く、ガンマンのまなざしを見ている。むにゃむにゃと寝返りを打つ。横になりすぎたためか、身体の節節が痛い。

ちょっとー、起きなさいよー、また遅れるわよ、と階下から声がする。薄れている現実界の意識のなか、それがだれだかがおぼろげに像を結びだした。ママだ。そう、たしかにママの声だ。

 また学校か、西日が射すなか、砂塵舞う大地で、ふらふらゆらゆらガンマンの歩く姿態を見て、登校、ホームルーム、体操、授業、放課、給食、掃除、授業、げ、あれあれ、気づくといつもの町の風景。太陽は西に傾いている。あれー夢の続きか。うしろが重い。と思ったら、デイパックを背負っている。服もパジャマじゃない。歩いている。不安げな気持ち。ぐったり疲れ、精気を失っている。石ころばかりを見ている。

 深いまどろみの途中で、想念が混乱を来している。初めはそう思ったが、様子がおかしい。いつもならママがすぐにでも角をはやして、部屋まで怒鳴り込んできて、慌てて起きるのがパターンなのに。時計を確認しようと、またぞろ手を伸ばしても、空振りだ。いつまでも近所の、そう通学路のままだ。

 寝ぼけているんだな。いつものことだ。デイパックのなかには0点の答案用紙が入っている。そんな風に感じる。あれ、まえテスト受けたのいつだっけ? きのうも受けた気がするし、きょう受けた気もする。きょう? さっきまで学校にいたのか、これは帰り途だ。まったくきょうの記憶が曖昧だ。給食食べたっけ。毎日、こんなもんか。むにゃむにゃ。おいら、夢の住人だね。

 カキーンという乾いた金属音。直後に己の名を濁声で叫ぶものがいる。そうかとしているまに、振り返り際、影が落ちてきたと思いきや、衝撃がレンズを砕き、眼底に痛打されるもろい感触。半回転して、ダメージでうしろに倒れ込む。さらに、背負っているものがいくら緩衝になるも、むきだしの岩に後頭部が激突する。ひえー。うぐ。血反吐がでないのがふしぎなくらいだ。薄れる意識のなか、近寄ってくる爆笑の渦とはやしたてられる不快な声に、ここが安眠に値する地上の楽園なんかではなく、憎悪と絶望に満ちた地獄の底だということが、とても素直に首肯されている。全会一致! おまえとおまえとおまえは死刑! 屈辱をかみしめ、熱い痛みと血のほろ苦さを感じて、卒倒しかけたそのままの姿勢で、ぼんやりと閉じられた視界のうち、太陽に目を細める。どこかで鴉が阿呆を嘲るように、無機質な音で鳴いているのが聞こえる。

 死ぬところだった。ゆっくり立ち上がる。周りにはだれもいない。おや? なんだか焦点があわない。視力を完全に失っている。どうしたことか。眼鏡がないんだ。眼鏡、眼鏡と中腰になって両手であたりを探る。あった、あった。ほっと安心してそれを装着すると、あきらかにひん曲がり、あろうことか左のレンズにパッキリと横断線が引かれていた。なんという理不尽、この苦痛と苦杯、いったいどこで憂さを晴らせばいいのやら! 左の視界が暗い。

 あの低能ゴリラに異議申し立てをしたところで、避けられなかったのが悪いと、こちらの運動神経のなさをとりあげて、空き地で野球なんかやっているのは危険な禁止されているものであるのに、その傍若無人の行為に非を認めず、抗弁するに決まっている。それにあの腰巾着のボンボンらも、だれもこちらの味方になってくれることはなく、聖人はどこを探してもいないことだろう。

 つまり泣き寝入り。花に嵐のたとえもあるぞ、さよなら、だけが人生だ。トホホ。いつものことだ。てへへ。帰りましょう。帰りましょう。テンテケテンテケ。そうしましょう。そうしましょう。一路退却。気を取り直して、といきたいところだが、自然うつむいたまま帰路を急ぐ。

 歩幅小さい己のいまだに履いているクックに視点を置いていると、舗装された途に大きな水たまりで、ガードレールとコンクリートブロックが欠けている場所のくぼみがなみなみと満たされていた。

 カラカラに乾いた気候で、いったいいつお湿りがあったか記憶を手繰り寄せようにもなんの扉も開かない。夜のあいだに降ったのだろうか、でも朝の道路状況の引っかかりがなにもない。なにも見ていなかったかの如くに。だが、それにしてもよほどの大嵐じゃないと、こんな風にタプタプと満ちるはずがない。こんなのを見るのは生まれて初めてかもしれない。もしかしたら、なんらかの理由で小規模な地盤沈下を起こしたのかもしれない。

 しかし、追求はここまでで、このあとはもはやさしたる疑念にもならずに考えをやめ、水たまりを迂回するべく、ちょっとした冒険心から、車道にはでずに歩道よりすこし高くなっている石塀の細長くのびる土台に足をかけ、張りつくかっこうの蟹歩きで進んだ。

 つまさきが、クックの縁に当り、手入れしていない足の爪が軽く圧迫される。眼鏡が塀にちょいちょい擦れるも、あごを上げ、なんとかやりすごし、両手でじゃりじゃりする塀とのバランスを取り、じりじりと横滑りして、なんとかことなきを得た。

 ついそれまでのハプニングとは比べものにならないほど、瑣末な出来事であったが、けっこう肝を冷やし、なんだかこんなことでもやりとげた充実感を味わった。

いまでも熱い目頭を押さえ、ほっと胸をなでおろす。あらためて水たまりを一瞥して、通常の歩行を開始する。鴉がまた鳴いている。電柱の天辺に、ダンスするように足を上げ下げして着け、翼をバサバサはためかせている。怪我でもしているのだろうか。そして磔磔と空に飛びたった。亀裂が走った視界で首をうしろに反らせ追っていくが、西日を受けた、滲む光で、ハレーションのようなものを瞬かせているうちに頭上をゆうゆうと越えてしまう。

 ふと目線を下に向けると、カパッという音がして、薄汚い道路のピントがぼやけた。ついに横断線が走っていた左目のレンズが割れて落ちてしまった。慌てて、しゃがみ二つに分解したものを足下から急いで拾う。立ち上がり、仔細に傷の具合を、ためつすがめつ、観察し、飽きたからスモッグのポケットにするりとしのばせた。

 右目だけで意識を集中していると、まえから自動車が走ってきて、ドブンと片輪、車道の水たまりにはまり、あっという間に大きなしぶきが跳ね上がり、第二派までやってきて、全身がずぶ濡れになってしまった。

 したたり落ちる水滴が、だぶだぶに重くなった衣服をおおい、あまりの寒さに昏倒しそうだ。いてもたってもいられないので、デイパックを降ろし、スモッグとトレーナー、シャツを順順にあまりの展開に半笑いになって脱ぐと、雑巾を絞る要領で、一枚ずつねじりにねじって水分をだし切る。

 まず片腕に服を三枚かけていて、重さでプルプル震えているけど、下に着ていたほうから絞るのだが、キツキツにねじふせたものをふさがっている腕の反対側の脇で挟んで、力が入りにくい、曲がった姿勢のまま、最後の一枚であるスモッグまでたどり着くと、固いものがぎゅぎゅっとポケットのなかで悲鳴を上げた。

 半身裸のままの作業中ずっと、斜向かいの一軒家の庭で野良仕事をしているおばさんの視線をずっと感じながら、なんだかひとに見られて高揚した気分で、ドラマのワンシーンのワイルドな俳優のような心境で引っ切りなしの動作を演じているみたいだ。

 さて、それらを着直しても、花冷えして、まだ水分が脱水し切れていないゴワゴワの運動着とスモッグが肌にぴったり張りついている。グリーンの半ズボンは、どうしようもないし、スニーカーの底が靴下に雨水をこれ以上ないくらい染み込ませていた。デイパックを肩にかけ、やけになって走りだす。ジャブジャブと足が鳴る。好きなようにさせておけ。子供は風の子、ピューンピューン。角を曲がったときだった、柔らかい感触が足裏に感じられた。空でも飛ぶのか、宙に舞うのか、なんて妄想逞しくしている暇など与える間は、あっといううちに消し飛んだ。獣の咆哮が聞こえる。振り向くも振り向かないもないままに、全速力で住宅街の坂を転がるように突っ走った。足が交互にはでてこずに、太ももは左右ぶちあたりもどかしく、ジャンプするみたいにリズムが崩れて駆け足を調整していて、もう必死。しかし万事休す、片足を強く噛まれ、うなり声と荒い鼻息に気圧されて、勢いあまりゴミ収集場にダイビングする羽目に。しばらく噛みついて離さず、小動物を捕らえたときみたいに、グイグイ頭を振って引っ張っていたが、動かなくなったものに対し、やがて興奮も冷め、運よく転がっていた肉の骨に目がいき、その強靭な顎を血滴るふくらはぎより放し、恐怖で発語できずにいた哀れで細かく震えだした少年のようやくでた絶叫の嵐におびえたのか数度威嚇のために吠えて、骨をくわえ、そそくさと野良犬は去っていった。

 ネットに戯れ、身体を揺らし泣きじゃくった。なんでだよ、なんでだよ、痛い痛い。もう嫌だ、もう嫌だよ、助けて、だれか、助けて!

 

 

   

 

いつまで、そうしていただろう。通行人は何者も通らず、静かに自動車が数台走り抜けるばかりだった。陽は、とっくに沈んでいる。茫洋とした絶望感がいまだ晴れないでいても、ずっとこうしているわけにはいかない。涙を手の平で拭い、やっとの決意で彼は立ち上がった。右足をびっこし、うつむいて、鼻水を垂らすにまかせて、歩き、悔しさに心が潰れる。

 しかし、悲劇はまだ終わらなかった。街灯や門灯が点き、薄い影がいくつも四方八方に伸びている。ふくらはぎの傷口の血液が靴下に垂れ、水分を十二分に染み込ませている綿の素材は、またたくまに真っ赤になっていった。どれほどの怪我なのか、直視するのがますます恐いので、無視することに。目の機能を半分奪われ、移動の手段も片足取り上げられ、もう早く家に帰ってゆっくり休みたい、いま望むことは、ただそれだけだ。

 いつも通りの我が家に着くはずだった。でも明かりの灯る玄関を見据えて、さあすべて助かると安堵した瞬間、事件は待っていた。電信柱の影が動いたかと警戒した矢先、ベレー帽をかぶった小柄の人間が小走りに近づいてきた。眼鏡が砕け、全身ズブ濡れで、右足に力を入れられないために斜めに立ち、足元を血で汚している少年の前にうつむき加減に立つのは、いじめゴリラの妹である。彼女は異常な少年の風貌にはなんの関心も抱かずにいるような態度で、これ読んでください、と手にしていた封書を両手で添えて差しだしてみせる。

 受け渡しをする段、二人の小指が触れあった。温かく弾力のあるなかに、硬い骨を感じさせて、鮮明に生を開かれた具合に計らずともなった。少女は、ますます顎を引き、顔を赤らめ、つぶらな瞳で、少年をうかがうのが随分恥ずかしいみたいで、揉み手をしてモジモジしている。少年は咄嗟に思った。僕は、彼女と結婚させられるだろう、と。

 どうやら少女は、相対している人間がボロ雑巾なのを、辺りの暗さと羞恥心よりくる視野狭窄とで、碌すっぽ観察していない。数歩後退りして、少女は別れの言葉を小声で吐くと走り去ってしまった。残された少年は、封書を調べるでもなく角をつまむようにして、ブラーンとさせていたが、すぐ濡れているデイパックに無造作にしまい、帰宅が遅くなったため両親の叱責を身構えて、玄関の戸を開けたが、二人は心配していたうえに、ボロボロの少年を見て、親子三人抱きあって、傷を気にかけつつ無事を喜び、安心した少年は事情も話さずワンワン泣いた。失禁しているのに気づいたのは、この後だった。

 けたたましいベルを叩き続ける不快極まりない音がする。何事が起こったか即理解できずに、傷の手当てをしてもらおうと、右足をまえにだすが、なにか得体の知れない力によって遮られた。電話が鳴っているもんだと思い直すころには、自分がいまどこでなにをしていたのかの記憶がまったくないことに気づいた。ただ煩い金属音に似た眠りを妨げる音をうとましく感じる。眠り? 僕は寝ているのか? 冷静になり目覚まし時計を止める。

 閉め切ったカーテンに陽光の筋が走った、いつもの畳敷きの部屋。窓のまえに置かれた学習机と横の背の高い本棚。反対側には押入れ。枕のある方向に出入口のドア。なにも変わりはしない、でも。布団をはね上げ、負傷したふくらはぎを確かめたところ、なんの噛まれた痕も治療したような形跡もない。裸眼なのに思い至り、慌てて枕元の眼鏡をかけて再度確認するが同じ結果だった。おや、レンズが割れておらず、フレームも真っすぐだ。

 きのう砕けて広がった蜘蛛の巣は、そっくり代替品、それはスペアか新品なのかも不明だが、交換されたのか。はたまた修理を朝までに完了したのか。形状はずっと愛用していたものと同型。腑に落ちぬまま、布団を畳み、階下へ降りていった。足は全然痛まない。

 台所で忙しく立ち働くママをつかまえて、疑問に抱いていることを一気呵成にまくし立てる。訊ねられたママは、振り向くことなく、みそ汁に麩を入れて、ネギを入れて、かきまぜているだけで、なんの返答もよこさない。

 意思疎通がうまくいかないため地団駄を踏み、ママの白いエプロンの裾をひっぱりもどかしく思うが、相手はまったく反応してくれなかった。

 しょうがないので、ダイニングテーブルで朝刊を広げているパパに標的を変えようと、またママにいっていた通りのことを反復している馬鹿らしさに泣けてきそうだが、なんとかこらえて、どうにか心のモヤモヤを払拭しようと頑張る。

 夢でも見たんだの一点張りは、迷妄する少年にはあまりに無情だった。わめきたてはじきにおさまり、仏頂面になった少年は、静かに椅子を引き、決まっている席へ着いた。熱熱のみそ汁とハムエッグを載せたトーストをつまらなそうに消化していく。いつのまにこんな和洋折衷なメニューになったんだろう。そういえばうちで猫を飼っていなかったかな。内面では変化の富む動きをしていたが、見た目には、年老いた山羊のような印象を与えていた。ゆっくり顎を上下させ食物を噛み砕き、双眸は虚ろで天を眺めやり、屁を何発もこく。さらにダボダボのパジャマの袖がみそ汁の器に浸されていた。隣席のパパはさっさと食事をすまして陽気にでかけていく。ママは茶の間でテレビを観ている。少年の愚鈍さはもはや覆しようのない日常の風景と化してしまっているかの如く、なんの突っ込みも入らずにいた。彼の生き地獄は普遍的な個性として揺るぎない場所を得ているのか。

 平らげた朝食の残骸が並ぶ盆を持ち立ち上がると、流しの水を張った桶に食器を沈めて、パン屑だらけの盆を洗い、もとあったところへ戻した。洗面所で口の中をブラシでゴシゴシして水で漱ぐ、外着に着替え、いつもなら準備して階下に携行してくるのだが、きょうは慌てていたので、二階の自室にデイパックを取りにいった。目的のものは机の上に置いてあった。本日の授業を時間割りで確認すると、きのうのままになっているデイパックの中身から使わない教科書やノートをだし始める。すると水に濡れて乾いたような、しわくちゃの封筒が入っているのに気づいた。

 初めは、なんだか合点がいかなかったが、それはきのうあの人物から受け取った手紙であることに思い至る。やはり夢なんかじゃなくて現実だったんだ。焦る手指を必死でなだめて、ゆっくり深呼吸をし、封印を解く。冒頭の一句は、邪魔者は消えました、とあり、なんのことだか皆目検討がつかない。理解不能の不快さで、続きを読もうにも、インクがすべて滲んで判読できない有様だった。

 混乱して、その場に座り込む。何故、と冷静さを取り戻そうと懸命に己の推理力を駆使してこの理不尽な状況を打開する姿勢と、答えようのない事態なのは重重承知だという、なんとも達観した自我が働いているから大丈夫じゃないかと安心する精神を、横目で、水にたわんでない教科書を観察しながら、強い意志のもとに二重写しにして思考は回り始めた。

 だが残念なことに思考は空転するばかりで意力だけが萎み、虚無だけが膨らみ、志向性と楽観への意志が、悲劇の気分に駆逐された。階下でママの呼ぶ声が何度もする。知らない間に、多くの時が流れたようだ。手にしたままだった手紙を折り曲げて、机上の封筒の中に戻した。虚しい気持ちで、薄ら笑いを浮かべ、デイパックの準備をすまし、無造作に置かれている例のものをひきだしにしまった。

 荷物を背負い、階段を下り、とぼとぼうつむいて玄関までの廊下を歩き、腰を降ろし、運動靴を履いたところで、背後に気配を感じていたママに聞こえるか聞こえないかほどの蚊の鳴く声で、学校いきたくないと勝手に口が動いてしまった。泣こうとしたが無理だったので、自分でもびっくりするくらいの哀れな悲痛の叫びでママを近寄らせると、頭を抱え土間を睨んだ。頭が痛いの? 風邪、きのう雨で濡れたのがいけなかったかしら、雨、きのうは雨だった! でも違う雨は上がっていたよ、下校は降ってなかった、濡れたのは水たまりの水がかかったんだよ、あらやだ雨はあんなに降ってたじゃないの、傘をいつも忘れるんだから、馬鹿ねえ。顔色悪いわね、きょうは休みなさい。熱があるか調べるわよ、さっ、二階で寝てなさい。体温計とってくるから。

 これ以降、夏休みが明けても少年は通学しなかった。自室に籠り、ノートに漫画を書いたり、鼻糞をほじったり、輪ゴムで遊んだりしていたが、もっとも熱中したのはビデオ鑑賞だった。

 狭苦しい自室に、いままで居間にあったテレビとビデオデッキを入れ、ヘッドホンなどのAV環境を整えたのも、すべて本棚の奥に押しやられていたビデオを偶然発見したからだ。このビデオは入手経路がなんであるかの具体的な記憶はまったくなかった。ただ表面のラベルに確かに自筆の自分の名が書かれていた。当初はおそらくパパが、少年が子供のころを撮ったビデオだろうと考えていた。

 まずは両親のいない昼に居間で観た。黒光りする投入口にビデオをくわえさせ、自動再生されたものは、もくもくした白煙に覆われ、チャプチャプ水音が聞こえるばかりだった。それでも少年は否応のない官能的な興奮を覚えた。既視感に襲われつつも、次第に明瞭さが増していく展開に、いつしか疑いは吹っ飛び、怪しげな世界に魅了される。

 音程の少しずれた鼻歌が、なにも身につけていない露わな細いかいなの湯を浴びる緩慢な振りに、湯気が押しのけられて、徐徐に上半身の裸像が拝める浴槽のショットにかぶされてゆく。もちろん顔も認識できる。顔だけがはっきりとしているといってもいい。知らない女の子だ。鼻息で液晶画面に曇りが生じるほど近づき、眼鏡越しの焦点も狂ってしまう。股間の血流が激するといった類の興奮ではない。脳が目覚めに目覚め、澄み切った朝の冷気に内面の水平線までパンフォーカスが利いてしまうみたいな感覚だった。映像自体は顔を接近させようが、しまいが終わりまで鑑賞してもピンボケのソフトフォーカスまがいのどこか現実感を欠いた連続でしかないのだが。兎にも角にも、アングルは多種多様だけど、ずっと少女の入浴シーンで占められた正味三分ほどの作品である。これを飽きもせず、自室に籠って毎日欠かさず何十回と繰り返し再生し続けた。主に深夜に観た。ヘッドホンを嵌め、布団で自身とテレビを覆い、カマクラのようにして視聴を、リモコンを握りしめて、眠くなるときまで続行するのだ。

 そんな無意味さを贅沢に浪費する生活を送っていたある日、いつもみたいに盆に載った夕餉は、ドアを隔てたあちら側に置いてもらい、運んできたママが一言声をかけ立ち去るとき、常套句のあと間をしばらく空けて、隣の木造アパートに住んでいる、このまえのずぶ濡れになって帰宅した日に少年を捜すのに協力もしてくれたという、浪人時代のうちより知っている大学生にきのう偶然会い、世間話をするうちに、勉強が滞っている少年の家庭教師を頼んでみたことを打ち明けた。それを聞いて少年は激怒した。なんで他人なんかに自分の恥ずかしい現状をこちらから告白せねばならないのか理解できなかったのだ。

 コンコンとママがノックして、室内に入った。先導される格好で目の前の動きを模倣する少年は椅子にかける。ママが大机を挟んだ相手に静かに語りだした。なんの前兆もなく急に暴れたり、深夜外出して明け方帰ってきたり、ウイスキーや煙草を嗜好したり、話しながらママはハンドバッグを開きハンカチを取りだし震える声を落ち着かせようと、必死にハンカチで鼻下を押さえた。声が聞こえるっていうんです。死ねって。それで気が狂いそうになって情緒不安定になるみたいなんです。治りますか? 一度入院してみましょう。早期治療に限りますので。いい? 少年はただうなずいた。

 寝覚めの悪い夢を見た。シンシンと冷え込む夜を跨ぎ、まだ寒さ残る雀鳴く朝のベッドのなかで、上体だけ起き上がってじっとしている。背に冷気が忍び寄るが、どうもここをでたくない気がして、ついに日常に萎えたかと現状を重く受け止めた。

 喉が日照り続きの作物の枯れる姿を脳裏に浮かばすほど、カラカラに乾いているが、この求めはどこまでいっても我慢できる範囲のものだった。部屋の湿度が保たれているのであろう。ベッドを取り囲むカーテンを開く気力すらいまだなく、まかりまちがっても自発的に水を汲みにいく必要も感じられない。外部のなんらかのアクションを得るしか打開される可能性は皆無だ。周囲には鼾の輪唱が展開されているだけだが。

 朝の光が背中に当たり、にわかに膠着状態が緩む。窓際の住人が窓のカーテンを開けたようだ。喧騒が鳴り響く。後ろでは鎧に身を固め、剣と盾を持った中世ヨーロッパの騎士が異教徒たちと戦闘している。横ではハープを爪弾く吟遊詩人。血湧き肉踊る世界。良い子ぶった児童が溺れる魔の世界。銃を構えたガンマンが、宿屋のまえで、悪徳保安官と町娘たちが見守るなか、決闘をする。

 ほどなくして高い声で生彩に起床を促す女性たちが入ってくる。カーテンをフライングで開けてしまった窓際の男性を闖入者はたしなめた。彼女たちは、朝の挨拶と光をもたらすカーテン開けが生業なのだ。その仕事を取り上げられたわけだ。怒られた男性は無言のままである。少年はなんだか彼のことが不憫に思えた。彼と話したことは何回かあったのだ。ひどい幻聴に悩まされているそうだが、好きな漫画について語りあった。こんど面会のとき、ママに家の漫画を持ってきてもらおう。それを彼に読んでもらいたい。

 男性は尖った鼻と耳をしており、額が広く、目は吊り上がって黒目がちで、全体として魔導士のような神秘性を湛えている。さらに彼はそんな印象を増幅するかの如く、いつもユダヤ教徒の祈りに使用する帽子みたいなのをかぶっていた。また、足が悪いらしく、ステッキの介助も必要とする。彼は陽光の渦中にまどろんでいるのか、冬の枯木に囲まれた東窓の墓地のほうを向いている。まだ昼食には早い時間帯の食堂で、彼が指定席に座っているのを少年は背後で観察しているのだ。

 大きな食堂には少年と彼しかいなかった。しずしずとスリッパを滑らして、少年は彼に声をかけるべく近づいていく。彼の横につけ、椅子の脇に斜めになって立てかけてある黒いステッキの頭に象られた星を凝視した。おかしいな、彼はボソリとだれにいうのでもないといった風に喋った。おかしい。少年はなんのことやらさっぱり判らないので、パチクリと眼前の景色を見やり、墓地になにか不審な点でもあるのかと、眺め回した。

 おかしいって、どこが、少年はまったく検討がつかないのでもどかしくなって、もっと月並みな呼びかけで話を始めるつもりで、間抜けな質問をすることが少少癪に障っても訊ねずにはいられなかった。時差ボケしないんだ、僕だけ、お母さんも弟もするのに。少年はてっきり眺めている風景のことをいっているもんだと思い込んでいたのでびっくりしてしまい、不快な気持ちにまでなってしまった。あと、アナウンサー、てどうなんだろう、与えられた原稿を読むだけ、それって意味あるのかな。

 近づいたことを激しく後悔したのと同時に不快な気持ちは怒りへと転化した。くだらないどうでもいい馬鹿じゃないの。嘲りの言葉がいくつも頭の上に浮かび破裂する少年をよそに彼は立ち上がった。コーヒー飲むかい。またもや予想外の展開で、少年は、またまた面食らってしまった。お茶飲んでるんで、少年は確かに手に湯飲みを持ち、そこには薄いお茶がまだ残っている。そんなの捨てちゃえよ。

 少年は、唯唯諾諾でステッキを持つ彼が、何食わぬ顔をして先に歩きだした。廊下を渡り、広間の横すぐに位置するベッドが六床並んだ部屋に入った。食堂で少年がお茶を流し台に捨てていたとき、隣のドリンクマシーンで白湯を自分のコップに満たたせていた彼は、少年の湯飲みにインスタントコーヒーのフィルターをつけると、そこにコップの白湯を注いだ。広間のソファで飲んで、少年の胃が痛くなる不安は消えていた。

 飲み干した余韻に興じていると、彼は少年にテントウ虫のデザインが施された漫画本を差しだし、受け取ってくれるよう願った。少年は入院中も家の漫画を持ち込み元気があれば読んでいたし、テレビアニメも欠かさず視聴していたほどで、この手の文化には詳しい自信があった。でも彼が渡した漫画はまったく知らない代物だった。彼のまえですぐ奥付けを確認すると、かなり古いものだと判った。それを裏づけるかのように、カバーもないし、いかにも時代を感じさせる。広間では、数人の男女がそれぞれ穏やかな顔で過ごしていた。

 翌日、彼の姿はなかった。少年がベッドで昨日渡された漫画本を読んでいる間に、退院していたのだ。昼食のとき、彼が指定席にいないことを知り、あとでひとに訊いて判った。その後、少年は以前より増して寡黙さを貫き通す。投薬治療も三ヶ月で成果がでて、もう幻聴は聞こえなくなった。三月、少年は退院する。

 

 

   

 

病院内で刈ったこざっぱりとした頭髪で、口笛を吹き、早春の街路を眼鏡のフレーム調整のため大型量販店へ向かった。級友のだれかにでくわすことをひどく恐れていたが、夜の九時を回っているので、塾帰りの児童を除けば、この時間帯にほっつき歩いている知り合いはいまいとの判断で勇気を持って外出した。なにしろ入院中というもの、風を感じられたのは数日しかなかったのだから。深夜徘徊していたころの衝動は薬で抑えられているにしろ、ありあまった体力の発散が必要なんだ。

 主治医には、軽度の薬を処方したとの説明を受けていたのだが、まったくその通りで、通常の生活を送られている。近過去を振り返れば、いたく順調に回復の軌道を描いているが、いかんせん、このままの流れで復学するのだけはどうしても嫌だった。もう学校のあんな連中と机を並べてお勉強ごっこをするのは、はらわた煮えくり返るほど抵抗感が逆巻いているのだ。

 あーやだやだ。考えただけでも死にたくなるね。電柱のLEDライトが辺りを照らす、曲がりくねった住宅街を抜けて、見晴らしのいい高台を望む。好きな場所だ。ゴミゴミした人工物を見下ろして、錆だらけのガードレールをガシッと掴む。何気なく横を向くと、あれ? 坂道を下った道路に光が躍り、近づいてくる。自転車の灯火だ。次第に立ち漕ぎをする男の姿が鮮明に浮き上がった。隣のアパートに間借りしている大学生、間違いなく、そのひとだ。

 ヒーヒー喘ぐ大学生は、こちらにようやく気づいた具合で、笑顔を見せ、自転車を止める。どのくらい振りなのか判然としないまま雑談をしているうちに、どうしても質問したい事柄が浮かんでいた。空談は途切れ途切れで、現状が外部に洩れるのを警戒していたのも直に会ってしまうと素直になってしまったのだが、お互いの近況報告や目的地などのたわいない進行のなかで、隙をみて切りだすタイミングを計ってはみたものの、思いっきりのよい発話に至らず、いい加減なことばかりが口をつく。結局、喋らないまま、社交辞令を繰り広げて別れるしかなかった。

 それからというもの、心ここにあらずの意気消沈した毎日を過ごしていた。家では中毒症状をきたしたのでインターネットは解約されていた。だから図書館のネットで大学生に質問したかったことを自力で調べようかとも思案するが、平日の日中は目立つし、ほかは同級生に会う頻度が高いので、無理だった。ケータイを買ってもらってネットに接続しようかとも画策しても親に無碍に断わられた。パパとママに訊くことも考えて、己の秘部に関わることなので自重せざるをえないと思ったが、勇気をだして訊くと知らないのだそうだ。パパが、嘘を吐いているかもしれなかったけど。ネットカフェに行くお金も、入院まえ小遣いで酒や煙草を買っていた失態が響き与えられておらず盗もうにも金庫に財産は保管され手だしできない。しょうがないので無銭飲食をする。夜、近所のネットカフェに素知らぬ顔で入店し、案内されたブースに陣取り、病院でもらった漫画本のタイトルを検索した。何万件かはヒットしたようだが、漫画のタイトルとしての情報は得られず、作者名も右に同じで、メロンクリームソーダをやけ喰いして終わってしまった。家に電話してもらい、呆れている店員と話しをつけ、少年はすごすごと独り帰宅した。

 悶悶とした数日を経て、再び、振り絞った勇気で、ママ、僕、勉強のいままでの遅れを取り戻したい、だから家庭教師を頼みたいんだ、と食前のドアを隔てた関係でかけあってみた。反応はすこぶるいいだろうと内心優等生ぶった己の発言に吐き気を催していながらも推量していた通りに運んだ。毎週金曜日午後二時に隣の大学生の下宿先で勉強することが決まった。平日の昼だったが、すぐ近くなので人目につかないと判断し了承した。

 真面目に学ぶ気は、さらさらない。漫画好きの大学生に、例の謎な本の正体を暴いてほしいだけだ。古い本っていっても戦中戦後の漫画ではない。大学生の知っている可能性は大いに期待できるはずだ。指導当日を控え、予習なんかせずに、もらった漫画の同じページを舐め回すように凝視し続ける。たまんない、たまんないなあ。けれど大いなる不安の種も去来していてその芽は、いまにも開きそうで、恐ろしいばかりだ。しかしそれもこれもこの本の真相を究明しないことには埒が明かない。ちなみに、本をくれた当人に先生を通して、連絡してみようともしたが、患者の個人情報の開示や病院関係者の介入は固く禁じられているとのことだった。

 そしてついに金曜日の二時、デイパックにノート、筆記用具などと、例の漫画本を詰め込んで、安アパートの玄関前に立ち、ノックをする。すぐに牛乳瓶の底のような眼鏡と無精髭、ボサボサの頭髪の冴えない大学生がジャージー姿で応答した。

 いきなり本題を突きつけるわけにはいかないので、漢字の書き取りテストを受けることに始まり、まずは現在の学力レベルを知るために用意された五教科のオリジナル試験が立て続けに執り行なわれた。ほとんどが空欄で埋め尽くされている。そんな意味のない答案用紙を大学生は、真剣な眼差しで採点していった。この間、持ってきたお菓子をパクつき水筒のお茶を飲んでいると、速くも赤ペンのチェックがまぶしい上に、0点の文字五つが綺麗に並んだ。

 教科書の類は昔のも含め、大学生に事前に準備をするとして預けられていた。そこからテストを作成したらしいが、すべて間違っていたので、大学生は今後の指導で頭を抱えてしまうんじゃないかと勝手に不安視していたら、彼は毅然とした態度で、将来、教師志望なのかは判らないが、教育熱心な父親のような優しい口調のなかに厳しさが滲みでる感じで、来週までやっておく課題をいくつかノートに書きだし説明を始める。

 でも知りたい欲求は、落胆する心を突き上げた。これネットで調べて情報がなにもないんだ。だから多分、同人誌なんだと思うんだけど、大学の漫研とか映研で、この漫画を映像化したものがあるんじゃないかと、ちょっと気になるというか、実はその未編集の断片を持っていて、その実作者のひとに会って訊きたいと思っていることがあって。自己内で混乱している本当の疑いは秘め、自分が狂っていておかしいんだと決めつけていたことが、なにかの間違いであってくれと、一縷の望みを託す。ああ、僕が漫研だって、まえに話したから訊くんだね。うちの大学なの? 出版元はふざけててよく判らない、でも近所の大学だと思うんです。そう、ほとんど幽霊部員みたいなもんだけど、僕もまがいなりにも漫研ではあるから。けっこう古いみたいだね、現役じゃなさそうだ、でも判った、貸してくれる、それ、一応みんなやOB、OGに当たってみるよ、あまり期待しないで待ってて。

 ビデオデッキがあるのを確認して、次の金曜日にまた来ることを約束し、教科書を持ち帰ったけど、七日間まったく課題に取り組まずにダラダラと過ごした。まだまだ春めくことには至らずに寒い日と比較的温暖な日が交互にくるものかと思いきや、なんだかポカポカ暖かく、常春の国のようであったが、だれも変だとは感じていないようだった。

 遅刻していったが、一週間後の大学生は開口一番に、玄関先で、漫画のことは大していい情報は得られなかった旨を明かした。残念な顔をした少年の肩を持ち、大学生はいたわるように彼を室内に導いた。あれがうちの大学で創られたかは判らなかった。でもコミケで売っている同人誌じゃあないかってみんないっていて、僕も同意見、でもだれも知らない漫画だったからパロディじゃなくて、オリジナル漫画じゃないかな、それで映研にも訊いてみたけどこっちも判らなかったんだ、と滔滔と語ってきた大学生の台詞に、少年はものすごい勢いで食らいついた。

 あれは、やっぱりアニメなんだ! 少年はひどく興奮し、立ったまま落ち着かない様子で大学生にとても不安な視線を寄せる。あれってなに? 大学生はうろたえるわけにはいかないと冷静な姿勢を崩さず、問い返した。ビデオ、未編集の断片みたいなの、まえ説明したよね! 少年は大学生の腕に手をやり、揺さ振るようにしていった。大学生は合点した風で、それ、いま持ってるの? もしかして、アニメ研の作品かどうかってことなの、という。

 確かめたいと思って持ってきたんだ、と少年は自分を奮い起こすみたいに低い声をだしてデイパックを覗いて、ビデオを緊張しているのがあからさまに判る振る舞いで手にした。だれにも存在を知られたくない神聖な品物ではあるが、真実をすべて明らかにして知りたい欲求と、このまま秘匿したい二律背反に襲われてきのうはなかなか寝つけなかった。でもいま感じている疑いが錯覚ではなくみなに自明な解なんだということを大学生に観てもらって立証したい気持ちが上回り持参してきた。

 しかしここにきて、まだ決心がつかずにいるのか、腰が引けた具合に、大学生に渡す段でもおっかなびっくりの体で、畳敷きの上のカーペットにカチンコチンになって正座し、視聴準備を恐ろしく淡淡とこなしていく大学生を直視しているのだ。戻られるのなら、戻りたい。一人で膝を抱えて震えてやり過ごし、自己充足で満たされていたい。謎をいま解き明かすのはもうやめて、夢の国で妖精と戯れ、草花を愛でて、生涯を無駄に生きて、ひっそり亡くなろう。

 だが現実はちっぽけな自意識なんて踏み潰して前に進むだけなのだ。大学生の背中越しに、もくもくとした蒸気の映像を観るのと同期で、下手な鼻歌が室内に谺した。湯煙が邪魔でなにが映っているか判らないよ、と彼はいう。次第に顔が見えます、と少年は間髪入れずに応じた。棒立ちの格好を胡座に変えて、大学生は、なになに、これ盗撮じゃん、風呂場の、変なもの観させないでよ、と口調を荒めて振り返り、少年を睨みつけた。

 くだらないのはもうやめにして、さあ勉強するよ、と彼は立ち上がりかけたが、少年は絶叫して顔のアップ画面に切り変わったのを示唆した。なになに、大学生は圧倒されて、映像をまじまじと眺めた。子供じゃないか! 幼児ポルノは犯罪だよ! この顔に見覚えはありませんか! 少年は正座からピョンと浮き立ってつま先で着地していった。なんなの一体、知らない娘だよ、どこで手に入れたんだよ、ほんとうにもうしまいだ、消すよ。

 リモコンを手にして、大学生はテレビの電源を切ってしまった。少年は腹の底より怒りを噴出させんばかりに大声で、やめろ! と怒鳴る、大学生は少年を無視し、机の前で国語の教材をめくって、さあ、座って、と少年を促す。いま観たのなんだと思います? 少年は攻撃的な態度を表明させるかのような立った姿勢で顎を突き上げながら彼に質問を浴びせかけた。なにって出来の悪いアダルトビデオだろ、いかにもバカな学生が創るような代物だな。

 半ば呆れ口調で喋り、鋭い無言の視線でしばし少年を見つめた彼は、少年の異変に驚いた。少年は、うつむきケタケタ笑い始めたのだ。これだ、これなんだ、と手近に置いてあった同人誌を掴むが早いか、天啓を受けた賢者みたいな上の空の顔を大学生に向け、アダルトビデオ確かに、それはもちろん実写ですよね、といった。大学生は、いまだ引きずる少年の話に表情を変え、いらだちを隠さず、乱暴な口振りで、あたりまえでしょ、とまさに少年がてぐすねひいて待っていた言葉を吐いた。

 てことは、同人誌のこのカットは、どう説明するんです? 少年は意地悪くいったが、相手が判るように丁寧に自分側から見て逆さに向きを転じさせ、恭しく大学生のほうへ近寄った。へ、ただの子供だろ、だれかに似てませんか! はあ、続け様になんのつもりだよ、変な質問ばかりして! いい加減にしろよ、いいたいことがあればちゃんと説明してみろよ! 大学生は青筋を立て抗弁した。

 少年は、ひるむ様子もなく、同人誌を開いたところで彼に渡して、コクリとうなずくと、畳に置いてあるリモコンを手にして、消えていたテレビとビデオのスイッチを点ける。そして巻き戻しをして湯煙のなか、大写しになった少女の顔で一時停止させた。大学生は、依然として不機嫌で苦虫を噛み潰したような表情をしている。映像も碌すっぽ観ていない。少年は声を思いっきり張り上げて、宣言するみたいに言葉を発する。ビデオの映像と同人誌の絵が、まったく同じなんですよ! 

 あっけにとられたような大学生は、言葉の意味が判らず、どうにか理解したい欲求が湧いたんだろう、画面を真剣に注視し、持っている同人誌にも視線を落として、お互いに見比べる具合に首を上下運動させた。少年はそれをさぞ満足した風にうかがうと、大学生の隣に仰仰しく座る。コーヒーでも淹れましょうか! 少年は喜喜として笑った。特撮だ、いや、ただの劇画だ、と知恵熱をださんばかりに硬直し目を充血させた大学生が掠れた声を絞りだしていった。

 リアルに写生されているだけなんだ! 彼は泣き声みたいに哀切な口振りで続け様に吠える。ちがうね、急に大人びたようになって少年はピシャリと大学生の意見を厳しく即座に否定。アニメなんだよ、両者とも日当たりの悪い薄汚い六畳間で光るテレビの静止画像を眺めて、しばし沈黙のときを過ごした。あれがアニメなのに、実写だと思い違いをしていた自分たちのこの世界も、すなわち同じアニメだということ、少年は天井を見上げていった。

 

 

   

 

 その後、コーヒーだけ飲んで学習指導はしないで二人は別れた。どこかであきらめるほどに自覚していることを必死で陳腐な常識によって括っていた懸案が大学生との遣り取りでもろくも瓦解して、なんだか清清しい心持だった。きょうから自室に閉じこもった生活はやめて、家族と食事を囲もうと少年は思い行動に移した。でもそうしているころには、この世界の真実を理解できても、あの娘が、だれなのかは判らないでいるのはつらかった。

 特別に飾るわけでも、他人行儀でもあるのでもない、かつての通りの食事を無事終えて、家族の一人をひさしぶりに演じたのでなんだか疲れてしまい、居間でテレビを観てさらに父母にサービスをしようかとも考えを巡らせてはいたのだが、食後すぐ自室に戻った。

 虚しさは、とどまることを知らずに、少年の全存在を飲み込もうとしている。どうしてでも死にたくなった。

 閉め切ったカーテンのあちら側に風が当たり、窓が音を立たせたかと思うと、ポツポツした雨音の前兆のないザーザー降りの大雨の響きが急に室内で体育座りをしている少年の耳に届けられた。なんだか冷えてきたので階下にいって、ママに上着をだしてもらってはおった。そして散歩にいってくるとなぜだかあまり考えなくいってしまっていた。時計は七時を指している。ママは少し躊躇したが、いまは雨がひどいから小降りになるのを待っていきなさいね、と注意を促し許してくれた。数分後、雨はシトシトとその勢いを弱めた。

 傘を持って外にでても憂鬱さは回復せず、息苦しいばかりだった。耳栓をしたように知覚能力が著しく奪われ、さきほど消化した夕飯を吐いてしまいそうなほどつらい身体をなんとか引っ張って無理矢理に意味もなく街路を歩き回る。児童公園を三周したところで我に返り、近くの高層マンションに吸い込まれていった。飛び降りるためだ。投身自殺か、へっ、傑作だ。

 だが最上階まで登ったはいいが、階段の塀が想像していたよりも高く飛び越えられず仕方なく引き揚げた。また傘を差して、降り止まない雨のなか、今度はコンビニエンスストアへ向かった。迷いなくカッターナイフの売り場までくると、最も大きいのを手にして、閉じた傘の隙間にストンと落とす。そのまま傘を開かずに店から全速力で駆けだす。角を曲がり、ビルの間に隠れると、商品の包装をモタモタしながら取り外し、深呼吸をして、手首に刃を当てた。血管が硬い。駄目だ。

 カッターをパンツのポケットにしまうと、濡れた頭髪になんらかまうことなく再度、傘を広げ、公園へ向かった。だれもいない陰気な夜の公園の公衆便所に入り、個室トイレの鍵を閉め便器に座り頭を抱えた。毛髪の水分が指に滴り、幾筋も頬を伝う、上着を脱ぎ、扉の上についているフックに両袖を縛ってワッカにした服の襟元をかけた。緩い輪のなかに首を通し、甘い嘆息を吐く。

 腰を落とし、首にすべての体重をかけた。真っ暗な世界で、自分の名前が呼ばれた。いや呼ばれたんじゃない、自分の名前を名乗ったんだ。上着が裂け、尻餅をつき、少年は頭を何度もグラグラ激しく揺らし、その異常な痙攣状態がまるで理解できずに、繰り言をいってうろたえるしかなかった。股が開かれ、お小水をこぼしたが、揺れの治まった頭部のダメージは、なんの痛さの感覚もなくて、正常そのものに思えた。首がしめつけられるような感じもない。

 自慰行為を終えたときみたいに、そそくさと身繕いをすると、個室トイレをでて、鏡を見たけど暗いからか自分の身なりを確認することができなく不安であったが、無事にまっすぐ家に帰った。風呂に入り、何ごともなかったように、いつも通りに寝た。なんで自殺なんかしようと思ったんだろう、少年は安心しきった面持ちで、朝方のまどろみのなか、そう述懐した。けど、急に血が凍ったみたいに身体の異変が生じだした。血流が止まり、手足のさきの感覚が消えてしまうとさえ思える、追い詰められた症状を来している。

 救急車を呼ぼうにも、大事にしたくない羞恥心が上回って自重した。しかしこれが異常事態なのは間違いない。冷凍人間になり死を迎えてしまうような切羽詰った際。布団をでるのもやっとだったが、なんとか這いでて台所まで降りていった。水をコップ一杯飲む。素足を椅子に座って観察すると、なんの変化も見受けられなかった。寝ている姿勢よりかは、身体は痛くない。ひたすら恐かった。どんな病が自分を侵しているのか、想像もできない。

 この世界に死は、あるんだろうか。壊れたものも怪我も病気もいつのまにかなおる。いったい、この苦しみの源泉はなんなのか。命を粗末に使った報いだろうか。あの娘に会えないで死に絶えてしまうのか。でもどうせ彼女は虚構だ、自分もだけど。そんなものに尊い命の価値なんかあるのか。ただ毎日が虚しく続いていくだけ。いつトイレでちゃんと用を足した、まえはいつ風呂に入った、きのうなに食べた、いま何年の何月の何日なんだ! まったく判らんではないか! 若年性健忘症じゃないんだぞ!

 いつのまにか外にボーダーのパジャマで飛びだした。郵便受けの朝刊できょうの日付を調べようとしたらどこにも載っていなかった。早朝に活動をする様様なひとたちを尻目に繁華街に向けて猛突進していく。鼻息荒く眼鏡をかけ忘れて、さらに裸足でもあるといった無防備で投げやりな焦燥感に満たされた軽率すぎる行動。工場の健康的な機械音が心を鼓舞してやまない。みなに祝福を伝えたい。きみたちは、素晴らしいひとたちだ、ありがとう! 国道にでて、北に進路をとった。グッドモーニング! 信号待ちしている白人男性二人組みに挨拶した。

 道路沿いのデパートで、彼女との結婚指輪を買いたかったが、もちろん財布などは持ち合わせていない。強盗しようともしたが、下見だけでもいいと駐車場を横切って店内に入っていく寸前に、そもそもまだ開店していないし、白いラインから自分は離れるわけにはいかないとの指令が下った。そうか、そうか、まずは駅前か、土地開発の件でね、いきゆく人たちに、一人ずつ挨拶をかわして先へ急いだ。

 あのときは、ほんとうに大変だった。いくら考えてもどう打開するのが妥当であったかまったく名案が浮かばない。いまベッドのなかで回想していられるのが奇跡のようだ。駅前に着くなり、地上げされた区画をかぎつけ、お祓いのために、おはようございますと連呼して何度も右手を頭のまえで横に振った。会議に遅れそうな若い男が、向うから走ってきてすれ違った。途端にうつむいて銀行の入口に並んでいる空のペットボトルを歩きながら見て帰路を急ぐ。もう白線に従わなくていい。

 しばらくすると紅茶を飲みたい強迫観念にかかり、お金を持っていないが、どうにか頼み込んで頂こうと、ファーストフード店にいったが、なんのためらいもなく断わられたので怒り心頭に発し、レジスターを引っくり返してやった。自転車泥棒をしてその場を迅速に立ち去り、同じ国道沿いのドーナツ店でも再度無料で紅茶を分けてもらおうとするも、やはり断わられたのだが、テーブル席の客が気前よく恵んでくれた。あなたは必ず天国へいけますよ、と軽口を叩いた。

 三杯紅茶を飲まないといけない、朝刊の広告で受けた天啓を実践すべく今度はゆきつけだったレンタルビデオ店を覗いた。初見の店員に自販機代をせびったがまたもや断られた。失意の心境で駐車場に停めてあったRV車の屋根によじ登り、社員寮との塀を越えて細道を駆けだし、パジャマを脱いでゆく。空き地にでて、すべてのひとたちに伝えるべく、より一層注目を集めるために全裸になり、腕を大きく振って、自工が原爆造ってる! 自工が原爆造ってるぞ! と声を嗄らして叫ぶ。みな、ネットに接続せよ、拡散せよ!

 どこからともなく湧いてでた警官らに四方を囲まれ、力づくでパトカーに押し込められる。撃たれる! 狙撃手が狙っているので、乗るもんか、乗ってたまるか! 頭を平手で叩かれ、首根っこを掴まれグイグイ横倒しにして収監させられた。近くの警察署に連行され、バラバラになった衣服をかき集めてきたようで、手際よく玄関ホールで着せられた。俺の父親は韓国人だ! 公務員だぞ! 外国人は公務員になれんわい! 怒声が虚しく響くだけ。

 一挙に芝居小屋に成り果てた尋問部屋で、丸椅子に張りついて、大勢の男たちと対峙する。サイクロプスだ、サイクロプスが見える。遺伝子組み換えと臓器売買の暴走で各地にモンスターが現実に出現する未来がくる。カタカタ、カタカタ、傷だらけの灰色の机に手の爪で言葉を刻み込む。遥か遠く水没した日本列島の海上で、この机が引き上げられるだろう。古代の石板よろしく、現代の記録が発見され調査されるのだ。

 暗殺だ! 暗殺者が壁の向こうにいる。壁沿いのここは危険極まりない。ギチギチに机と椅子の距離を縮める。精神病院という声が聞こえる。早くも入院歴があることが露見したのか。案の定、このまま病院送りになり、また治療に専念する入院期間が始まった。真相を確かめたい漫画をくれた男性がやはり再入院しているはずもなく、ずっと例の娘の存在を脳裏に思い浮かべる日日だった。暴れるため隔離室での生活。苦しい毎日は慣れるものではない。喉の渇きを、どうしても我慢できずに、自分の尿を飲んだ。それでもいつしか一般病棟に移され、この手記を書くことだけが生きる希望だった。

 

 

   

 

声が聞こえてくる病を発症したのは、調子がいいので薬を服用していなかったのが主な原因だった。なので退院する日の別れ際、看護師にちゃんと毎日処方の通りに従うことを諭された。対症療法ではなく、治療薬だ、ともいい添えられる。己の甘い判断を呪いつつ、どうせこの世界は、とどうでもいいように不貞腐れたが、解きたい謎を胸の内に秘め、家に帰ったら、例のアニメ、つまりは現在の世界の成り立ちについて詳しく調べようという強い決意だけは持ったものの、具体的にどうするかはまったく見当もつかず、呆然とママに連れられ家路に着くほかなかった。

 投薬の副作用で、生活の意欲が著しく低下し、昼間でも床に臥す日が続く。どれだけ寝たきりの生活が続いたことだろう。そんな折、ふいにあのとき以来顔を合わせることのなかった、家庭教師をしてくれた隣人の大学生がお見舞いにきてくれた。ママがまた偶然軒先で出会い少年が体調を崩し、入院して退院した旨を伝えたのだという。まえは激怒した自分の境遇の打ち明けも今回はなにも感じなかった。これも薬の作用だろうか。

 前回の入退院前後の期間同様、少年は二階の自室に閉じこもりの生活をしていた。もちろんのこと部屋は荒れに荒れ散散たる情景に瀕しているので、ここに大学生を迎え入れることは、憚られた。そういったわけでひさし振りに一階の居間で彼と相対するのだったが、大学生は目を合わせようとせず、ひどくオドオドした落ち着かない様子である。

 最後に会ったときみたいに黄昏時の淡い光が室内を満たしていた。台所ではママが紅茶の準備をしているようだ。大学生は座布団に正座して肩を怒らせうつむいてなにも喋らない。少年は足を崩し、日課であるテレビ番組を観ている。自室にはテレビ線を繋げていたが、サイズは新調した居間のほうが大きかった。ママが盆に載せたティーカップと茶菓子を持ってきて、どうせまた再放送でしょと、テレビを切るように少年を厳しく叱る。少年は素直に応じるも、大学生が慌てて止めに入ったはいいが、ママの言葉に反対するのにもさらに遠慮して腰砕けになった。

 彼は半笑いの顔で、ママが置いていった茶菓子をパクついて表情を変えていう。ここでは話せない情報があるんだ。僕の部屋にまたきてくれないかい。喋り終わるころにはまたにやついた顔になっていた大学生は、声を大にして、ハハ、元気そうでなによりです、安心しましたよ、と台所に立つママに聞こえる様、わざとらしい放言をし、紅茶を一気飲みして退散した。

 ビデオと同人誌を彼の部屋に忘れていったことを思いだしたのは、数日後にカビ臭くてちょっと懐かしいあの六畳間に通されてすぐだった。あんなに大事にしていた二点についてすっかり忘却していた自分を笑った。退院直後の考えが変わり、現在の彼女の所在ばかりを妄想していて、その始原に遡るのを蓋していたのか。大学生は無言でテレビのスイッチを入れ、ビデオをデッキに挿入した。リモコンを持ち、早送りをし、ある画面で一時停止させ、少年を見ることなくこういった。

 右隅にアナログって字があるよね、つまりこのビデオは当時のテレビの映像で、二〇一一年頃の放送なんじゃないかと思うんだよ、少年は要領を得ない顔つきで画面に集中する。二〇一一年? ところで今年は何年なんです? 判らない、いまの世界はきみが証明した通り曖昧なアニメの世界なんでね。だんだん事態は深刻で悪化しているようだ。全体の時間がなくなって、コミュニティによってのバラバラな時間だけがあるみたいなんだ。アナログ放送が終了したその年に、ビデオの世界もここもなんらかの障害が起き、放送されることなく閉じ込められたんじゃないか、と僕は思うんだ。なぜならそれ以降のメディアの資料がまったく整合性がつかないんだよ。例のビデオと同人誌が残っているのは、どれも私的なきれぎれなもので特定されず、検索に引っかからなかったからじゃないかな。ビデオは、走査線が見えるのでテレビの再撮みたいだしね。だれかが意図的に画一的な情報を消去したんだろう。だって画像検索してもなにしても、テレビ放映しているのに、正体不明なアニメの世界なんだから。

 世界がおかしいのか、自分たちがおかしいのか。二人は、しばらく黙りこくった。なんでそんなことになったんだろう、少年はとまどい気味に大学生にすがりつかんばかりな訴えの視線を送った。デジタル放送に切り換わるまえのときに、いってみないことには判らないな。なにいってるの? そんな無理な話ししてても意味ないよ、もっといい方策があるはずだ! 考えようよ、ね。

 だが彼は遮るようにいう。いままでのリアリティのない展開をみても思考停止になるほど充分に異常な状況にさらされているけど、実はもっと、いや現状により似つかわしいのかもしれないが、うちの大学に変な教授がいてね、なんというか信じてもらうには荒唐無稽すぎるんだが、近所の空き地で壊れた機械を拾ったんだ、でそれがどうやらタイムマシンらしいって教授は主張している、研究室に持ち込んで修理したんだよ、僕も手伝った、でもまだ試験さえしてないんだ、もしかしたらそれで二〇一一年にいけるかも、なんてハハハ馬鹿らしいだろ、いいんだよ、すべては狂っている、狂っているんだ、それに、じつはなんとそのタイムマシンの初期設定が、そのアナログ放送終了直前の日なんだよ、おそらく、なにものかが未来からやってきてこの世界を壊したんだ、大学生は泣きだした。

 いいんですよ、虚構なんだから。僕は信じます。そして僕がタイムマシンの実験台になりましょう。アナログ放送が終わる直前の日にいって、真実を確かめにいきます。ぜひあなたの研究室に連れていってください。いますぐでもいいですよ。僕にもどうしても知りたいことがあるんですから、それにこの世界には死はないはずなので、生きて帰られると思います。

 いますぐはまずい。なによりこの計画は二人だけの秘密にしたほうがいい。教授にも内密にことを運ぶんだ。小学生を危険な実験に使うなんてことが周りに知られたらとんでもない騒ぎになるからね。タイムマシンは一人乗りなんだ、本当は僕が乗るべきなんだろうが、まずマシンに慣れたものが外部から操作しないといけないんだよ、残酷で情けないけどきみに任せるしかない。一週間、待ってくれ。夜こっそり研究室に忍び込む算段を立てておくから。でも教授に怒られませんか? 案ずるな、きみがしたように説明してみせるまでさ。

 二人は潤んだ瞳で見つめあった。少年も涙を浮かべていたのだ。あの少女の謎が解ける可能性がほんの少しでもある喜びに打ち震えていた。

 もどかしく緩慢なときが流れるなか、甘美に彫琢されるみたいな内なる思いを、肉体で包んで、彼女への恋慕に己が不幸の連鎖を重ね、負を切断し、充実した大団円に向かって規則正しく生きるのに努めた。死なないかもしれないが、帰ってこられないのやもしれん。次第にそんな不安が胸をかすった。パパとママとダイニングで、また食事を共に摂るようにした。最後の晩餐の記憶はなかった。いままで見守ってくれた両親に、深く深く感謝した。

 夜の十二時を回って家のものが夢の世界に招待されているうちに、布団より這いでて、用意していたジャージーに着替え、替えの服や薬の入ったリュックサックを背負い、キャップをかぶり、音を立てないよう階段を下り、廊下を渡り、靴を履き、玄関をそっと開いて外に向かう。道路を隔てた塀のまえの電信柱に人影が認められた。影は動き、近づくにつれ大学生へと姿を変える。早かったな、そう彼はつぶやくと、電車はもうないから自転車でいくよ、と隣の木造アパートの駐車場で愛用のものに跨ると、盗難車だけど、それに乗ってと並んでいた緑の自転車を指していった。

 えっ、僕、自転車無理なんです、無理? 乗ったことないの! はい。大学生はもの悲しい顔を薄暗い街灯に浮び表して嘆息を吐くと、じゃあ荷台に跨りな、と駐車場から自転車を引いて道路に止めた。ほんとにきみのパパとママには、ないもいわなくていいんだね、と大学生がだし抜けに背中を見せる格好で訊ねてきたので少年はびっくりした。

 家出したって騒ぎになるだけです、捜さないでくださいと置き手紙を残してきたので。大学生は黙黙とペダルを漕ぎ続け、小一時間かけて大学に着いた。自転車を降りて、二人乗りはもっときついね、と彼はいつぞやのときみたいに息を切らしていう。適当な場所に自転車を止めたのち、少年はじゃあ着いてきて、という頼もしくみえる大学生を従順に追いかけた。校舎にはチラホラ灯りがあった。古めかしい建物のまえにやってくると、ここだ、いよいよだね、興奮を隠さず彼の声は若干震えている。

 潜入は、いとも簡単だった。研究室は、一階隅にあり、大学生は鍵を開け、念には念を入れてか持参したライトを点け、雑然と資料が山積みされている部屋を横切り、隣室の地下に伸びる階段を下りた先に構えた鉄扉を開くと、ビニールシートにかけられた問題の物らしきものがあった。動かしかたは、だいたい判っているんだけど、だいたい? 少年は咄嗟に不安を口にした。大丈夫だよ、一応これでいつのまにかチーフだからね。大学生は、物と距離をおいて立っている細い柱のようなものの電源を点けた。

 これで遠隔操作するのさ、夕飯は抜いてきた? は、そうか夕食は食べなかったのか。えっ、いえいえなんでもないです。タイムマシンで時空を超えるのは、過酷なダメージを心身ともに受けるからね、嘔吐を催したり場合によっては意識を失ったりするかもしれない。はい、覚悟はできています。じゃあ、裸になって。衣服はマシンのなかにセットして、向こうにいったら着るように。少年はテキパキと準備を始める。

 上半身裸になった少年を後ろに、大学生はビニールシートを剥がした。そこにはピカピカに光る球体のふしぎな機械の姿があった。なにぶんなにもかもすべて推量でしかないんだけどね、彼は服を畳んだ上に、キャップと靴と靴下を載せて持っている少年にいった。機械ごとタイムスリップすると考えられる、戻るときは、と言葉を切り、球体についているボタンを押すとなかに潜り込むための揚げ蓋が開き、これを引いてくれればいいと、黄色いレバーを指さした。

 下はなかで脱ぐよ、判った、でも狭いよ、大丈夫かな、じゃあ、もう乗っていいの、ああ準備万端整った。眼鏡は? あー、いけない、いけない、それも服と同じ開き戸にしまって。少年は中腰になって、片足を上げるとおずおずと揺れてバランスを崩し、のめり込むように入口が開いた球体の機械のなかに身体を突っ込んだ。強か頭部をクッションの利いた座席にぶつけた。いてて、壊れてないよね。

 体勢を正常に戻し、パンツに手をつけていると、大学生が揚げ蓋に手をかけ、覗く格好で、きみは覚悟ができているようだけど、と続きの言葉を詰まらせたあとで、理論的には過去にしかいけない、絞りだす慚愧に堪えない物言いだった。少年は、にっこり笑った。感動屋の彼は瞼をしばし閉じ、端から判っていると思うが、タイムパラドックスは気にしなくていい、世界を変えてきてくれ、といい僕はありがとう、と返した。彼が預かっていた所持品を少年に渡した。リュックの上に封筒が載っていた。なにかと訊ねると、彼は過去の自分に渡す手紙と幾ばくかの現金が入っていると打ち明けた。困ったときは僕を訪ねてくれ、きみのいうことを信じないかもしれないが、この手紙を読めばきっと力になってくれると信じているよ。そして、パンツ、あとシートベルト忘れずにな、というのが彼との最後の言葉になった。彼は柱に戻り、モニターを見ながら神妙な顔でしめくくりの作業をする。二〇一一年七月二十三日に少年は、タイムトラベルした。光の塊が消えたあと、室内に床をコツコツ叩く音が谺した。

 

 

   

 

 到着の心配はすべて杞憂に終わった。吐き気も失神もないままに、少年は軽やかな足取りで日光輝く見慣れた空き地に立ったのだ。もちろん眼鏡をかけ、衣服も身に着け、リュックを担ぎ、キャップを目深にかぶり、土管の裏に、球体の機械が置かれている佇まいが異様なのを除けば、元気溌溂のなんの落ち度もない小学生である。目のまえの世界も、何年下ったのかは定かではないが、何の変哲もない景色だ。未来人よりさきかあとか。もう一台のタイムマシンはざっと見渡す限りにおいては見当たらない。うまく隠してあるのか、修理したマシンは日にちの設定はできても、正確な時間までは無理だった。いくらかタイムラグと場所の誤差があることが明らかだ。

 それにしても、ほんとにここはまえと違うのか、狐につままれた面持ちだ。しかし、そんな悠長なことを考えている暇なんてないのだ。すぐ行動を起こさねば。まず大学生はいい忘れたようだが、球体内部にあったビニールシートでマシンを隠そう。まだ目にはついてないはずだ。シートを土管の上に載せ、自分の歪んだ顔を映して、信じられないほど軽い球体をコロコロ押して空き地の奥の茂みに移動させ、上からシートをかぶせた。これでよし。少年は踵を返すと、走って自宅へと向かった。

 街にも変化はなかった。息も絶え絶えで家までやってくると、鍵が開いている玄関を確認して、そっとなかを、呼吸を整えつつ、うかがった。しめた自分の靴がない。この時代の僕は、どうやら外出中らしい。少年が考えていたことは、この日の自室の本棚に例のビデオが置いてあるのかどうかだった。あれをだれが持ち込んだのか。そこをとっかかりに愛する少女の正体を暴き、ひいてはこの世界の謎が解明できるもんだと強引にも信じていたのだ。

 いざとなったら自分を問い詰めるしかない。あとは未来人がなにかしてくるのを押し入れに隠れて様子をみるか。そんな新しい計画を企てつつ、靴を持って侵入し、階段で音を立てないよう慎重に上がる。だれもいないはずの部屋のまえでリュックに靴をしまい、ドアを開けると、布団を敷いて寝ているものと、見知らぬ猫が一匹、学習机に乗っていた。珍しい青い毛の猫だ。赤い首輪に金色の鈴をつけ、尻尾のさきも赤く、耳がなかった。寝ているものは、頭から布団をかぶっており、おそらく自分なんだろうが、昼寝をしているのか。

 青猫は憔悴しきっているみたいでハァハァ息をしていた。目線をようやく上げ、少年を認識したと思ったら、やあ、ちょうどいいときにきたね、と喋った。裏山にでも遊びにいったの、その格好は。少年は布団の自分の声だと信じたかったが、声音が違った。とにかくなにかの聞き間違いだろうとドアを後ろ手で閉めて、静かに入室する。そこに寝ているの二十二世紀からきた殺し屋なんだ、僕たちがタイムパラドックスを犯す罪人と決めつけて抹殺しにきたんだよ、でももう大丈夫、奴の記憶も消したし、姿も変えさせて、無能力化したから、平気さ、安心していいよ。

 えっ、死んでいるの? だれが喋っているのかまだ判然としないので少年は周囲を見回してそういった。殺してないよ、こいつは人間だからね、僕は人殺しができない。ずっとここで暮らしてもらうんだよ、連絡がなくて不審に思って新手がやってきてもダミーになるだろうし、それなら言い逃れができるだろうしね、それで僕たちは逃げなくちゃいけない、いますぐにだ。少年の目の焦点はぼやけ、頭が沸騰するように熱くなった。

 眠っているの? そうさ、さあ彼女も連れていくよ、すぐ連れてくるんで待っておいで、そう声はいうと、いつのまにか猫が視界より消えていた。少年は、なんだかとんでもない思い違いをいままでずっとしてきたかのような、なんともいえない心境に落ち込んでいった。しかし足が動き、本棚のまえに立ち、ガサゴソ本をさばくると、お目当てのビデオテープがあった。調べはついている、このビデオは少年の所有物だ。え? 全身を稲妻がほとばしる。そうだ、いま思いだしたぞ、俺は二十二世紀からやってきた殺し屋だ!

 ひとの気配を感じて、ふと机に向き直ると、青い猫とピンクのワンピースを着たおさげの女の子の姿があった。彼女がゆっくり振り返る。あの少女だ。俺は腰ベルトに差してあるナイフに手を這わせた。さあ、いくよこれより現実の世界にタイムワープする! いまの名前を捨ててきょうから二人は別の人間として生きるんだ、いいね。この世界での僕と彼女の記憶も記録もすべて消す。女の子が泣きだす。え、大げさすぎるって、と泣いている彼女の反応に、妹によると実はことがでかくなりそうなんだ、時空警察が動きだすまえに先手を打たないと駄目なんだよ、僕らの無実はいまのところ通らないみたいで、さらに大罪を犯すことにはなるんだけど僕らのためなんだ、でも妹が問題を解決してくれたら、またもとに戻れると思うよ、約束する、という。好奇心に駆られ、思わず聞き入ってしまう。そう喋っているのはやはり猫で、奴は机のひきだしを開くとなかに飛び込んでしまった。

 少女も躊躇なく続いてなかに吸い込まれた。ターゲットは三人。猫、少年、少女。雇い主がだれかは思いだせず靄をさまよっている。ひきだしのなかを覗くと、巨大な空間が下に広がっていて、空間内に浮いている台の上に猫と少女が乗っている。猫がなにやら操縦棹のようなものを操作する。謎の空間にはアナログ時計が奇妙に歪んで溶けているみたいな図像が、無限に蠢いている。俺は台の上に飛び乗った。そして猫を背後からナイフで一刺しした。

 馬乗りになり、後頭部や背を何度も執拗に刺し続けた。こいつロボットなのか! この世界に死はあるんだぞ! 刃の欠けたナイフをめり込んで配線やらが飛びだしている首元から引っこ抜くと、猫は最後の力を振り絞ってか眼前のボタンを押す。すると宙に浮いていた台が動きだした。そっちに気を取られていると、猫がすごい顔で飛びかかってきて、その勢いで俺と猫は台をはみだし、奈落の底へと落ちていった。ずっと少女の悲鳴が聞こえているようだった。

 

 

   

 

惚けた目の子で、暮れゆく夕空を見つめている。瞼を閉じ、赤い滲む血潮が逆巻くインナーワールドに沈んでまた橙色の落日に移り変わってはまたサイケデリックな一人の内省へと向かう。お遊びは、ここまでだ。分離しているんだ。景色を見るのと同期して内省ができない。夕陽に引っ張られる。光で頭が一杯になる。意識の回復につれ、身体的苦難がいじわるに待ち構えていた。動くだろうか。軋む手脚に上から順繰りに力を入れようとするも、激痛が走り、倒れたまま瞑っていた目が開き坂になっている途で天を仰いだ。あの猫、人殺しできないっていったのに、これは未必の故意なんじゃないのか。俺の攻撃で制御プログラムが無効にでもなったのか。キャップは、どこかへ飛ばされており、リュックは自身の体重で潰れている。

 再度、逆さに日没を視野に入れ、ここは何年だろう、とやっと外と内とがスムーズに遮断されることなく、相反する事物と事実が合致しても苦にならずに続行させられるようになった。

 曲がった眼鏡のフレームが、引っかかっている耳に、なんとか収まっている。だが、起き上がれば、すぐにでもバランスを失って外れてしまうだろう。遠くの風景は、認識できるも、首が固まっているため、間近の空間把握ができない。地面は人工的に造られているのだが、神経が届く指の感触で掴められるくらいだ。距離を隔てられた太陽の近景には大きな木立とフェンス、四、五階建ての校舎のような建築物などが見てとれる。陽は、どんどん傾くとともに、周りの暗さが増すなかで、より輝きを、己の有終を飾るように、そして断末魔の叫びみたいに往生際悪く、この世界に浴びせている。

 自分は、もう死ぬ。さきほど雷鳴の如き直感で知らされた思いは、真実だろう。任務は遂行の達成を果たせないで終わる。しかし俺の存在が本当はなんだったかが判っただけでもよかったといえる。でも自身の塗り重ねてきた人生の時間、運動の記憶はまったくもって綺麗さっぱり拭い去られていた。名前すら頭に浮かぶことはない。ただ俺の職務がぼやけた脳裏に、刻まれているのだ。

 血液が脈打つ早鐘が、ゆるやかにその速度を落とそうとしていた。日没前、最後の光は、ますます赤く燃えたぎり、俺の血の止まる瞬間まで、まだ明度を維持してくれるらしい。いや、とっぷりと陽の沈んだ暗がりの空間で、安らかな終わりを迎えたく思う。太陽が没するのを見届けてから逝きたい。同時に死にたい。そうだ、俺は太陽とともに、いやあの燃え盛る恒星に赴くんだ。長い旅になりそうだ。きっとなる。きっと。違う、俺は光のスピードで、アンドロメダまでいくんだ。これこそ気の遠くなる旅路だ。

 見納めにしようと、上目遣いで眩しい発光源を睨みつける。茫漠たる薄れた記憶の海に、しっかりと残すために。赤く燃える横にたなびいた雲がなによりも美しい。死んでもこの光景だけは、額に入れた名画のように保存しておきたいと願う。感傷的な最期だ。我ながら恥ずかしい。ゆっくりと目を閉じる。最低だ。俺には魂がない。自意識だけ。死んでも、永遠になれない。こんな大言壮語な願いなど、人類の記憶の大海に呑まれて、なんのことだったかなんて、すべて忘却の彼方だ。

 夥しい赤で塗りたくられた自閉する場に、漆黒の闇が訪れようとしている。孤絶された哀れな有機体がついに天に召される頃合にとうとうなったわけだ。

 そのとき、地面を響かせる靴音が鳴った。ツカツカ、間の空いたピッチが、いきなり速まる。どんどん近づいてきて、ピタリと止まった。目を開くことができない。かぐわしい香りがしたと思うと、どうしたの、と声をかけられた。女性なのは間違いないだろう。血が。女性は助けを呼ぼうとしている。俺は最後の力を振り絞るというより、全身の力を抜いて目を開けた。ぼんやり片足を上げてフェンスに止まっている鴉を見る。ああここはもといた狂った世界だ。戻ってきたのか。あ、そういえば、タイムマシンの柱が六芒星の形だった。すべて運命だったんだな、とふいに降りてきた思いを静かに確信した。

そして、続け様に雇い主にもゆき着いた。こんなベレー帽をかぶった女性だった。彼女は俺を見棄てたんだ。猫たちを追ったんだろうが、俺が仕留めた。突然、リボンをつけた黄色い猫が光って猛然とやってくる。陽は沈んだ。俺は生きている。俺の名前? 名前を呼ばれた気がした。ナイフを強く握りしめ、振りかざす。

俺は、あの娘が好きだ。

つぎの瞬間、眼鏡がずれ落ちた。牛乳瓶の底のような眼鏡だった。

大人が、デイパックを背負い歩いている。空家に独り佇むもの。下宿で暴れて任意入院する男。退院し、誰もいない部屋で、饒舌に会話している。自殺企図をし、朝に全裸で警察に捕まり、解放後、深夜大学に忍び込み、日が明けて空き地で目を覚まし、また空家に忍び込み、そして学校で倒れているのは、無精髭を生やし、髪がボサボサな度の強い眼鏡をかけていた大学生そのひとだった。血が噴きだす。

ながい旅

 

GWに2泊3日で、東京へ遊びに行きました。

いきなり地元の駅で、数秒間合わずに電車に乗り遅れ、これは幸先悪いと危惧しましたけど、震度5弱の地震のほかには、トラブルもなく無事過ごせました。

新幹線内で『「瀧口入道」異聞』を読了。

2時に品川着、ホテルのある蒲田でココイチカレーを食したあと、3時チェックイン。

新宿の紀伊国屋書店本店の2階で兄と4時半に待ち合わせ。

おすぎを見た。

さすが大江さんや春樹さんも常連なわけだ。

でも、おすぎとは、むかし早稲田でも2回擦れ違ったことがある。

書店では、『文芸誌編集実記』『ズボンをはいた雲』『イマジネーションの戦争』『学生との対話』を購入。

ホテルでパラ見したら寺田博の本に、入沢康夫高橋新吉のことが書いてあり、『ズボンをはいた雲』は入沢の序文があり、『イマジネーションの戦争』は高橋の「うちわ」が載っていたので、本同士の繋がりを感じ面白かった。

ドトール前のベンチで休憩して、模索舎へ。

『未完結の問い』(大西巨人×鎌田哲哉)を買う。

兄はジジェクの『パララックス・ビュー』などを購入。

最新刊同人誌は1冊も売れてなくて、しょんぼり。

シェイキーズでピザを食べ、ゴールデン街のトミーへ。

ママのどきんさんと世界卓球を観賞。

平野さんの奇跡の逆転劇を見逃して退店。

グリンピースご飯がおいしかったなあ。

ホテルでは、なかなか眠れず、汗をかき、地震で叩き起こされる。

 早起きしてしまったので、『ZIP!』のRGを観て多幸感に包まれたのち、8時半にホテルを出た。

上野の東京都美術館に向かい、バルテュス展を2時間半ほどかけて鑑賞。

ピエール・クロソウスキーは実兄で、リルケの私生子、本名はバルタザール、無類の猫好き。

やはり「夢見るテレーズ」「美しい日々」「読書するカティア」は圧巻。

模倣したフランチェスカに優るとも劣らない傑作群だ。

でも、あとは三流画家じみた作品が並ぶ。

なかにも忘れてしまったものが多いけど「山(夏)」「街路」など目を惹くものがあったが、ことごとくMOMAが貸し出ししてくれなかったようで、参考図版だった。

ほかには、バタイユの娘ローランスをモデルにしたり、アルトージャコメッティなどの交流を知ったのは大きな収穫だった。

ブログ頭にアップした「窓」がお気に入り。

昼飯は松屋ですまし、上野から歩いて御茶ノ水まで。

途中、秋葉原not yetのラッピングバスの前に宇野常寛濱野智史のそっくりさんがいた。

丸善で『人体』を購入後、流通センターへ。

文フリの会場に着いたのは、3時ごろか。

小説系の同人誌を10冊、評論を1冊、漫画を1冊、買う。

イベント終了後の打ち上げに参加するため、5時まで待たないといけない。

そこで、当ブログをきっかけに知り合った、あんなさんが参加しているサークル「崩れる本棚」さんが、快く時間潰しに付きあって頂けた。

有意義な時間が過ごせ感謝しています。

品川の「楽蔵うたげ」で開かれた打ち上げは60人くらい参加したのかな。

 刺身と焼きソバをもっと食べたかった。

なむあひさんとは話せたが、初対面のかたが多く、満足に交流ができたのは2次会、3次会からだった。

平原さんと古井さんの同人誌を新たに購入。

この夜は、ぐっすり眠れた。

翌日、蒲田で兄と再会し、AKBカフェへ。

インドネシア料理「思い出のバッソ」を食べた。

帰りの新幹線も行きと同様に無事に座れ、「うちわ」を読むなど快適に過ごせた。

7時ごろに帰宅。

ドラゴンズ戦を見逃し、眠りに就いた。

出かけるまえは、なんだか心配のほうが大きかったけど、終わってみれば、大満足のながいようで短い旅だった。

真央ちゃんみたいな矛盾した気分でしょうか…

今度は11月に、また東京へ行く予定です。

では、お達者で!

 

お詫び

どうも、こんにちは。

予想通り、公募3つ、すべて落選しました。

お約束したので、即、落選作をここで発表したいのですが、私の諸事情により、今年の10月以降に延期したいと思います。

まことに申し訳ありません。

きのう、精文館に行き、落選を知らせる『群像』を買ったところ、レジの女性が「あべ」さんで、隣のレジの女性が「あんどう」さんでした。

この選考委員の亡霊が現われ出たような出来事が、少しの慰めになりました。

大西巨人が亡くなり、大島優子が卒業し、大江賞も終わり、「大」終焉の世、私はペンネームをあえて「大葉らいと」と変更し、同人誌を中心に据え、これから、また再スタートしたいです。

それでは、10月にお会いしましょう。

今年の抱負

 

 

どうも、お久し振りです。

当ブログでの文学フリマ宣伝は、まったく効果はなく、売れた同人誌はほとんどがツイッターや会場の伝手で、さらのお客さんは1人。

しかし少数であっても、充実した晴れやかな気分だった。

イベント後の出品者の打ち上げも気づかずに参加できなかったけど。

きのう観た『ゼロ・グラビティ』では、ライアン・ストーン博士が、「誰のせいでもない、結果はどうであれ、最高の旅だった」と言っていた。

マット・コワルスキーも「安全ではない、自分の道を歩け」と言っていた。

映像の迫力よりも、シンプルな後半の台詞に励まされた。

阿部和重ツイッターやグローブの映評では、原初の映画体験に遡っているという主旨の言及があった。

ゲームでいえば、スマホみたいなもんか。

3Dで観ればどうだったんだろう。

混んでいて前から3列目で観たのがいけなかったのか、きょう腰痛になってしまった。

で、抱負の話ですが、去年は創元SF短編賞やコルク新人賞に真面目に投稿して、メルキド出版の名を広めようかと画策する抱負だった。

結局はどちらも落選して、しょぼくれたけど、初めに書いたような、自己満足だけはあった。

今年は、群像新人文学賞、太宰賞、中部ペンクラブ文学賞の結果が出る。

すべてにおいて期待はできない。

落選の結果が出揃ったら、なにかひとつ当ブログに発表しようと思う。

 

文学フリマ、サークル参加

 イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

https://sites.google.com/site/merukidoshuppan/

 

詳しくは、以上のアドレスへ。

きのうは、グランド中央へ、『スタートレック イントゥダークネス』を観に行った。

5時35分からの上映。

おっと、そのまえに、郵便局へ行き、同人誌の印刷所ポプルスに代金21000円を送金し、郵送による入稿も390円で済ましたんだった。

郵便局へは2時くらいに行ったので暑かった。

映画館までは快適に昼同様に半袖で行けた。

映画は、ナディアへのオマージュがあったんじゃないか。

被爆するところ。

あと、クロノスとの戦争は、どうなったんだろうか。

ビンラディン殺害への批判にも取れる展開もあったけど。

カーンの役者さんの顔は、評判通りにいいなあ。

クレジットで、ひさしぶりに「インダストリアル・ライト・アンド・マジック」を観た。

同人誌の憂さ晴らしに観に行ったが、目的を達成した。

帰宅して、アリス・マンローがカナダ初のノーベル文学賞を受賞したのを知った。

82才!

つぎに日本人が獲るのは、大江さんと春樹さんが亡くなったあとかな。

両者に比べられるのはしんどいだろうなあ。