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藤宮史の日記

2017-11-23

再・起動

16:54

 午後5時前、曇天。気温摂氏6〜14度。いよいよ秋から冬になってきている。この頃は、暖房なしではいられない。頭皮のつっぱり感は、今ではあたりまえのようになってしまっている。所謂、加齢による云々である。それと肩腰の凝りが原因かもしれない。総合的な原因によりそうなので、何かをすれば完全に良くなるとかはなさそうである。

 頭皮のつっぱり感の原因は、最近、再開した版画摺りが原因の一端であることは、まちがいなさそうだ。

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 一日、二枚のペースで、木版漫画のページをバレンで手摺りしている。一枚摺るのに一時間ぐらいは軽く掛るので、一枚摺っては一時間近く肩腰を休め、気力の恢復を待ってから、もう一枚の刷り作業に掛る。だいたい二枚摺るのに諸作業を入れて四時間は掛る。これだけやると、もう版画摺りの作業はできない。聊か作業量が少ない気もするが、10年前でも、三枚から四枚を、今よりは荒っぽく摺るのがやっとであったので、今の年齢を考慮すれば妥当なところかもしれない。兎に角、継続して仕事をしてゆくことが肝要で、一日二枚でも、三日で六枚の作業量となる。

 昨日は、散歩のついでに図書館に寄り、画聖雪舟の画本を借り受けてきた。私は、雪舟をしっかり見るのは初めてであった。雪舟というと、墨絵、水墨画中国帰り、山口の在、などの認識しかなかったが、結構、雪舟は長寿で、80代前半まで生きていたらしい。歿年数は83歳、87歳などと極めて曖昧であるが、兎に角、長命であったらしい。室町時代の晩期に、戦国時代に突入するという時期に、これだけの人生の長さであれば、あっぱれ、うらやましい部類に入ったものだろう。現代でも長寿の部類である。併し、これだけの長命でありながら雪舟の真筆とされる作品が多くないのは、やはり作品が戦乱を経てきたからかもしれない。雪舟はもっと仕事をして、いま残る作品の数倍の仕事をしたはずである。それから、大分県大分市にもしばらく滞在していたらしく、今度大分に行くことがあれば雪舟の足跡探しもしてみたいと思っている。

2017-11-12

月に2回

23:01

 午後10時半ごろ、曇天。気温10度〜17度。もう半月以上も頭皮痛(つっぱり感)が続いている。これはおもにストレスによるものらしいが、または加齢による頭髪の退行現象かもしれない。そう言えば近年抜け毛が気になるし、額の上の生際の頭髪の本数が若干減っている気もする。どちらにしても鬱陶しいことである。

 三島に独居する父を見舞うために、月に2度は帰郷している。だいたい2週間に一度で、2日から長いときで1週間ちかく居るので、気分的には二か所で生活している感じである。

 どちらかと言えば、今は、地に足のつかない気分で生活していて、ふわふわしている。創作活動をする上では危機的状況である。もはや、創作的には、なにも手につかないでいる。ただただ心を鎮めるために古銭鑑賞にあけくれたり、ネットで古銭の画像を検索してながめている。いま気になっている古銭は、五銖銭であるが、その手がわり銭と云うもので、銭貨には表面と裏面があるが、その面に当時の銭工の印(星や線)のある物に注目している。

 11月下旬には、ビリケンギャラリー開催の 第3弾「つげ義春トリビュート」展に参加する予定である。今回は、つげ義春氏の名を冠した折角の展覧会であるが、私は、気分的には盛り上がってゆけない。やはり、当面の介護問題が大きくのし掛ってきている為である。たとえば江戸時代の、藩の財政を減殺する目的の参勤交代でも1年置きとかだろうが、併し、それが2週間に一度では自殺行為である。近年、高速参勤交代という弱小貧乏藩をいじめる映画があったが、ひと事ではない。こちらのほうがよほど過酷で深刻である。

2017-11-02

東京に帰還2

18:59

 午後6時半前、曇天。気温摂氏10度〜21度。昨日、三島から東京に帰還した。今回は、10月27日から4日間の滞在予定であったが、往診が、また11月1日に決まり、急遽滞在を6日間に延長した。次の三島行きは、11月15日の予定である。ひと月に二度の帰郷は、経済的には殆んど自殺行為で、帰郷の出費は少なくとも3万円以上である。この調子でゆくと、介護費用や往診料金を含めると、ひと月に6万円ほどは掛り、半年だと36万円、一年だと72万円にもなる。介護離職状態のところにきて、この経費では破産は遠くない。

 どうしても介護の話題になると話が暗くなるが、そもそも介護には明るい要素がないので、仕方がない。介護は、結局のところ老人乃至病人が死と云う終末にむかっているわけで、老人または病人ともに家族の者も明るい気持ちになれるわけがない。死にゆく者がいる家にいて希望は持てない。では、どう云う心もちでいればよいのだろうか。

 私と父は気持ちの接点がなく、かろうじて私が折れる形で今を接しているが、34年前に、気持ちのなかで父と絶縁していて、併し、私は最後の家族の一員としての役割を果たそうと思っている。それは、父が昔そうしてきたように、私もそうしようと思う。たとえ意に沿わない相手にも、一応の事を無理にもするように、それに習って行おうと思う。それが良いことなのか、どうなのか判らないが丸呑みにしておこなう。それをしないと家族の形が失われてゆく。

 現代の日本の介護現場では、老人の寿命を、別の誰かが決めていると云う事実はどう云うことであろうか。老人(もしくは病人)の認知機能が低下して、物事が判断できなくなると他人が寿命を決めている。家族にとって都合がわるい老人の寿命は短くなっているらしい。そう云うことが、実際にできるようである。なんだか恣意的で、恐ろしい世界が展開されているようだが、併し、介護現場では淡々とおこなわれているのだろう。この世は、所詮ひとの思いのぶつかり合いの場所だから、当然と言えば、当然だろう。併し、私の背筋は、ひとり寒くなっている。

2017-10-20

東京に帰還

14:35

 午後2時すぎ、雨天。気温摂氏11〜15度。東京も、寒い。10月18日の夕方、東京に帰って来た。三島滞在27日間は長い。まさに自分の生活を放擲した無我の境地である。介護であるので、父に文句は言えないが、あまりに無体、理不尽なときには苦情を言った。併し、物の通りが判らないときや最近の出来事を記憶できないことを考えると言うのも詮無い気がしていた。次に三島に行くのは27日の午後の予定である。また、すぐに行かねばならず帰還した実感が薄い。

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三島市大場の橋の上からの風景。曇天の空が陰鬱な心象風景になっている。

 軽自動車を廃車にして業者に持って行ってもらった。六畳間ほどのプレハブ小屋、三畳間ほどの木製小屋、家庭菜園をしていた畑も、今では跡かたもない。また、ベランダにあった目隠しの塀、スチール製の小型物置2つも解体撤去して、そして、部屋の中にあったサイドボードの棚を行政の粗大ごみ回収に出した。次は、洋服ダンス、和箪笥をゴミとして出す。それから台所の食器棚、その他の棚の中を片付ける。棚は、まだ6個もある。大きくて一般ゴミとして出せず、苦労する。とにかく、やたらと片付けるのに手間の掛るゴミばかりで閉口している。

 また併し、こう何もかも家の中を片付けてしまうと、なにか犯罪的行為をしている気持ちがしてくる。片付けの作業は、家族の思い出の品々を処分し、抹殺する行為なので、ひとりで背負うには重い。父、母の若い頃の写真アルバムはどうなるのか。ゴミとして処分するのか、どうか。私には判断がつかない。たとえ私が保留したとしても、私が死ねば、いずれはゴミとして処分されるのだろう。そう思うと写真を撮ってアルバムをつくるのは、淋しい行為である。やがて、すべて物事はゴミとして時間の向こう側に流れていってしまうから。

 暗い話題ばかりで、気持ちも暗くなるので、明るい絵柄をひとつ。下に掲載してあるカラフルな物は、釣りに使う疑似餌(ルアー)の一種で、私が中学生の頃に熱心に集めた物である。記憶が定かでないが、たぶん、これは一緒に釣りをしていた友人の物も含まれている。どうして私の手許にあるのかは覚えていないが、友人から託されたものだ。ルアーは、その当時でも、ひとつ1000円ぐらいしていたので、子供が、おいそれと、たくさん買えるものではなかった。

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▲15歳以前に熱中していたブラックバス釣り用のルアー(疑似餌)。

 

2017-10-16

続続・介護生活

18:18

 午後5時すぎ、雨天。気温14度〜16度。終日雨が降っている。もう何日も、続けて降っている。まだまだ降る気でいるらしい。いい加減でやめてもらいたいが、そうもいかないらしい。天の雨袋が破けてしまっている。

 介護生活から未だ開放されず、ひと月ほどもぐずぐずと三島に長逗留である。併し、介護の段取りと家のなかの片付けは着々と進んでいる。介護のほうは、ヘルパーさんや訪問看護士の方々のお世話になり、診療は、三島共立病院の往診と云うことになった。そして、廃車屋の手伝いで、心配やわずらしさもなく無料で車を処分することができ、ほっとしている。あとは行政粗大ゴミの回収である。これがうまくゆくと、随分と将来設計がちがってくる。なんとか成功させたい。それから、雨降りに祟られて外壁の補修作業ができずにいる。あまり暑いと作業が中断し、雨降りではお手上げである。

 今は、頭の中は、父の介護と家の中の片付けに占領されている。自分を見失ってやっている。自分の健康や経済的なこと、自分の仕事を放擲している。しないといけないらしい。18日には、一旦東京に帰って、そして、また28日は、父の往診日であるので、家族の者として立ち会わなければならない。これは義務にちかいものらしい。併し、私ひとりだけで背負うには余りにも負担が大きい。併し、誰も、助けてくれない。

 私は孤独である。孤立しているのかもしれない。併し、父の孤独は深くて、暗い。絶望的である。私は、50代の若年ゆえに、老人の孤独、絶望を知る由はない。たぶん私が想像しているもの以上に暗澹としているのだろう。併し、また老耄の進んだ心には案外晴れやかな視界が開けているのかもしれない。どちらにしても、私には、わからない。せめて、まだ父の食欲のあるうちに、好きなだけ、好きなものを食べて貰いたいと思う。

 私と父は、そりが合わない。気持ちが、かみ合わないことが多い。話を長くすると諍いが起きる。随分と不愉快な思いもする。私は、やはり父が好きではない。父も、私にたいして同様の感じを抱いていると思う。併し、約19年間生活を一緒にしてきた者として思うところはある。まだ父が生きているうちに、好きなだけ、好きなものを食べて貰いたいと思う。